六角承禎
だが、承禎は慎重だった。この慎重さは、彼の美徳だが、同時に、経歴の寂しさでもある。
(四国・畿内では三好、中国では毛利や尼子、これらの大勢力を向こうに回し、政略をやってのけることができるか?)
偉大な父親を持つと、その成果に対し萎縮する二代目というのは、典型かもしれない。えてして、こういう二代目がいい基礎固めをやるのだが。
(闇将軍として君臨した親父殿とは違う。日野家さえ、武家伝奏・広橋家が当主に座に就くことで活動的になっている。本願寺顕如も、日野氏の血筋であり、また九条家の猶子だ・・どういう動きを取ることか)
ただ、この近江という地勢は、彼の最大の武器だった。天下にどんな政変が起こっても、これに対応することができる。
(畿内情勢も、いずれ変が起きよう)
そのときに、電撃的に進出する。ーーよく指摘されることだが、戦国大名のほとんどは、京都に旗を立てることにも天下統一にも興味はなかった。
なにぶん、まだまだ足利の天下がつづいている。
彼らは、その秩序の大枠の中で、支配のほころびを衝いて押領や侵略をしている。関心事は、周辺を切り取り、役職を得て、室町幕府内部での存在感を大きくする。ーーいや、そんな活動的な大名さえ多数派でない。折角切り取った自分の所領をどう安堵してもらうか、保全するかが、関心の大半だった。
いつの世も、武士は武士。一所懸命だ。いつの日か室町幕府体制が安定を迎えた時に、おのれの所領を認めさせる。その程度の動機しか持ち得なかった。
承禎も、その範におのれを落ち着けようとしていた。ただ、場所柄、よく将軍を迎えることができるし、畿内の政変に対応することになる。
近江守護を未来永劫のものとし、機会があれば、それ以上の栄達を目指す。安定に足を置きながら、油断なく立身をうかがうようになったのだ。
弘治三年(一五五七)八月、義輝は上洛をめざし挙兵の準備を進める。だが、九月四日に、長慶が入京することで機先を制された。六角承禎も出兵には否定的で、結局、この年の上洛は見送られた。
翌弘治四年(一五五八)二月二十六日、義輝にとって、気の休まらぬ出来事が起こる。美濃の斎藤義龍が、伊勢貞孝を通じて長慶に働きかけ、朝廷から、治部大輔に任命されたのだ。
(三好が、朝廷に懸け合って、官職を授けるのか!?)
またも、幕府の重要な権能を三好政権に奪われた形である。ちなみに、義龍は、母方の血縁を根拠に、翌永禄二年(一五五九)一色氏の家督を得る。晴れて足利支流に属し、美濃守護の土岐氏よりも上位に立った。さらに御相伴衆に加えられ、その権勢は頂点に達する。
『道三に引導を渡した義龍は、早死さえしなければ、信長の美濃制圧は倍以上時間がかかっていた可能性が高く、むしろ美濃を落とせなかったかもしれない。六人衆らを用いた領国統治、家臣団編成および統制、信長兄弟への調略に見られる父譲りの策謀、幕府や朝廷との交渉による家格上昇や、三好氏との関係性、六角との関係改善に見られる外交など、いずれにも成果を出している。』
『これらの成果を数年で生み出し、龍興が信長に抵抗できる素地を作ったのはおおいに評価されてしかるべきである。』
『瑕瑾があるとすれば、やはり33歳で早世してしまったことが挙げられよう。まだこれからという時の死去であり、この若さでの病死が父殺しの報いと世の人に認識されたのは、どうしても仕方ないことである。』 (木下聡氏『斉藤氏四代』)
『義龍がもう少し健在であったなら、義龍は浅井氏をかなり追いつめていたことだろう。』 (『斎藤道三と義龍・龍興 戦国美濃の下剋上』横山住雄氏)
なんといっても、信長は、義龍の死没(一五六一)からも、長い間、美濃を切り取れなかったのである。このあたりは、天下人は皆そうなのだろうが、機運である。
