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ルミナスの軌跡  作者: 久遠 睦


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7/25

第7章 デジタルの虚空に叫ぶ

1

 深夜二時。事務所の片隅に置かれた私の事務机の上では、安価な小型加湿器がシューシューと虚しい音を立てて白い蒸気を吹き出していた。

 古びた蛍光灯の下、私の視界を占拠しているのは、ノートパソコンの放つ液晶の青白い光だけだ。デスクトップのブラウザには、LUMINAの公式SNSアカウントのアナリティクス(アクセス解析)画面が映し出されている。

 フォロワー数、350。あの下北沢の楽屋でユイに「今度でいいの」と告げてから、もう三週間近くが経っていた。直近一ヶ月のインプレッション(閲覧数)の推移グラフは、まるで心停止した患者の心電図のように、底辺を這ったまま完璧にフラットな直線を維持していた。三週間前の自分が見たら、この数字に絶望しつつも、まだどこかで「そのうち動く」と楽観していただろう。今の私には、その楽観すら残っていなかった。

「……変わらない」

 私はキーボードを叩く手を止め、こめかみを強く指先で揉みほぐした。乾燥した目の奥が、針で刺されたようにジンジンと痛む。

 私たちは、やれるべきことはすべてやっているはずだった。神保町の大型書店で買い漁った『現代のデジタルマーケティング戦略』や『SNSインフルエンサー養成講座』『縦型動画バズの法則』といった教本をボロボロになるまで読み込み、そこに書かれている技術的なセオリーを、文字通り血肉化して実践してきたのだ。付箋とマーカーで埋め尽くされたそれらの本は、今ではデスクの隅で崩れかけた塔のように積み上げられている。

 アカウントのトーン&マナーの統一。毎日欠かさない投稿。関連ワードを執拗に並べたハッシュタグ設計。教本に書かれていることは、一通り試した。

 しかし、現実はどこまでも冷酷で、そして静かだった。

 私たちの必死の叫びは、スマートフォンの画面という名のガラスの壁に遮られ、外の世界にいる一般のユーザーには、何一つ届いていなかった。

 毎日のように投稿ボタンを押した数分後、スマートフォンの画面にぽつり、ぽつりと灯る「いいね」の通知。そこに並ぶユーザー名は、いつも完全に同じだった。「@takashi_lumina」「@kouji_yui_love」……。物販の長机の前で直接言葉を交わす、あの「おまいつ」のファンたちの親密なアカウント名ばかり。

 新規のファンを獲得する。未知の領域の、まだLUMINAを知らない何万、何百万という人々に彼女たちの存在を届かせるという、SNSマーケティング本来の目的は、何パーセントどころか、ただの一ミリも達成できていなかった。

 それはまるで、完全に密閉された冷たい防音室の中に一人で閉じこもり、外に向かって全力で喉を掻き切りながら叫び続けているような、圧倒的な虚しさと、脳が痺れるような無力感の同義語だった。

2

 キーボードの上に置き去りにされた自分の両手を見ると、指先が情けないほど冷え切っている。

 姿の見えない神は、相変わらずLUMINAの側を向いてはいなかった。違うのは、あのハイエースの車内で漠然と感じていたものが、今は数式の形をして目の前にあることだ。滞在時間、完視聴率、初速の保存数。神の名前は分かった。分かったところで、祈り方までは教えてもらえない。

 三人は今日も、バイト先から直接スタジオへ来た。ユイの手の甲には、レジ打ちで切ったらしい絆創膏が貼ってあった。それを見なかったことにして、私は今夜も投稿時刻の話をしている。無力感というより、これは無資格感に近かった。

『青木さん、私、青木さんが作ってくれるLUMINAの世界観が本当に好きです。だから、このアカウントがもっとたくさんの人に見てもらえるように、私も毎日自撮り頑張りますね』

 一週間前、ユイがバイト終わりの眠い目をこすりながら、自作の「可愛い表情の作り方ノート」を私に見せてくれたときのことを思い出す。

 彼女たちの隠された才能を、その血の滲むような努力を、世の中に知らしめ、正当な評価の舞台へと引き上げるのが、私の唯一の仕事のはずだった。なのに、私は何一つ結果を残せていない。フォロワー「350」という冷厳な現実の数字が、私の無能さをこれ以上ないほど雄弁に証明しているようで、胸の奥がドロドロとした黒い感情で満たされていく。

