第五話 悪役令嬢は、少しずつ笑う
コーデリアがヴェルナー伯爵家で暮らし始めて、最初に困ったのは朝食だった。
朝、侍女に身支度を整えてもらい、いつものように学園へ向かおうとしたところで呼び止められた。
「コーデリア様、食堂はこちらでございます」
「……食堂?」
「はい。朝食のご用意ができております」
コーデリアは少しだけ黙った。
「わたくしの分も?」
侍女が不思議そうに瞬きをする。
「もちろんでございます」
「そう」
それ以上は何も言わず、案内された食堂へ向かった。
すでにオズワルドとナディア、エドモンドが席についている。
コーデリアの席にも、当然のように食事が用意されていた。
温かなスープ。
小さなパン。
卵料理。
果物。
量は多くない。
ナディアが料理人と相談し、まずは無理なく食べられる程度にしたのだろう。
「おはよう、コーデリア嬢」
「おはようございます」
席についたものの、コーデリアはしばらく皿を見ていた。
「何か食べられないものがある?」
ナディアが尋ねる。
「いいえ」
「量が多いなら残していいわよ」
コーデリアが顔を上げた。
「残しても?」
「ええ」
「ですが」
「食べられないのに無理をする必要はないでしょう?」
「……そうですね」
恐る恐るといった様子でスープへ手を伸ばす。
エドモンドは向かいから見ていたが、何も言わなかった。
食べ方そのものは、きれいだった。
むしろ、しっかり教育された令嬢らしい。
ただ、一口食べるたびに少し間がある。
誰かから止められないか確認しているようにも見えた。
やがてパンへ手を伸ばし、卵を食べる。
果物も少し。
全部は食べきれなかった。
「ごちそうさまでした」
コーデリアが皿を置く。
「明日は少し減らしましょうか?」
ナディアが尋ねた。
「いいえ。このくらいなら」
「本当に?」
「はい」
「では、食べにくいものがあったら教えてね」
「……分かりました」
翌朝。
コーデリアの前には、昨日と少し違う朝食が用意されていた。
スープが別のものになっている。
前日に比較的よく食べた果物は少し増えていた。
「昨日、こちらの方が食べやすそうでしたので」
給仕をしていた侍女が言った。
コーデリアは、しばらく皿を見つめた。
「覚えていたの?」
「はい?」
「昨日、わたくしが何を食べたのか」
「もちろんでございます」
「……そう」
小さな声だった。
その日の朝食は、昨日より少し多く食べた。
数日すると、料理人本人がやって来た。
「コーデリア様。朝は、塩気のあるものと甘いものなら、どちらの方が召し上がりやすいでしょう?」
「どちらでも」
「それでは困ります」
真顔で返され、コーデリアが目を瞬いた。
「困る?」
「召し上がるのはコーデリア様でございますから」
「……では、温かいものを」
「スープで?」
「はい」
「お味は?」
そこまで聞かれるとは思わなかったらしい。
コーデリアは少し考えた。
「野菜のものが好きです」
「承知いたしました」
翌朝から、小さな器に入った野菜のスープが必ず用意されるようになった。
夜も同じだった。
学園から戻れば、まず着替える。
疲れていれば少し休む。
その後、夕食へ呼ばれる。
温かな料理が並ぶ。
初めの一週間ほど、コーデリアは毎日のように尋ねた。
「今日は何かのお祝いですの?」
そのたび、エドモンドは答えた。
「いいえ」
「来客が?」
「ありません」
「では、なぜこんなに料理が?」
「夕食なので」
コーデリアは納得しきれない顔をする。
三度目には、エドモンドもとうとう言った。
「普通の日にも夕食は食べます」
「毎日?」
「毎日です」
「朝も?」
「毎朝です」
コーデリアが黙った。
エドモンドも、そこで言葉を止めた。
冗談にしていい話ではない。
ただ、パン籠を彼女の方へ少し寄せた。