ともあれ、一色氏家督、御相伴衆、と、室町幕府の秩序は、戦国大名の領国経営にも大いに役立っていた。ーーというよりも、単に、室町幕府が持続していたのだから、当たり前だ。
ガタガタが常態で、それでもしっかり運営されているあたり、戦国期室町幕府はつくづく面白い。
義龍が伊勢貞孝に懸け合って得た治部大輔も、本来なら、足利一門にしか与えられない官職だ。翌年の一色氏家督相続への布石だろう。
ともあれ、三好政権が、朝廷に取り次いで諸大名への官職叙任まで行うようになった。ーーことは深刻だった。
義龍が治部大輔になった二日後に、改元「永禄元年」となる。ーーこれも、義輝の関与しないところで進んだ事業で、朝廷との乖離を感じただろう。
弘治三年(一五七七)の泉涌寺と般舟院の相論で、三好氏が皇室の葬祭を裁決した。明らかに、爾後、朝廷への三好政権の影響力が強まっている。ここに、広橋国光が関与していることは、すでに述べた。
(やるしかない)義輝は、挙兵上洛の決意を新たにした。
この永禄改元に当たって、武家伝奏である国光が、いっこうに義輝に改元を報せる使者を寄越さず、何ヶ月も義輝は「弘治」で通さなくてはならなかったということも、すでに述べた。
日本中が「永禄」で動いているというのに、一人自分だけ「弘治」のままというのは、さらし者もいいところだ。
(広橋国光・・いや、日野家の総意か)国光の子・輝資が日野家家督を相続することになったものの、なんといっても、まだ幼児なのだ。日野家当主は事実上国光だ。
ーー作者の仮説では、この時点で、義輝と大陽院(近衛稙通娘)との結婚が決定されていないとおかしいわけだが、まあ、十分あり得るだろう。稙通自身が、朽木谷に随行しているのだ。
しかし、この義輝だけが「弘治」年号を使いつづける状況は、この後、ちょっとした伏線になる。義輝は、六月二十一日の段階でも、まだ改元の報告を受けていないのだが、八月には、きちんと通知を受け取っていたようである。さすがに国光にも譴責があったのだろう。
こうした諸状況が、義輝を上洛へと突き動かした。
永禄元年(一五七八)三月十三日、挙兵。朽木へ落ちた因縁の龍華越を通り、大津市和邇へ移った。
世に言う「北白川の戦い」が始まった。
五月三日には、六角承禎の支援を受けて、晴元とともに坂本に入る。
義輝・晴元軍の総勢、およそ三千。
ーーちょっと待て、と、そう言いたい。『太平記』には二十万やら五十万らやらの軍勢が出てきて閉口したが、今度はその逆である。
三千は少なすぎるだろう。六角承禎が支援していれば、少なくともこの倍は兵を出せる。
つまり、この「北白川の戦い」
最初から、武力による打開を目的にしていなかったのではないだろうか?
この時、三好軍が発した軍勢は、一万五千。当然、相手にならない。ーーあたかも、関ヶ原の戦いで、東軍が事前に調略を進め、関ヶ原の決戦は掉尾でしかないような様相を呈したように
最初から、政略による打開を狙っていたのではないだろうか?
作者も、なんだかんだで、まだまだ既存史観の影響を脱していない。六角承禎という人物に対し「一日で信長に敗れた男」という物差しで測ってしまう。だが彼はこの後、長慶と畿内の覇権を争うところまでいく。なんだかんだで、手を出せば鬼門になる近江守護・六角氏当主だ。
承禎の采配があったものとかんがえたい。義輝もすでに満二十二歳で、活動的で英邁ながら、北白川の戦いにおける義輝陣営の振る舞いには、天下の周旋人として活躍した定頼を彷彿とさせるものがある。
ただ、承禎がそれだけの仕事をするのに、義輝が朽木谷で積み重ねてきた実績も、預かって功があった。彼が諸大名との音信を欠かさず、影響力を浸透させていたからこそ、そして、加賀の戦乱を調停し、本願寺と晴元の縁戚関係を成立させていたからこそ、承禎は大仕事ができたのだ。
言うならば、三好包囲網である。




