第三話 人形師はためらわない
数日後。
コーデリアは、例のビスクドールを抱えてヴェルナー伯爵家を訪れた。
婚約者の家を訪ねること自体は、もう珍しいことではない。
けれど今回は茶会ではなく、人形の調査が目的だった。
玄関まで迎えに出たエドモンドを見ると、コーデリアはいつも通り、わずかに頭を下げた。
「ごきげんよう、エドモンド様」
「ごきげんよう。連れてきてくれたんですね」
「そのために参りましたので」
腕の中には、古いビスクドールがある。
白い肌に硝子の瞳。
古びた衣装。
あれほど不気味な噂をまとっているというのに、コーデリアに抱かれている姿を何度か見るうち、エドモンドにも妙に見慣れたものになっていた。
「人形師はもう来ています」
「ずいぶんお早いのですね」
「父に話したら、その日のうちに手配されました」
「さすが魔道具開発のお家ですわね」
「気になるものを放置できない人間が多いだけです」
コーデリアは何も言わなかったが、ほんの少し口元が動いた。
研究棟の一室には、すでに年配の人形師が待っていた。
中央の大きな作業台には柔らかな布が敷かれ、細かな道具が整然と並べられている。
「こちらが例のお人形ですか」
「はい」
コーデリアがビスクドールを差し出す。
人形師はまず両手で受け取り、何も言わず全体を眺めた。
顔。
髪。
首。
肩から腕。
腰。
脚。
関節。
長い年月を経た人形を見る目は、エドモンドが魔道具を見る時とよく似ていた。
美しいかどうかではなく、どこがどう作られているのかを見ている。
「古いものですね」
「ええ」
「ゴムは一度直されていますか?」
コーデリアがわずかに目を上げた。
「分かりますの?」
「張り方が新しいですから」
「わたくしが直しました」
「ご自分で?」
「本を読みました」
人形師は少しだけ感心したように人形を見る。
「きれいに張れていますよ」
「ありがとうございます」
エドモンドは二人の会話を横で聞きながら、少し意外に思っていた。
コーデリアが自分で人形のゴムまで直していたことは聞いていたが、専門家から見ても問題のない程度にはできているらしい。
「腹部が光る、と伺っています」
人形師が本題へ移る。
「はい。夜の方が分かりやすいのですが」
「まず確認しましょう」
衣装を脱がせる。
下着も外す。
そこに迷いは一切なかった。
エドモンドは前回、自分で人形の下着をずらして腹部を確認した時の妙な気まずさを思い出した。
人形師には、そんなものは存在しないらしい。
仕事である。
服が邪魔なら脱がせる。
実に単純だった。
「この辺りです」
コーデリアが下腹部を示した。
室内を少し暗くする。
人形師が見守る中、コーデリアがビスクドールへ触れる。
数秒後。
白い下腹部の奥から、淡い光がにじんだ。
「なるほど」
人形師が顔を近づける。
「内部ですね」
「やはり?」
「表面に何か塗ってあるわけではありません」
再び灯りをつける。
人形師は人形を作業台へ寝かせた。
「では、分解します」
「お願いします」
コーデリアの返事は即座だった。
エドモンドが彼女を見る。
「平気なんですね」
「何がです?」
「分解されるの」
「中を調べるのでしょう?」
「そうですが」
「なら、外しますわよね」
人形師まで不思議そうにエドモンドを見た。
「調べるのに外さない方が難しいですよ」
「……そうですよね」
また自分だけがおかしなことを言っている。
人形師は慣れた手つきでゴムを緩め、四肢を外していった。
頭部。
腕。
脚。
それぞれが柔らかな布の上へ順序よく置かれる。
コーデリアはその横で平然と作業を眺めている。
「このゴムなら、まだしばらく大丈夫ですね」
「本当ですの?」
「ええ。ご自分で張り直されたのなら、十分ですよ」
「少し強すぎるかと思っていたのですけれど」
「このくらいなら問題ありません」
エドモンドは並べられた頭や手足と、真剣にゴムの張力について話し合う二人を交互に見る。
なるほど。
人形に慣れている者にとっては、これが普通なのだろう。
問題は、その先だった。
「外から見える範囲には、特に何もありませんね」
人形師が胴体を持ち上げる。
古い人形だけあり、胴体部分もいくつかの構造に分かれている。
胸部。
腹部。
そして下腹部。
それぞれがきれいに接合され、表面から見ただけでは内部へ何かが仕込まれているようには見えなかった。
「ここを開けます」
