第8章 奇跡のフレーム(アルゴリズムの祝福)
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「大類社長、本当にお願いします。この一曲だけでいいんです。新曲『モノクローム・シティ』の、リナのソロダンスパート。ここだけでスマートフォンでの撮影を全面的に許可する『撮可タイム』を導入させてください」
初夏の生ぬるい風が容赦なく吹き込む事務所の打ち合わせスペースで、私は何十回目か分からない頭を下げていた。手元のノートパソコンには、他グループが撮影可能時間をきっかけにSNSで爆発的な新規顧客を獲得した事例、それに伴うデジタルプラットフォームのインプレッション上昇率の相関グラフを、完璧な資料として表示させていた。
大類社長は、デスクの上で灰皿代わりにしている空き缶に吸い殻を押し込み、ひどく億劫そうに首を横に振った。
「青木、お前まだそんなこと言ってるのか。あのな、うちは『都会の夜に差す、儚くも強い光』っていうクールな世界観で売ってるんだよ。客がスマホのショボいカメラでガタガタの手ブレ動画を撮って、汚い音のままネットにバラまいてみろ。事務所がコツコツ作ってきたビジュアルのブランディングが台なしになるだろうが。そんな安売りみたいな真似、俺は絶対に許可せんぞ」
「それは一昔前の、地上波テレビと雑誌だけでブランディングが完結していた時代の発想です」
私はノートパソコンの画面を大類の目の前へと突き出した。
「現在のインディーズアイドルシーンにおいて、プロモーション予算を持たない弱小事務所が、公式の美麗なプロモーションビデオだけで大手の壁を突破するのは不可能です。今の若者たちが求めているのは、完璧にレタッチされた『作られた美しさ』ではありません。ライブハウスという生々しい空間で、10代の少女たちが本当に汗を流し、必死に命を燃やしているという『偶発的なリアリティ』なんです。その手触りを最も正確に伝えるメディアは、運営が用意した高価なカメラではなく、ファンが客席から命がけで構えたスマートフォンの『奇跡のフレーム』なんです」
大類はスマートフォンの画面(そこには競艇の配当画面が映っていた)からようやく目を離し、私の血走った眼を正面から見据えた。
「……もしこれで、新規の動員が一人も増えなかったらどうする?」
「今月の私のプロデュース報酬、すべて返上します。その代わり、もしこれでTikTokやSNSの数字が動いたら、次の展開への営業予算を一部確保してください」
私は二十八歳のキャリアのすべてを賭けるようにして、一歩も引かずに言い放った。大類は数秒間、私の顔の皺を値踏みするように見つめていたが、やがてフンと鼻を鳴らした。
「勝手にしろ。ただし、カメコや最前管理の連中がハコでトラブルを起こしたら、全部お前の責任だからな。現場の対応、一切手伝わんぞ」
「望むところです」
私はノートパソコンを叩きつけるようにして閉じ、すぐにメンバーが待つスタジオへと向かうため、古いハイエースのキーを引っ掴んだ。
事務所のドアを出る間際、大類の声が背中に飛んできた。
「青木、お前、本当に自分の給料まで賭ける必要あったのか?」
私は振り返らずに答えた。
「これは賭けじゃなくて、投資です。私自身への」
その言葉が強がりなのか本心なのか、ドアを閉めた瞬間の自分にも、正直よく分からなかった。
車を発進させてから、ようやく自分の掌が汗で濡れていることに気づいた。今月のプロデュース報酬をすべて返上する。それは、私自身の来月の家賃と光熱費が、確実に赤字になることを意味していた。メンバーには相談していない。相談すれば、きっと止められる。だから私は、この賭けを自分の一存だけで決めた。それが正しい経営判断なのか、それとも、追い詰められた人間の自暴自棄な博打に過ぎないのか、ハンドルを握る今の私には、まだ判断がつかなかった。
信号待ちで、ふと自分の貯金口座の残高を思い浮かべた。三十万円を切っている。もしこの賭けが外れれば、私は今月の生活費を、クレジットカードのキャッシングに頼らざるを得なくなるだろう。それでも、メンバーたちの前ではそんな不安をおくびにも出すつもりはなかった。彼女たちに見せるのは、いつだって確信に満ちた「マネージャーの顔」だけでいい。そう自分に言い聞かせながら、私はアクセルを踏み込んだ。
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その日の夜、LUMINAが出演するのは、渋谷の道玄坂にある中規模のライブハウス「WWW」だった。対バンイベントのトリから二番目という、私たちの現在の規模からすれば、望みうる最高の出演順だった。
金曜日の19時45分。フロアには、週末の解放感に満ちた観客たちが、実数で約百人ほど詰めかけていた。
「LUMINAから、本日のステージについて重要なお知らせがあります」
開演の十分前、私はフロアの端にある物販スペースの長机の前に立ち、拡声器を握りしめて声を張り上げた。
「本日のLUMINAのステージにおきまして、新曲『モノクローム・シティ』の演奏中、一曲丸ごと、皆様のスマートフォンおよびデジタルカメラでの動画・静止画の撮影を全面的に許可する『撮可タイム』を導入いたします! 撮影された動画は、ハッシュタグ『#LUMINA』および『#モノクロームシティ』をつけて、ぜひTikTokや各種SNSへ自由に投稿してください!」
そのアナリティクスを意識したアナウンスがフロアに流れた瞬間、ざわざわとした小さなどよめきが起こった。最前列に陣取っていた「おまいつ」のタカシたちが、驚いたように顔を見合わせる。
「マジかよ、LUMINAが撮可やるの初めてじゃん!」「リナちゃんのダンス、動画で残せるの最高すぎるだろ……!」
ロビーの隅で腕を組んでいた、高級カメラを抱えたカメコ集団のクマたちも、その言葉を聞いた瞬間に、すぐさまレンズのキャップを外し、露出の調整を始めたのが見えた。彼らにとって、未開拓の美少女グループの撮影許可は、極上の「獲物」が目の前に現れたのと同義だった。
