第七話 それぞれが、自分の言葉で
コーデリアがヴェルナー伯爵家で暮らし始めてから、季節が一つ巡った。
当初は数か月の予定だった嫁教育も、今ではほとんど形式だけになっている。
学園へ通い、帰宅すれば少し休む。
夕食を取り、気が向けば研究室へ顔を出す。
古い魔道具の中には、彼女にしか起動できないものがいくつも見つかっていた。
もっとも、コーデリア本人は相変わらず、その力を大げさに考えてはいない。
「これも動きませんわね」
「壊れているのかもしれません」
エドモンドが答える。
「では、わたくしの仕事はここまで」
「潔いですね」
「直せないものは直せませんもの」
「そこは最初から一貫していますね」
「当然でしょう?」
コーデリアにできるのは、細い魔力を正確に通すことだけだ。
壊れた魔道具を修復することはできない。
眠っているものを、ほんの少し起こす。
それだけ。
だが、その「それだけ」で長年用途不明だった魔道具がいくつも動いた。
ヴェルナー家では、古代魔道具の調査に彼女の力を正式に役立てることも考え始めている。
「卒業後も手伝ってもらえると助かる」
オズワルドにそう言われた時、コーデリアは少し驚いた。
「わたくしが?」
「ほかに誰がいる?」
「……そうですね」
それだけ答えた。
けれどエドモンドには、彼女が少し嬉しそうにしているのが分かった。
誰かから必要とされること。
しかも、「伯爵令嬢だから」でも「エドモンドの婚約者だから」でもなく、自分にできることを理由に頼まれる。
それはコーデリアにとって、まだ新しい感覚なのだろう。
外見も、以前とはすっかり変わった。
黒髪には深い艶が戻り、オレンジ色の瞳は以前よりも鮮やかに見える。
頬には健康的な丸みがつき、顔色もよい。
何より、いつもどこか疲れていたような雰囲気が消えた。
そっけないところは変わらない。
必要のないことまで喋るようにもならない。
ただ、笑うようになった。
嫌なことには嫌だと言うようになった。
疲れていれば、
「今日は研究室へ参りません」
と言う。
眠ければ、
「先に休みます」
と自分で決める。
以前なら、
「よろしいでしょうか」
と尋ねていたことを、今では自分で決めている。
ヴェルナー家の誰も、それを特別なことだとは言わなかった。
だからこそ、コーデリアにも少しずつ当たり前になっていった。
そんなある日。
アッシュフォード伯爵バルタザールが、ヴェルナー家を訪れた。
「コーデリアと話がしたい」
そう申し出たらしい。
ナディアから伝えられたコーデリアは、少しだけ黙った。
エドモンドは隣で彼女の顔を見る。
「断ってもいいですよ」
「いいえ」
「本当に?」
「一度は話しておくべきでしょう」
「僕も同席します?」
コーデリアが彼を見る。
「なぜ?」
「念のため」
「必要ありません」
即答だった。
「……分かりました」
「何かあれば呼びます」
「それなら」
そこで引いた。
以前なら、心配だからと無理にでもついて行ったかもしれない。
けれど、それではアッシュフォード家でコーデリアの周囲にいた人間たちと同じになる。
彼女が自分で決めたなら、それを尊重する。
必要な時だけ助ける。
今ではエドモンドも、それを覚えていた。
応接室で向かい合った父娘は、しばらく何も言わなかった。
バルタザールは、娘を見ている。
「……元気そうだな」
「はい」
「随分、顔色もよくなった」
「そうですね」
会話が続かない。
親子なのに、まるで初対面の相手のようだった。
先に視線を落としたのは父の方だった。
「食事のことを聞いた」
コーデリアの表情は変わらなかった。
「そうですか」
「朝は水だけ。夜は黒パンと水だったと」
「はい」
「なぜ言わなかった」
コーデリアは、少しだけ眉を寄せた。
「誰に?」
バルタザールが言葉に詰まる。
「私にだ」
「いつ、お話しする時間がありました?」
静かな声だった。
責めてはいない。
けれど、その言葉の方が重かった。
「父上は、わたくしが何を食べているか気になさったことがありました?」
「……」
「学園が楽しいかと聞いてくださったことは?」
「……ない」
「体調は?」
「ない」
「なら、突然食事の話だけをする理由もありませんでしょう」
バルタザールは黙った。
「私は知らなかった」
ようやく絞り出すように言う。
「そうでしょうね」
「本当に知らなかったんだ」
「信じています」
コーデリアは父を見る。
「父上が知らなかったことは」
その言葉に、バルタザールが顔を上げた。
「でも」
コーデリアは続ける。
「知らなかったのではなく、見なかったのでしょう?」
その一言で、部屋が静かになった。
「わたくしは三歳でした」
「……ああ」
「お母様が亡くなって、お義母様がいらした」
「そうだ」
「父上は、お義母様に家庭のことを任せた」
「……ああ」
「それ自体が悪いとは申しません」
コーデリアはゆっくりと言った。
「でも、任せることと、何も見ないことは違います」
バルタザールは返せない。
「わたくしが大丈夫なのか、父上が確かめてくださった記憶は、ほとんどありません」
