島津左兵衛尉倭寇退治始末
天文十九年(一五五〇)十一月、中尾の戦いで義輝が近江へ没落すると、九条稙通が京都へ帰ってくる。三条西公条(三条西きんえだ、稙通の叔父)の古希(七十歳)の祝宴、そこで稙通は、歌人を招く催しを行い
長慶を招いた。
これを機に、両者は接近・・きちんと歌連歌が役立っている。弘治二年(一五五六)に明使・鄭舜功が倭寇退治を求めたのはすでに述べたが、朝廷は、この時、長慶を含めた会議で対応を決し、返書と旗を授けた、ということしか記録にはいない。
だが、この時期、九条稙通は、島津尚久(なおひさ、島津相州家三代当主忠良の子)へ書状を送っている。
『日本国凶徒相侵唐土事、太以日域之瑕瑾成(これはまさしく日本の恥というべきことだ)
『所詮左京大夫調略被停止者頗可為ニ朝名誉(左京大夫尚久殿が調略され倭寇のものどもの活動を止められれば、すこぶる朝の名誉となろう)』
要するに、倭寇退治をやれと言っている。当時島津尚久は、彼自身が倭寇の頭目だったのだが、彼自身へ倭寇活動を停止しろ、なんなら仲間を討て、と、命じているわけで
将軍・幕府不在の三好政権の強力な権威として九条稙通が活動していたことが分かる。鄭舜功の求めを、九条稙通を介して叶えようとしていたのだ。
[なお、島津尚久の父は島津家中興の祖と言われる日新斎島津忠良であり、その兄が島津宗家で〝島津の英主〟とたたえられた島津貴久である。貴久の子が、義久ら有名な四兄弟であり、つまり、戦国島津家の基盤には倭寇貿易が抜きがたく関わっていたことがよく分かる・・薩賊だ]
倭寇対策に当たった明の地理学者・鄭若曽は海防書『籌海図編』でこう述べている。当時、薩摩坊津を根城にした倭寇・徐海には、有力な同盟者がいた。
彼は日本人倭寇・陳東という人物で『薩摩州君の弟、書記を掌せる酋』だったという。
薩摩州君・つまり、島津貴久の弟である。
やっている。
この陳東が、徐海とともに倭寇をしていたが、やがて裏切って、徐海水軍を壊滅させたという。
時、一五五六年、弘治二年の頃だ。
薩摩人・・悪党同士でも裏切っているのか。なんにせよ、九条稙通の書状は島津尚久(陳東)を動かし、実際に、坊津倭寇を壊滅させたのだ。
この後、島津家臣矢野氏の記録にこうある。
『同年(一五五七)、尚久賊船のことにつきて使節をもって華洛(京都)に上言す。こと天聴に達す。五月十五日、広橋大納言兼秀卿(広橋兼秀、国光の父)綸旨を奉り尚久に賜ふ。謹んで拝戴し、伝えて家宝となす』
事後報告までしている。この一件は、三好─九条体制のなか、きちんと処理されたのだ。