私はその光景を、ステージ袖の暗がりから、胃がねじ切れるような緊張感と共に見つめていた。
楽屋から出てきたメンバー三人は、いつも以上に緊張した面持ちで、お互いの手のひらに「人」の字を書いて込み上げていた。特に、今回の撮可タイムの最大の肝となるソロダンスパートを背負うリナは、何度も何度もステップの足運びを床の上で確かめていた。
「リナちゃん、大丈夫。今日の昼のレッスンより、絶対に体は軽いよ」
ユイが、リナの背中にそっと手を置いて囁いた。
「……今日の昼、ERI先生に言われたこと、まだ引っかかってる」
リナが珍しく、弱さを隠さずに呟いた。
「あんなの、先生の激励だよ。それに、もし転んだとしても、私とハルカが必ずカバーする。一人で背負わなくていいから」
ハルカも頷き、リナの反対側の肩に手を添えた。
「そう。私たち三人で一つのステージなんだから」
リナは二人の顔を交互に見つめ、それから小さく息を吐いた。
「……うん。ありがとう」
「みんな、準備はいい?」私は三人の前に立ち、彼女たちの手を一人ずつ強く握りしめた。
「ユイ、あなたが考えてくれたあのサビの振付、スマートフォンの画面の中で一番可愛く見えるように、カメラに向かってレスを送るのよ。ハルカ、あなたの歌声で、スマホのマイクが音割れするくらいの熱量を叩き込んで。そしてリナ……」
私はリナの、少し冷たくなっている右手を両手で包み込んだ。
「レッスンでERI先生に何度も怒られて、足の裏がボロボロになるまで練習したあのソロパート、絶対に大丈夫。あなたは世界で一番美しいダンサーよ。自分を信じて、カメラの向こうにいる何万人の人たちに、あなたの魂を見せつけなさい」
「……はい、青木さん」
リナは小さく、しかし今までで最も強固な意志を宿した声で頷いた。
三人は円陣を組むように顔を寄せ合った。ハルカが右手を差し出し、その上にユイ、そしてリナが手を重ねる。
「絶対に、届かせる」
ハルカの短い一言に、二人が「はい」と声を揃えた。私はその輪の少し外側で、彼女たちの背中を見つめていた。この一瞬だけは、私の戦略も、大類との駆け引きも、何の意味も持たない。あるのはただ、三人が積み上げてきた信頼だけだった。
イントロのSE――都会の夜の冷たいシンセサイザーの音が、WWWの高性能なスピーカーから爆発した。「LUMINA、行きます!」
ハルカの掛け声とともに、三人がまばゆい光の中へと飛び出していった。
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ステージの照明が、深いネイビーと鮮烈なホワイトのコントラストとなって、彼女たちのレース衣装を美しく浮かび上がらせる。
一曲目、二曲目と、彼女たちのパフォーマンスは完全にゾーンに入っていた。ハルカの声は天井を突き抜けるように響き渡り、ユイの笑顔は最前列から後方のドリンクカウンターまで届くほどの磁力を放っていた。
そして、運命の三曲目。新曲『モノクローム・シティ』のイントロが流れた。
フロアのあちこちで、一斉にスマートフォンの画面が点灯し、ステージに向けられる。無数の四角いガラスのフレームが、暗い客席の中で蛍のように怪しく光っていた。カメコたちの大型レンズが一斉にリナの動きを追尾し、シャッターの連続音がベースの重低音の隙間を埋めていく。
曲は順調に進み、ユイが数日前から必死に考え抜いてモディファイした「片手でのマイクホールドを前提とした、画面に綺麗に収まるキャッチーなサビの振付」が披露された。最前列のファンだけでなく、初めてLUMINAを見る後方の観客までもが、スマートフォンの画面越しにその動きの可愛さに釘付けになっているのが、ステージ袖からでもはっきりと分かった。
しかし、問題は曲のクライマックス。リナのソロダンスパートだった。
テンポが急激に速まり、ドラムの激しい連打に合わせて、リナがステージの中央で激しいステップと連続ターンを繰り出す。それは、これまでのインディーズアイドルの常識を遥かに超えた、極めて難易度の高い、肉体の限界を要求するコレオグラフィー(振付)だった。
今日の昼間のレッスンでも、リナは疲労の蓄積から、このターンの着地で何度もバランスを崩し、ERI先生から「そんなボロボロの軸じゃ、誰も魅了できないわよ!」と激しく罵倒されていた。
リナが舞う。ネイビーのスカートが、遠心力で美しい円を描いて広がる。ワン、ツー、スリー、フォー。
一瞬、リナの軸足のヒールが、ステージの床板の微かな凹凸に引っかかったように見えた。リナの身体が、コンマ数秒、斜めに傾く。
「――っ!」私はステージ袖で、思わず声を上げそうになり、自分の口を両手で塞いだ。心臓が、破裂しそうなほどの質量で跳ね上がる。
スマートフォンのレンズを向けていた観客たちの間にも、一瞬の息を呑むような沈黙が走った。
だが、リナは倒れなかった。彼女は日々の倉庫作業で鍛え上げられた驚異的な下半身の筋力と、何百回、何千回と繰り返してきたステップの記憶だけで、肉体の崩壊を強引にねじ伏せたのだ。体幹を一瞬で垂直へと引き戻し、最後の最も激しい高速ターンを、完璧な軌道で描き切った。
そして、音楽がぴたりと止まり、リナが完璧なポーズを決めた、その刹那だった。
張り詰めていたすべての緊張の糸が、プツリと切れたように。いつも無表情で、感情を滅多に表に出さないリナの口元に、ふっと、本当に微かな、はにかんだような、安堵したような、混じり気のない「本物の笑顔」がこぼれ落ちたのだ。
それは、計算されたアイドルの「営業用の笑顔」では決してなかった。過酷な極貧生活の中で、早朝から倉庫で働き、ボロボロになりながらも努力を続け、その努力が今、この大舞台で報われたという、彼女の魂の底から湧き上がってきた、純度百パーセントの人間性の輝きだった。
私はステージ袖で、その一瞬を見た自分の目を疑った。何百回とリナのステージを見てきたはずなのに、あんな表情は一度も見たことがなかった。倉庫のピッキング作業で荒れた指先、段ボールの角で傷ついた右手の甲、誰にも弱音を吐かず一人で数字を作りにいく背中。そのすべての蓄積が、今、この一瞬の笑顔に結晶していた。
