第9章 片手で踊るシンデレラ
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初夏の夜の静寂が、三人の少女たちが身を寄せて暮らす木造アパートの、手狭な六畳間に満ちていた。
部屋の片隅に置かれた小さな扇風機が、首を振りながらカタカタと微かな音を立て、生ぬるい空気をかき混ぜている。中央の折りたたみテーブルの上には、書き込みの形跡で端がボロボロに擦り切れた一冊の大学ノートと、いくつかの消しゴムのクズが転がっていた。
「……ううん、やっぱりここ、マイクを持つ左手の位置が安定しないな。これじゃあ、ハルカが落ちサビでブレスを入れるときに、顎のラインが完全に隠れちゃう」
ユイは、自分の部屋の薄い壁に貼られた全身鏡の前に立ち、スウェット姿のまま、何度も何度も自身の左手を顎の下から胸元へと滑らせていた。彼女の右手は、中身の入っていないプラスチック製のサインペンを、一本のマイクに見立てて親指で強くホールドしている。
時刻は午前三時。あの渋谷WWWでの『撮可タイム』を起点とした爆発的なバイラル化から、ちょうど一週間が経過していた。LUMINAを取り巻く世界の景色は、文字通り天と地がひっくり返るほどの激変を遂げていたが、彼女たちが生活するこの狭い部屋の、畳の擦り切れた匂いと、日々の困窮の生々しさは、何一つ変わってはいなかった。
むしろ、世界からの注目度が高まったことで、彼女たちの精神的な負荷は限界に達しつつあった。毎日数千人単位で増え続けるフォロワーの数字。見知らぬ言語で埋め尽くされるコメント欄。その巨大な濁流のプレッシャーを受け止めながら、彼女たちは今なお、早朝のパン屋や居酒屋のシフトに入り、時給千百円の労働をこなさなければ、明日の食いぶちすら失ってしまう現実の中にいた。この二重生活の歪みこそが、今の彼女たちを最も静かに、しかし確実に蝕んでいる正体だった。
「ユイ、まだやってるの? 明日、っていうかもう今日だけど、朝から事務所で青木さんとミーティングだよ。少しは寝ないと、またレッスンの途中で足がつるよ」
ハルカが、布団の中から頭だけを覗かせて、心配そうに声をかけた。隣の敷布団では、極度の疲労に達したリナが、倉庫作業での立ち仕事の痛みに耐えるようにして、横を向いたまま微動だにせず深い眠りに落ちている。三人が同じ部屋で息をひそめて眠るこの光景も、あとどれくらい続けられるのだろうかと、私は後にこの夜のことを思い返すたび、ふとそんな予感に襲われることになる。
「ハルカ、ごめんね。でも、どうしてもここだけは妥協したくないの」
ユイは鏡の中の自分の瞳を見つめ、前髪を強くかき上げた。その表情には、普段のバラエティ担当としてのあどけなさは消え、一人の「表現者」としての、冷徹なまでの執念が宿っていた。
「青木さんが、デジタルの闇の中に、命がけで私たちのための『窓』をこじ開けてくれた。リナのあの笑顔が、アルゴリズムっていう神様に届いた。……次は、私の番。私が、このスマートフォンの狭い四角い画面の中で、LUMINAが一番強く、世界で一番可愛く見える『武器』を完成させなきゃ、私たちはまたあの地下のどん底に逆戻りしちゃう」
その一言に、ハルカは布団の中で小さく身じろぎした。真っ暗な部屋の中、彼女の表情までは見えなかったが、一瞬、何かを言いかけて、それを飲み込むような短い沈黙があった。
「……そっか。分かった。でも、無理はしないでね」
ハルカはそれだけ言うと、また布団に潜り込んだ。その声のトーンには、いつもの励ましとはわずかに違う、微かな硬さが滲んでいたが、暗闇の中でユイはそれに気づかなかった。
天井を見つめながら、ハルカは自分の中に生まれた小さな感情の名前を、まだうまく言い当てられずにいた。ユイの熱意も、リナの努力も、心から誇らしい。それなのに、二人が次々と新しい役割を見つけていく中で、自分だけが「歌う」という、これまでと変わらない場所に留まっているような気がしてしまう。その感覚が、嫉妬なのか、焦りなのか、それとも単なる寝不足のせいなのか、ハルカ自身にもまだ判断がつかなかった。
