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悪役令嬢人形譚〜人形は晴天を告げる〜  作者: ひらえす


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第四話 教育という名目


 人形の調査が終わったあとも、コーデリアはしばらくヴェルナー伯爵家に残っていた。


 古い魔道具に触れた際の反応を、もう少しだけ確認したいとオズワルドが言ったからだ。


 もっとも、試すこと自体は大げさなものではない。


 机の上に古い魔道具を置き、コーデリアに触れてもらう。


 反応するかどうかを見る。


 それだけだった。


「これは?」


「反応なし」


「こちらは?」


「少しだけ光りました」


「では、これは」


 コーデリアが古い金属板へ指先を置く。


 しばらく何も起きなかったが、やがて表面に細い文字が浮かび上がった。


 オズワルドが満足そうに記録する。


「やはり、壊れていないものなら反応する可能性があるな」


「全部ではないのですね」


 コーデリアが言う。


「全部なら、むしろ困るよ」


 オズワルドは笑った。


「君は何でも直せるわけではない。ただ、ごく細い魔力を通せる。それだけだ」


「それだけ」


「その『それだけ』が、今まで誰にもできなかった」


 コーデリアは少しだけ黙った。


 自分にできることがある。


 しかも、それを目の前の大人たちが面白がるのではなく、きちんと価値のあるものとして扱っている。


 その状況に、まだ慣れていないようだった。


 エドモンドは少し離れたところで、その様子を見ていた。


「疲れていませんか?」


「大丈夫です」


「本当に?」


「はい」


 いつもの返事。


 そこへ、研究室の扉が開いた。


「そろそろ昼食にしましょう」


 ナディアだった。


「もうそんな時間?」


 オズワルドが時計を見る。


「あなたたちは放っておくと夕方まで続けるでしょう」


 夫を軽く睨み、それからコーデリアを見る。


「コーデリア嬢も、ご一緒に」


 コーデリアが立ち上がった。


「いえ、わたくしはこれで失礼いたします」


 ナディアが不思議そうな顔をする。


「なぜ?」


「調査も終わりましたし」


「昼食は?」


「帰ってから」


「予定があるの?」


「いいえ」


「では食べていきなさい」


 あまりにも自然に言われ、コーデリアが少し困った顔をした。


「ですが」


「婚約者を昼食も出さずに帰したら、うちの評判に関わるわ」


「そこまでお気遣いいただかなくても」


「伯爵家として困るの。付き合ってちょうだい」


 ナディアは微笑んだ。


 そこまで言われると断りにくかったらしい。


 コーデリアは小さく頭を下げた。


「では、お言葉に甘えます」


 昼食は、ヴェルナー伯爵家にとってごく普通のものだった。


 温かいスープ。


 焼いた鶏肉。


 温野菜。


 パン。


 果物。


 特別な客をもてなすための豪華な料理ではない。


 だからこそ、コーデリアが一瞬だけ料理を見つめたことに、エドモンドは気づいた。


 ナディアも、たぶん気づいていた。


 けれど、何も言わない。


「苦手なものはある?」


「特には」


「量が多ければ残しても構わないわ」


「……残しても?」


 ナディアが少しだけ眉を上げる。


「無理して食べる方がおかしいでしょう」


「そうですね」


 コーデリアは静かに食べ始めた。


 最初はゆっくりだった。


 食が細いという話を思い出し、エドモンドも特に気にしていなかった。


 だが、スープを飲み終えたあたりから少し違った。


 パンを食べる。


 肉を食べる。


 野菜も残さない。


 決して急いでいるわけではない。


 ただ、きれいに食べていく。


「パンをもう一ついかが?」


 ナディアが何気なく尋ねた。


 コーデリアの手が止まった。


 ほんの少し迷う。


「……いただいても?」


「もちろん」


 ナディアがパン籠を近づけた。


 エドモンドの中で、何かが引っかかった。


 食が細い。


 家ではほとんど食べない。


 そう聞いていた。


 しかしコーデリアは、普通に食べている。


 むしろ、これまで遠慮していただけに見える。


「学園では、いつも食堂を使っているんですよね」


 エドモンドが尋ねる。


 コーデリアが顔を上げた。


「はい」


「昼食は?」


「食堂でいただいております」


「朝は?」