その一瞬を、最前列のわずか数センチの距離にいた一人のファンが、見逃さなかった。
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彼のスマートフォンのカメラは、その「奇跡のフレーム」を、一ミリのブレもなく完璧な画角で捉えていた。
レンズの向こう側で、汗に濡れた前髪の隙間から覗く、リナの少女らしい、あまりにも無防備で美しい微笑み。都会の冷酷な重力に押し潰されそうになりながらも、その暗闇の中で一瞬だけ咲いた、儚くも強い光。
曲が終了し、割れんばかりの拍手と歓声がWWWのフロアを包み込んだ。「ありがとうございました! LUMINAでした!」
ハルカの挨拶とともに、メンバーたちがステージ袖へと戻ってくる。ユイは興奮で顔を真っ赤にし、「青木さん! スマホ、すごくいっぱい並んでました!」と叫んだ。ハルカも自分の仕事をやり遂げた充実感に満ちた表情をしていた。
「リナ、さっき転びかけたでしょ。足、痛くない?」
私はステージ袖に戻ってきたリナの足元を、すぐに確認した。
「平気です。……最後、ちゃんと立てました」
リナはそう言うと、まだ興奮の冷めやらない様子で、自分の両手のひらを見つめていた。ユイがそんなリナの背中に抱きついて、「見た見た! 最後のターン、完璧だったよ!」と声を弾ませる。ハルカも二人に駆け寄り、三人で肩を寄せ合うようにして、今日のステージを労い合った。
「さっき、倒れそうになったとき、本当に怖かった」
リナが、珍しく素直にそう漏らした。
「でも、なんでだろう。倒れなかった。……多分、ステージに出る前に、二人が『一人で背負わなくていい』って言ってくれたのが、頭のどこかに残ってたからだと思う」
ユイが目を丸くし、それから照れたように鼻の頭を掻いた。
「そんな、大したこと言ってないのに」
「大したことだよ。私にとっては」
リナがそう言い切ると、ハルカが二人の頭を交互にくしゃっと撫でた。
「三人でよかった。本当に、そう思う」
その光景を、私は少し離れた場所から見つめていた。私が用意した戦略や資料よりも、彼女たち自身が互いに交わした短い言葉の方が、今日のステージを支えたのかもしれない。そのことに、誇らしさと、ほんの少しの寂しさが同時にこみ上げてきた。
正式な物販が始まり、チェキは合計で十二枚。売上、一万八千円。いつもよりはマシだが、劇的な変化というわけではない。大類社長へのプロデュース料返上の約束が、私の頭の片隅を重くかすめていた。メンバーたちも、ライブの充実感に浸りつつも、明日からの過酷なアルバイトと自腹の生活を思い、少しだけ現実に引き戻された表情でハイエースに乗り込んだ。
「今日も、大きくは変わらなかったね」
ユイが、窓の外を見ながら小さく呟いた。それでも、その声には以前のような絶望の響きはなく、どこか静かな充実感が滲んでいた。
「変わらなくても、今日のリナちゃんの笑顔、私、一生忘れないと思う」
ハルカがそう言うと、リナは少し照れたように顔を背けた。
「大袈裟すぎ」
「大袈裟じゃないよ」
車内に、小さな笑いが起きた。この瞬間、彼女たちはまだ、数時間後に自分たちの世界がひっくり返ることを知らなかった。
深夜一時、メンバーを共同アパートへと送り届け、私は一人、古いハイエースを走らせて誰もいない事務所へと戻った。
事務机の前に座り、いつものようにノートパソコンを開く。SNSのタイムラインを確認するため、LUMINAのエゴサーチ(グループ名での検索)を開始した。
「……ん?」
検索結果の画面をスクロールしていた私の指先が、ピタリと止まった。
一件の投稿。それは、今日のWWWの最前列にいた、ある一般的なファン(おまいつのタカシの友人だった)が投稿した、わずか十五秒の動画だった。
キャプションには、極めてシンプルな言葉だけが添えられていた。
『この笑顔に、今週一週間の仕事の辛さすべて救われた。#LUMINA #地下アイドル #モノクロームシティ』
動画を再生する。画面の中で、リナが激しいソロダンスを完璧に踊り切り、そして最後の瞬間、カメラに向かってふっと、はにかんだような本物の笑顔を見せる。
その動画の下に表示されている数字が、私の脳の理解を超えた速度で、リアルタイムにカウントアップされていた。
再生回数、12,000回。いいね、1,400件。リポスト、350件。
「……え?」
私は思わず、ブラウザの更新ボタン(F5)を押した。画面が一瞬だけ白くなり、再び表示されたとき、数字はさらに跳ね上がっていた。
再生回数、18,500回。いいね、2,200件。
通知のアイコンが、画面の右下で、まるで壊れたメトロノームのように、チカチカと狂ったような速度で明滅し始めていた。
アドレナリンが、私の全身の血管を一瞬で駆け巡り、体温が急激に上昇していくのを感じた。指先が、ガタガタと小刻みに震え始める。
アルゴリズムという名の姿の見えない神が、デジタルの虚空の底で、ついにLUMINAを見つけ、そして初めて、爆発的な微笑みを投げかけた瞬間だった。
私はこの動画を撮影した本人のアカウントを確認した。プロフィールには、名前も年齢も書かれていない、匿名の一般アカウントだった。この見知らぬ誰かのスマートフォンが、何ヶ月もの間、私たちが必死に叩き続けてきたデジタルの壁に、初めて風穴を開けてくれたのだ。その事実に、私は感謝と、少しの恐ろしさが入り混じった感情を覚えていた。この壁の向こう側には、私たちの力だけではどうにもならない、無数の見知らぬ他人の視線が待っているのだと、初めて実感を持って理解した瞬間でもあった。
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深夜二時半。事務所の静寂の中で、スマートフォンのバイブレーションが、机の木目を叩いてブーブーと鳴り止まない。私は震える手でスマートフォンを手に取り、画面をスクロールし続けた。数分前まで感じていた疲労も頭痛も、いつの間にかどこかへ消え失せていた。