ユイの言う「武器」とは、マネージャーである私が彼女に課した、新曲『モノクローム・シティ』のサビの振付のモディファイ(修正)作業のことだった。
地下アイドルの多くは、プロの振付師が作ったコレオグラフィーをそのまま忠実に踊る。それが洗練されていればいるほど、舞台上での見栄えは良くなるからだ。しかし、それらの振付の多くは、「広い劇場のステージで、全身をダイナミックに使って観客を魅了する」という、従来のライブパフォーマンスを前提に設計されている。
スマートフォンの画面という、縦長で、わずか数インチの歪なフレームの中で消費される現代のデジタルマーケティングにおいて、その「広さを前提とした振付」は、裏目に出ることが多かった。激しく動き回ればカメラの画角から外れて手ブレの原因になり、全身を映しようとしてカメラを引きすぎれば、メンバー個人の表情や、衣装の繊細なディテールがすべて潰れてしまう。
「15秒のスマートフォンの世界で、人々の親指をフリーズさせるための、専用の振付が要る」
私はユイの、現役のアイドルだからこそ気づくことのできる「視覚的な直感」にすべてを賭けた。そしてユイは、その私の無茶振りに等しい要望に対して、自身の睡眠時間をすべて削ることで、真っ向から答えようとしていたのだ。
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ユイが大学ノートを開き、手書きのフォーメーション図と矢印の羅列を見つめる。彼女の頭の中には、元アイドルの女性振付師たちのインタビューや、彼女たちが手掛けたバズ楽曲の構造分析が、完璧なロジックとして叩き込まれていた。
「……普通のダンスプロの先生たちは、体幹の美しさや、ステップの複雑さで芸術性を高めようとする。でも、それじゃダメなんだ。私たちがステージの上でやらなきゃいけないのは、激しいダンスを踊りながら、同時に『安定した生歌』を響かせること。TwitterやTikTokに毎日上がる、ファンのスマホのカメラに向かって、一瞬の隙もなく『完璧なレス』を送り続けること」
ユイはペンを強く握り締め、ノートの余白に、激しい筆致で「アイドルのための三原則」を書き殴った。
一、歌唱時の激しい呼吸でも、絶対にブレない重心移動であること。二、マイクを持つ右手(あるいは左手)を固定したまま、残された片手だけで、最大の喜怒哀楽を表現できること。三、スマートフォンのカメラがバストアップ(胸から上)で捉えたとき、画面のフレームの端に、最も美しい「手の軌道」と「顔の角度」がピタリと収まること。
「片手で踊る……そう、片手だけでいいんだ」
ユイの脳内で、バラバラだったピースが、パチパチと音を立てて一つに繋がっていく。新曲『モノクローム・シティ』のサビの歌詞は、都会の孤独に押し潰されそうな少女が、夜の街で一筋の光を探し求める、という切ないテーマだった。
プロの振付師であるERI先生が作った元の振付では、サビの瞬間に両腕を大きく広げ、ステージを左右に激しくスキップする構成になっていた。しかし、これでは歌唱中のハルカの息が完全に上がり、生歌のクオリティが著しく低下する。さらに、ファンのスマホのカメラは彼女たちの動きを追いきれず、画面は激しくブレてしまう。
「ここを、こう変える」
ユイは鏡の前で、左足の重心を低く落とし、身体の軸を完全に中央で固定した。右手でマイクを口元にしっかりとホールドしたまま、空いた左手だけを、都会のビルの隙間を縫うようにして、鋭く、しかし妖艶に頭上へと伸ばす。そして、人差し指と中指で「光の矢」を作るようにして、自分の顎のラインから、カメラのレンズの奥に向かって、まっすぐに視線を突き刺す。
ワン、ツー、スリー、フォー。
足を激しく動かさない代わりに、首の角度、肩の入れ方、陰影を意識した顎の引き方、そして指先の細やかなニュアンスの明滅だけで、都会の夜の「儚さ」と「強さ」を完璧に表現してみせる。身体の軸がブレないため、ハルカは喉の筋肉を百パーセント歌唱コントロールに割くことができ、ピッチは限界まで安定する。さらに、ファンの構えるスマートフォンの画面の中には、一切の手ブレなしで、LUMINAのメンバーの「最も美しいバストアップの構図」が、完璧な絵画のように収まり続けることになる。