 その瞬間だった。


 コーデリアの手が止まった。


 ナディアも視線を上げる。


「……朝は、あまり食欲がありませんので」


「何を食べています?」


 コーデリアは黙った。


「コーデリア」


「水を」


 エドモンドは一瞬、聞き間違えたかと思った。


「水?」


「はい」


「それだけ?」


「そうです」


 食卓が静かになる。


 オズワルドも眉を寄せた。


 ナディアは声を荒らげなかった。


 ただ、ごく静かに尋ねる。


「では、夜は?」


 コーデリアは答えなかった。


「コーデリア嬢」


「……黒パンを」


「それから?」


「水を」


 今度こそ、誰も言葉を出せなかった。


 エドモンドは、先ほど彼女がパンをもう一つもらう時に迷った顔を思い出した。


 あれは遠慮ではなかった。


 食べていいのか、確認していたのだ。


「いつから?」


 エドモンドの声が低くなる。


「学園へ通い始めてからです」


「その前は?」


「食事は出ておりました」


「では、どうして学園へ通うようになってから?」


 コーデリアは少し黙った。


「昼は学園でいただけますので」


「だから朝と夜は必要ないと?」


 ナディアが問う。


「そういうことになっています」


 自分で決めた言い方ではなかった。


「誰が?」


 エドモンドが尋ねる。


 コーデリアは視線を落とした。


「お義母様です」


 静かな声だった。


 怒っていない。


 泣いてもいない。


 ただ事実を述べている。


「食費を抑える必要がある、と」


 エドモンドは意味が分からなかった。


 アッシュフォード家は伯爵家だ。


 困窮しているという話は聞いたことがない。


「なぜ君の食費だけ?」


「わたくしは昼に学園で食べますから」


「ミーナ嬢は?」


 コーデリアは答えなかった。


 その沈黙だけで十分だった。


 エドモンドは、前にミーナが楽しそうに話していたことを思い出す。


 学園の食堂でシチューを食べた。


 パンを二つ食べた。


 あの夜、彼女はきっと家でも普通に夕食を食べたのだろう。


 朝も同じ。


 同じ伯爵家の娘で。


 同じ父親の子なのに。


「お父上はご存じ?」


 オズワルドが尋ねる。


「家庭のことは、お義母様に任せていらっしゃいます」


「それは、知っているという意味ではないね」


「……はい」


 ナディアはしばらく黙っていた。


 それから使用人を呼ぶ。


「夕方のお茶も用意しておいて」


「かしこまりました」


「コーデリア嬢が帰る時に、軽食も包んで」


 コーデリアが顔を上げる。


「そこまでしていただくわけには」


「あなたは今日、うちの研究を手伝ったでしょう?」


「触れただけです」


「その『触れただけ』で百年以上動かなかった魔道具が動いたのよ」


「ですが」


「働いた人には、食べてもらいます」


 ナディアの口調は穏やかだった。


「うちの決まりです」


 エドモンドは、そんな決まりがあっただろうかと思ったが、黙っていた。


 コーデリアも、それ以上は断れなかった。


 昼食の後、彼女は再び研究室へ戻った。


 けれどエドモンドは、もう古い魔道具のことなどほとんど頭に入っていなかった。


 コーデリアが少し離れたところでオズワルドと話しているのを確認し、彼は母へ近づいた。


「母上」


「分かっているわ」


「父上」


「私もだ」


 オズワルドの顔から、先ほどまでの研究者らしい楽しそうな色は消えていた。


「これは、婚約者として放っておけません」


 エドモンドが言う。


「当然ね」


「でも、正面からアッシュフォード家へ言っても」


「相手に否定されたら終わる」


 ナディアが言った。


「コーデリア嬢が困るだけよ」


「では?」


「名目が必要ね」


 オズワルドが妻を見る。


「婚礼前の教育か」


「それが一番簡単でしょう」


 エドモンドにもすぐ意味が分かった。


 貴族令嬢が婚約後、婚家で一定期間の教育を受けること自体は珍しくない。


 家によって社交のやり方も、家政も、領地経営も違う。


 ヴェルナー伯爵家の場合は、さらに特殊だった。


 家そのものが魔道具開発に深く関わっている。


 将来、跡取りの妻となるなら、工房や研究部門について知っておく必要がある。


 十分に通る理由になる。


「こちらへ住んでもらう?」


 エドモンドが言った。


「通わせたら意味がないでしょう」


 ナディアの返事は早かった。


「朝も夜も、こちらで食べてもらう」