あの15秒の動画は、タイムラインという名の巨大な急流に乗り、文字通り秒単位で拡散の規模を拡大していた。
『この子、本当に地下アイドル!? ビジュアルの次元が違いすぎるだろ』『ダンスのキレからの、最後のこのハニカミ笑顔のギャップで完全に心撃ち抜かれた』『グループ名なんて読むの? ルミナス? 曲もめっちゃエモいじゃん』『明日、ライブあるなら有給取ってでも行くわ』
日本中から、いや、アカウントの言語を見る限り、アジア圏や海外の英語圏からも、無数のコメントがリアルタイムで殺到していた。動画はキュレーションアカウントに転載され、美容系のインフルエンサーたちによって「今一番可愛い地下アイドル」としてシェアされ、リミックス機能を使って自分のリアクション動画を上げる若者たちが続出していた。
数字だけを追っていた私にとって、コメント欄に並ぶ一つ一つの言葉は、これまで感じたことのない種類の実感を伴っていた。顔も名前も知らない誰かが、深夜のスマートフォンの画面越しに、リナの一瞬の笑顔に本気で心を動かされている。その事実の重みが、ようやく数字という記号を超えて、私の胸に届き始めていた。
今まで、私が夜な夜な教本を読んで実践してきた、あの『世界観の統一』や『ハッシュタグの設計』といったすべての地道な努力。それらは決して無駄ではなかったのだ。バズという名の巨大な濁流が押し寄せてきたとき、LUMINAの公式プロフィールにアクセスした新規のユーザーたちは、そこに並ぶ「完璧に美しく統率された都会の夜のビジュアル」を見て、「あ、このグループは本物だ」「一発屋の地下じゃない」と確信し、そのまま次々と『フォロー』のボタンを押していった。
私はベッドから飛び起きるようにして、すぐにメンバーたちが住むアパートのグループチャットにメッセージを送った。
「みんな、今すぐ起きて。公式SNSを見て。……大変なことが起きているわ」
数秒後、最初に既読をつけたのはユイだった。続いてハルカ、最後にリナ。すぐに、ユイから半泣きの音声メッセージが届いた。
『青木さん! これ、何が起こってるの!? スマホの通知が壊れたみたいに鳴り止まないよ! 私、怖くて画面見られない!』
続いてハルカの、興奮で完全に上ずった声。『青木さん……フォロワー数が、さっきから千人単位で増えてます……。これ、夢じゃないですよね? 私たち、本当に見つけてもらえたんですよね……?』
当事者であるリナからは、ただ一言、『……動画、見ました。私の顔、そんなに面白かったですか?』という、彼女らしい、どこか的外れで、しかし愛おしいテキストだけが送られてきた。
私は思わず、声を上げて笑ってしまった。この非日常の渦の中でさえ、リナはいつものリナのままだった。その事実が、なぜだか私の中の恐怖に似た興奮を、少しだけ現実的な温度に戻してくれた。
続けて、ハルカからメッセージが届いた。
『青木さん、正直に言うと、まだ全然実感が湧きません。でも一つだけ分かるのは、今日のステージを見てくれた人たちが、私たちを見つけて、それを誰かに伝えたいって思ってくれたってことです。それって、私たちがずっと欲しかったものですよね』
その一文に、私は思わず画面を見つめたまま動けなくなった。数字の羅列にばかり気を取られていた自分よりも、彼女の方が、この瞬間の本質を正確に捉えているように思えた。
ユイからは、少し落ち着いた声で音声メッセージが再び届いた。
『さっきは取り乱してごめんなさい。……あの、リナちゃんの笑顔、私も現場で見てました。あんな顔、初めて見た。だから、みんなが心を掴まれた理由、私にはすごく分かります』
グループチャットの中で、三人がそれぞれの言葉で今夜の意味を確かめ合っているのを、私はただ静かに読んでいた。
私はスマートフォンのマイクに向かって、自分でも驚くほど冷静で、しかし絶対的な確信に満ちた声で告げた。
「みんな、落ち着いて。これは夢じゃない。私たちが血を流しながら待ち続けた、千載一遇のチャンスよ。……この波に、完全に乗りこなすわよ。明日から、私たちの本当の戦いが始まるわ」
電話の向こうで、三人がそれぞれ小さく息を呑む気配が伝わってきた。誰も、これから何が起こるのか、まだ正確には想像できていなかった。それでも、その沈黙の中には、恐れよりも確かな期待の方が、わずかに勝っているように私には感じられた。
昨日までの圧倒的な無力感、大類社長に突きつけられた冷酷な数字の現実、家賃の支払いに汲々としていたあの惨めな日々。それらすべての「重力」が、この瞬間に完全に反転し、巨大なロケットの推進力へと姿を変えていくのを感じていた。
一過性のバズで終わらせないための、次の「バケツの導線設計」。あの眠れない夜にノートに書き殴った戦略を実行に移す時が、ついに来たのだ。
私はノートパソコンを開き、新しい真っ白なテキストファイルに、猛烈なタイピングで翌朝のメンバーへの緊急招集の号令を書き込み始めた。画面の向こう側、LUMINAのフォロワー数のデジタル数字が、350から、5,000、10,000、20,000へと、まるで見えないドラムの連打のように、狂ったように跳ね上がり続けていた。
キーボードを叩きながら、私はふと、今日の交渉で大類に突きつけた「プロデュース報酬の全額返上」という賭けのことを思い出した。あの時は、失うものなど何もないという捨て鉢な覚悟だけで口にした言葉だった。今この瞬間、その賭けは正しかったのだと証明されつつある。だが、もしあの数字がここまで跳ね上がっていなければ、私は来月、家賃を払えないまま、ただの無謀な賭けをした愚かなマネージャーとして、メンバーにも大類にも顔向けできなかったはずだ。運が味方しただけなのか、それとも見極めが正しかったのか。その境界線を、私はまだ自分の中で引けずにいた。
それでも、この数字の高揚の裏で、私はまだ彼女たちに何一つ、自分が賭けた本当の金額を伝えていなかった。いつか話す機会が来るとしても、それは今夜ではない。少なくとも、この熱狂の余韻の中では。
