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御所様

 三好─日野─九条体制は紛れもない。それに対抗する足利─近衛体制。

 この体制の発端は、じつは、細川髙国である。久方ぶりの登場、蒲生対い鶴御所に下り、等持院の戦い(一五二〇)で細川澄元・三好之長軍に奇跡の大逆転勝利を収め、彼らの没落を決定づけた。その後十代義稙の出奔を受けて、十二代義晴を擁立、爾後義晴─髙国─定頼体制を確立させるが、澄元の子・晴元と三好元長が足利義維とともに畿内に進出すると、これと抗争、その渦中で、少しずつ、定頼に晴元方へ軸足を移され、最後には元長に呼応した赤松氏に裏切られ討たれた(大物崩れ)

 彼こそが、足利将軍家と近衛摂関家を取り持った仲介者だった。そもそも、足利義晴の身分には、瑕瑾がある。彼の母は日野阿子とされているが、そのじつ、将軍に仕えていた御末(おすえ、下級侍女)「阿与」である。身分が低いのだ。

 この瑕疵を補填すべく、従来の「名家」日野家ではなく「摂家」近衛家から妻を迎えた。そういう説がある。

 なぜ、日野家の上長である(日野家はこう言われるのを嫌っていたが)九条家ではなく近衛家なのかというと、髙国は、まず、公家の徳大寺家(清華家)と縁が深い。祖母は德大寺公有娘であり、叔母が徳大寺実淳に嫁いでいる。この二人の間に生まれた娘が

 近衛尚通に嫁いでいる。

 慶寿院(義晴室)の父親だ。

 細川髙国は歌道や作庭にも長け、文化人として公家の間で顔が利いた。これらの縁で、近衛尚通娘が、将軍義晴に嫁いだ。

 これが、細川髙国が足利─近衛体制の立役者と言われている由縁だ。

 ただし、本稿はひょうすべ史観である。髙国叔母が嫁いだ徳大寺実淳。

 彼の二男が日野家の養子に入り、十三代当主内光になった事実を無視することはできない。

 近衛家娘へ通じるルートと同じくらい明瞭に、髙国は、日野家娘へ通じるルートがあった。

 だがこれを排して、彼は、足利─近衛体制を構築した。(!!髙国!!われらを切るのか!?)

 それでも、日野内光がこだわりなく、大永七年(一五二七)二月の桂川原の戦いに、義晴や髙国方として参戦し、晴元と三好政長、波多野秀忠らと争っている(この戦いで内光は戦死する)これは、そもそも内光が日野家の因習と縁のない徳大寺家の出身だからこそだろう。

 そして、こうかんがえてしまうのだ。本当に、発案者は髙国なのか?

 すでに何度も述べているとおり、等持院の戦いでの、髙国の巻き返しは、将軍義稙からも見捨てられ、京を追われた身の上からすれば、奇術の如き逆転劇だった。三万~五万もの軍勢を短期間で用意した求心力は、つまり、六角定頼が、三上流蒲生稲置氏の血統を神聖とする蒲生対い鶴御所を立ち上げ、一種のクーデターに動いたからだ。そう仮定している。

 八幡神族に対抗する八幡旗手。ならば、日野家の後ろ盾である九条家に対抗すべく

 蒲生対い鶴御所は、六角定頼は、近衛家との結託を求めていたのではないか?

 

 まさしくビブロフォビア、書物恐怖症。

 

 今、作者の目の前に、とんでもない書物が浮かんでいる。

 『江源武鑑(こうげんぶかん)』

 江戸時代の段階で、知識人から叩きに叩かれた「偽書」である。

 

 作者は、陰謀論者のくせに、いやそれだけに、陰謀論を採用して、さらに、ただでさえ少ない本稿の信用度を引き下げるのが嫌なのだが。

 『江源武鑑』は避けるに避けられない。

 「加入筆、有義秀・義弼等之作名、皆偽也、彼沢田氏郷者(系図に加筆した義秀や義弼(よしはる)などの名前は皆、沢田氏郷が作った偽物である)」  (神戸能房『伊勢記』)

 『江源武鑑』の江は、近江のことであり、武鑑は武家の紳士録。

 ここには、近江六角氏の知られざる一族「義実(よしさね)流六角氏」について記載されている。そこには、天文六年(一五三七)七月三日の義輝誕生から元和九年(一六二三)七月九日の六角義郷の死去まで、義実流六角氏の記事が載せられている。