人形師が接合部を確認する。
古い糊が使われていた。
「糊?」
エドモンドが尋ねる。
「ええ。胸部と腹部、それから下腹部の接合部分ですね。古いものですから、慎重にはがします」
専用の道具を使い、時間をかけて糊を緩めていく。
無理に引けばビスクを傷める。
急がず、少しずつ。
コーデリアも黙って見守っていた。
やがて胸部が外れる。
続いて腹部。
最後に、下腹部の接合部分が開いた。
そこで。
人形師の手が止まった。
「……これは」
エドモンドとコーデリアが同時に覗き込む。
下腹部の表側。
内側から見れば、ちょうどビスクの壁へ沿う位置に。
薄い機構が、ほとんど隙間なく貼りつけられていた。
表面の曲線に合わせるように作られ、ぴったりと密着している。
細い金属線。
小さな結晶。
薄い板状の部品。
そして、淡い光を発していたらしい小さな部分。
外から見ただけでは分からない。
四肢を外してゴムを張り直した程度でも、見える場所ではない。
胸部と腹部、下腹部を接着している古い糊を実際にはがし、胴体そのものを開かなければ辿り着けない位置だった。
「こんなところに……」
コーデリアが呟いた。
珍しく、はっきり驚いている。
しばらく機構を見つめた後、小さく言った。
「気づきませんでした」
人形師が頷く。
「これは仕方ありませんよ」
「でも、ゴムを直した時に、中も少し見たのです」
「その程度では見えません」
人形師は下腹部を傾け、貼りつけられた機構を示した。
「ご覧の通り、表側へぴったり沿わせてあります。しかも外から覗き込む角度では、ほとんど死角になりますからね」
「では、最初から隠すつもりで?」
「少なくとも、簡単に取り外すことを前提にした作りではなさそうです」
エドモンドも近くから確認した。
確かに巧妙だった。
後から無理に押し込んだようには見えない。
人形を組み立てる段階で、この位置に収めたのだろう。
「人形の仕掛けではありませんね」
人形師が言う。
「私の領分はここまでです」
「魔道具ですか?」
「そこはあなた方の方が詳しいでしょう」
それから先は、ヴェルナー家の領分だった。
父オズワルドも呼ばれ、研究者たちが作業室へ集まってくる。
機構は人形から無理に剥がさず、まずそのままの状態で調べることになった。
「古いな」
オズワルドが目を細める。
「現代の構造とはかなり違う」
「記録系に見えませんか」
エドモンドが言う。
「私もそう思う」
細かな部品を一つずつ確認する。
小さな結晶部分。
極端に細く作られた魔力経路。
そして、音を受け取るためらしい機構。
「音声記録か?」
オズワルドが呟いた。
コーデリアが顔を上げる。
「声を残すためのもの?」
「おそらく」
エドモンドが答える。
「ただし、完成品には見えません。試作品でしょうね」
「では」
コーデリアがビスクドールを見る。
「持ち主の本心を語る、という噂は」
「この仕掛けから始まったのかもしれません」
人形へ声を記録する。
それを後から再生する。
仕組みを知らない人間が見れば、人形が喋ったように見える。
さらに持ち主が自分の声を吹き込んでいたなら。
人形が持ち主の言葉を覚える。
やがて。
持ち主の秘密を覚える。
そして最後には。
持ち主の本心を語る。
その程度の変化なら、人の噂として不自然ではなかった。
「では、どうしてわたくしが持つと光るのでしょう」
コーデリアの問いに、エドモンドが頷く。
「次はそこです」
まずエドモンドが魔力を通してみる。
反応しない。
オズワルドも試す。
変化なし。
研究者が何人か試しても、淡い光は戻らなかった。
「コーデリア」
「はい」
「触ってみて」
彼女が下腹部へ貼りつけられた機構の近くへ指を添える。
数秒後。
淡い光が灯った。
室内が静かになる。
「やはり君だ」
エドモンドが言う。
「でも、わたくしは何もしておりません」
「意識していないだけです」
オズワルドが測定器を確認する。
「非常に細い魔力が流れている」
「魔力?」
「そうだ」
「わたくしには魔術が使えません」
「魔術を発動できることと、魔力を通せることは別の話だよ」
オズワルドは測定値を見ながら続けた。
「しかも、かなり特殊だ」
「特殊?」
「細い。驚くほどに」
エドモンドも横から覗き込む。
「普通の術者がこれを動かそうとすると、魔力が強すぎるんでしょう」
「強すぎると、動かない?」
「細い管へ大量の水を一気に流そうとしているようなものです」