「もう一つ食べます?」
コーデリアは籠を見る。
「……いただきます」
生活が変わると、身体も少しずつ変わっていった。
一月ほどすると、顔色がよくなった。
以前は青白く見えた頬に、わずかに血色が戻る。
二月目には、乾いていた黒髪にも艶が出始めた。
ナディアが選んだ侍女は、毎朝丁寧に髪を梳き、傷んだ毛先を整え、必要なら少量の香油を使う。
「本当にここまでしていただかなくても」
コーデリアが言えば、
「嫁教育ですので」
と返される。
新しいドレスを仕立てる時も同じだった。
「まだ着られるものがあります」
「寸法が合っていないでしょう?」
「着られます」
「着られることと、合っていることは別よ」
ナディアは取り合わない。
持ってきた衣装の多くは、ひどく痩せた身体に合わせて何度も詰められていた。
仕立て屋が採寸し直し、今の身体へ合うものを作る。
「これも嫁教育ですか?」
コーデリアが尋ねる。
「当然でしょう」
ナディアは真顔だった。
「将来、ヴェルナー伯爵家の夫人となる方に、合わない衣装を着せておくわけにはいきません」
「そういうものですの?」
「そういうものです」
おそらく半分は嘘だった。
だが、コーデリアは途中から抵抗することをやめた。
どうせ何を言っても、
「嫁教育です」
で押し切られるからだ。
そして三月ほど経ったある朝。
研究室で設計図を眺めていたエドモンドは、扉が開く音に顔を上げた。
「失礼いたします」
入ってきたコーデリアを見て、そのまま動きを止めた。
「……何ですの?」
「いや」
「顔に何か?」
「そうじゃなくて」
エドモンドは改めて婚約者を見た。
黒髪も。
オレンジ色の瞳も。
もちろん以前と同じだ。
けれど、まるで違う。
頬には血色があり、肌にも艶がある。
黒髪は光を受けて滑らかに輝いていた。
痩せすぎていた輪郭も少し柔らかくなり、もともとの整った顔立ちがはっきり分かるようになっている。
「君」
「はい?」
「こんな顔でした?」
コーデリアの眉が上がった。
「失礼ですわね」
「すみません。違う、そうじゃなくて」
「では、どういう意味ですの?」
「……綺麗になったな、と」
今度はコーデリアが黙った。
数秒。
視線を逸らす。
「そういうことは、急に仰らないでくださいませ」
「すみません」
「謝るくらいなら最初から言わなければよろしいでしょう」
「でも、思ったので」
コーデリアはさらに顔を背けた。
耳が赤い。
エドモンドはそれ以上言わないことにした。
ただ、ほんの少し嬉しかった。
見た目が美しくなったからではない。
以前のコーデリアなら、褒められても、
「そうですか」
と返して終わっただろう。
今は、照れる。
怒る。
少し笑う。
不満なら不満だと言う。
エドモンドの前で、少しずつ表情を隠さなくなっている。
それが嬉しかった。
学園でも、変化は目立った。
以前は近寄りがたいと避けていた者たちが、急に話しかけてくるようになった。
「コーデリア様、その髪飾り、とてもお似合いですわ」
「ありがとうございます」
「最近、雰囲気が変わりました?」
「生活環境が変わりましたので」
「ヴェルナー伯爵家で過ごしていらっしゃるのですよね?」
「ええ」
そこまで答えると、コーデリアはいつも通り会話を終える。
愛想がよくなったわけではない。
必要以上に人へ迎合するようになったわけでもない。
ただ、以前より少しだけ余裕ができた。
その程度だった。
それでも周囲の印象は驚くほど変わった。
「悪役令嬢のような方だと思っていた」
そんなことまで直接言う令嬢がいた。
昼食時。
食堂で向かいに座った伯爵令嬢が、申し訳なさそうに口にする。
「ごめんなさい。噂を信じていましたの」
コーデリアはスープを一口飲んだ。
「そうですか」
「怒らないの?」