 六角義実やら六角義郷やら、聞いたことのない名前ばかり登場するが『江源武鑑』の驚くべき記載は

 じつは、本稿がさんざん取り扱っていた、六角定頼や六角承禎、その子義治は、近江六角氏の嫡流ではない

 彼らは「陣代」や「箕作(みつくり、箕作城主ほどか)」と表記される、いわば、本家六角氏の代官、代行のごとき存在であり、六角高頼から六角氏綱、義実─義郷─氏郷とつづいていく系譜こそが、六角氏の真の嫡流であり、この嫡流が関白秀次に連座して改易に遭ったのをいいことに六角氏嫡流を標榜している定頼流は詐称者に過ぎない。

 そう弾劾しているのだ。

 作者も、正直、開いた口がふさがらなくなる突飛さだが、この『江源武鑑』

 じつに、ひょうすべ史観に合致している。蒲生対い鶴御所の事跡に符合し、本稿は、この「偽書」と断ぜられた書物を無視できないのだ。

 そして現代でも、少数ながら『江源武鑑』には真実が含まれている(すべて真実だと唱えられている方は知らない)と提唱している研究者がいるのだ。

 『江源武鑑については、しばしば説明したように、従来史家のほとんどは、沢田源内(作者註、沢田氏郷)が根も葉もない佐々木氏の歴史を捏造して書き上げた全くの偽書とばかり誤認してしまって少しの考察もしていない。』

 そう喝破されたのは、郷土史家の田中政三氏である(著書『まぼろしの観音寺城』『近江源氏』一─三巻『佐々木氏流の支流・分流』)氏は、昭和の観音寺城の発掘にも長年携わっておられた。

 『江源武鑑は江戸時代に、前後五回も出版されていて、すべて沢田源内の著作であるなどとは絶対にいえない。元和七年(一六二一)すでに初めての版本が出ている。元和七年といえば源内は、まだ生まれているかいないかのころである。(沢田源内は元和五年、一六一九年の生、作者註)その人が著述したなどとは、まるで年が合わない。』

 『また観音寺城が滅亡してから、まだ三十年も過ぎていない(江源武鑑では、六角義郷が秀次事件で改易されたとしている、一五九五年のことである)佐々木氏に関する知識人も、まだ相当多く生き残っていた時代であり、決してうそのことなど書けなかったと思われる。』

 テレビも新聞もない時代では果たして実情を知る告発者の声が届くかどうかは分からないが『江源武鑑』義実流六角氏の事跡が、江戸期を通じて何度もささやかれていたのは事実だ。つぎは、ウィキペディアからの抜粋。ちなみに、江源武鑑に関してはウィキペディアからの引用がほとんどになる。書き下しもなければ、内容に触れているソースも少ないのだ。

 『また「義実・義秀・義郷」の三代は『中古国家治乱記』(一六〇〇頃か?)『異本難波戦記』(一六七二年?)『三河後風土記』(江戸時代初期)『武家高名記』、『浅井始末記』、『浅井三代記』(一六六〇年代)『東国太平記』(一六九一)『日本将軍伝』、『諸家興亡記』、『武家盛衰記』(一七五一─一七六四)『東海道驛路鈴』(一七〇九)等の書籍で取り入れられている』

 十七世紀から十八世紀半ばまで信憑性が失われていなかったようだ。括弧内は作者註、敢行年だ。

 だが、十七世紀の和算家・建部賢明(たけべかたあきら)は、これらを「浅智の輩」と切って捨てている。

 本稿のスタンスとしては『江源武鑑』はかなり創作を含んでいるが、完全な偽書ではない。

 特に、その主潮をなす義実─義秀─義郷の三代については、事実が元になっているものだとかんがえている。

 だが、六角高頼─六角氏綱─六角定頼の系譜に関しては『氏綱から定頼への手継・譲状・置文などを託された池田三郎左衛門尉を労わる承亀(定頼)の書下(『池田文書』)の存在』があり、ほぼ間違いない。

 六角氏義実流は、六角氏嫡流ではない。

 その嫡流を動かすほどに影響力を持っていた、蒲生対い鶴御所の首魁、いうならば、六角家の闇将軍

 蒲生対い鶴御所の〝御所様〟とでもいうべき存在だったのだとかんがえている。

 

 


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