ひょうすべ改元考
さて、天文年間も二十四年(一五五五)に達し、朝廷では「改元」がささやかれていた。
「大乱(応仁の乱)のあった文明年間さえ、十九年ぞ」
「兵事混乱につき、は、理由にはならぬ」
「鹿苑院義満公が大内氏と争うた応永年間ならば、三十六年ぞ」
「いやいや、延暦の御代(二十五年)に並ぶのは、異例もいいところよ」
これだけ変事の多い戦国期だというのに、四半世紀も年号が改まらない。この切り替わらない感じは、いつまでも既往の災厄を引きずっているようで、山内者を不安がらせた。
確かに、無闇と長い。これには、大名を重きとし、朝廷とはさほど尽くさない義輝の方針が原因にある。万松院義晴は、その点、朝廷との付き合いを欠かさず、朽木谷にいた時期でも享禄から天文への改元を執奏している。
改元は、征夷大将軍から上奏するのが慣例になっている。どうせ、改元の周知や儀式に関わる費用は幕府が出すからだ。これをおろそかにするのは、朝廷軽視の表面化だった。
天文二十四年(一五五五)十月二十三日を以て、新元号「弘治」へ切り替わった。
この改元は謎が多い。誰が執奏したか、誰が費用を払ったか、そういうことが不明なのだ。当時の状況からすると、京都を支配していた三好氏だろうと言われている。改元は将軍が執奏するのが通例であり、それだけに、これが三好氏の発案で行われたのなら、天下に三好氏の支配の妥当性を問うたことになる。
しかし、たかだか、と言っては悪いが、たかだが改元ながら、ひょうすべ史観としては、ちょっと、引っかかることがある。
この先、弘治四年(一五五八)二月にも、正親町天皇の即位につき、改元が行われる。新元号は「永禄」
この時、義輝は上洛に向けた出兵の準備をしており、彼は改元してから二ヶ月経過した五月七日に、ようよう朝廷に代替わりの祝儀を献上した。
無銘の太刀と
銭五百疋(百疋で一貫)である。
(なんとまあ)公卿たちは、開いた口がふさがらなかっただろう。銘刀でもない一振りと、銭五貫!! 好意的にかんがえてやれば、満二十二歳の青年が征旅にあり「軍旅につきこれにて失礼」と、銘もない太刀を差し出した・・そういう、義輝なりのダンディズムかもしれない。万里小路惟房はその日記に「御牢人のためであろうか」などと台所事情を案ずるような一文を残している。
日本では、こういう祭事は無難にやり過ごした方がいい。
ともあれ、五月二十六日、ちょっとした変事が起こる。在京幕臣を通じて、義輝が「依然改元の旨、武家伝奏がお伝えに来られぬが故、永禄の元号を使うことができない」と朝廷に伝えている。元号が改まるというのは、一種の儀礼であり、武家伝奏が正式に報告した上で、儀式を行い、それでようよう用いることができる。義輝は、三ヶ月の間、旧元号で文書を発給せねばならず、恥の上塗りをしていたことになる。
その上、六月二十一日付の文章でも、未だ武家伝奏がやって来ない、旧元号を使うしかない、そう抗議してきた、と『惟房公記』にはある。「武将御無興」
いたく不興である・・大変お怒りである
そう書いてあるのだ。
『惟房公記』では、おそらく武家伝奏が意図的に義輝に改元を報告しなかったのだろう、としている。
この時、使者に選ばれていた武家伝奏が
広橋国光だ。