「できた……これなら、いける!」
ユイはノートを閉じ、胸に強く抱きしめた。窓の外を見ると、都会の空が、静かに、しかし確かな夜明けの紫色のグラデーションに染まり始めていた。
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数時間後の午前十時、スターライトエージェンシーの狭い事務所。打ち合わせスペースのテーブルの上には、ユイが持ち込んだノートと、私が用意したプロモーションのタイムラインシートが広げられていた。
私、ハルカ、そして目を覚ましたリナの三人は、ユイがスタジオの床の上で実際に踊ってみせた「モディファイ振付」のデモンストレーションを、言葉を失ったまま凝視していた。
「……すごいです、ユイ」
ハルカが、最初に感嘆の声を漏らした。「この振付なら、サビのところで全然息が上がらない。それどころか、一番声を張りたい高音のロングトーンの瞬間に、重心を完全に下に落とせるから、いつもより何倍も太い声がハコに響くと思う」
リナも、普段の冷徹な分析の目でユイの指先の動きをトレースし、小さく頷いた。「……無駄な左右の移動が、完全にゼロになってる。カメラを持っているカメコの人たちからしても、被写体の軸が動かないから、シャッタースピードを少し落としてもピンボケしない。これ、バズの先にある『二次創作(真似して踊る動画)』を誘発するための配慮として、完璧な設計です」
倉庫での荷物の重心移動と、ダンスの重心制御には通じるものがあるのかもしれない、と私はふと思った。リナの分析の的確さは、いつも彼女自身の身体で覚えた知恵から来ているように見えた。
「リナちゃんにそこまで褒められると、なんか照れる」
ユイが頬を赤らめながら笑うと、リナはふいと視線を逸らした。
「……褒めてるんじゃなくて、分析してるだけ」
「それが一番の褒め言葉だよ、リナちゃんの場合」
ハルカがくすりと笑い、その場の空気が少しだけ和んだ。だが、私はハルカのその笑顔の奥に、昨夜感じたのと同じ、ほんの微かな翳りがまだ残っているのを見逃さなかった。誰よりもリーダーとしての自覚が強い彼女は、今、自分の役割が「歌」と「精神的な支柱」であることに、確かな誇りを持っている。だが、ユイが振付という新しい武器を手にし、リナがバズの顔として世界に見つけられていく中で、自分の立ち位置がどこにあるのか、静かに測り直しているようにも見えた。私はその小さな変化に気づきながらも、今はまだ、それに触れるべき時ではないと判断した。
「ユイ、素晴らしいわ」
私はユイの前に歩み寄り、彼女の細い両肩を強く掴んだ。「あなたが夜を徹して考えてくれたこの振付は、単に『可愛いダンス』じゃない。現代のデジタルマーケティングの導線に、完璧に適合した『最高水準の工業製品』よ。……ただ、これを正式に採用するためには、私たちが乗り越えなければならない、もう一つの『大人の壁』があるわ」
私の言葉に、メンバーたちの表情が引き締まった。大人の壁――それは、この新曲の元の振付を手掛けた、プロの振付師であるERI先生の「プライド」と「メンツ」だった。
弱小事務所のインディーズアイドルが、プロのクリエイターが納品した作品に対して、後から勝手に手を加えて直す。それは芸能界のパワーバランスにおいて、重大なマナー違反であり、最悪の場合、クリエイター側からの法的トラブルや、業界内での信用失墜に繋がりかねない行為だった。
正直に言えば、これは私自身の見通しの甘さでもあった。本来なら、ユイに振付の改変を持ちかけた時点で、私からERI先生に一報入れておくべきだった。しかし、あのバイラル化の熱狂の渦中で、私はスピードを優先するあまり、その根回しを完全に後回しにしていた。今こうして、ユイの努力の結晶を目の前にして初めて、自分がどれだけ危うい橋を渡らせていたのかに気づかされた。