 疲労のせいだろうか。私は、来週の請求書の金額を集計していたエクセルのシートに向き直り、大類に提出するための資料を打ち直そうとした。だが、指先が思うように動かず、単価の列に一桁多い数字を打ち込んでしまっていることに、しばらく気づかなかった。数分後、見直していてようやくそのミスに気づき、私は乾いた笑いを漏らした。こんな初歩的な計算ミスをするほど、自分の頭は摩耗しているのか、と。

 この重すぎる責任と、あまりにも貧弱なリソースしか持たない現実の乖離が、冷たい鉛の塊となって私の両肩に深く、深くのしかかっていた。今の私には、その重さを分け合える相手が、まだ誰もいなかった。

 画面の青白い光が、暗い事務所の中で私の手元だけを照らしている。諦めるわけにはいかない。ここで私が思考を止め、打つ手がないと絶望してしまえば、彼女たちの未来は完全に閉ざされる。

 ただ闇雲に世界の片隅で叫ぶのではない。人々の視線を、タイムラインをスクロールする指先を、一瞬で鷲掴みにして思考をフリーズさせるような、暗闇を切り裂く鋭い閃光のような「何か」が。既存の教本には載っていない、この絶望的な状況を根底から覆すための決定的な「フック」が、どこかにあるはずなのだ。

 その輪郭は、あの夜より少しだけ近づいている気がした。それでも、手を伸ばせば掴めるところまでは、まだ遠い。夜明け前の東京は、窓の外で、ただ冷たい灰色の静寂に包まれていた。

 こうして一人で悩み、一人で答えを探すことに、私はもう三年近く慣れきっていた。誰かに「一緒に考えて」と頼ることは、マネージャーとしての職務放棄のように感じられて、これまで一度もしたことがなかった。だが、この夜、ふと思う。もし三人にこの数字をそのまま見せて、一緒に頭を抱えたら、何か違う発想が出てくるのだろうか。その考えは、しかしすぐに「彼女たちに余計な不安を背負わせるだけだ」という、いつもの結論に押し戻されてしまった。

3

 翌日の午後、スターライトエージェンシーの打ち合わせスペース(と言っても、社長のデスクの前にパイプ椅子を並べただけの場所だ)で、私は大類社長と対峙していた。

「社長、次のワンマンライブのプロモーション予算についてですが、どうしても、あと五万円だけでいいので、SNSのターゲティング広告の出稿費用として割いていただけないでしょうか」

 私は手元に用意した、A4用紙三枚にわたる広告運用シミュレーションの資料を大類の前に差し出した。大類は、手元にあったコンビニの紙コップのコーヒーを濁った音を立ててすすると、資料に目を通すこともせず、鼻で笑った。

「青木、お前さ、まだそんなこと言ってるのか? 五万円? 今のうちの口座の残高、見たことあるか? 来月のハコのレンタル代のデポジット(保証金)を払ったら、もう千円札が数枚しか残らないレベルなんだよ」

 大類は椅子の背もたれに深く寄りかかり、天井の蛍光灯を見上げた。

「ネットの広告なんてな、ドブに金を捨てるようなもんだ。大手のレーベルが何百万、何千万って金を投じてタイムラインをジャックしてる中に、うちのなけなしの五万を放り込んで、何が変わる? フォロワーが三人増えて終わりだよ。そんなことよりな、お前がもっと汗かいて、秋葉原や渋谷の路上でビラ配らせろ。その方がよっぽど確実だし、金もかからない」

「路上でのビラ配りは、現在の都市部の条例や警察の取り締まりの強化により、効率が著しく低下しています」私は努めて感情を排し、ロジカルに反論した。

「それに、ビラを受け取る層と、現在のデジタルネイティブなアイドルのコアファン層には大きな乖離があります。LUMINAの楽曲や世界観を好む層は、インターネット上で洗練されたコンテンツを能動的に消費している若者たちです。そこに直接リーチしなければ、どれだけ路上で頭を下げても、動員には繋がりません」

「じゃあ、そのインターネット上で、なんで結果が出てないんだ?」

 大類の鋭い一言が、私の言葉を完全に詰まらせた。

「毎日動画を上げてるんだろ? 世界観とやらを統一してるんだろ? で、フォロワーは何人になった? 三百五十人だろ。それが現実だよ。お前がどれだけ高尚なマーケティング論を語ろうが、数字が出てなきゃ、それはただの『お遊び』なんだよ」