スマートフォンの画面では、まだ増え続ける数字が点滅していた。その光を見つめながら、私は自分の頬が、いつの間にか緩んでいることに気づいた。
6
一睡もできないまま迎えた土曜日の午前六時。
事務所の窓ガラスを透過する朝の光は、いつもより残酷なほど白く、そして鮮明だった。
私はデスクの前に座り、感覚の麻痺しかけた人差し指でノートパソコンのトラックパッドを叩き、ブラウザの画面をリフレッシュし続けていた。画面が白く明滅するたびに、LUMINAの公式アカウントのダッシュボードに刻まれた数字が、こちらの脳の防壁を容赦なく破壊する速度で更新されていく。
TikTokの動画再生回数――240万回。
いいね数――18万件。
フォロワー数――350人から、一気に3万2千人。
「……まだ、止まらない」
乾ききった唇から、砂を噛むような呟きが漏れた。喉の奥が、ひどく渇いていた。
スマートフォンのバイブレーションは、もはや規則正しい振動ではなく、低音のノイズのような連続音となってデスクの木目を震わせ続けている。この音を止める方法を、私はまだ知らなかったし、止めたいとも思わなかった。通知欄をスクロールしても、数秒前に届いたコメントが瞬く間に画面の彼方へと押し流され、新しい無数の言葉がタイムラインを埋め尽くしていく。
これは、かつて教本で読んだ『バイラル化』という現象の、文字通りの暴風雨だった。数字の羅列としてしか理解していなかった言葉が、今、生々しい実体を伴って私の目の前で暴れ狂っていた。
インターネットという名の巨大な神経網が、リナのあの『15秒のハニカミ笑顔』という一滴の劇薬によって完全に興奮状態に陥り、狂ったように細胞分裂を繰り返している。アルゴリズムという名の姿の見えない神が、LUMINAを「今、世界で最も消費されるべきコンテンツ」として認定したのだ。
私は、アドレナリンによって強制的に覚醒させられた脳を冷やすように、冷え切った水道水で何度も顔を洗った。鏡に映る私の顔は、目の下にどす黒い隈が張り付き、髪は乱れ、ひどい有様だった。しかし、その瞳だけは、二十八年の人生の中で最も鋭く、ギラギラとした光を放っていた。
「舞い上がったら、そこで終わりよ」
私は濡れた顔をタオルで強く拭い、自分自身に冷徹な釘を刺した。まだ何も成し遂げていない。これはただの入り口に過ぎないのだと、自分に何度も言い聞かせる必要があった。
インディーズアイドルの世界において、このような「偶発的なバズ」は、実はそれほど珍しいことではない。容姿の優れたメンバーの一枚の写真、ステージでの一瞬のハプニング。それだけで、数万、数十万のインプレッションを稼ぐグループは年に数組は現れる。
しかし、その大半は、一週間後には何事もなかったかのように元の暗闇へと埋もれていく。なぜなら、彼らはバズという名の巨大な波が押し寄せてきたとき、その波を「ただの幸運」として喜び、中身のない自撮りや「バズりました!」というだけの無邪気な報告を連投して、新規ユーザーの興味を急速に摩耗させてしまうからだ。
バズは、言わば『底の抜けたバケツに一瞬だけ大量に注がれる水』に過ぎない。
注がれた瞬間はバケツから水が溢れ返り、世界を支配したかのような錯覚に陥る。しかし、バケツの底に、新規ユーザーを「定着」させるための緻密なコンテンツの導線が設計されていなければ、水は数日のうちにすべて流れ出し、後にはひび割れたプラスチックの乾いた底が残るだけだ。
「バケツの底を、今すぐ完全に塞ぐ」
私はノートパソコンに向き直り、深夜に構築したあの『LUMINAハッキング計画』のプロモーション戦略シートを開いた。眠気を感じる余裕すら、今の私にはなかった。
タイムラインの熱が最高潮に達しているこの週末。この二日間のうちに、TikTokで興味を持った何万、何百万というユーザーを、YouTube、そしてInstagramへとスムーズに流し込み、彼女たちの『本当の実力』と『生身の人間性』のファン(信者)へと昇華させる。そのための完璧な連携を始めなければならなかった。
私は震える指先で、メンバーのグループチャットに、極めて具体的で非情な号令を打ち込んだ。文面を打ちながら、ふと指が止まった。三人とも、昨夜からほとんど眠っていないはずだ。この号令は、彼女たちにとってあまりにも過酷な要求ではないか。その迷いは一瞬だけ胸をよぎったが、私はすぐにそれを振り払い、送信ボタンを押した。今しかない。今この瞬間を逃せば、この熱狂の波は二度と戻ってこない。
送信してから数分後、返信が届いた。まずリナから、短く「了解です」の一言。続いてハルカから「準備して向かいます」。そしてユイからは、少し遅れて「頑張ります! でも、ちょっとだけ怖いです」というスタンプ付きのメッセージが届いた。その「怖い」という一言に、私は一瞬だけ手を止めた。彼女たちの興奮の裏には、私が想像している以上の不安が渦巻いているのかもしれない。だが、今の私にはその不安に丁寧に向き合っている時間の余裕がなかった。私はスマートフォンをポケットに突っ込み、シャワーも浴びずに、そのままハイエースのキーを掴んだ。
7
午前十一時。新宿のレンタルスタジオ「ノア」の大型Aスタジオ。
壁一面の鏡が、外の五月晴れの強い光を反射して、いつもより眩しく輝いている。
スタジオのドアが開き、三人が姿を現した。
ハルカ、ユイ、リナ。彼女たちの顔には、一睡もできなかったことによる極度の精神的興奮と、同時に、自分の身に起きている現実のスケールの大きさに完全に呑み込まれたような、圧倒的な「戸惑い」が張り付いていた。
「青木さん……これ、本当に私たちのスマホですか?」
ユイが、自分のスマートフォンを両手でまるでお盆のように捧げ持ちながら、怯えたような声で言った。画面の中では、アプリの通知が狂ったように明滅し、一秒ごとにフォロワーの数字が数十人単位で跳ね上がっている。
「私の、昨日まで誰も見てくれなかった自撮りの投稿に、さっき見たら『いいね』が五万件ついてて……。コメントも、英語とか韓国語とか、知らない言葉がいっぱい並んでて、私、どうしていいか分からなくて、バイト先でトングを持つ手が震えちゃいました」
