第六話 十秒の言葉
エドモンドが新しい魔道具の試作品を完成させたのは、それから一月ほど後のことだった。
きっかけになったのは、もちろんコーデリアのビスクドールである。
持ち主の本心を語る。
秘密を暴く。
夜になると囁く。
そんな大層な噂をまとっていた人形の正体は、亡くなった人形師が音声を残そうとして作った試作品だった。
しかも、まともに残っていたのは、
「本日は晴天なり」
という試験音声だけ。
あの日、研究室でそれを聞いたコーデリアが珍しく声を立てて笑ったことを、エドモンドは今でもよく覚えている。
だが、笑い話だけで終わらせるには、その人形師の発想は惜しかった。
人形に声を残す。
本人は完成させることができなかったが、発想そのものは悪くない。
ただし、現代の記録魔道具をそのまま小型化すれば、とても子どもの玩具に収まる価格にはならない。
音声を長期間保存する記録石は高価だ。
複数の声を保存し、好きなものを選んで再生できるようにすれば、さらに機構も複雑になる。
だからエドモンドは、逆に考えた。
必要のないものを、全部捨てればいい。
長期間の保存はいらない。
何件もの記録もいらない。
音質も、会議記録に使えるほど鮮明である必要はない。
ほんの少し。
相手に伝えたい言葉を残せれば、それでいい。
「十秒?」
設計図を覗き込んだオズワルドが言った。
「はい」
「短くないか」
「何を録音するかによります」
「例えば?」
「おかえり、とか」
「二秒だな」
「今日は遅くなります、とか」
「それでも余る」
「おやすみなさい。明日は一緒に朝食を食べましょう、とか」
オズワルドが少し考える。
「……確かに十秒で足りるな」
「でしょう?」
保存できる音声は、一件だけ。
新しい言葉を録音すれば、前のものは消える。
記録用ではなく、あくまで伝言用。
だから構造も大幅に簡略化できる。
そして小さな記録機構を、ぬいぐるみの胴体へ仕込む。
「人形にはしないのね」
今度はナディアが、試作品を手に取った。
茶色いクマのぬいぐるみだった。
「子ども向けなら、こちらの方が扱いやすいでしょう」
「落としても割れない」
「寝台に持ち込んでも危なくない」
「洗濯は?」
「中の魔道具部分だけ取り外せるようにします」
「量産は?」
「工房と相談中です」
「原価は?」
「母上」
「何?」
「まだ試作品です」
「商品にするなら、そこが一番大事でしょう」
研究そのものに興味を示す父と、商品として成立するかを真っ先に見る母。
いつものヴェルナー家だった。
ナディアはぬいぐるみを何度かひっくり返し、それから満足したように頷いた。
「これなら、一般家庭でも手が届きそうね」
「その価格帯にしたいと思っています」
「高価な記録魔道具を買うほどではない。でも、子どもの誕生日には少し特別なものを贈りたい。そこを狙うのね」
「はい」
「悪くないわ」
その一言で、ひとまず商品化へ向けて進めることになった。
試作品には、実際に音声を入れてみた。
魔力を通しながら、エドモンドが言う。
「本日は晴天なり」
記録を終えて再生する。
クマの胴体から、自分の声が聞こえた。
「本日は晴天なり」
オズワルドが無言で息子を見る。
「何です?」
「もっと別の言葉はなかったのか」
「試験ですから」
「絶対に面白がっているだろう」
「少しだけ」
人形の中に何十年も残っていた、たった一つの声。
その人形師が知れば、まさか自分の試験音声が後世でこんな扱いをされるとは思わなかっただろう。
死人に口なしとは、こういう時に便利である。
もっとも、エドモンドが作った魔道具は、古い装置をそのまま複製したものではない。
残された発想を参考に、ヴェルナー家の技術で一から設計し直したものだった。
そして、一般販売用の試作品が形になった頃。
エドモンドは、もう一つだけ別のものを作らせていた。
同じクマ。
同じ仕組み。
けれど、大きさがまるで違う。
普通のものは、幼い子どもが抱いて眠れるくらい。
もう一体は、手のひらより少し大きい程度しかなかった。
その理由を知っているのは、エドモンドだけだった。
数日後。
研究室へやって来たコーデリアは、机の上に置かれたクマを見て足を止めた。
「それが、例のものですの?」
「ええ」
以前なら用事がなければ研究室へ顔を出すことも少なかったが、最近は古い魔道具の調査も兼ねて、時折ここへ来るようになっている。
それでも態度そのものは相変わらずだった。
愛想よく話を合わせることはない。
興味があれば聞く。
なければ聞かない。
そのくらいで、エドモンドにはちょうどよかった。
「持ってみます?」
一般販売用のクマを差し出す。
コーデリアは受け取り、少し重さを確かめるように両手で持った。
「思っていたより軽いですわね」
「魔道具自体が小さいので」
「ここに声が?」
「入ります」
「どのくらい?」
「十秒」
コーデリアが目を上げた。
「十秒だけ?」
「だけです」
「ずいぶん短いですわね」
「保存用ではありませんから」
エドモンドは説明する。
「一件だけ記録できます。新しい言葉を入れれば、その前のものは消えます」
「上書き式なのですね」
「ええ」
「では、昨日の言葉を今日も残しておくことはできない」
「新しく録音しなければ残ります」
「なるほど」
コーデリアはクマを見る。
「高価な記録魔道具とは、目的がまるで違いますのね」
「そうです。あれは記録を残すためのものです。これは、誰かへ短い言葉を渡すためのもの」
