長慶経略~五年~
義輝の離反に呼応して、長慶に服していた芥川孫十郎という人物が、背いた。摂津芥川城に籠もり
・丹波(波多野氏、晴元)
・山城(東山霊山城の義輝)
・摂津(芥川城の芥川孫十郎)
と、三方面に敵を作ることになる。だが、長慶方松永久秀が晴元の軍勢を破ると、長慶は、芥川城を包囲、その隙に晴元・義輝連合軍が入京しようとしたところ、長慶が抑えの兵を残した上で上洛。
これにより、一戦することもなく、晴元・義輝連合軍が撤退した。
京都は、三好政権の盤石の支配に入った。
以後、五年、義輝は近江朽木で逼塞する。三好政権とことを荒立てたくはない承禎としては、複雑だっただろう。
この五年間、長慶は、というより三好一族は、さまざまなアクションを起こしている。
・阿波の足利義維を呼び戻し、将軍に据えようとする
・阿波細川家で内紛、家宰の三好実休(元長の二男)が実権をにぎる
・松永久秀が、丹波内藤氏を乗っ取り、弟の長頼が八木城を奪取する
・細川晴元方香西元成が播磨の明石氏(赤松支流)のもとに逃れ、蜂起する。これを打ち破ることで、播磨方面にも勢力を伸長する。
というあんばいだ。
一方で、義輝も、この五年間、朽木谷で精力的な外交戦を展開する。彼は、かねてから、諸大名との間に旺盛に親交を結んでいた。Wikipedia「足利義輝」より引用。
『例えば、伊達晴宗と稙宗(天文17年(1548年))、里見義堯と北条氏康(天文19年(1550年))、武田晴信と長尾景虎(永禄元年(1558年))、島津貴久と大友義鎮、毛利元就と尼子晴久(永禄3年(1560年))、松平元康と今川氏真(永禄4年(1561年))、毛利元就と大友宗麟(永禄6年(1563年))、上杉輝虎(長尾景虎改め)と北条氏政と武田晴信(永禄7年(1564年))など、大名同士の抗争の調停を頻繁に行った。』
毛利輝元、伊達輝宗、島津義久、最上義光、朝倉義景、上杉輝虎(景虎)このあたりは、義輝の偏諱を授かっている。他にも、偏諱を授かったものは、何十人もいる。
『また、上杉輝虎の関東管領就任の許可をはじめ、御相伴衆を拡充し、毛利元就、毛利隆元、大友義鎮、斎藤義龍、今川氏真、武田信虎といった諸大名も任じた。』
さらに、毛利隆元を安芸守護、天文二十一年(一五五二)四月には尼子晴久を中国八ヶ国の守護(出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備後・備中・備前)に任じた。
これら戦国大名寄りの施策、さらに、その最期に次々と銘刀を抜いて奮戦したという伝説があり、彼は人気の高い足利将軍だ。
皮肉なことに、それこそが、室町幕府にとどめを刺した。元来、室町幕府・足利将軍家が大した天領もなく全国を運営できていたのは、太政大臣にまで上った義満を代表に、儀礼を整備し、公家の一角を占め、貴族として他の武家から抜きん出た存在になったからだ。 『谷口雄太の研究によれば、足利尊氏は室町幕府の成立後に軍事力のみならず儀礼の整備などを通じて、足利氏一門、特に将軍家の貴種性を高める努力を行い、その結果、足利氏一門は別格であるという認識が確立され、たとえ同じ格式の家同士でも足利氏一門はそれ以外よりも上位に位置づけられた。特別な功績を挙げた武家にも恩賞として一門の待遇を与えられることはあったが、その獲得と維持は極めて困難であったのに対し、血統によって足利氏一門とされた武家はその待遇を剥奪されることはなかった。そして、美濃源氏の土岐氏のように「御一家の次、諸家の頭」(足利氏一門には劣るが、それ以外の武家の中では一番の名門)と名乗る武家まで現れた。』 (Wikipedia「足利氏」)
ところが、応仁の乱以降、将軍家は迎合的になり、国人衆を取り立て、地方大名を御相伴衆や御供衆に任じた。本来、細川、畠山、斯波という足利支流の牙城だった管領職だが、六角定頼が管領代に任じられている。
こうやって少しずつ将軍家の威光は失われていったのだが、そのとどめとなったのが、義輝の尼子氏や毛利氏の守護任命だ。尼子はもともと出雲守護代であり、それが、義稙によって破格の厚遇として、出雲守護・隠岐守護に任じられた。出雲と隠岐のみが尼子の基盤であり、伯耆、美作、因幡、備前、備後、備中、これらの国々は、みな、侵略によって国人衆をなびかせた国である。
それらの守護に、室町将軍が任じたのだ。安芸の毛利氏にしても、もともとは一国人であり、それが、安芸武田氏や大内氏といった郡単位の守護を退け、他の国人領主を統一して、安芸国を実効支配していた。
その支配を公的なものとして承認してしまったのだ!
これにより、結局、実効支配すれば公的な支配として認められる、というわれわれのよくしる戦国時代的なパラダイムが到来する。織田弾正忠家の信長による尾張支配(尾張守護は斯波氏、守護代は織田大和守家)美濃守護代斉藤氏による守護土岐氏からの簒奪、これらの後ろ盾になったのは、義輝の施策である。




