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堂上相克・摂関家因縁話

 かくて和睦は成り、十二月二日、長慶、細川藤賢(氏綱弟)伊勢貞孝とともに、瓜生山将軍山城から京都へ赴き、上京区妙覚寺に入る。なお、和睦の過程で、九月二十四日を以て義輝も「永禄」を用いるようになっている。毛利氏との危険な連帯は終わっていた。

 義輝は妙覚寺を御座所とし、幕府政治を再開。

 十二月二十三日には、大陽院(近衛種家娘)と結婚している。

 

 ここに来て、ようよう義輝の治世は安定期を迎えた。彼の腹心は上野信孝や進士晴舎(シンジはるいえ)だ。前者は、以前反三好派幕臣の中心になった人物、後者は、進士、というだけあって

 天文二十年(一五五一)に長慶に斬りかかった、進士賢光の叔父だ。

 なにやら、ずいぶん不穏な連中が義輝の左右に控えているものだが、彼らが、その後、三好政権と軋轢を起こした形跡はない。ーーいや、進士晴舎に関しては、長慶の死後、三好政権と、軋轢どころではない政変が発生した際、その渦中で象徴的に命を落とす。

 要するに、長慶とは、無事平穏にやっていた、ということだ。時節であり、五年間朽木谷にいる間に心変わりもあったのだろう。

 そして、義輝は、室も生母も近衛家娘なのだ。当然、その意向は政局に反映され、三好家に押領されていた近衛家の荘園などは返還され、わが世の春を謳歌する。

 これに対し、日野家は、当然、なりゆき上、嫉視を向けていただろう。

 (その位置にあるべきはわれらだ!!どけ!!近衛家ーーーーーー!!)

 当然と言えば当然だが、五摂家たるもの、藤原北家の嫡流中の嫡流だ。すなわち「薬子の変」で勝者となり、以後朝廷の頂点に君臨する藤原冬嗣流であり、冬嗣の二男・良房が、皇族以外で初めての摂政となり、位人臣を極めるの天井を一段階高くした。この良房流から御堂関白・藤原道長が出、その子孫が五摂家となる。さすがとしかいいようがない。

 つまり「薬子の変」で敗者となった藤原真夏流としては、はらわたの煮えたぎる事態だ。これまでは、将軍家御台所ということで、次元の違う権威を獲得していたものの、その栄位さえ、冬嗣流に奪われた。

 いよいよ敗者であり、立つ瀬がない!!(うおおおおおおおおおーーーー!?)

 その上、近衛家御台所には、日野家対近衛家以外にも、さらにレベルの高い対立がある。

 九条摂関家だ。

 九条家と近衛家は、鎌倉時代から摂政関白の地位を巡って争ってきた。いや、そもそも、九条家は源頼朝や鎌倉幕府に協力し、これに近衛家を中心に公家衆が対抗してきた歴史がある。家祖・九条兼実(かねざね、一一四九─一二〇七)は、頼朝の後援を受けて、後白河法皇に後援された甥の近衛基道を退け、摂政関白となった。

 武家を巻き込んで、とんでもなく因縁深い。

 その後、九条家は、初の摂家将軍・四代藤原頼経を送り込み、鎌倉幕府の頂点を占める。兼実の代に、九条家と日野家が接近した。日野十三代当主兼光(一一四五─一一九二)は、親幕府派の公卿であり、頼朝が後白河法皇に「議奏」十名を設置させた折には、頼朝自身の推挙で名を連ねている。

 「議奏」というのは、後白河法皇が義経に下した「頼朝追討の宣旨」に怒った頼朝が、義経没後に設置させた、朝廷の運営機関だ。

 『天下の政道は群卿の議奏によって澄清せらるべきの由、殊に計ひ(はからい、手配して)言上せしむるところなり』

 『たとひ勅宣・院宣を下さるる事候といへども、朝のため世のため、違乱の端に及ぶべきの事は、再三覆奏せしめたまふべく候なり』  (『吾妻鏡』)

 どうも、後白河法皇に突きつけた諮問機関のようだ。もっとも、これは突然の設置で、結局議奏の機能はうやむやになってしまった。頼朝が、自らを追討する宣旨に激怒したということだろう。