リーダーのハルカも、いつもなら真っ先に挨拶をするはずの彼女が、唇を小さく震わせたまま、鏡に映る自分の姿を呆然と見つめていた。
「青木さん……私たち、売れちゃうんですか? このまま、どこか遠いところに行っちゃうんですか……?」
当事者であるリナだけは、いつものように無表情のまま、スウェットの紐を黙々と結んでいたが、彼女の小さな耳の裏側が、隠しきれない動揺で真っ赤に染まっているのを私は見逃さなかった。
「みんな、集まって」
私はスタジオの中央に立ち、三人を自分の目の前に並ばせた。
彼女たちの、怯え、戸惑い、そして微かな期待に満ちた瞳を、一人ずつまっすぐに見つめ返す。
「怖がる必要は、一ミリもないわ。あなたたちが毎日、早朝からパンを焼き、居酒屋で皿を洗い、倉庫で段ボールを運びながら、血の滲むような思いで磨き続けてきたあのステージが、ついに世界に見つかった。それだけの話よ。……これは、ただの『始まり』に過ぎない」
私は声を一段落とし、彼女たちの背筋を伸ばすような強いトーンで告げた。
「いい? 今、私たちの周りで起きているのは、アルゴリズムという名の気まぐれな神様が起こした、一瞬の『お祭り』よ。お祭りは、数日もすれば必ず終わる。片付けられた屋台の跡には、何も残らない。私たちは、この一瞬の熱狂を、永久に消えない『本物のムーブメント』に変えるの。そのために、今日ここへ集まってもらった。……贅沢な感傷に浸っている時間は、一分もないわよ」
私の冷徹な、しかし絶対的な信頼を湛えた言葉に、ハルカの瞳にハッと型が戻った。彼女は小さく深呼吸をすると、リーダーとしての凛とした表情を取り戻した。
「……はい。青木さん、指示をください。私たちは何をすればいいですか」
「プランA、YouTube。リナ、あなたの出番よ」
私はスタジオの隅にセッティングしておいた、高画質の4K定点カメラと三脚を指し示した。
「TikTokであなたの笑顔を見て『可愛い』と思った人たちが、次に必ず取る行動は、YouTubeでのグループ名検索よ。彼らは『この子は本当に歌って踊れるのか?』『それとも、ただの一発屋の地下アイドルなのか?』を値踏みしにくる。そこで、一切のカット編集なし、一切のごまかしなしの、新曲『モノクローム・シティ』の『定点ダンスプラクティス(練習)動画』を、今からここで撮影して、今日の夕方までにアップロードするわ」
リナが、無言のままカメラを凝視した。その瞳に、静かな、しかし強烈なプロの闘志の火が灯る。
「加工された美麗なMVなんて、うちの予算じゃ大手には勝てない。私たちが突きつけるのは、この味気ないスタジオの白い光の中で、あなたたちが一ミリの狂いもなくシンクロさせてみせる、圧倒的な『肉体のスキル』よ。可愛いだけの偶像だと思って舐めて見にきた有象無象の度肝を、そのステップで完全に叩き潰してやりなさい」
「……分かりました」
リナは短いスウェットの袖をグッと引き上げ、フォーメーションの位置へと歩き出した。
「プランB、ユイ。あなたが考えてくれた、あのサビのキャッチーなモディファイ振付。あれをベースにした『公式ダンスチャレンジ動画』を、メンバー全員で撮影するわ。カメラの画角は、スマートフォンの画面サイズに完璧に収まるバストアップ。ユイ、あなたがセンターよ。世界で一番可愛い笑顔で、画面の向こう側の指先をフリーズさせなさい」
「はい! 任せてください、青木さん!」
ユイの顔から恐怖が消え、天性のアイドルの輝きがその表情を満たしていった。
「そしてプランC、ハルカ」
私はハルカの肩に手を置いた。
「動画を見てアカウントを訪れた新規のユーザーたちが、最後に定着する場所。それが、あなたの紡ぐInstagramの言葉よ。今すぐストーリーズのQ&A機能を立ち上げて、何千、何万と届くであろう質問に、あなたの等身大の言葉で、誠実に答えていきなさい。完璧なスターのフリをする必要はないわ。『昨日の夜は、びっくりしてメンバーみんなでアパートで半額のおにぎりを食べながら泣きました』って、そのままのリアルを伝えなさい。SNSを見ている人、特に同世代の女性が求めているのは、共に葛藤し、共に成長していく『生身のシスター』の物語なのだから」
「……生身の、シスター」
ハルカはその言葉を噛み締めるように呟き、力強く頷いた。
「分かりました。私、飾らない、私たちの本当の言葉で、みんなにメッセージを届けます」
「よし。――LUMINA、反撃のショータイムよ。位置について!」
私の号令とともに、スタジオのスピーカーから『モノクローム・シティ』の激しい重低音が爆発した。三人の少女たちは、数時間前までの極限の疲労を完全に消し去り、まばゆい鏡の向こう側へと、一斉に解き放たれていった。
8
「はい、そこリナ、ターンの後の視線がカメラから一瞬外れてる! 意識して! ユイ、サビのラストの指先、あと三センチ高く上げて、フレームの端できれいに静止させて!」
私は三脚の後方に立ち、モニター画面を凝視しながら、ERI先生にも劣らない鋭い怒声をスタジオに響かせていた。
撮影は、過酷を極めた。
一過性のバズを本物のファン化へ繋げるためのYouTube動画だ。一ミリの妥協も許されなかった。フォーメーションの移動のタイミング、衣装の裾の翻り方、激しいステップを踏みながらも決して乱れない三人の呼吸の同期率。完璧な一本が撮れるまで、曲は何度も、何度も最初から再生された。
汗が、スタジオのフローリングの床にポタポタと大きな染みを作っていく。三人のジャージは完全に肌に張り付き、早朝までのアルバイトでの疲労が、彼女たちの筋肉に容赦なく乳酸を蓄積させていく。
九回目のテイクを終えたところで、ユイの足がもつれ、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
「……ごめんなさい、大丈夫です、もう一回」
ユイはすぐに立ち上がろうとしたが、その膝は小刻みに震えていた。私はストップウォッチを止め、彼女に駆け寄った。