「すまなかった」
ようやく出てきた謝罪だった。
コーデリアはすぐには答えなかった。
許す。
許さない。
そんな一言で済ませるには、年月が長すぎる。
「今すぐ以前のような父娘に戻る、と言われても」
コーデリアは少し考えた。
「そもそも、以前がどんな父娘だったのか、わたくしにはよく分かりません」
バルタザールの顔が歪む。
それでも、コーデリアは目を逸らさなかった。
「ですが」
「……何だ」
「これから父上が何をなさるのかは、見ています」
バルタザールは長く黙った。
それから、深く頷いた。
「分かった」
父娘の関係が、その日だけで修復されたわけではない。
ただ。
壊れたまま放置するのか。
少しずつでも直していくのか。
それを選ぶのは、これからだった。
一方。
ミーナもまた、自分の家の中を今までとは違う目で見るようになっていた。
「お母様」
ある日の午後。
ユーフェミアと二人になった時、ミーナは意を決して声をかけた。
「何?」
「お姉様のことを聞いてもいいですか?」
ユーフェミアの手がわずかに止まった。
「何かしら」
「どうして、ずっと私に『お姉様は私を嫌っている』と言っていたの?」
ユーフェミアは柔らかく笑った。
「だって、あの子の態度を見れば分かるでしょう?」
「分かりませんでした」
「ミーナ」
「私は、お母様に教えてもらったから、そうなんだと思っていたの」
ユーフェミアの笑顔が少し硬くなる。
「お姉様に聞きました」
「何を?」
「私のことを嫌いかって」
「コーデリアは何と?」
「嫌いではないって」
「あなたを傷つけないために言ったのでしょう」
「どうしてそう思うの?」
ミーナは母を見た。
「お姉様がそう言ったの?」
「言葉にしなくても分かることはあるわ」
「でも」
ミーナはゆっくり首を振る。
「私はもう、分からないことを『分かっている』ことにしたくない」
ユーフェミアが黙る。
「お姉様が私を嫌っているって、誰かから聞いたの?」
「……」
「お姉様本人?」
答えはなかった。
「そうじゃないんですね」
「ミーナ」
「お母様」
ミーナの声は震えていた。
怒っているというより、傷ついていた。
「私、お母様を信じていたの」
その言葉に、ユーフェミアの表情が一瞬だけ崩れた。
「ずっと」
「……」
「だから、お姉様を見る時も、お母様に教えてもらったお姉様を見ていた」
ミーナは目を伏せる。
「でも本当のお姉様は、違った」
それ以上は言わなかった。
母を嫌いになったわけではない。
幼い頃から大切にしてくれた母だ。
優しくしてもらった記憶もある。
だからこそ、すぐに切り捨てることなどできない。
ただ。
もう母の言葉だけを、そのまま誰かの本心として信じることはできなくなった。
ユーフェミアのしてきたことについても、少しずつ調べが進んだ。
露骨な暴力があったわけではない。
コーデリアを地下室へ閉じ込めていたわけでもない。
だからこそ、外からは見えにくかった。
食事を減らす。
必要な衣装を後回しにする。
社交の場では、
「私も仲良くしたいのですけれど、あの子がなかなか心を開いてくれなくて」
と零す。
ミーナには、
「お姉様はあなたを嫌っているのよ。でも責めてはいけないわ」
と言い聞かせる。
コーデリアが何かを拒めば、
「やっぱり私のことが嫌いなのね」
と意味を付ける。
小さなことの積み重ねだった。
そして。
あのビスクドールについても。
曰く付きだと知っていた。
人形を譲った店から確認が取れた。
持ち主の本心を語る。
秘密を暴く。
不幸を招く。
そんな噂がついた古い人形。
それを、ユーフェミアは承知の上でコーデリアへ贈っていた。
「珍しいものだから」
そう言って。
嫌がれば、
「せっかく贈ったのに」
と使える。
捨てれば、
「私からの贈り物を捨てた」
と言える。
だがコーデリアは捨てなかった。
そこだけは、ユーフェミアの想定から外れた。
コーデリアは人形を見て、自分のようだと思ったから。
そして本を読みながら、少しずつ手を入れた。
それを知ったエドモンドは、怒るより先に妙な気持ちになった。
あの人形は。
コーデリアを傷つけるために贈られたのかもしれない。
けれど結果として。
人形があったから、彼女の力が分かった。
人形があったから、ヴェルナー家の古い魔道具が動いた。
人形があったから、新しい商品も生まれた。
そして。
人形があったから。
エドモンドは、コーデリア本人をきちんと見るようになった。
皮肉なものだった。
その頃には、音声を十秒だけ残せるぬいぐるみも正式に販売されていた。
最初はクマ。
続いて犬。
そして兎。
予想以上によく売れた。
「いってらっしゃい」
「おかえりなさい」
「今日は早く帰るからね」
「お誕生日おめでとう」
「ちゃんと眠るのよ」
たった十秒。
一件だけ。
新しい声を入れれば、前の声は消える。
高価な記録魔道具のように、何十年も記録を残すことはできない。
でも、だからこそ日常的に使えた。
昨日の言葉を消して。
今日の言葉を入れる。
