木沢左京亮長政
さて、一度、木沢長政の法華の乱以降を追わねばならない。天文の法華の乱(一五三六)以降、木沢長政は、本願寺証如や蓮淳と連絡を密にし、さらに坊官下間一族ともよしみを通じて、一向宗との関係を修復した。畿内から全国にまたがる教勢と手を組むのは、この下剋上の男にとって、重要事だった。
この時期の山城守護は、細川晴元だ。晴元は、南山城(上三郡)の守護代に、畠山家の被官でもあった木沢長政を登用している。ーー作者は、木沢長政という人物が、はたして知名度を得ているのか自信がない。そのため、浅井長政とかぶらぬよう、木沢とも長政とも略さずにいる。だが、さすがに煩わしくなってきた。この男、下剋上の化身のくせにそれらしい呼び名もない。木沢左京亮(木沢左京のすけ)と、通称で記載していきたい。
晴元が、左京亮を登用したのは、同地域守護がかつて畠山家だったためだ。左京亮の人脈を活かせるのではないかという配置だった。作者は木沢左京亮が、じつは、晴元の副官であり、参謀のポジションだったのではないかと考えている。その点からも、自分が守護を務める地域の守護代に任じるのは都合がよい。
左京亮は、畠山家の被官ながら、主家を傀儡にしていく。河内守護畠山氏は、総州家(畠山義就祖)と尾州家(畠山政長祖)に分かれていた。畠山家の家督争いなどとても追い切れない。左京亮は、総州家を傀儡としていた。
天文三年(一五三四)尾州家の主は畠山稙長だった。彼は、河内への支配を強めていく晴元に対抗するため、本願寺と手を結ぶ。これが発覚すると、総州家左京亮と、尾州家重臣の遊佐長教(遊佐ながのり)が結託し、稙長を紀伊へ追放した。とはいえ遊佐長教は、三好長慶とほぼ同世代と言われている。この頃長慶は満十二歳であり、誰かが長教の名を借りて左京亮と同盟したのだろう。長教と左京亮は、稙長の弟・長経を尾州家当主に立てた。
だが、この長経、いつの間にか失脚し、いつの間にか殺されている。
左京亮のような男が跳梁しているのだ。当時の畠山家中は魔窟であろう。失脚の経緯も、殺害の経緯もよく分かっていない。そもそも、遊佐長教は、晴元との融和派で、だから、本願寺と結託した稙長を追放したわけだが、木沢左京亮は、一五三〇年以前に、遊佐氏を殺害して畠山家を出奔(この時期晴元に仕えるようになる)そして、三好元長が抹殺された紛争で、河内守護代・遊佐堯家(遊佐たかいえ)を殺害している。これだけ遊佐氏に祟っている男と同盟するあたり、いかにも紛々としている。
その後、遊佐長教は、稙長の別の弟を擁立するが、これは幕府から認められない。
そこで、左京亮と長教は協議し、総州家と尾州家からそれぞれ当主を擁立、共同統治で畠山氏を運営する形式を採用する。採択者である左京亮と長教は、それぞれ畠山家の実権を掌握することになる。
分裂し続けた畠山家が、仮にも統合される形式に落ち着いたのは、一向一揆の存在感がある。
やはり、十万二十万を動員して、一夜にして堺公方を消滅させた出来事は強烈であり
(対応を間違えるわけにはいかない)という危機意識を味わわせたのだ。
実質的な畠山家の運営者となった左京亮は、河内を呑み込み、さらに畿内各国へ軍事行動を及ばせる。特に食指を伸ばしたのが大和で、ここは、元来、総州家の版図なのだ。大和は、興福寺を事実上の守護職として、国人衆が自治する国で、ここに左京亮がのしかかった。河内と大和を連絡する拠点として「信貴山城」「二上山城」を築城、天文六年(一五三七)には、興福寺僧兵団長として名高い筒井氏と結び、応仁の乱で畠山義就を支えた越智氏を押しのけ、大和を支配する。
下剋上の怪物は、畿内の大勢力に成長していた。




