大乱間近
この北白川の合戦の後、両軍は、にらみ合いの状態に入った。数で言えば、三好軍が圧倒しており、幕府軍はうかつに将軍山城を出られない。
一方で、三好軍も、丹波や紀伊の不穏分子をかんがえれば、下手な対応をすれば、それらが勢いづき、讃岐国人衆も参戦しかねない状況である。
六角承禎と、三好長慶。
両者は、息詰まる対峙を持った。
(摂津本願寺がどう動くか・・ーーー)
丹波の情勢も気がかりだが、やはり、背後の大勢力がもっとも剣呑だ。。
(第十一世顕如は、十五、六か・・そう果断をする性格とも思えぬが)
父の最期を思えば、なんともいえない感慨のある勢力である。[じつは、史上初の一向一揆は、応仁の乱前年に近江で発生している。六角氏が本願寺を嫌うはずだ]
だが、一向一揆は巨大な圧力にはなるものの、本願寺は、あくまで仏教寺院だ。基本的に、仏教界での格を引き上げることを念頭に置いており、だからこそ、九条家の猶子となった。本願寺は翌永禄二年(一五五九)に正親町天皇の綸旨を授かり、門跡寺院になる。皇族や公家が住職になる寺院ということで、最高級の格付けだが、これは、証如、顕如と二代にわたり摂関家の猶子となり、門跡たる格を得たという根拠に基づいている。
当然、北白川の戦いの時点で、門跡昇格への運動は開始していただろう。ーーこれを考え合わせれば、一向一揆、先に、奈良を略奪し朝廷のひんしゅくを買い、大和での永代布教禁止を受けた危険な暴動に、本願寺が踏み切る可能性は低い。
だが、三好包囲網、小状況(丹波、讃岐、紀伊、近江)の他に、大状況もある。
毛利氏だ。
防長経略始め、大内氏領国を切り取ることで、必然、毛利家は、瀬戸内海の制海権も継承した。
四国を支配する三好家とは、真っ向から対立する。現在、備讃海峡は冷戦状態に入っており、予断を許さない。
なんといっても、毛利氏もまた「弘治」年号を使いつづけているのだ!!
(少輔次郎元就という男は、嫌な〝圧〟のかけ方をするな)
義輝同様「弘治」年間にありつづけることは、この上洛戦に与力する意思表示に他ならない。
六角承禎にすれば
「必ず、乗ってきてくれると思っていたよ」という局面だろう。
(ーー一方で、動かした軍勢はたかだか三千だ・・つまり、これは政略なのだろう?)
加えるに、その三千の内二千は、幕府奉公衆の軍勢だ。予備兵力は近江にたっぷり残っている。
さらに、戦力差は五倍だというのに、幕府軍は意気軒昂。先の衝突で、奉公衆が七十人ほど討ち取られている。戦死者七十、というのは、決して少なくはない。兵力差をかんがえれば、一気に崩れ立ってもおかしくない。
つまり、勝つ気満々、士気は高い。
(公方と軍をしているのだな!!)
すべてが輝かしく、目の前に並んだ。両腕にりんりんと膂力が行き渡り、目が冴え冴えとする。
天下を動員し、諸侯から募った奉公衆
即ち、二階堂氏(為憲流)曽我氏(良文流)大館氏(新田支流)土佐田村氏(秀郷流)因幡三上氏(山名家臣、近江入道周通子孫、御上祝に由来するという)大原氏(佐々木源氏)長沢氏(日野家支流外山流)葛山氏(藤原伊周流、藤原伊周母は高階氏)竹原小早川氏(良文流)近藤氏(秀郷流)東氏(良文流)美濃佐竹氏(奥州藤原氏末裔)らが
累々と犠牲者を出しながらも、決して引かない・・彼らの忠誠の先にある武門の棟梁
征夷大将軍その人と、おれは軍をしているのだ!!
(ぬはははははははははああああーーーーーーーはははははははああああーーーーーーー!!)
今さらに、天下盗りの実感が沸く。以前、中尾城の戦い(一五五〇十一月)では、だめだった。京都市街地で小規模な戦闘が発生、あとは、退路を阻むように大津に火を放つと、撤退していった。
あの時、公方は細川晴元とともに押し出してきたわけだが・・ーーー
(いいじゃないか、承禎殿!!)
六角承禎は、遺憾なく、将軍の威光を発揮させている。遠近の大名に働きかけ、どうにも、こちらが動きにくい包囲網を現出させた!!
「祐筆ーーーーーーーーーーーーー!!」
長慶は、呼ばわった。かつては、松永久秀も務めていた役職である。
「宛は阿波国勝瑞!! 彦次郎(三好実休)に兵を送らせる!!」
永禄元年(一五五八)七月
三好康長(長慶の叔父)が、四国衆を率いて渡海。阿波の兵力が、続々と、摂津国に上陸する。
(何が始まる!?ーー)畿内の民は、息を呑んだ。
八月から九月にかけて、長慶の嫡子・三好義興(母波多野氏娘、八幡神族)が
十河一存、安宅冬康
三好実休その人が
兵庫や堺に上陸。
三好四兄弟、全員が集結。
畿内の緊張は最高潮に達する。
「ーー正気か長慶!?」
承禎は目を剥いた。よもやの阿波細川家・・実休の掌握する策源地への動員令だ。
四国の兵力が、つぎつぎと送り込まれてくる!!(ううううううううううーーーーーー!?) 以前、阿波衆が大挙して押し寄せた折り、舎利寺の戦い(一五四七年七月)は、応仁の乱以降畿内で勃発した最大規模の戦いになった。
こたびは、その比ではあるまい。ーーすでに、破局の断片は承禎自身が呼び込んでいる。
西日本全体を巻き込もう。
この不穏な情勢を、あえて、京に投入する兵力を抑えることで、言うならば、交渉の席の椅子を引いてやるように、長慶が参加しやすくなる土壌を整えてやったのに!!
(本気で応戦するバカがいるか!!)
「やるというのなら地獄の底まで付き合おう。公方が残るか、三好が凱歌を上げるか、二つに一つ」
少なくとも、三好軍の兵力は、この時期、二万を超えていただろう。最早、将軍山城に籠もっている幕府軍を殲滅するのはたやすい。
その上、三好軍には、直属の兵力以外の与力も多いのだが、それらも、阿波衆の参加で、粛然とする。周辺の不穏分子へも、この上ない示威となろう。
三好軍は、とことんやるつもりだ。
(ぬぬぬぬうううううーーーー!!)
承禎は歯噛みした。意趣返しの気配すらする。なんという逆王手。
ここで詰めば、それは、室町時代そのものの詰みとなろう。




