第三十二話 ――冷たい囁き――
ダンジョンを出て、しばらく歩いたところだった。
「ローランド」
背後から呼ばれ、二人は同時に振り返る。
赤い服。
深く被ったフード。
またしても、あの女が立っていた。
「ローランド、今時間あるかしら?
ゆっくり食事でもして、お話しない?」
リンクの表情が、わずかに険しくなる。
「僕、ギルドに行って換金してくる」
短く言い捨てると、くるりと背を向けた。
ローランドが慌てて手を伸ばす。
「おい、リン!」
けれどリンクは振り返らない。
小さな背中が、早足で遠ざかっていく。
ローランドは深く息を吐いた。
「……ったく。……なんだよ、キャロル」
「つれないわね。食事くらいいいでしょ?
それとも──あの子の方が大事?」
挑発するような笑み。
声の奥に、何か沈んでいる気がした。
ローランドは一瞬だけ、
リンクの消えた方向を見つめた。
そして、大きく肩を落とす。
「……わかったよ」
夕方の街は、ゆっくりと色を変えていた。
西の空が赤く染まり、
石畳に長い影が伸びていく。
行き交う人々のざわめきは昼よりも落ち着き、
どこか疲れたような、柔らかい音に変わっていた。
酒場の前を通ると、
扉の隙間から温かい灯りと、
香ばしい肉の匂いが流れ出てくる。
キャロルは迷いなくその扉を押し、
ローランドを振り返りもせず奥の席へ歩いていった。
キャロルは腰を下ろし、
ローランドに向かい合うように座った。
ほどなくして、店員が皿とグラスを静かに置いていく。
焼けた肉の温度と、薄い酒の香りがふわりと漂った。
キャロルはフードに手をかけ、
ゆっくりと外した。
その仕草は、まるで“見せつける”ようだった。
露わになった素顔は、
息を呑むほど静かに整っていた。
けれど──
光の角度でちらりと覗く鱗が、
その美しさに不気味な影を落としている。
ローランドは思わず目を細める。
「……お前、そんなに堂々と顔出すタイプだったか?」
キャロルは唇だけで笑った。
「私が変わったって言ってたけど……
ローランドの方が変わったんじゃないの?」
「は? 何の話だよ」
「あなた、そんなにちゃらちゃらしてたかしら?」
「この方が……楽だからだよ」
「005より真面目だったくせに」
ローランドの手が止まる。
「005……レイヴァン。レイのことか?」
キャロルは一瞬だけ、
“誰だっけ”という顔をした。
そして、
ワイングラスを指先でくるりと回しながら言う。
「そんな名前だったかしらね。……どうでもいいけれど」
ローランドの眉がわずかに動いた。
──どうでもいい?
レイがあれだけ懐いてたのに?
キャロルは気にも留めず、
グラスの縁をなぞる。
「昔のあなたは、自分のためにしか動かなかった。
誰かに肩入れするなんて、絶対にしなかった」
ローランドはわずかに目を細める。
「……今もそうだろ」
「ふふ。本当にそう思ってるの?」
キャロルはワイングラスを軽く揺らしながら、
わざとらしく視線をそらした。
「なら、いいけど」
薄く笑ったその瞳は、
どこか底が冷たい。
ローランドは言葉を失い、
ただその横顔を見返すしかなかった。
沈黙が落ちる。
キャロルはグラスから手を離し、
ゆっくりと身を乗り出した。
その動きは、不自然なほど滑らかで、
どこか“誘うためだけに作られた仕草”のように見えた。
「ねぇ、ローランド」
甘い声。
けれど、その奥に冷たいものが沈んでいる。
「今から……行かない?」
ローランドは眉をひそめた。
「……どこへ」
キャロルはわざとらしく笑い、
指先でローランドのグラスを軽く押し返した。
「野暮なこと聞かないでよ。
あなたなら、わかるでしょ?」
その瞳は柔らかく細められているのに、
どこか“焦点が合っていない”。
まるで、
ローランドを見ているようで見ていない。
「……キャロル、お前……」
言いかけた言葉を、
キャロルの指先がそっと遮った。
テーブル越しに伸びた白い指が、
静かにローランドの唇に触れる。
その指先は、
まるで温度という概念を忘れたみたいに冷たかった。
「ねぇ。
あなた、昔はこんなふうに迷わなかったわ」
ローランドは顔をそむけ、キャロルの指を軽く払い除けた。
「……何の話だよ」
「したいと思えばする。
したくないならしない。
それがあなたの“強さ”だった」
キャロルはゆっくりと首を傾げた。
「今は……どうかしら?」
ローランドの胸の奥がわずかに軋む。
「……マザーを殺った時の話なら、あれは別だ。
あれは“俺の目的”だったから迷わなかっただけだ。
お前を抱くのとは話が違う」
キャロルは、再び伸ばしかけた指をぴたりと止めた。
その一瞬の静寂が、
逆に不気味だった。
「……そう。
あなたは昔から、そういう線引きだけははっきりしてたわね」
ふっと漏れたため息が、
ローランドの頬にかかる。
ローランドは身震いした。
キャロルはその反応を楽しむように、
さらに身を寄せた。
「ねぇローランド。
あなたは“孤独”で“自由”だった」
その声は甘いのに、
どこか“命令”のように響く。
「……今は、どうかしら?」
ローランドは小さく息を呑んだ。
「今のあなたは──」
キャロルはわざと間を置いてから続けた。
「誰かに縛られてるみたい」
その“誰か”を口にしない。
けれど、
ローランドの脳裏に浮かぶのは一人しかいない。
キャロルはゆっくりと立ち上がり、
ローランドの耳元に唇を寄せた。
「行きましょうよ。
……そろそろ溜まってる頃でしょ?」
吐息と共に漏れたその声は、
糸を引くようにローランドに絡みつく。
男の本能を刺激するには十分だった。
その笑みに、
あの拗ねた顔がかき消されていく。
ローランドは喉を鳴らし、
視線を落として、グラスを握りしめた。




