両対い鶴
弘治への改元(一五五五年十二月二十三日)から永禄の改元(一五五八年二月二十八日)にまで話が飛んでしまった。時計を戻して、弘治二年(一五五六)四月
義輝は、大きな仕事を成し遂げた。
加賀一向一揆と、朝倉氏の和睦を成立させたのだ。これは、本願寺方から要請された調停だった。一向宗は、前年に朝倉家の侵攻を受け、数千人の死者を出していた。一方で、朝倉方も、大将の朝倉教景が没し、撤兵のタイミングを探っていた。双方、真宗王国の面子と、まさか坊主相手に負けるものかという意地があったが、ここに義輝が加わることにより「上意」に棚上げして、兵を引くことができた。
この調停がきっかけとなり、義輝と本願寺の距離が縮まる。
ついに、結婚の話は一五四四年に出ていたものの、それから十年以上経過していた縁談が、実行に移された。
細川晴元養女、そして、六角義賢猶子である如春尼(ニョシュンニ、三条公頼実子)が、本願寺顕如に嫁いだのだ。
本願寺権力が蒲生対い鶴御所に加わった形になり、また形勢が変化した。
(なんと)
父定頼の代に予定されていた結婚ではあるが、紆余曲折を経て実現すると、これで畿内情勢における存在感が変わってくる。
六角義賢も、当主を嫡子義治へ譲り、よく知られた法号「承禎」を名乗るようになっている。
六角承禎時代の幕開けは、本願寺とのまさかの結託によって盛大なものになった。
こうなれば、承禎も気分が変わってくる。
(相手が三好であろうと・・尼子であろうとも、これは、面白い軍ができるやもしれぬ)
その尼子は、思わぬことに、安芸国人・毛利元就との激戦に明け暮れている。播磨国に進出する気配を見せているのが不穏ながら、中国情勢は予想外の展望を迎えつつあった。世に言う「防長経略」が始まっており、すでに、周防まで毛利氏が切り取りつつあった。
(今なら、三好軍を圧迫することができる)
六角氏も、北近江に京極氏の存在感をかんじつつ、伊賀国四郡の内三郡に支配を及ぼしている。
広橋流日野家が対い鶴(広橋家の家紋)を掲げる時期
蒲生対い鶴御所もまた、再び羽ばたこうとしていた。




