続ひょうすべ改元考
要するに、広橋国光がいやがらせをして、義輝に永禄改元を伝えず、そのため彼は旧元号を使いつづけなくてはならなかった、ということだ。いかにも公家がやりそうないやがらせだが、問題は、なぜ、広橋国光が、そんなことをしたか、だ。もちろん、真夏流広橋家であり、その当主。日野晴光亡き後、日野宗家を継いだ輝資は、彼の子供だ。
この日野家の跡目について、天文二十四年(一五五五)義輝と長慶が争い、義輝は輝資を立てて、息長氏末流が宗家当主から遠ざかっている状況を打開した、そう述べた。
それ以前にも、天文二十年(一五五一)に日野資晴を排し、遊佐長教を暗殺し、三好長慶に二度の暗殺未遂事件を起こした。日野晴光を巡るこれら襲撃の連続から、その当時から、日野家と義輝の接近が始まっていた可能性が高い。そして、天文二十四年の日野家の跡目争いでは、息長氏末裔日野家支流広橋国光の子供輝資を、次期当主に推した。
ならば、国光にとって、義輝は恩人ではないか。日野家のみならず、国光個人にとっても、わが子が宗家を継ぐ快挙を成し遂げてくれた。
だというのに、その国光が、義輝にいやがらせをするのか?
ここに、当時の昵懇公家衆(将軍家に近い武家伝奏を担う公家たち)筆頭、代々将軍御台所を輩出した日野家と、その他の公家との確執を見ることができる。永禄の改元が行われたのが、弘治四年(一五五八)二月だ。
同年の十二月二十三日、義輝と、太政大臣・近衛稙家娘「大陽院」が結婚している。
ここに、義輝、広橋家(日野家)近衛家の確執があったのではないだろうか。
日野家の跡目争いから、義輝が六角定頼没後、蒲生対い鶴御所から離れ、日野一族への帰属意識を持つようになっていたのは、くみ取れる。だが、それなら、日野家としては、従前通り、再び将軍家御台所に一族の娘を上らせる野望を抱いていたはずだ。
しかし、義輝が選んだのは、近衛家の娘だった。近衛稙家とは、先代の近衛尚通の代から、父義晴と交誼がある。義晴室は近衛尚通娘の慶寿院であり、つまり、義輝の生母だ。そして、尚通も稙家も、自分たち親子が没落し朽木谷にいる時でさえ、いっしょに付いてきてくれている。
近衛種家は、従一位関白、太政大臣、もう位人臣を極めると評しても過小評価になってしまうくらいの雲上である。
こんな迫力あるアプローチを無視して、申し訳ないがたかだか「名家」の日野家と婚姻することができるはずがない。
(!?)日野家は、広橋国光は衝撃を受けただろう。
義輝は、日野家に接近する意志はあった。
だが、「名家」である日野家を、ふたたび将軍家御台所へ返り咲かせ、室町幕府の闇将軍にするつもりはない。
なんといっても「摂関家」である近衛家と結びつき、承禎が蒲生対い鶴御所の野心を捨てた後も、近衛家とともに公武に君臨する心づもりなのだ!
永禄元年(一五五八)末の結婚は、なにしろ、日本を代表するビッグカップルである。
改元の時点ではすでに知れ渡り、準備が始まっていて、これが、国光の耳にも入っていたのではないか。
(大樹!!さんざん色よいようなことを言うておいて、結局、われらよりも近衛家を選びよるかよーーーーーーーーーーーーーー!!)
この怒りが、いかにも大人げない嫌がらせとなって、義輝に降り掛かったのではないだろうか?
国光の不快が義輝に向いていた傍証を挙げる。先に述べたとおり、三好三人衆・岩成知通に並んで出世頭になった松永久秀だが、その継室は広橋保子
国光の妹だ。
つまり、三好政権の柱石に数えてもいい重要人物に、広橋家が娘をやっているのだ。広橋保子が没した時、久秀は主君ほどの格式で供養したというから、よほど大事にされている。
彼女が久秀に嫁いだ年月日は特定できないが、弘治三年(一五五七)から永禄三年(一五六〇)の間である。
義輝と大陽院(近衛稙家娘)の結婚(一五五八年十二月二十三日)に合致する。
二人の結婚が決定してから、日野家は、義輝から距離を取り、久秀に広橋保子を娶らせたのではないだろうか。つまり、三好政権への接近である。
(義輝は日野家の御台所を袖にしおった! この上は、すでに輝資が当主である以上、旧敵三好と結ぶもやぶさかでなし)
弘治三年(一五五七)京都の泉涌寺(センニュウ寺)と般舟院(ハンジュ院)とが、天皇家の葬儀と仏事を巡って相論を興している。これは要するに、どちらの寺院が、どのように崩御された天皇を弔うべきか、という争いだった。
『このような時代状況の中で、十六世紀以来、泉涌寺と般舟院は天皇家の葬礼・仏事をめぐって対立の様相をみせる。弘治三年(一五五七)に死去した後奈良天皇の中陰法要は、三好政権の裁許により例外的に泉涌寺が差配したものの、その次の正親町天皇の中陰法要以後、十七世紀初頭にかけての天皇・女院の中陰法要は、いずれも般舟院において執り行われた。』 (『近世天皇家の追善仏事と泉涌寺・般寿院』佐藤一希氏)
この相論を三好氏が裁決した結果、崩御された後奈良天皇の法要は泉涌寺が行うことになった。
ところが『正親町天皇女房奉書写』(正親町天皇の勅旨を女房が文書化したもの)の弘治三年十一月二十一日付のものでは、この相論について、こう書かれている。
「ふけにて(武家にて)あひすますへきむね(相済ますべき旨)おほせくたされ(仰せ下され)」
本来、この相論は、武家が取り扱うべきものだ、そうおっしゃられた、という。天皇家の仏事に対して、正親町天皇が裁決を任せる「武家」というのは、北朝に仕える武門の棟梁、幕府のことである。
そして、こうある。
「伝奏にまかせおかれ候、中〳〵(なかなか)さたの外」
武家伝奏に伝達を任せておいたら、意に反して「沙汰の外」えらいことになってしまった・・ーーー
この武家伝奏が、やはり、広橋国光なのだ。つまり、本来天皇が幕府に裁決を任せるべきだとかんがえていたところ、広橋国光が独断で三好政権の方へ裁決を依頼し、結果「中〳〵(なかなか)さたの外」になってしまった・・そう、苦々しく告白されている。ーーなんで、皇室の葬祭を三好氏に決められねばならぬのか。
広橋国光、明らかに、三好政権に華を持たせるべくスタンドプレーに走っている。本来幕府が決定すべき皇室内部の行事の詳細まで、三好政権が介入している。
おそらく、『正親町天皇女房奉書』の書かれた弘治三年(一五七七)十一月二十一日の時点で、義輝と大陽院の結婚は決定されていたのだろう。だから、国光は職能を利用して、相論の決着を三好氏に委ねた。
すでに、広橋家の、日野家の
広橋流日野家とでも言おうか
彼らの、三好家への接近は始まっていた。