明日になれば、また新しい言葉を入れる。
そんな使い方が広まった。
ある日、ミーナがヴェルナー伯爵家を訪れた。
コーデリアに会うためだった。
以前なら、母を通して予定を聞いていた。
今は自分で手紙を書いた。
「お姉様、ごきげんよう」
「ごきげんよう、ミーナ」
「今日はお時間をいただいてありがとうございます」
「手紙をもらったから空けただけよ」
「それでも嬉しいです」
コーデリアは少しだけ笑った。
二人で茶を飲み。
学園の話をして。
ミーナが帰ろうとした時だった。
窓辺に座るビスクドールへ気づく。
「あ」
「何?」
「この子」
人形の腕には、小さなクマが抱かれている。
「売っているものより小さくありません?」
「ええ」
「特別なもの?」
ちょうどそこへエドモンドが入ってきた。
「それは特別製です」
ミーナが振り返る。
「エドモンド様」
「こんにちは、ミーナ嬢」
「お姉様のためですか?」
「正確には、その人形のため」
ミーナは人形を見る。
クマを見る。
そして姉を見る。
「……素敵ですね」
コーデリアは何も答えなかった。
ただ、ほんの少しだけ嬉しそうに口元を緩めた。
ミーナも、それ以上は聞かなかった。
その日の夕方。
研究室で、コーデリアは古い魔道具へ指先を置いていた。
「これは?」
エドモンドが尋ねる。
「反応します」
淡い光が浮かぶ。
「記録系かな」
「でしょうね」
「もう少し調べます?」
「今日はここまで」
「疲れました?」
「少し」
「では、お茶にしましょう」
「ええ」
コーデリアは窓辺の人形へ近づく。
小さなクマが、今も人形の腕の中にいる。
エドモンドが気づいて笑った。
「まだ録音、変えていませんね」
「ええ」
「発売から随分経ちますよ」
「そうですね」
「新しい言葉にしてもいいんじゃないですか?」
コーデリアは即答した。
「嫌ですわ」
「そんなに?」
「これは、このままでいいのです」
クマへ指を触れる。
魔道具が作動する。
聞き慣れたエドモンドの声。
「明日も、お茶をご一緒しましょう」
ほんの数秒。
十秒もいらない言葉だった。
「毎日聞いているでしょう」
エドモンドが言う。
「毎日ではありません」
「では、かなり頻繁に」
「数えていらっしゃるの?」
「気になるので」
「暇ですのね」
「ひどいな」
コーデリアが笑う。
そしてクマを、人形の腕の中へ戻した。
「これは、最初にいただいた言葉ですから」
エドモンドが少し黙る。
「残しておきたい?」
「ええ」
「上書き式なのに」
「上書きしなければ消えませんでしょう?」
「確かに」
コーデリアは人形を見る。
持ち主の本心を語る。
そう噂された人形だった。
けれど、本心など一度も語らなかった。
秘密も暴かなかった。
残していた声は、
「本日は晴天なり」
だけ。
それでよかったのだと、今では思う。
誰かの心を勝手に語るものなど、必要なかった。
ミーナが姉をどう思っているのか。
コーデリアが妹をどう思っているのか。
父が娘に何を言いたいのか。
そして。
エドモンドがコーデリアへ何を伝えたいのか。
人形に聞く必要などない。
自分で聞く。
自分で答える。
分からなければ、分からないと言う。
伝えたいなら、自分の言葉で伝える。
「コーデリア」
「何です?」
「明日も?」
エドモンドが尋ねる。
コーデリアは少しだけ考えるふりをした。
「そうですわね」
「迷うんですか」
「せっかくですから」
「何が?」
「自分で決める時間です」
数秒。
それから、オレンジ色の瞳が柔らかく細くなる。
「明日も、お茶をご一緒いたしましょう」
「よかった」
「ただし、明後日は明日決めます」
「厳しいですね」
「そのための明日でしょう?」
エドモンドが笑った。
コーデリアも笑う。
窓の外には、明るい午後の空が広がっていた。
雲は少ない。
「今日は晴れていますね」
エドモンドが何気なく言う。
コーデリアは窓の外を見る。
そして。
あの人形師の声を思い出したのか。
くすりと笑った。
「ええ」
古いビスクドールは、今日も何も語らない。
代わりに、その腕の中の小さなクマが、短い言葉を一つだけ覚えている。
コーデリアは窓辺へ目を向けたまま、静かに言った。
「本日は、晴天なり」
今度は、それを聞いたエドモンドが笑った。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
「持ち主の本心を語る」と噂された人形でしたが、最後まで誰の本心も勝手に語ることはありませんでした。
残っていたのは、ただ一言。
「本日は晴天なり」
けれど、その少し間の抜けた言葉があったからこそ、コーデリアは自分の力を知り、エドモンドは彼女自身を見るようになり、止まっていたものが少しずつ動き始めたのだと思います。
誰かの気持ちは、噂や決めつけではなく、本人に聞く。
そして、自分の気持ちも、自分の言葉で伝える。
そんなお話になりました。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。