 結局、そこだった。


「古い魔道具の研究にも協力してもらえる」


 オズワルドも頷く。


「実際、教育としても無意味ではない」


「アッシュフォード伯爵には?」


「私たちから話すわ」


 ナディアが言う。


「あなたが行けば、婚約者を心配した若者が感情的になっている、と受け取られるかもしれない」


「……分かりました」


 反論はしなかった。


 その通りだった。


 数日後。


 ヴェルナー伯爵夫妻は正式にアッシュフォード伯爵家を訪れた。


「嫁教育、ですか」


 バルタザールは少し驚いたようだった。


「ええ」


 オズワルドが答える。


「我が家は一般的な伯爵家とは少々違います。工房や研究部門を抱えていますので、将来エドモンドの妻となる方には、早いうちから家の仕組みを知っていただきたい」


「なるほど」


「それに、コーデリア嬢には古い魔道具への珍しい適性があることが分かりました」


「コーデリアに?」


「ええ。非常に興味深い能力です」


 これは建前ではない。


 むしろ、ヴェルナー家にとってはかなり重要な話だった。


「ですから、しばらく我が家で過ごしていただければと考えております」


 バルタザールは少し考えた。


 そこへユーフェミアが口を挟む。


「でも、あの子は少し気難しいところがありますでしょう? ご迷惑をおかけするのでは」


 ナディアはにこやかに笑った。


「まあ。それも含めて嫁教育ですもの」


「食も細い子ですし」


「でしたら、食べられるものを探しましょう」


「朝もなかなか食べませんの」


「そうなのですね。では朝食の取り方も、こちらで見ておきますわ」


 ユーフェミアの笑みが、ほんの少しだけ硬くなった。


「そこまでしていただかなくても」


「婚約者ですもの」


 ナディアは変わらず微笑んでいる。


「これから家族になる娘を、うちで大切にするのは当然でしょう?」


 その場で反対する理由は、もうなかった。


 バルタザールも、


「それほど言っていただけるなら」


 と了承した。


 コーデリア本人に話が伝わったのは、その日の夕方だった。


「ヴェルナー伯爵家で、暮らす?」


 珍しく、はっきりと驚いていた。


「婚礼前の教育だそうです」


 ユーフェミアが説明する。


「先方が、ぜひにと」


「期間は?」


「まずは数か月ですって」


「学園は?」


「これまで通りで構わないそうよ」


 コーデリアはしばらく黙った。


「……そうですか」


 それだけだった。


 けれど、自室へ戻ってから。


 コーデリアは窓辺のビスクドールを見た。


 あと数日で、この部屋を離れる。


 人形も連れていくつもりだった。


「どうなるのかしらね」


 もちろん、人形は答えない。


 その頃。


 ヴェルナー伯爵家では、ナディアが使用人たちへ次々と指示を出していた。


「朝食は、必ず本人に希望を聞いて」


「はい」


「無理に食べさせなくていいわ。でも、何も出さないのは駄目」


「承知しました」


「夕食も同じ。学園から帰った時に空腹なら、先に軽いものを出して」


「はい」


「服は?」


「到着後、採寸する予定です」


「肌着も確認して」


「かしこまりました」


「髪の手入れを担当する者も決めておいて」


 エドモンドが横から口を挟んだ。


「母上」


「何?」


「これは嫁教育ですよね?」


「そうよ」


「ずいぶん手厚い気がしますが」


 ナディアは息子を見る。


「何か問題が?」


「ありません」


「ならいいでしょう」


 どう考えても、もう半分以上は保護だった。


 数日後。


 コーデリアは小さな荷物と、あのビスクドールを抱えてヴェルナー伯爵家へやって来た。


 この時の彼女は、まだ知らなかった。


 朝になれば、当たり前のように食事が出る。


 夜になっても、温かい料理がある。


 疲れていれば休んでいいと言われる。


 必要なものがあれば、欲しいと口にしていい。


 髪を整えてもらうことも。


 自分に合う服を作ってもらうことも。


 誰かが自分のために何かをするたび、理由を探さなくていいことも。


 そんな生活が、当たり前の家もあるのだということを。


 そしてヴェルナー家の人間たちも、まだ知らなかった。


 ほんの数か月。


 きちんと食べさせて。


 眠らせて。


 手入れをしただけで。


 彼らの息子の婚約者が、見違えるほど美しい令嬢へ変わることを。

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