第三十三話 ――言えない祈り――
明け方近く、ローランドは家へ戻った。
シャツは着崩れ、髪も乱れている。
酔いはほとんど醒めていたが、
胸の奥に残るざらつきだけが、どうしても消えなかった。
(……あんな逃げ方したくせに、娼婦で気を紛らわせるとか、終わってるよな)
自嘲の息が、喉の奥でひっそりと漏れる。
家の静けさが、それをいっそう浮かび上がらせた。
そろりと扉を開ける。
リビングの灯りは落ちていたが、
薄暗い部屋の中に、小さな影が丸まっていた。
リンクだった。
膝を抱えたまま眠っている。
小さな肩が、かすかに上下していた。
唇をきゅっと結んだまま。
待っていたのだと、ひと目でわかった。
ローランドの胸が、じんわりと温かくなる。
同時に、胸の奥がきゅっと痛んだ。
その痛みは、さっきまでのざらつきとは違うものだった。
(……こんな時間まで)
起こさないようにそっと近づき、
毛布をかけようとしたその時──
視界の端に、何かが引っかかった。
ソファーの横に置かれた紙束。
リンクが眠る直前まで見ていたものかもしれない。
ローランドは手に取る。
そこには、
トリグレアの情報、
近隣の村の襲撃、
攫われた子供たち──
そして、見覚えのある地図。
ローランドの背筋に、冷たいものが走った。
(……あの場所を探してる? なんでだよ)
喉の奥がひりついた。
胸の奥が、ゆっくり沈んでいく。
リンクの寝顔を見る。
幼い顔なのに、眉間にうっすら皺が寄っていた。
(……お前、何がしたいんだよ)
言葉にならないものが、胸の奥で重く沈む。
ローランドは紙をそっと元に戻し、
見なかったことにして立ち上がった。
そうしないと、立っていられなかった。
そして、わざと大きな音を立てて扉を開ける。
「ただいまー!」
リンクがびくっと飛び起きる。
目をこすりながら、必死に平気なふりをした。
慌てて紙束を背中に隠しながら、
むすっとした顔でローランドを睨んだ。
「……朝帰りなんて、不潔だ」
膨れた頬が、怒っているのにどこか幼い。
ローランドは苦笑し、
機嫌を取るように手を上げた。
「違うって。朝まで飲んでただけだよ。
やましいことなんて何にもしてないって」
「もういいよ!」
リンクはぷいっと顔をそらし、
自分の部屋へ駆け込んだ。
扉が閉まる音が響く。
リビングに一人残されたローランドは、
貼り付けていた笑顔が、ゆっくりと剥がれ落ちた。
さっき見た紙束の地図が、頭から離れなかった。
リンクの小さな背中が、あの場所へ向かう姿が一瞬よぎり、
ローランドは思わず目を閉じた。
(……頼むから、あそこだけは……)
言葉にならない祈りが、胸の奥でじわりと滲んだ。
ソファーの上に並べられた、
冷めた食事を見つめる。
小さな皿に盛られたスープは、
表面に薄い膜を張っていた。
俺が以前に何気なく「うまい」と言ったスープだ。
リンクが、ちょっとだけ仲直りしたい時に作るやつ。
その匂いが、まだかすかに残っていた。
(……これ、わざわざ作って待ってたのかよ)
また胸の奥が、きゅっと痛んだ。
その痛みが、何を意味するものなのか──もう自分でもわからなかった。