「社長は『大人のメンツが潰れる』って難色を示しているわ。でも、市場のルールが変わったのであれば、プロダクトをそのルールに合わせて最適化するのは、マネジメントとして当然の判断よ。……みんなはスタジオで、ユイの振付の精度を限界まで高めておいて。ERI先生への説明と交渉は、私が直接、ロジックを武器に戦ってくるから」
「青木さん……お一人で大丈夫ですか?」ハルカが心配そうに私を見つめる。
「大丈夫よ。私はあなたたちのマネージャーよ? 泥をかぶるのも、大人の理不尽を跳ね返すのも、私の仕事の一部。……それに、今回の件は、私が事前の段取りを怠ったのが原因でもある。この後始末は、私がつけなきゃいけない」
私はそう言い添えたが、メンバーたちは誰も、私の失敗を責めるような表情は見せなかった。それが、かえって私の胸を重くした。
私はノートパソコンとユイの大学ノートをカバンに詰め込むと、重い足取りながらも、確かな闘志を胸に、ERI先生が待つ六本木のダンススタジオへと向かった。
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六本木のスタジオのロビー。ガラス張りの向こうで、ERI先生はきついタバコの匂いを漂わせながら、冷徹な目で私を迎えた。
「――つまり、私の作った振付じゃ、今のTikTokでは古くてバズらないから、メンバーのユイが作り直した振付に変えたい、ってこと? 青木さん、あなた随分と舐めた口を叩くのね」
ERI先生は、私が差し出したユイのノートに目を落とすことすらせず、冷たく言い放った。その声には、長年この業界の第一線で戦ってきたプロとしての、絶対的なプライドと激しい不快感が漲っていた。
「私の振付は、舞台全体のフォーメーションの美しさと、10代の肉体が最もダイナミックに躍動する瞬間を計算して作ってあるの。それを、スマホの画面に収まりにくいからって理由だけで、素人の女の子が小手先でこねくり回した動きに変えるなんて、クリエイティブに対する冒涜よ。大類社長にも言っておきなさい。二度とLUMINAの仕事は引き受けないって」
スタジオのロビーに、張り詰めた、凍りつくような沈黙が流れた。受付のスタッフが、腫れ物に触るような視線をこちらに向けている。
私は深く息を吸い込み、逃げ出しそうになる心を無理やり踏みとどまらせた。ここで私が引き下がれば、ユイのあの徹夜の努力も、LUMINAが次のステージへ進むための最大の武器も、すべてが闇に葬られてしまう。
「ERI先生、まず、事前にご相談もせずメンバーに振付の変更作業を進めさせてしまったこと、心よりお詫び申し上げます。これは完全に私の判断ミスです」
私はまず深く頭を下げ、それから顔を上げた。
「ですが、私は先生のクリエイティブを冒涜するためにここへ来たのではありません。むしろ、先生の作られた『モノクローム・シティ』という楽曲の芸術性を、現代の歪な市場で『正当に評価させるため』に頭を下げに参りました」
私はカバンからノートパソコンを開き、渋谷WWWでのバイラル化以降、私が毎日記録し続けている最新の『LUMINA デジタル成長記録』の、生々しいグラフと数値を先生の前に提示した。
「これを見てください。先週の渋谷WWWでのバイラル化以降、LUMINAのアカウントを訪れるユーザーの滞在時間は、平均してわずか3秒から4秒です。彼らは、完璧に洗練されたMVや、全体の美しいフォーメーションを見る前に、タイムラインをスクロールしてしまうんです。現代の若者、特にスマートフォンの狭いフレームの中でアイドルを消費する層にとって、最初の3秒で『視線が固定されるフック』がなければ、どれほど優れた芸術も、存在していないのと同じになってしまうんです」
ERI先生は、パソコンの画面に映る「350人から数万人へと急上昇したフォロワー数の直線グラフ」を、忌々しそうに、しかしプロのエンターテイナーとしての鋭い目で見つめた。