 大類の言葉は、荒々しく、下品だったが、同時にビジネスとしての絶対的な「真実」を突いていた。

 どれだけ深夜まで動画を編集しようが、どれだけメンバーがアルバイトの合間に涙を流して努力しようが、結果という名の数字が出なければ、この世界では存在していないのと同じなのだ。

「……分かりました」

 私は資料を静かに引き戻し、立ち上がった。「予算の件は、もう要求しません。別の方法で、必ず数字を作ります」

「おう、期待してるよ」大類は興味なさそうにスマートフォンの画面に目を戻した。「車、壊すなよ。修理代は出ないからな」

 事務所を出て、駐車場に止められたハイエースに乗り込む。運転席のシートに深く身体を沈めると、ダッシュボードに置いたスマートフォンが振動した。ハルカからのメッセージだった。

『青木さん、お疲れ様です。今日のレッスンの前に、ユイとリナと一緒に、原宿の竹下通りで自主的にビラ配りをしてきました。……でも、二時間で受け取ってもらえたのは、たったの三枚でした。私たちの力不足で、すみません。今からスタジオに向かいます』

 スマートフォンの画面が、私の涙で微かに歪んだ。彼女たちは、私が大類と不毛な予算交渉をしている間にも、自らの尊厳を削りながら、街頭で冷たい拒絶の嵐に晒されていたのだ。

 メッセージには、一枚の写真も添えられていた。竹下通りの人混みの中、三人が手作りのフライヤーを抱えて並んで立っている、ぶれた自撮り写真だった。ユイが半分ふざけたようにピースサインをしていて、リナはいつも通りの無表情、ハルカだけが疲れた笑顔でカメラを見つめている。誰にも頼まれていない行動だった。私が予算交渉に苦戦している間に、彼女たちは自分たちにできることを、自分たちの判断で探しにいったのだ。

「……謝らなきゃいけないのは、私の方よ」

 私はスマートフォンの画面を強く拭い、アクセルを踏み込んだ。お金がない。リソースがない。知名度もない。ないものねだりをしていても、何も始まらない。この古いハイエースのハンドルを握り、彼女たちの人生を背負うと決めたあの日から、私はどんな泥水をすすってでも、彼女たちを光の当たる場所へ連れて行くと決めたのだ。今日のこの悔しさも、必ず何かの燃料に変えてみせる。

 深夜、冷え切った事務所に戻り、私は再びデスクのノートパソコンを開いた。ブラウザの画面に表示されているのは、もはや呪いの呪文のように見慣れてしまった、「350」という微動だにしない三桁のフォロワー数だった。タイムラインのタイムスタンプが更新されるたび、他グループの万単位の数字が華やかに躍る中で、LUMINAのアナリティクス(アクセス解析)だけが、まるで冷たい死体のように完璧に凍りついている。

 28歳。世間一般では、結婚や転職、安定したライフステージの選択という現実的な人生のカードを切り始める年齢だ。友人たちのSNSには、きらびやかなオフィスカジュアルの日常やプライベートの充実が並ぶ。それに引き換え、私の指先は安価な動画編集ソフトのタイムラインをコンマ数秒単位で削るためだけに冷え切っている。

「このままじゃ、彼女たちの青春の貴重な時間を、私の無能さのせいで食いつぶしてしまう……」

 強く噛み締めた下唇から、じわりと鉄の味が広がった。胃の奥を焦がすような焦燥感と、逃げ場のない自己嫌悪が、夜の事務所の静寂の中でドロドロとした黒い感情になっていく。それでも、手だけは動かし続けた。絶望は、明日の朝までいくらでも取っておける。

 その夜、私はとうとう、ノートパソコンの画面を閉じずに、まっさらな企画書のテンプレートを開いた。教本の理論ではなく、自分自身の直感と、彼女たちの現状の観察から組み立てる、まったく新しいアプローチを形にする時が来ていた。翌日の午後には、大類とは違う相手――メンバー自身に、この計画を打ち明けるつもりだった。

4

 その日の夕方、LUMINAの三人が共同生活を送るアパートの部屋に、私はいた。レッスンのない日の彼女たちの部屋は、生活感というよりも、どこか「戦時中の兵舎」のような、張り詰めた空気が漂っていた。

 部屋の中央に置かれた小さな折りたたみテーブルの上には、メンバーが持ち寄ったコンビニの半額おにぎりと、一玉を細かく刻んだキャベツの塩揉み、そして私が差し入れたチキンナゲットが並んでいた。