「例えば?」
「今日は早く帰ります、とか」
「ええ」
「おやすみ、とか」
「ええ」
「ちゃんと宿題をしなさい、とか」
コーデリアが少し眉を上げた。
「子どもには嫌われそうですわね」
「なら、そこは使う人に任せます」
ほんの少し、彼女が笑う。
最近、この程度の笑顔なら見られるようになった。
「商品として売るのですか?」
「その予定です」
「いくらくらいに?」
「記録魔道具とは比較にならないくらい安くします」
「一般家庭でも?」
「祝い事なら買えるくらいには」
コーデリアはもう一度クマを見た。
「それなら、かなり売れるのでは?」
「母上も同じことを言っています」
「伯爵夫人が仰るなら、わたくしより信用できますわね」
「僕の立場は?」
「開発者でしょう?」
淡々と言われる。
エドモンドは苦笑した。
「それで」
「はい?」
「君にも一つ」
机の下へ手を伸ばす。
小さな箱を取り出し、コーデリアの前へ置いた。
「わたくしに?」
「開けてみて」
箱の蓋を取ったコーデリアが、しばらく中を見つめた。
小さなクマ。
一般販売用と同じ茶色だが、ずっと小さい。
「……随分小さいですわね」
「特別仕様です」
「なぜ、この大きさに?」
エドモンドは答えず、研究室の窓辺へ目を向けた。
そこには、あのビスクドールが座っている。
コーデリアも視線を追う。
そして、手の中のクマを見る。
もう一度、人形を見る。
「……この子に?」
「ちょうどいいと思いません?」
コーデリアは返事をしなかった。
小さなクマを持って人形のところへ行く。
人形の腕を少し動かし、その中へぬいぐるみを収めてみた。
まるで最初からそのために作られたように、ちょうどよかった。
古いビスクドールが、小さな茶色いクマを抱いている。
コーデリアは長いこと、その姿を見ていた。
「わたくしにではなく、この子にくださるのですね」
ようやく口にした声は、いつもより少し小さかった。
「君には小さすぎますから」
「そういう意味ではありません」
「分かっています」
エドモンドは少しだけ視線を逸らした。
こういう時、魔道具の仕組みを説明する方がよほど楽だった。
「君が大切にしているでしょう」
「……ええ」
「なら、僕も大切に扱った方がいいと思っただけです」
コーデリアは何も言わなかった。
ただ、人形の腕の中にいる小さなクマへ指を触れた。
「この人形を」
ぽつりと、彼女が言った。
「最初に見た時、少し自分に似ていると思ったのです」
エドモンドは黙って続きを待った。
「古くて、ぼろぼろで」
コーデリアはビスクドールを見る。
「気味が悪いと言われて」
「……」
「どこから始まったのかも分からない噂をつけられて、それだけで嫌われて」
オレンジ色の瞳が、硝子の瞳を見つめる。
「誰にも欲しがられなかった」
「だから、君は手元に置いた?」
「ええ」
「お義母上から贈られたものなのに?」
コーデリアはほんの少しだけ口元を歪めた。
「だからこそ、でしょうか」
それ以上は言わなかった。
エドモンドも聞かなかった。
継母が何を考えてこの人形を贈ったのか。
それはもう、ある程度想像がついている。
ただ、コーデリアは捨てなかった。
人形に自分を重ねたから。
だからこそ。
その人形へ贈り物をすることは、エドモンドが思っていた以上に意味を持ってしまったらしい。
「音声も入っています」
空気を少し変えるように、エドモンドが言った。
「もう?」
「試作品なので」
「何を入れましたの?」
「聞きます?」
コーデリアが小さく頷く。
エドモンドはクマの中の魔道具へ魔力を通した。
わずかな作動音。
そして。
「明日も、お茶をご一緒しましょう」
クマの腹部から、エドモンド自身の声が流れた。
十秒どころか、ほんの数秒だった。
コーデリアは動かなかった。
「……それだけ?」
「十秒全部使わなければならない決まりはありませんから」
「そうですけれど」
「嫌なら上書きできます」
コーデリアの返事は早かった。
「いいえ」
エドモンドが目を瞬く。
「このままでいい?」
「このままがいいです」
はっきりした声だった。
「そう」
「ええ」
コーデリアは人形の腕の中にいる小さなクマを、ほんの少し整えた。
「明日も、お茶をご一緒しましょう」
もう一度、クマから声が流れる。
今度はコーデリアが少し笑った。
「では」
エドモンドを見る。
「明日も、お茶をご一緒いたしましょう」
その頃には、一般販売へ向けた準備も進み始めていた。
クマだけでなく、いずれは犬や兎も作れるかもしれない。
親から子へ。
子から親へ。
兄弟へ。
友人へ。
ほんの十秒。
記録には残らない。
新しい言葉を吹き込めば、昨日の言葉は消える。
けれど。
日々の言葉とは、本来そんなものなのかもしれない。
伝える。
聞く。
そして次の日には、また新しい言葉を交わす。
持ち主の本心を語ると噂された人形は、結局、誰の本心も語らなかった。
残していたのは、
「本日は晴天なり」
という、ごく平凡な試験音声だけ。
それでも、その人形がなければ。
エドモンドが新しい魔道具を作ることも。
コーデリアが自分の特殊な魔力を知ることも。
こうして、小さなクマが人形の腕に収まることもなかっただろう。
窓辺では、古いビスクドールが静かに座っている。
その腕には、小さなクマ。
コーデリアはもう一度それを見て、ほんの少しだけ笑った。
人形は何も語らなかった。
けれど今は、それで十分だった。




