若人
ーー仮に、遊佐長教が本当に、三好長慶と同世代で、従って、これまでは、せいぜい元服したかどうかというところで、運営は他のものに任されていた、そう考えると、みょうに腑に落ちることがある。
一五四〇年代にかかるあたりから、左京亮との共同統治体制から、じょじょに、左京亮を排斥する方向へ、シフトするのだ。
丁度このあたりで、長慶が二千五百の兵を京に入れ、河内十七箇所代官職を巡って晴元や三好政長と対決する姿勢を示した、このことも暗示的である。政長は、飯盛山の戦い、天文の錯乱では、元長に攻められている左京亮と組み、晴元に進言して一向一揆を起こさせた。その後、元長に替わって河内十七箇所の代官に収まった。
その政長が、長慶によって咎められ、支配力を退潮させた。同盟者である政長の没落は、河内の実質支配者である左京亮にも、影響していただろう。
(手を結ぶに足る)
この頃、頭をもたげた若獅子は、摂津越水城で君臨する同世代の三好家当主を、頼もしく思っていただろう。
これも、長慶が畿内に留まり、衝撃を長く尾を引かせた、その影響である。長慶に作者が見る面影は、曾祖父・之長だが、彼は、応仁の乱の頃から、土一揆を扇動する名人だった。
しかじかの刺激を加えた後、化学反応が起こるのを待つ、、ーーーー
果たして、畠山家中から、遊佐長教が、名乗りを上げた。
晴元や、木沢左京亮、三好政長と言った、暗鬱な畿内体制を突き破ろうとする「一揆同心」の若者たちが、出現した。
三好長慶は、越水城に留まったまま、じょじょに摂津に支配力を広げていく。
天文九年(一五四〇)十二月十五日、丹波八上城城主・波多野秀忠娘を娶る。丹波は摂津の北隣であり、八上城と越水城の地政学的な同盟だ。
三好長慶の継室は、遊佐長教娘なのだ。
そして、長教には、日野内光娘も嫁いでいる。
晴元、左京亮、政長、定頼。
それらに抑圧される長慶、長教、そして日野家。
この頃の畿内には、なにかが潜在していたのではないか?
八幡旗手と、八幡神族。
かつての源平
為義流河内源氏頼朝と
高階氏娘を娶り、宗像三女神を氏神とした伊勢平家清盛と
八幡大菩薩と姫大神が相克していたように
天之御影神(六角氏、晴元、義晴)
八幡大菩薩(日野家、本願寺教団)
この二勢力が並び立ち、競合しつつ、和合離反も試み
生き残り、新時代を打ち立てるために、相克していたのではないか?
歴史研究が進むにつれ、それまでの定説は覆される。案外、歴史には間隙が多く、それらを推測や物語で飛躍させることで、定説は成り立っている。
例えば、藤堂高虎だ。
浪人と下剋上、というより政界遊泳の化身、関ヶ原や大坂夏の陣の働きで、外様ながら譜代衆よりも徳川政権に重んじられた男だ。これまでは、素浪人、良くても土豪出身で、そこから浅井氏に仕えた、とされていた。
ところが、藤堂氏の初代景盛は、公家に仕える「公家侍」と呼ばれる階級で、その後藤堂氏は、古記録にも度々登場、京都にも拠点を持つ、それなりの有力者だったことが明らかになっている。
藤堂景盛が仕えていた公家が
真夏流広橋家兼宣(かねのぶ、一三六六─一四二九)だ。
藤堂家は、真夏流日野家、それも、本稿の以降で日野宗家を担う広橋家に仕えていたのだ。
そして、広橋家は江戸時代、武家伝奏となり、公武の架け橋となる。その時代に、藤堂家は下手な譜代以上に重んじられている。
もっと言えば、その江戸幕府の終末期、禁門の変の際に、十津川郷士とともに策動し『徳川慶喜公伝』にも名指しで黒幕だと指摘された日野家当主がいなかったか? もちろん、広橋家出身だ。
禁門の変の三年後に勃発した鳥羽伏見の戦いで、津藩藤堂家は、真っ先に江戸幕府に反旗を翻したのではなかったか?
ーー案外に、高虎は、主家を七度変えた男ではない。藤堂家の主君は、ただ一家なのではなかったのか。
不思議なことに、ひょうすべ史観は、最新研究と相性がいいのだ。




