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群雄

 摂津越水城での長慶の権力が確固としたものになっていく。それと同時期に、遊佐長教も、おそらくは本人の活動期に入り、木沢左京亮を排斥すべく動き出す。丁寧にその動きを追えば、なんと

 根来寺へつながっていく。

 根来寺杉坊明算(すぎのボウミョウサン)

 遊佐長教の弟である。

 

 遊佐氏は、じつは、秀郷流の名門だ。本姓は下野小山氏であり、これは秀郷流の嫡流、根来寺は、畠山氏の内紛で、畠山義就の軍勢を破り、七百人以上を戦死させる強力な僧兵団だった。応仁の乱後は、畠山氏に従い、被官の遊佐氏をその縁で迎えたのだろう。

 杉坊は、根来寺の有力子院であり、明算はその院主だった。

 天文六年(一五三七)三条家の河内国鞆呂岐荘(トモロギ荘)半領の支配権を得ている。つまり、三条公頼娘を室とする晴元や、猶子とする六角定頼と、微妙に利害関係を持っている。

 天文九年(一五四〇)遊佐長教とともに、河内国真観寺の領地を安堵している。真観寺は臨済宗で、なぜ根来寺(新義真言宗、浄土教と融和的)が安堵するのかという話だが、真観寺は遊佐氏の菩提寺なのだ。この領地は木沢左京亮の勢力圏で、彼の許可を得ての行動だったというが、微妙に、接触、抵触を持っている。

 

 改めて紹介したいが、杉坊明算

 戦国史上の人物である。

 『鉄炮記』に曰く

 「天文十二年(一五四三)杉坊某公が鉄砲を求め、津田監物烝を種子島へ遣わした」

 この杉坊某公こそ、明算なのだという。

 鉄砲の伝来と普及の立役者なのだ。

 

 いよいよ戦国時代本番である。杉坊明算は、残念ながら鉄砲の導入を最大の功績として、他にはさほど名を残す事なく没する。

 

 遊佐長教は、なかなか強大な背景があった、ということだ。十河一存(そごうかずなが)や三好実休と、兄弟に恵まれた長慶と重なる。

 

 さて、三好長慶。

 「器量と軍事的才幹は、早くも深淵の蛟竜ぶりをのぞかしていた」満十六歳にして洛中を震撼させ、摂津に盤踞した彼を評した言葉だ。八上城城主・波多野秀忠娘との婚姻で地盤を固めた長慶は、摂津池田城の池田信正も誘って、一庫城(ひとくら城)の塩川国満(くにみつ、細川髙国から偏諱を受けた)を攻めた。これは、晴元の命令で、髙国残党掃討作戦だった。天文十年(一五四一)八月のことだ。長慶、満十九歳。とりあえず、晴元の家臣に戻った形である。若さが決着した、わけではないだろう。上下関係は、量の大小はあれ面従腹背の要素がある。長慶は、最終的には晴元と対立する。

 長慶・波多野秀忠・池田信正連合軍は、一庫城を包囲。ーーだが、ここで、塩川国満が、攻撃の不当性を義晴に直訴

 かつ、木沢左京亮に、援軍を要請する。この頃には、畿内の大勢力になっていた左京亮は、山城、大和、河内の軍勢で、長慶連合軍を包囲しようとする。

 (忘れたか? 左京亮

 (ーー貴様も父上の仇ぞ)

 すぐに、覚えたか、に、変えてやる。左京亮の来襲を察知した長慶は軍を引き、十月十二日に越水城に籠もった。

 塩川国満が、義晴に不当を訴えたのが、九月二十九日だ。

 この引き際。

 木沢左京亮は、これを追撃しながら、義晴に談判をねじ込み、京都警固役におのれを任じるよう迫った。

 

 ここに来て、漸く、この混迷の時代の実情が見えてきた。どうも、晴元は、自分勝手に振る舞ってはいるが、傀儡の性格が強い。少なくとも実務者レベルではなく、上長として諸情勢に乗っているだけ、という具合である。実質畿内を支配しているのは、三好政長であり、木沢左京亮だ。そこに「婿殿」とともに食い込む形で、六角定頼と、蒲生対い鶴御所、室町幕府や足利義晴がいる。それら武家勢力の局外に、いざ動けば五畿を覆しうる戦力の本願寺が控えている。本願寺は桁違いの動員力があるが、いざ、一揆を起こせば、それは証如ら宗主陣営の思惑を超えるところまで暴走するのが立証済みであり、この時期、むしろ証如や蓮淳は、統制と融和に努めていた。

 

 スクロールアウト同盟も、退潮したものである。同盟者の土岐頼武は没し、朝倉氏は、外征に消極的で、実質、六角氏単独で切り回しているようなものだから、当然だが。

 第二期秦氏政権と第三期秦氏政権の両立であり、端境だ。

 

 閑話休題、左京亮は、十月十一日、おのれを京都警固役に任じるよう義晴に迫った。だが、相次ぐ勝手な行動に反感を抱いていた室町幕府はこれを退ける。十月二十九日、晴元が北郊岩倉へ、翌日義晴が左京区銀閣寺町慈照寺へ、そこから近江坂本へ落ちる。管領も将軍も京都にいない形になり、警固役もない。仕方なく左京亮は、河内へ退却する。

 晴元は、十一月十八日、義晴を通じて、伊賀守護仁木氏(足利支流)に御内書を配した。山城国の左京亮の拠点・笠置城の攻略を命じたのだ。仁木氏はこれに応え、十一月下旬、伊賀・甲賀混成の忍者部隊を派遣。

 笠置城の一郭を焼き討ちしている。これは百名以下の小勢で、撃退されてしまったが、記録に見られる忍者部隊最古の活動だ。

 伊賀国は、この頃、六角氏・北畠氏・仁木氏に三分されている状態で、守護職仁木氏の存在感は希薄だった。

 甲賀大明神・高頼の子、定頼も甲賀忍を都合したのではないか。

 

 


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