「今日、竹下通りでのビラ配り、本当にありがとう。写真、見たよ」

 私がそう切り出すと、ハルカが少し恥ずかしそうに肩をすくめた。

「たった三枚しか受け取ってもらえなくて、力不足で……」

「三枚じゃないの。あなたたちが自分の判断で動いてくれたことが、私にはすごく大きな意味を持ってる。……ただ、あなたたちにそんな思いをさせている今のやり方自体が、もう限界だと私は思ってる」

「みんな、食べて。食べながらでいいから、ちょっと真面目な話をさせて」

 私はノートパソコンを開き、三人の顔を見つめた。ハルカ、ユイ、リナは、私の真剣な表情に、箸を止めて姿勢を正した。

「今のままのSNSの運用方法では、私たちは永久にこの暗闇から抜け出せない。それは、大類社長に言われるまでもなく、私が一番痛感している。……だから、戦略を根本から変える」

 私はノートパソコンの画面を三人に見せた。そこには、現在の地下アイドルシーンで、オーガニックなバズを起こして急速に知名度を上げている他グループの動画データが、細かく分析されたシートが表示されていた。

「これを見て。今、TikTokやInstagramのショート動画で『おすすめ』に載るための絶対的な条件は、完璧に作り込まれた『美しさ』じゃない。むしろ、視聴者が『自分と同じ生身の人間がそこにいる』と感じられるような、偶発的なリアリティ、つまり『生の感情の露出』なの」

 三人は、画面の数字を凝視している。

「LUMINAの今の投稿は、確かに綺麗。私がエフェクトをかけて、映画みたいに仕上げてるから。でもね、それって裏を返せば、視聴者にとって『ただの綺麗な広告』に見えて、一瞬でスクロールされちゃうのよ。私たちが届けるべきなのは、完璧に作り込まれたアンドロイドのようなアイドルじゃない。……この東京の片隅で、バイトに明け暮れ、お金に困窮しながらも、ステージの上で命を燃やしている、あなたたちの『本当の必死さ』そのものなの」

 ハルカが、小さく唇を開いた。「私たちの……本当の必死さ、ですか?」

「そう。だから、次のライブから、新しい試みを導入する。新曲『モノクローム・シティ』の披露中のうち、一曲だけ、ファンの方々がスマートフォンで動画を撮影し、SNSに投稿することを許可する『撮可(撮影可能)タイム』を設定するわ」

「えっ……撮影可能ですか?」ユイが驚いたように声を上げた。「地下のハコでそれをやると、カメコの人たちが最前を占拠して、他のファンとトラブルになったりしませんか?」

「そのための現場ルールは、私が徹底的に管理する。最前管理の連中にも、釘を刺しておくわ」私はユイの目をまっすぐに見つめた。

「大事なのはそこじゃない。撮影を許可することで、ファンの方々のスマートフォンという『無数の窓』を通じて、ステージの上のあなたたちのリアルな姿を、インターネットの海へ同時に放流させるの。そしてユイ、あなたに一つ、宿題がある」

「私に……ですか?」ユイが自分の胸に手を当てた。

「次の新曲『モノクローム・シティ』のサビの振付、ERI先生が作ったベースのものがあるけれど、その一部を、あなたが『アイドル目線』で、誰でも真似したくなるような、キャッチーなキャッチコピーになる振付にモディファイ(修正)してほしいの」

「私が、振付を直す……?」ユイの顔に、明らかな戸惑いと不安が広がった。「そんな、私、ダンスのプロでもないのに、ERI先生の振付を変えるなんて……」

「プロじゃないからいいのよ」私はユイの両手を優しく握りしめた。

「元アイドルの振付師たちの言葉を調べたわ。彼女たちが作る振付がなぜ爆発的にバズるか分かる? それはね、『歌うときのマイクの持ちやすさ(片手での踊りやすさ)』や『激しく歌唱しているときでも体幹が崩れない重心移動』が、徹底的に計算されているからなの。現役のアイドルであるあなただからこそ分かる、ステージの上で一番自分が可愛く見えて、かつ、スマートフォンの狭い画面フレームの中にきれいに収まる動きが必ずあるはず。それを、あなたの頭で考えてほしいの」