「ユイが考案したこのモディファイ案は、先生の作った美しいフォーメーション移動の『前後』を繋ぐための、いわば『デジタル専用のプラグ(接合点)』なんです。サビのこの瞬間だけ、あえて身体の軸を固定し、カメラへの視線を100%シンクロさせる。そうすることで、ライト層の視線をバケツの中に完全に溜め、曲の後半にある先生本来の素晴らしいダイナミックなダンスパートまで、ユーザーの関心を引き止めることができるんです。これは、先生のクリエイティブを否定するものではなく、先生の作品を世界に届けるための、現代のロジックに基づくマーケティングなんです」
私は立ち上がり、ERI先生に向かって、これまでの人生で最も深く、直角に近い角度で頭を下げた。
「先生のメンツを潰したこと、手続きを後回しにして勝手にメンバーに動かさせたこと、そのすべての非礼は、この私がいくらでも泥をかぶります。業界内でどのようなペナルティを受けても構いません。ですが、お願いです。LUMINAの未来のために、この『片手で踊るサビ』を、先生の作品の一部として公式に採用することを、認めていただけないでしょうか」
私の、床板に届きそうなほどの長い一礼。ロビーには、ただ加湿器のシューシューという音だけが響いていた。
数秒、あるいは数分に思える沈黙の後、ERI先生の細い指先が、テーブルの上のユイのノートを、パラパラとめくる音が聞こえた。
「……マイクの持ちやすさと、生歌のピッチの安定度、ね」ERI先生の声から、先ほどの刺々しい感情が、微かに消えていた。「このユイって子、バカなくせに、アイドルの肉体が現場で受ける負荷のことは、よく分かってるじゃない。……青木さん、頭を上げなさい」
私はゆっくりと顔を上げた。ERI先生は、タバコの煙を天井に向けて細く吐き出し、ふっと不敵な笑みを浮かべていた。
「私の名前は、クレジットから外さないこと。それから、来月の恵比寿リキッドルームのワンマン、私の席、一番良い場所に関係者席として確保しておきなさいよ。……そのユイの小生意気な振付が、本当にスマホの画面の中で機能するかどうか、この目で確かめてあげるから」
「――っ! ありがとうございます、ERI先生!」
胸の奥の、張り詰めていた塊が、一気に熱い喜びとなって爆発した。大人のメンツとプライドが渦巻く芸能界の壁を、LUMINAの持つ現場のリアリティと、私の構築したロジックの力で、確かに突破した瞬間だった。
スタジオを出て、駐車場に向かう道すがら、私はふと足を止めた。今回の交渉は、確かに私の言葉が功を奏した。だが、それ以前に、私自身の根回し不足がなければ、そもそも起きる必要のない衝突だったのだ。ロジックで押し切ることに慣れすぎて、事前の確認という地味な手間を軽視していなかったか。その自問は、勝利の余韻の中でも、小さな棘のように胸に残り続けた。
ハイエースに乗り込み、エンジンをかける前に、私はスマートフォンを取り出し、大類にも簡単な経緯を報告するメッセージを送った。文面を打ちながら、ふと「今後は事前確認を徹底します」という一文を付け加えるべきかどうか迷ったが、結局それは書かずに送信ボタンを押した。反省は自分の中だけに留めておけばいい、そう自分に言い聞かせながら。だが、この判断もまた、誰にも本音を見せない私のいつものやり方の延長に過ぎないのかもしれなかった。
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事務所に戻った私は、すぐにスタジオで待つメンバーたちの元へとハイエースを走らせた。私の報告を聞いた瞬間、ユイはその場に泣き崩れ、「よかった……ERI先生、怒ってなかったんだ……」と、ハルカの胸に顔を埋めて大粒の涙を流した。リナも、その小さな唇を安心したように緩めていた。
「さあ、大人の許可はすべて取れたわ。ここからは、この『新・モノクローム・シティ』を、一分一秒の狂いもなく体内に染み込ませる、本当の同期作業よ。位置について!」
「はい!」
三人の凛とした声が、スタジオの鏡に反響した。ユイが考案した、右手でマイクを完全にホールドし、左手だけで都会の孤独を鋭利に切り取る、その新振付。それは、これまでのインディーズアイドルの「ダサさ」や「素人っぽさ」を完全に削ぎ落とした、極めてスタイリッシュで、計算され尽くしたプロの型へと進化を遂げていた。
