将軍帰洛
四国勢が参戦するようになってから、和睦は加速した。
(これ以上はマズい!? 西日本全土をひっくり返す大乱に発展する!!)包囲網を展開していた承禎の方こそ、そう思うようになった。ーーそこまで強硬な意志で三好勢を押し包んでいたわけではない。
なんといっても、長慶には、これまで、晴元にも義輝にも追撃をかけず、和睦の打診をしつづけた実績がある。東山霊山上の戦い(一五五三年八月)以来、ずいぶん硬化したものの、いつでも朽木の御所に軍を送ることはできるのに、それをしなかった。
(ーーまあ、そこまでされれば、近江としても応戦せざるを得ないがな)
まるで、会議室かなにかのように便利に使われている近江だが、それは、しかじかの権威、三上流蒲生稲置氏などを戴き、逆に権力の中枢にねじ込もうという気分にもなるのかもしれない。
ともあれ、長慶は五年にわたって京都を支配しながら、隣接する幕府本拠地へ、侵攻しなかった。
この微温的態度が、信用になった。
一方で、承禎の方も、これまで蒲生対い鶴御所を建てて近江から政界に干渉した江雲寺殿定頼ほどの野心はないと、長慶側に伝わっている。ーーなんなれば、天文二十一年(一五五二)正月に和睦が成立した時、晴元嫡子であり、定頼娘の子、聡明丸を人質に差し出している。
それだけではない。その際に、承禎は、蒲生氏の子供まで、人質として三好方へ差し出している!!
佐々木源氏・・蒲生氏を尊貴とする新約武権神授説を振りかざすつもりはないと、鮮明にアピールしている!!
ーーつまり、この上洛戦は、京都と、朽木で、将軍との感情的対立を挟みながら、最初から、大筋で和平への道のりは敷かれていた、と言える。
だいたい、義輝の方に、果たしてどの程度、感情的なしこりがあったのか。
(以前、長慶と手を結んでおれば、このように朽木で無聊の日々を過ごすことはなかったわい)
そう、苦々しく思い返すこともあっただろう。本稿では、どうも、一五五五年の日野家の跡目争いに、義輝が広橋家日野輝資方として加担していることから、この時期までは、日野家に接近する気分が義輝にあり、東山霊山城の戦いも、彼らの長慶を疎んじる気持ちを忖度して、義輝が晴元と手を結んだ結果勃発したと仮定している。
しかし、義輝が、どうやら、近衛家の娘と結婚するらしいと分かってくると、日野家の態度は一変する。
(ーー結局、将軍家御台所は、またも近衛家にさらわれる、ということか!!)
義輝は、自ら真夏流当主の擁立に動き、日野家を息長流に回帰させた。
英雄のように映っただろう。
きっと、ふたたび、日野家と足利将軍家を不即不離の関係にしてくれると。
だが、その希望は打ち破られた。爾来、広橋家当主国光は、三好家へ接近、皇室の仏事を巡る相論で、三好政権の裁決を仰ぎ、さらに「永禄」改元を報せず義輝を妨害
義輝から、三好家へ、接近し始めた。
(義理の娘とはいえ、長慶も、日野家娘と縁付いておる)そういう基軸の判断もできるのだ。
そしてなにより、長慶の嫡男、三好義興。為義流八幡神族(波多野秀忠娘)の子である彼は、満十六歳
未婚なのだ。
(こやつにつなげる)
その野望の対象とするには、好適ではないか!!
申し分ない。なにより、三好政権は、五年ながら、京都を運営した。朝廷とやりとりをしていた。政所は伊勢貞孝の手によって経営され、政府は、足利将軍不在でも維持できることが実証された!!
これが大きかった。明応の政変で十代義稙を放浪生活へ追いやった細川政元でさえ、十一代将軍義澄を戴いていた[その義澄の子供が義晴であり、阿波公方義維だ。ややこしい。後者は義稙の養子になっている]
細川政元さえ実証できなかった、将軍不在の政府運営、いや、幕府というハコがなくとも、政府を運営することができるのだという実証と実績が、三好政権治下にはあるのだ!!
この強大な事実が、後日の、あの非常に大きな事件につながっていく。
ともかく、幕府がなくても日の本の運営は可能だ。このことが証明されている。
三好政権は、義輝不在の間に、なんと、国交さえ担当していたのだ!!
弘治二年(一五五六)明国の使節・鄭舜功が、琉球経由で豊後へやって来る。彼は日本国王に倭寇退治を求める使いだったのだが、大友宗麟に捕らえられ、幽閉されてしまう。だが、鄭舜功の部下は大友氏の使いとともに京都へ赴くことを許され、倭寇鎮圧の要請をしている。
将軍不在の折、朝廷は、近衛氏、三条西氏、柳原氏、飛鳥井氏といったメンバーで会議を開き、ここに「藤長慶」と記載された長慶も参加していた。
三好氏と公卿らの委員会で、外交にも当たることができる。このときは、返書と旗を授けられた鄭舜功の部下が、豊後へ帰っている。
(幕府も将軍もいらぬ。いざとなれば、三好氏と朝廷でも日本を切り盛りできる)
この実例が、日野家に与えられてしまったのだ。
話がそれた。
ともかく、日野家は、義輝から距離を取るようになり、三好家へ接近している。当然、義輝としても、もう日野家の意向を汲んでやるつもりはなく、三好と手を組むことにわだかまりはなくなっているだろう。
(晴元よりははるかにましだ!!)
そういう気分もあったかもしれない。
こうした諸条件がそろった上で、こたびの上洛戦だ。六角承禎としては、有利な条件で和睦するために諸大名を動員させたが、最初から、軍事的な決着を付けるつもりはない。
なのに、長慶は、阿波細川家から四国の兵団を呼び寄せた!!
畿内に軋むような緊張状態が現出したのは間違いないだろう。本願寺も毛利も動向不明、北白川の戦いは、永禄の乱ともいうべき大乱に発展する可能性さえあったのだ。
この逆王手に踏みきった長慶の心情は、苛烈ながら複雑だ。まず、将軍家の諸大名への動員力を誇示され、かくも示威的な状況で和睦したくない。だから、おのれも対抗上大軍を呼集し、対等以上の条件で和議を結ぼうとした。
そして単純に
(足元を見られてたまるか)という跳ねっ返りの気質もあっただろう。主君と将軍に礼を尽くしながらも、京都を占領して政治を執り行っている人物なのだ。曾祖父之長ゆずりの、悪辣で猖獗な一面である。舐められてはたまらない。
(腕ずくで来るのなら、相手になってやる)
相手が交渉を前提に事態を進めているのを意識しつつ、高々と、そう掲げる気持ちがあっただろう。根は梟雄だ。
腕まくりしている相手には、拳を振り上げて応じよう。
(乱世の習いというものぞ!!)
しかし、事態は、破局には至らなかった。その前に、六角氏が折れ、三好氏が応じた。
(おい、江雲寺殿なら、ここから交渉を始めるところぞ)そう文句を言いたい気分もあったかもしれない。
十一月六日に、和睦が成った。(ーー五年間・・廻り道をした!!)
義輝も、満二十二歳の青年になっている。万感の思いで、上京区相国寺に入り
そこで、長慶、細川氏綱(京兆家当主)伊勢貞孝の三人に迎えられる。
「長慶ーーーーー!!」貴人の常として、大きく表情を動かさない。だが、その両目に、キラキラ光るものが過った。
「骨折り、苦労」




