第八話 ――夜にほどける――
ローランドの家を飛び出したあと、
リンクはしばらく無言で歩き続けた。
気づけば、マキナードの街はすっかり夜に沈んでいた。
昼間の喧騒は跡形もなく、
石畳の道には、ぽつぽつと灯るランプの光だけが揺れている。
遠くの酒場から笑い声が漏れ、
店の片付けの音が、静かな通りにかすかに響いた。
風が吹くたび、乾いた砂埃がふわりと舞う。
ひんやりとした夜気が肌を撫で、
人影の少ない街並みは、昼間よりもずっと広く、寂しく見えた。
リンクはその中を、ひとり歩いていた。
胸の奥がざわつく。
怒りだけじゃない。
(……なんなんだよ、あいつ)
思い出すだけで、頬が熱くなる。
あの距離。
あの声。
あの態度。
「……バカみたいだ」
自分に言い聞かせるように呟き、
夜風にあたるために街外れの小さな橋へ向かった。
静けさが周囲を包み込み、
まるで世界の音がひとつずつ消えていくようだった。
その中で、川の流れだけがかすかに耳を撫でてくる。
リンクは欄干に肘をつき、深く息を吐いた。
(……そういえば昔、アイラにもあんな風に押し倒されたっけ)
ただの無邪気なじゃれ合いだった。
その記憶は、胸の奥が温かくなるような、
甘くて、幸せな日々のひとコマだった──
(……なんでだよ。全然違うのに)
ローランドに押し倒されたときの嫌悪とは、
まるで正反対の思い出なのに。
なのに、どうしてアイラと重なるのか、自分でもわからなかった。
そんなことを考えていると──
ふいに、あの夜の光景がよみがえった。
アイラの瞳。
“声を出しちゃダメ”と告げた、あの優しい眼差し。
胸が痛む。
十二年たっても、あの痛みは薄れない。
(復讐のために来たんだろ……何やってんだよ、僕)
ローランドの家に行ったことも、
あの距離に動揺したことも、
全部無駄な寄り道に思えた。
そう思おうとした。
──けれど。
あいつに出会わなかったら、今の僕はいなかった。
(……助けてくれたから、生きてる)
あのダンジョンで。
ボロボロになった自分を見た瞬間、
ローランドの顔つきが変わった。
あれは──
(……怒ってた。僕のために。……それもかなり)
胸の奥が、またざわつく。
理由の分からないざわつき。
リンクは頭を振った。
「……考えるだけ無駄だ」
そう言い聞かせ、橋を離れようとした──そのとき。
背後から、こちらに駆け寄る音がした。
「……リン?」
聞き慣れた軽い声。
けれど、どこか息が上がっている。
振り返ると、ローランドが立っていた。
普段のようなふざけた笑みは浮かべていない。
どこか迷ったような、弱い影を落とした表情。
「……なんでここに」
「探してた、……リンを。怒って帰っちゃったからさ……」
「怒って当然だろ……!」
声が少しだけ震えた。
ローランドはゆっくりと近づき、欄干に寄りかかった。
「……悪かったよ。あれは、ちょっと調子に乗った。……ごめん」
珍しく素直な声だった。
けれど、その横顔にはどこか気まずさがあった。
視線を落とし、指先で欄干を軽く叩く仕草が、
落ち着かない気持ちを隠しきれていなかった。
リンクは目をそらす。
無言の時間が、ゆっくりと流れていく。
先に口を開いたのは、リンクだった。
「……あんた、いつもああなのか?」
「バカ言うなよ! あんなこと、男に対してやるわけねぇだろ?」
ローランドは慌てたように手を振り、
言い訳を探すみたいに視線を泳がせる。
肩がわずかに強張り、
普段の軽さとは違う“焦り”が見え隠れしていた。
「それじゃなくて! ダンジョンで……助けてくれただろ」
ローランドは一瞬だけ言葉を失い、
喉の奥で小さく息を呑んだ。
「ああ、あれか……。いつもなら、見て見ぬ振りするよ」
「え?」
ローランドの言葉が途切れ、短い沈黙が落ちた。
夜風だけが、二人の間をそっと通り抜ける。
「リンが殴られたの見たときさ……
なんか、頭が真っ白になったんだよ」
ローランドは言いづらそうに視線をそらし、
口をとがらせながら、もごもごと続けた。
「自分でも意味わかんねぇけど……その……放っとけなかった、っつーか……
守んなきゃって……思っちまった、っつーか……」
言葉の端が濁っていて、息が少し乱れていた。
川の音だけが、静かに流れている。
(……なんだよ、それ)
リンクは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
怒りが完全に消えたわけじゃない。
でも──ローランドの言葉は、嘘じゃないと分かった。
「……ああいう“変なこと”、もうすんなよ」
小さく、絞り出すように言う。
ローランドは目を丸くし、すぐに柔らかく笑った。
「わかったよ。気をつける。リンが嫌がることは、もうしねぇ」
「……リンって呼ぶな」
「はいはい、リンクさん」
わざとらしい敬語に、
リンクは思わず吹き出しそうになった。
ローランドは、少しだけ真面目な声で言う。
「……でも、パーティーの話は、まだ諦めてねぇからな」
「……はぁ?」
「だって、リン──リンクと組みてぇんだよ。
理由は……その、うまく言えねぇけど」
その言葉に、リンクの胸がまたざわついた。
怒りでも、嫌悪でもない。
もっと曖昧で、名前のつかない感情。
リンクは視線をそらし、夜の川を見つめた。
「……考えとく」
「おっ、前進じゃん?」
「調子に乗るな!」
ローランドは笑い、リンクはむっとしながらも、
どこか肩の力が抜けていた。
夜風が二人の間を通り抜ける。
静かな夜。
揺れる影。
まだ距離はある。
触れられない心もある。
けれど──
二人の歩幅は、ほんの少しだけ近づいていた。