私たちは、その日の夕方、完成したばかりの「定点ダンスプラクティス動画」をYouTubeへ放流し、ユイのハニカミポーズの15秒を公式TikTokへと連続投稿した。
結果は、もはや奇跡という言葉では生ぬるいほどの、完全な市場のジャックだった。「#LUMINAスマイル」のハッシュタグは、投稿からわずか数時間でトレンドの一位を独占。スマートフォンの画面サイズに完璧に適合したその動きは、全国の女子高生や他のアイドルたちの間で瞬く間に「真似して踊るべき聖典」として爆発的に拡散していった。
しかし、今回の私たちは、ただバズの数字に目を丸くして喜ぶような、一週間前の無邪気なインディーズではない。TikTokで火がついた何万という新規のユーザーたちが、YouTubeに用意された「一切のごまかしのない圧倒的な実力の定点動画」へとスムーズに流入し、さらにハルカが紡ぐInstagramの「等身大の生身の言葉」によって、深い愛着を持つコアなファンへと昇華していく。私が設計したあの「底の抜けないバケツの導線」は、ユイのプロの知恵という決定的なピースを得たことで、完璧なシステムとして機能し始めていた。
フォロワー数は350人という過去の遺物を遥か彼方に置き去りにし、数万、数十万という巨大な質量となって、私たちの足元を揺らし続けている。
その夜遅く、片付けを終えたスタジオで、ハルカがふと私に話しかけてきた。
「青木さん、正直に言うと、ユイが振付を作った日、私、少しだけ複雑な気持ちになったんです。……リーダーなのに、みんなを引っ張る役目を、誰かに奪われたような気がして」
その告白に、私は思わず手を止めた。彼女がそんな感情を抱えていたことに、今の今まで気づけていなかった。数字とロジックにばかり気を配っていた自分が、リーダーであるハルカの内面の揺れに、これほど鈍感だったことが情けなかった。
「今は、もうその気持ちはないの?」
「ないとは言えません。……でも、ユイの振付のおかげで、私の歌が今まで以上に響くようになった。それを実感したら、悔しさより、感謝の方が大きくなりました。多分、これからもきっと、こういう気持ちは何度も出てくると思います。……でも、その度に、ちゃんと自分で乗り越えます」
ハルカの言葉に、私は静かに頷いた。彼女たちの間に生まれるこうした小さな感情の揺れを、私はこれまで、なるべく早く「解決」しようとしてきた。しかし、もしかしたら、それは彼女たち自身が時間をかけて向き合うべき問題なのかもしれない、と初めてそう思った。私が急いで蓋をしてしまえば、彼女たちが自分の力でそれを乗り越える機会を、逆に奪ってしまうことになるのかもしれない。
数日後、私の事務机の上のスマートフォンが、再び見たことのない市外局番からの着信を告げて震え始めた。ディスプレイに表示された文字を睨みつけた瞬間、私の背筋に、これまでにない冷たい電流が走った。
『ネクストウェーブ・ミュージック チーフプロデューサー 高橋』
数々のトップアーティストを抱え、業界の頂点に君臨する大手メジャーレーベル。その巨人からの、初めての直接の接触だった。半年前の私なら、この着信一つで舞い上がっていたかもしれない。だが今の私には、期待と同じくらいの分量で、得体の知れない警戒心が湧き上がっていた。この電話の先に何が待っているのか、まだ何も分からないまま、私は深く息を吸い込んだ。
私は受話器を握り締め、ゆっくりと、しかし確実に次の戦場へのアクセルを踏み込むように、通話ボタンを押した。
「――はい、スターライトエージェンシー、青木です」
地下の暗闇から、光の差す場所への扉が、今、私たちの自らの知性と戦略によって、完全にこじ開けられようとしていた。しかし、その扉の向こう側には、インディーズの比ではない、法律と金、そして巨大な大人のエゴが渦巻く、本当のシビアな戦場が広がっていることを、私はまだ実感として知らなかった。受話器の向こうから聞こえてくる高橋という男の第一声を待つ間、私は無意識のうちに、背筋をこれまでにないほど強く伸ばしていた。