「休憩。十分間、全員休みなさい」
「でも、青木さん、まだ理想の絵が撮れてません」
ユイが必死に食い下がる。私はその肩を強く抑え、まっすぐに彼女の目を見た。
「ユイ、あなたが倒れたら、この動画そのものが撮れなくなる。理想の絵より、あなたの身体の方が大事。……それに、これは私の判断ミスでもある。昨夜からほとんど寝ていないあなたたちに、休憩なしでここまで詰め込ませたのは、私よ」
その言葉は、ユイに向けたものであると同時に、自分自身への確認でもあった。この一週間、私はずっと「今しかない」という焦りに突き動かされ、彼女たちの限界を見誤りかけていた。ハルカとリナも、その場に座り込み、荒い呼吸を繰り返している。誰も、私に不満をぶつけたりはしなかった。それが、かえって私の胸を締め付けた。
「みんな、水分と糖分、しっかり摂って。……それと、ごめん。少し急ぎすぎた」
私が素直にそう告げると、ハルカが少し驚いたように顔を上げた。
「青木さんが謝ることないです。私たちも、この波に乗り遅れたくないって、必死になってましたから」
「そうだよ。休憩、ちゃんと取ればいいだけです」
ユイも笑顔を取り戻し、差し出したスポーツドリンクを一気に飲み干した。リナだけは何も言わず、ただ黙って自分の足首を揉みほぐしていたが、その口元には、いつもよりわずかに柔らかい表情が浮かんでいるように見えた。
床に座り込んだまま、ハルカがふと口を開いた。
「青木さん、正直に言うと、私、今日の朝、鏡に映った自分の顔を見て、少し怖くなったんです。……このまま、私たちの知らないところで、私たちじゃない誰かに作り変えられていくんじゃないかって」
その言葉に、ユイとリナも顔を上げた。
「大丈夫。あなたたちを作り変えるつもりは、私には一ミリもない。世界に見せるのは、あなたたちが今日まで積み上げてきた、そのままの姿よ。私の仕事は、その姿を正しく届けるための『窓』を作ることだけ」
私はそう言い切ったが、内心では、自分の言葉にどれだけの確信があるのか、少しだけ揺らいでいた。この熱狂のスピードは、私が制御できる範囲をすでに超えかけている。それでも今、彼女たちの前で弱さを見せるわけにはいかなかった。
「……分かりました。青木さんを信じます」
ハルカがそう言うと、リナも小さく頷いた。ユイは何も言わず、ただ深く息を吐き出して、再び立ち上がった。
十分間の休憩を挟み、撮影は再開された。合計で十四回目のテイクが終了したとき、私はカメラの録画停止ボタンを押した。
モニターに映し出された映像。そこには、一切の編集がないからこそ、見る者の胸を激しく揺さぶる、LUMINAの『圧倒的な肉体の証明』が完璧に記録されていた。
「……よし、オッケー! 最高のテイクが撮れたわ。みんな、お疲れ様!」
私の言葉を聞いた瞬間、ユイはその場にペタンと崩れ込み、「あうぅ……足が動かない……」と声を上げた。ハルカは膝に両手を突き、荒い呼吸を繰り返しながらも、モニターの中の自分たちの映像を見て、確かな満足感に満ちた笑みを浮かべていた。
リナは無言のまま、私が手渡した冷えたスポーツドリンクを喉を鳴らして飲み干すと、すぐにスマホを取り出し、自身の担当領域であるYouTubeのアカウント管理画面へとアクセスした。
「青木さん、動画の書き出しとアップロード、私がやります。サムネイルの文字盤、青木さんが教えてくれた『実力派地下アイドルの本気』ってフォントでいいですか」
「ええ、お願い。動画の説明欄には、公式SNSと、来月のワンマンライブのチケット購入ページへのリンクを、絶対に最上段に配置して。バケツの口を開けるのよ」
「了解です」
リナの叩くスマートフォンのキーボードの音が、スタジオの片隅で静かに響く。
午後四時。完成した定点ダンスプラクティス動画が、YouTubeのLUMINA公式チャンネルへと放流された。
それと同時に、ユイがセンターを務めるTikTokのダンスチャレンジ動画も、ハッシュタグ『#LUMINAスマイル』をつけて、世界へと一斉に投稿された。
私はスタジオのベンチに座り込み、ノートパソコンを開いて、各プラットフォームのアナリティクスタグのデータ動向を監視し始めた。
数分間の静寂の後、画面のグラフが、信じがたい挙動を見せ始めた。
TikTokのダンスチャレンジ動画は、投稿からわずか三十分で10万回再生を突破。ユイの考案した「片手でのマイクホールドを前提とした、画面に綺麗に収まる可愛い振付」は、瞬く間に女子高生や他のインディーズアイドルたちの目に留まり、「#LUMINAスマイル」のハッシュタグをつけて真似して踊るユーザーが、タイムライン上に次々と自然発生し始めた。
そして、私が最も重視していたYouTubeの定点動画。
こちらの再生回数のカウンターも、まるで壊れた水道メーターのように、数千、数万単位で数字を積み上げていた。
コメント欄には、狙い通りの言葉が、怒涛の勢いで並び始めていた。
『TikTokの笑顔動画から飛んできたけど……この子たち、ダンスのレベルが違いすぎる。シンクロ率えぐい』
『ただのバズった可愛い子ちゃんかと思ったら、バキバキの実力派じゃん。一発でファンになった』
『定点でごまかしなしでこれだけ踊れる地下アイドル、初めて見た。衣装のネイビーも都会的で刺さる』
『曲のベースラインが格好良すぎる。Spotifyで配信してないの!?』
「……繋がった」
私はノートパソコンの画面を見つめたまま、大きく息を吐き出した。胸の奥の、張り詰めていた塊が、熱い涙となって目頭にせり上がってくる。
TikTokという『認知の窓』から入ってきた無数の新規ユーザーたちが、YouTubeという『実力のバケツ』に完璧に溜まり、一過性の興味を深い『リスペクト』へと昇華させている。バケツの底は、一滴の水も漏らすことなく、完全に塞がれていた。
9
その日の夜、LUMINAのデジタル成長記録は、もはやインディーズアイドルの常識的な数値を完全に超越した、未知の領域へと到達していた。
私が大類社長に提出するために作成した、バイラル化前後のデータ比較レポートは、数字そのものが雄弁な物語を紡いでいた。