コーデリアが自分の指先を見る。
「では、わたくしは」
「ほんの少しだけ、正確に通している」
「それで、この子が光った」
「おそらく」
コーデリアはしばらく黙っていた。
魔術が使えない。
ずっとそう思っていたのだろう。
突然、自分には別の形の適性があると言われても、すぐには実感できないらしい。
そこでオズワルドが、ふと思い出したように顔を上げた。
「待て」
「父上?」
「保管庫に一つある」
「何が?」
「昔から動かない魔道具だ」
ヴェルナー伯爵家には、代々集められてきた古い魔道具がいくつも保管されている。
用途が分からない。
起動方法も分からない。
壊れているようにも見えない。
それでも誰が魔力を通しても反応しないため、長年そのままになっているものもあった。
オズワルドが持ってきたのは、黒ずんだ金属製の小箱だった。
「百年以上、動いていない」
「壊れているのでは?」
コーデリアが尋ねる。
「そう思っていた」
オズワルドは小箱を卓上へ置いた。
「触ってもらえるかな」
「わたくしが?」
「ああ」
コーデリアは少し躊躇した。
「壊したら」
「これまで何をしても動かなかったんだ。まずは触れるだけでいい」
彼女は指先を小箱へ置いた。
何も起きない。
数秒。
「何もしなくていい」
エドモンドが言う。
「そもそも何をすればいいのか分かりません」
「それでいいんです」
コーデリアは困ったように、小箱の表面をゆっくり撫でた。
カチリ。
小さな音が響いた。
全員が動きを止める。
蓋が、わずかに浮いていた。
「……開いた」
オズワルドが呟く。
慎重に蓋を持ち上げる。
中には、何枚もの薄い結晶板が収められていた。
一枚を取り出し、コーデリアに触れてもらう。
間もなく。
知らない男の声が、室内へ流れた。
「第十四回、北部遺跡調査。第三層にて石碑を発見――」
誰も言葉を発しなかった。
やがてオズワルドが低く呟く。
「記録魔道具だ」
百年以上。
用途不明とされていたもの。
壊れていたのではなかった。
ただ、起動させるために必要な魔力が、極端に細かったのだ。
コーデリアは自分の手を見ている。
「わたくしが、動かした?」
「そうです」
エドモンドが答えた。
「でも、何でも動かせるわけではありません」
「ええ」
「壊れているものは無理です。君が直しているわけではない」
「ただ、魔力を通すだけ」
「そう」
その説明なら納得できたらしい。
コーデリアは小さく頷いた。
「それなら、分かりやすいですわ」
その後、人形に仕込まれていた音声記録機構の解析も続けられた。
発光する部分は生きている。
しかし、新しい音声を記録する部分はすでに壊れていた。
コーデリアが魔力を通したところで、それが修復されることはない。
「何か残っているのですか?」
コーデリアが尋ねる。
「一件だけ」
研究者が答えた。
室内に少し緊張が走った。
持ち主の本心を語る人形。
秘密を暴く。
夜中に囁く。
そんな噂を何十年も背負ってきた人形の中に、実際の音声が一つだけ残されている。
何が入っているのか。
研究者が再生装置を調整した。
小さな雑音。
そして。
「本日は晴天なり」
男の声が流れた。
沈黙。
「……」
もう一度。
「本日は晴天なり」
それだけだった。
コーデリアは、しばらく人形を見ていた。
「……終わりですの?」
「終わりです」
「本心は?」
エドモンドは口元を押さえた。
「少なくとも、その日は晴れていたようですね」
コーデリアの肩が揺れた。
「ふ……」
最初は咳かと思った。
違った。
笑っている。
「本日は……晴天なり……」
口元を手で覆い、それでも笑いを堪えられない。
オレンジ色の瞳が細くなり、普段は固く結ばれている唇が柔らかくほどける。
エドモンドは、その顔を初めて見た。
コーデリアは、こんなふうに笑うのか。
そして同時に、別の疑問が胸に浮かんだ。
これほど普通に笑える少女が。
なぜアッシュフォード伯爵家では、いつもあれほど表情を消していたのだろう。
人形の謎は、一つ解けた。
持ち主の心を読む呪いの人形ではない。
誰かが、人形へ声を残そうとした試作品。
そして長い年月を越えて残っていたのは。
「本日は晴天なり」
という、ごく平凡な試験音声だけだった。
人形について分かったことは増えた。
けれど。
エドモンドにとっては、婚約者コーデリアの方が、まだずっと謎の多い存在だった。