「わたくしに直接何かなさったわけではないでしょう?」
「でも」
「でしたら、次から少しだけ疑えばよろしいのでは?」
相手の令嬢が目を瞬く。
「噂を?」
「ええ」
コーデリアはそれ以上責めなかった。
自分についての話を、一人ずつ訂正して回るつもりもない。
誰が何を信じるかまで、自分には決められない。
ただ。
聞かれたなら、自分の言葉で答える。
それくらいはするようになった。
そんな姉の変化を、ミーナも学園で見ていた。
最初は、不思議だった。
自分が知っているコーデリアと違う。
姉は冷たい。
人が嫌い。
自分も嫌われている。
母は、ずっとそう言っていた。
けれど学園で見る姉は、確かにそっけないものの、誰かを理由なく傷つけたりはしない。
友人から本を借りれば礼を言う。
下級生に道を尋ねられれば教える。
教師とも普通に話す。
時には笑っている。
そして、何より。
以前よりずっと元気だった。
ある日の放課後。
ミーナは廊下の向こうに姉を見つけた。
「お姉様」
コーデリアが振り返る。
「何?」
「今、お時間あります?」
「馬車が来るまでなら」
以前なら、その短い返事だけでミーナは、
やっぱり嫌われている。
と思っただろう。
今は違った。
姉は「話したくない」とは言っていない。
馬車が来るまでならいい、と言っただけだ。
二人は中庭へ出た。
ベンチへ腰を下ろす。
ミーナは、どう切り出せばいいのか分からなかった。
しばらく黙っていると、コーデリアが尋ねた。
「用事があったのではなくて?」
「あります」
「では?」
少し急かすような言い方。
やはり姉らしい。
ミーナは意を決した。
「お姉様は、私のことがお嫌いですか?」
コーデリアのオレンジ色の瞳が、はっきり見開かれた。
「……今さら何?」
「ちゃんと聞いたことがなかったので」
「前にも似たような話をしたでしょう」
「でも、あの時はエドモンド様がいらっしゃいましたから」
コーデリアはしばらく妹を見た。
「好きか嫌いかで言えば、困らされたことは多いわ」
ミーナの顔が曇る。
「勝手に部屋へ入ったでしょう」
「……はい」
「本も触ったわね」
「はい」
「お母様の形見のリボンを欲しがって、泣いたことも」
「覚えています」
「わたくしが勉強している横で、一時間喋り続けたこともある」
「それは……ごめんなさい」
「本当に困ったわ」
「やっぱり嫌い?」
コーデリアが少し呆れた顔をした。
「それであなたそのものを嫌いになるほど、暇ではないわ」
ミーナが顔を上げた。
「では」
「嫌いではない」
はっきりした言葉だった。
ミーナは何も言えなかった。
胸の中に、今まで当たり前だと思っていたものが、音を立てて崩れていく。
「でも、お母様は」
コーデリアの表情が少し硬くなる。
「何と?」
「お姉様は、私を嫌っているって」
「そう」
「お母様のことも嫌いだって」
「そう」
「ずっと」
コーデリアは驚かなかった。
それが、ミーナには怖かった。
「知っていたの?」
「全部ではないわ」
「じゃあ、どうして何も言わなかったの?」
コーデリアは少し考えた。
「あなたは、わたくしとお義母様なら、どちらを信じた?」
ミーナは口を開きかけた。
答えられない。
少し前までなら。
間違いなく母だった。
「……お母様」
「でしょうね」
コーデリアの声音には、責める響きはなかった。
ただ事実を言っただけ。
それが余計につらかった。
「お姉様」
「何?」
「ごめんなさい」
「何について謝っているの?」
「ずっと、お姉様が私を嫌っているって思っていたこと」
「あなたが自分で考えてそう思ったの?」
「……違います」
「なら、これからは自分で確かめなさい」
ミーナが目を上げる。
「誰かが『あの人はこう思っている』と言っても、本人に聞けばいいでしょう」
「はい」