TikTokのフォロワー数は、バイラル化前の350人から、一週目で5万人、一ヶ月目には25万人へと膨れ上がった。バイラル動画の再生数は一週目で300万回、一ヶ月目には1000万回に達し、「#LUMINAスマイル」の再生数に至っては、一ヶ月で5000万回を突破していた。YouTubeのチャンネル登録者数も120人から15万人へ、Instagramのフォロワー数も410人から20万人へと跳ね上がり、週あたりのファンレターとDMの数は、2、3通だったものが500通以上に。ライブ出演オファーも、以前は前座がやっと取れる程度だったのが、今やヘッドライナーとしての依頼が複数舞い込んでいた。
この数字は、ただの記号ではない。
それは、ハルカが夜な夜なInstagramのストーリーズで紡ぎ続けた、あの『生身の言葉』に対する、日本中、そして世界中の女性ファンや視聴者からの、熱い共感のアンサーそのものだった。
ハルカのアカウントには、毎日何百通ものDMが届くようになっていた。
『ハルカちゃんのストーリーズを読んで、私も毎日の就活の辛さを乗り越えようって思えました。完璧じゃない、泥臭く頑張るLUMINAの姿に、本当にエンパワーメントされます』
『アイドルのSNSでこんなに泣いたの初めて。みんなで一つのアパートでキャベツ食べて頑張ってたなんて……。次のワンマン、絶対にチケット取って会いに行きます!』
かつてデジタルの虚空に向かって叫び、壁に向かって叫んでいるかのような虚しさに唇を噛んでいたあの深夜の事務所。
あの日々は、今日この日のためにあったのだと、私は確信した。データは道を示している。私たちの声は、ガラスの壁を完全にハッキングし、人々の心の最深部へと、確かに届いたのだ。数字を追い続けた日々の孤独が、ようやく報われた気がした。
午後十時。事務所の電話が、文字通り鳴り止まなくなった。
これまでこちらから何度も頭を下げ、出演料の値引きを勝ち取るために頭を下げ続けていたあちこちの有名ライブハウスのブッキング担当者たちから、今度は逆に「ぜひ、次の週末のイベントにLUMINAさんをトリで出演させてほしい」「出演料は通常の三倍出す」という、信じがたい内容の逆オファーが殺到していた。
ガチャリ、と事務所のドアが開き、大類社長が血相を変えて飛び込んできた。彼の片手には、自身のスマートフォンの画面が握られていた。
「おい、青木! これ、どういうことだ!? うちのコーポレートサイトのサーバーが、アクセス集中で完全に落ちたぞ! それから、来月のワンマンライブのチケット、一般発売開始からわずか三十秒で完売したって、プレイガイドから連絡があったんだけど、お前、一体何をしたんだ!?」
大類は興奮で顔を真っ赤にし、私の事務机に両手を突いて激しく詰め寄ってきた。
私は、手元のノートパソコンを静かに閉じ、椅子の背もたれにゆっくりと寄りかかった。そして、二十八歳のプロのマネージャーとしての、最も冷徹で、最高の勝利の微笑みを大類に向けた。
「社長、言ったはずです。彼女たちの才能と、私の構築したロジックがあれば、アルゴリズムの壁なんて一瞬でハッキングできる、と。……プロデュース報酬の返上の約束、あれは無効ということでよろしいですね?」
大類は言葉を失ったように口をハクハクとさせ、手元のスマートフォンの画面と私の顔を何度も往復させた。画面の中では、LUMINAの名前が、国内のトレンドワードの一位に君臨し続けていた。数時間前まで顔色一つ変えずに予算を渋っていた男の、その狼狽しきった表情を見つめながら、私は静かな満足感を噛み締めていた。
「お、おう……当然だ。青木、お前は最高のマネージャーだよ。すぐに、次のステップの予算を組む。メジャーレーベルへの営業も、俺が直接動いてやるからな!」
大類はそう言うと、手のひらを返したように上機嫌になり、自分のデスクへと戻っていった。数時間前まで「ドブに金を捨てるようなもの」と切り捨てていた同じ口が、今は次の予算の話をしている。その豹変ぶりに、私は苦笑いを禁じ得なかったが、今はそれを咎めている場合ではなかった。
私は事務所の窓の外、夜の東京の街のきらびやかなネオンを見つめた。窓ガラスに反射する自分の顔は、疲労でやつれているはずなのに、なぜか今までにないほど生き生きとして見えた。
私たちは、もう地下の暗闇にはいない。地鳴りのような数字の響きが、私たちの時代の始まりを、確かに告げていた。数ヶ月前、フォロワー350人の画面を前に一人で泣きそうになっていた自分を思うと、今この瞬間の光景は、まるで別の人生の出来事のようにさえ感じられた。
ふと、今日の昼間、ユイを膝から崩れ落ちさせてしまった瞬間を思い出した。この熱狂の裏側で、私はまた同じ過ちを繰り返すかもしれない。数字を追うことに夢中になるあまり、彼女たちの身体と心の限界を、見誤ってしまうかもしれない。その予感を、私はこの勝利の夜にも、頭の隅から完全には消し去ることができなかった。
大類は自分のデスクで、興奮した様子で誰かに電話をかけていた。その声を聞きながら、私はもう一度スマートフォンを取り出し、メンバーのグループチャットを開いた。今日の撮影の最後、ユイが見せてくれた笑顔と、リナが黙々とアップロード作業を進めていた横顔、ハルカが自分の言葉でDMに返信し続けていた真剣な表情。それらが、この数字の裏側にある本当の実体だった。
私は短いメッセージを打ち込んだ。「今日は本当にありがとう。ゆっくり休んでね。明日の予定は、また朝連絡します」
既読はすぐについたが、返信は来なかった。三人とも、もう泥のように眠りに落ちているのだろう。その静けさに、私は少しだけ安堵した。今夜だけは、彼女たちに何も求めず、ただ眠らせてあげたかった。
けれど、今の私には、この熱狂がどこまで大きくなるのか、その足元に何が生まれつつあるのかを見極めるだけの余裕は、まだなかった。この夜の高揚の中で、私はただ、明日もまた同じ強さでこの波に立ち向かうことしか考えられずにいた。




