東山輪舞
本稿は、ひょうすべ史観という陰謀史観系の考察で、秦の系譜を追っている。自然、謎解きの要素があり、その点、天之御影神は、本稿で一番巨大な謎で、言及する都度、話題が全部持って行かれてしまう。[すべて頭の中で済ませて文章にはその結論のみ記せればいいとかねがね思っているのだが、現に文章化している時、自分の〝観〟の世界で史料と突き合わせながらキャラクター化した歴史上の人物を動かしている時が一番発見がある。どうか許されたい]
天之御影神に関する現時点での考察はもういい。北白川の戦いに戻ろう。
五月十三日、幕府軍三千が左京区瓜生山近辺に進出、これによって京都の緊張が一気に高まる。
三好軍も、牽制に動いた。十九日、示威行動の京中行軍を行う。この軍団には、松永兄弟、三好三人衆(まだそう呼ばれていないが)三好長逸・・三好氏長者格、伊勢貞孝、さらに親三好公家・高倉永相ら、三好政権のトップ層がこぞって参加していた。
だが、松永長頼(久秀弟)には、気がかりなことがあった。
依然、丹波の平定が済んでいないのだ。八上城の波多野元秀が蠢動しており、時期的にかんがえて、この上洛に呼応している。これに「丹波の赤鬼」の異名を持つ赤井直正(荻野直正)率いる丹波赤井氏が同調しており、八木城の松永孫六が支えきれるか、不安が残った。
三好包囲網、その小状況だ。さらに、晴元が、紀伊粉河寺に上洛を報せている。粉河寺は粉河観音宗総本山で、これは、根来衆や金剛峯寺にも並ぶ兵力だった。
さらに、晴元が、おのれの地盤である四国にも呼びかけている。讃岐国人に連絡を取っており、東西南北(近江、讃岐、紀伊、丹波)から、京都を包囲する格好だった。
(ハハハハハ、背後には、承禎入道か・・なにやら、うれしいよ)
長慶は、おのれが切所に立たされているのを感じながら、どうしようもなくこみ上げてくる哄笑を感じている。
(江雲寺殿には手出しを控えておったし、正直、おっかなびっくり触れていたばかりよ・・こうも正面切って、近江勢と争うことになろうとは!!)
かえりみて、おのれの与党。
(とりあえず、国光殿は、われらの味方だ)
去年あたりから、みょうにすりよりはじめた。あれも、室町幕府の裏側で、えらい権力を握っている一族だ。
(そうなれば、本願寺の動きも、ある程度は抑えられよう)
本願寺は、日野氏一族だが、同時に、蒲生対い鶴陣営でもある。日野氏がやきもきしていることに、日野家猶子から九条家猶子へ乗り換えており、向背が不透明だ。
しかし、三好政権と、九条家の仲は、悪くないのだ。この巨大権力に摂家・九条家も接近しており、時期は不明ながら、十河一永の室に、九条稙通の娘を送り込んでいる。
「一戦交えてみたかったな・・承禎殿」
ぽつりとつぶやいた。彼の大衆心理を読む機微は、察している。この三好包囲網というリングに投じられた、わずか三千の幕府軍。
ーーこれは、交渉のテーブルなのだ。
円卓だ。
六月二日、三好軍に、岩成友通も合流。
一手が、幕府軍が滞陣している瓜生山の、その山頂に、一挙、登る。
(うおおぉおおおおおーーーー!?)
幕府軍も目を剥いたであろう。
瓜生山山頂には、将軍山城という城がある。これは、舎利寺の戦い(一五四七)の際に、義晴・義輝親子が入城し、敗れて近江へ逐電する際に、自焼している。
それが修築され、三階菱に五つ釘抜(三好家家紋)を掲げたのだ!!
これで、幕府軍は、瓜生山の頂から三好軍の一手に見下ろされる格好になる。
(すわ、三好は城を得たぞ!!)
幕府軍は二日後、六月四日、南東へ二㎞移動する。そこは、如意ヶ嶽で、西麓鹿ヶ谷で、三好軍との小規模な戦闘を持った。さらに付近のエリアを放火、如意ヶ嶽は、標高四七二メートル、東山連峰の主峰であり、瓜生山(三〇一メートル)を見下ろす形になった。
ここから、お山の大将を争うような競争が起こる。七日、三好軍は折角修理した将軍山城を自焼して京都へ撤退、幕府軍は、如意ヶ嶽からその将軍山城へ取り付き、焼けた城を奪った。
その替わりに、翌六月八日、手薄になった如意ヶ嶽を三好長逸や松永久秀が衝いて、この山を奪取する。お互い拠点を交換した格好である。
まるでダンスを踊るような両軍は、翌六月九日
ついに、北白川で激突、三好軍が、奉公衆の軍勢七十人を討ち取って勝利した。