「わたくしも、答えたくないことなら答えないと言うわ」
「そこは答えてくださいませ」
思わず言ってしまった。
コーデリアが目を瞬く。
それから、ほんの少し笑った。
「内容によるわね」
ミーナも笑った。
姉が自分に笑った。
そのことが、ひどく嬉しかった。
そしてその夜。
アッシュフォード伯爵家へ戻ったミーナは、一人で長い間考えていた。
幼い頃からの記憶を、一つずつ辿る。
姉の部屋へ勝手に入った。
「勝手に入らないで」
そう言われた。
本を触った。
「人のものを勝手に触っては駄目よ」
叱られた。
母の形見のリボンが欲しいと泣いた。
「これはあげられないわ」
断られた。
遊んでほしいと何度も追いかけた。
「今日は一人にしてちょうだい」
そう言われた。
そのたび、ユーフェミアが慰めてくれた。
「お姉様はあなたが嫌いなのよ」
「でも責めてはいけないわ」
「私たちは後から来た家族ですもの」
ずっと。
何度も。
言われてきた。
けれど。
「……お姉様から、嫌いって言われてない」
ミーナは小さく呟いた。
一度も。
一度もなかった。
翌朝。
朝食の席で、ユーフェミアがいつものように話しかけてきた。
「昨日、コーデリアを見かけたのでしょう?」
「はい」
「随分きれいになったそうね」
「とても」
ミーナは少し迷ってから続けた。
「お話もしました」
ユーフェミアの手がわずかに止まる。
「そうなの?」
「はい」
「冷たくされなかった?」
以前なら、
「大丈夫でした」
と答えていたかもしれない。
今日は違った。
「お姉様は、私を嫌いではないそうです」
ユーフェミアの笑顔が、ごくわずかに固まった。
「まあ」
「本人に聞きました」
「ミーナ。コーデリアはあなたを傷つけたくなくて、そう言ったのかもしれないわ」
「どうして?」
「だって、あの子は昔から」
「お母様」
ミーナは母を見た。
「お姉様が私を嫌っているって、誰から聞いたの?」
ユーフェミアが黙った。
「お姉様本人?」
「言葉にしなくても分かることはあるでしょう?」
「私は分からなかった」
ミーナは初めて、母の言葉へ首を傾げた。
「お母様に教えてもらったから、そうなんだと思っていたの」
「ミーナ」
「でも、お姉様は一度も言っていない」
ユーフェミアは微笑もうとした。
けれど、いつものような柔らかい笑顔にはならなかった。
その一瞬を。
ミーナは初めて見逃さなかった。
そしてヴェルナー伯爵家では。
コーデリアが研究室の窓辺に、例のビスクドールを座らせていた。
人形の内部にあった古い記録装置は、すでに解析を終えている。
新しい音声を記録する部分は壊れていた。
コーデリアの細い魔力を通しても、それは直らない。
けれど、あの未完成の仕掛けを見て以来。
エドモンドは別のことを考え続けていた。
「何を作っていらっしゃるの?」
コーデリアが設計図を覗き込む。
「まだ秘密です」
「では見せないでくださいませ」
「見ているのは君でしょう」
「机の上に広げている方が悪いのでは?」
「それは無理がありますね」
こんなやり取りも増えた。
エドモンドは設計図を押さえながら笑う。
人形師が作ろうとしたもの。
声を記録する人形。
高価な記録魔道具ほど立派なものは必要ない。
ほんの一言。
短い言葉だけ残せればいい。
十秒ほど。
一つだけ。
新しい言葉を記録すれば、古い言葉は消える。
そんな安価な仕組みなら。
子どもが抱くぬいぐるみに入れられるのではないか。
エドモンドは設計図へ目を戻した。
まだ、コーデリアには言わない。
ただ一つだけ。
普通に売るものとは別に。
彼女のために作りたい大きさが、すでに決まっていた。
窓辺では、古いビスクドールが静かに座っている。
その腕にちょうど収まるくらいの、小さなクマ。
それくらいなら。
きっと似合うだろうと思っていた。