 頼朝は、議奏設置に先んじて『行家義経に同意して天下を乱さんとする凶臣』を十二名告発している。じつにまあ、ひょうすべ史観は掘れば掘るほど何事かが、その輪郭が露わになっていくのだが、この時、凶臣十二名の代表として頼朝が告発したのが

 高階泰経(やすつね、小三位大蔵卿)である。頼朝は彼との書状で「日本第一の大天狗は余人の事に非ず候か」という激越な語句を使っている。これは後白河法皇のことを指すとされていたが、高階泰経自身を弾劾しているという説も有力である。義経や源行家(ゆきいえ、源為義十男、頼朝に決起を促し、後年対立した)が謀反を起こした際には、後白河院との取り次ぎを担当していた。息子の高階経仲も謀反への関与を疑われ解官されている。

 無論、宗像氏から出た高階姓だ。この頃は、後白河法皇の寵姫に高階栄子がおり、海の国が、危ういほど、朝に浸透している。

 この高階泰経に並んで、凶臣として告発されているのが、平親宗(ちかむね、正二位中納言)という堂上平氏(桓武天皇子孫の内武家にならなかった平氏)だ。母親は藤原北家隆家流末裔なのだが、この隆家の母は高階貴子。父系は父系で祖父が高階宗章の叙爵を受けている。

 さすが、武家政権成立の端境期。日野家も高階家も権謀術数の限りを尽くしている。同時期に頼朝祐筆にも、頼家(二代目将軍)の妻にも高階氏がいる。

 花盛りである。

 さて話がずれたが、親鎌倉幕府の方針で九条家と日野家は一致を見、以後、日野家は九条家に家司として仕え、前記日野兼光は、九条家祖兼実に接近、息子二人を仕えさせる。

 もう八方塞がりの気分にさせられるが、この九条兼実の妻に高階盛章娘がいる!!

 どこまでやるのだ、海の国・・

 こうして、宗像氏をあちこちに食い込ませながら、日野氏と九条氏は接近し、それは足利義輝の時代まで継続していた。

 本願寺が、証如、顕如と九条家猶子になったのも、もとを正せば、日野家と九条家の関係があってのことだ。

 そういう九条家─日野家という親幕府(鎌倉、室町二代に於いて)セクトにとって、義晴、義輝の御台所が近衛家娘というのは、どれほどの驚愕と衝撃になったであろう。

 武家とともに隆盛を極めたおのれらの天下が終わる。そんな実感を抱いたであろうことは想像に難くない。

 義晴以前は、将軍家御台所は、例外なく日野家だったのだ!!

 

 この近衛家と足利将軍家の接近によって、九条─日野セクトは、実害を被っている。天文二年(一五三三)それまで近衛種家が務めていた関白が、九条稙通に引き継がれる。ちなみに、両者は足利義稙の偏諱を受けている。しかし、翌天文三年に、慶寿院(近衛稙家妹)が義晴に嫁いでいる。当然、両者の接近は始まっており、稙家は、義晴の権力を用いて、あらん限りの妨害をしている。当時義晴は近江にいたのだが、朝廷に連絡し、九条稙通の関白宣下を中止するよう訴えている。(こんなことを認められるか!?)後奈良天皇がこれを退けると、今度は、義晴は朝廷の実務系公家(壬生氏・清原氏)に関白宣下に参加しないよう命令、九条稙通の関白就任を台無しにした。

 稙通は天文三年(一五三四)十一月に経済的困窮で関白を辞任、京を出て各地を放浪する生活に入る。

 だが、同年の九月に、義晴が定頼とともに近江から帰洛していることに注目すべきである。

 つまり、九条稙通は、そのまま京都にいられなくなった。近衛家娘をもらった足利将軍の支配する京都にどうしてそのままいられるだろう?

 彼は関白を辞任し、本願寺の経済的援助を受けながら摂津、大和、播磨、但馬、出雲、阿波、と各地を放浪。

 九条稙通の後任に、二条尹房(ただふさ)が就いた。

 



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