 ユイは私の言葉を反芻するように、じっと自分の手のひらを見つめていた。それから、隣に座るリナの方を、遠慮がちにちらりと見た。

「……リナちゃん、私が振付変えるの、正直、嫌じゃない? ERI先生の振付、大事にしてるだろうし」

 リナは箸を止め、少し考えるような表情を見せた。

「先生の振付が完璧なことと、あなたが改良点を見つけることは、別の話でしょ。……私は、あなたが本気で考えたものなら、文句を言うつもりはない」

 それは、リナにしては珍しく、まっすぐな肯定の言葉だった。ユイは少し驚いたように目を見開き、それから小さく笑った。

「……ありがとう、リナちゃん。じゃあ、頑張ってみる」

 ユイの瞳に、戸惑いから確かな「覚悟」の光が宿るのが見えた。

「……分かりました、青木さん。私、やってみます。スマートフォンの画面の中で、一番LUMINAが可愛く、強く見える動き、絶対に見つけます」

「ありがとう、ユイ」

 私は続いて、ハルカとリナに向き直った。

「ハルカ、あなたはバズが起きたとき、その興味を持ってくれた新しい人たちを『定着』させるための、Instagramでの言葉を紡いで。飾らない、今のあなたの等身大の感謝と葛藤を、ストーリーズに毎日上げるの。リナ、あなたはYouTubeのプラットフォームを任せるわ。TikTokで私たちの存在を知った人が、次に必ず訪れるのがYouTubeよ。そこで、一切の編集やごまかしのない、私たちの『圧倒的な実力』を見せつけるための、定点カメラでのダンスプラクティス(練習)動画を撮影するわ。準備はいい?」

 ハルカとリナは、お互いの顔を見合わせると、力強く頷いた。「はい。いつでもいけます、青木さん」

「私、YouTubeの編集ソフトの使い方、実はまだよく分かってません」リナが、珍しく素直に弱みを口にした。

「大丈夫。基本的な操作は私が教えるし、定点撮影だから編集自体はほとんど必要ないの。あなたが得意な『正確さ』が、そのまま動画の説得力になるわ」

「……分かりました。やります」

 リナは短く答え、それ以上は何も言わなかったが、その声にはさっきまでの硬さが少し取れているように、私には感じられた。彼女がこうして自分の不安をそのまま口にするのは、私が知る限り、これが初めてだった。

「よし。奇跡を待つのは、もう終わり。これからは、私たちが緻密なロジックと、あなたたちの圧倒的な才能で、アルゴリズムという名の神をハッキングするのよ」

 折りたたみテーブルの上、冷め切ったチキンナゲットの横で、ノートパソコンの液晶画面が、彼女たちの決意に満ちた顔を、これ以上ないほど熱く、青白く照らし出していた。

5

 深夜三時。メンバーのアパートを後にし、私は再び事務所のデスクに戻っていた。私の頭の中は、次のライブで仕掛ける「LUMINAハッキング計画」のタイムラインと、具体的なコンテンツの導線設計で完全に埋め尽くされていた。

「中身のないバズは、底の抜けたバケツに水を汲むようなものよ……」

 私はノートの白紙のページに、激しい筆致で図を書き殴っていった。ただ一瞬、TikTokで動画がおすすめに載って再生回数が回ったとしても、そのプロフィール欄から「次の行動」への導線が綺麗に設計されていなければ、ユーザーは一瞬で消費し、二度と戻ってはこない。

 ステップ一:TikTokによる「認知の爆発」。ユイが考案するキャッチーな振付と、撮可タイムでファンが撮影した「生のリアリティ」を伴う15秒の動画を、ハッシュタグ『#LUMINAスマイル』でトレンドに放り込む。

 ステップ二:YouTubeによる「実力の証明(ファン化)」。TikTokで興味を持ち、リンクを踏んだユーザーを、YouTubeに事前に用意しておいた「一切編集なしの定点ダンスプラクティス動画」へとスムーズに移行させる。ここで、「ただ運良くバズっただけの可愛いだけのグループ」ではなく、「圧倒的なスキルを持つ本物のグループ」であることを突きつけ、一過性の興味を深い「リスペクト」へと昇華させる。

 ステップ三:Instagramによる「愛着の醸成(コアファン化)」。ハルカの等身大の言葉、日常の葛藤、ストーリーズ機能でのQ&Aを通じて、新規ユーザーとの距離を一気に縮め、コミュニティへの「所属感」を与える。

 認知から興味、そしてコアファンへの定着にいたる、完璧なバケツの導線設計。お金がないなら、知恵を使う。リソースがないなら、メンバーとのプロフェッショナルな連携で、システムそのものをハックする。

 私は何度も図を修正し、各プラットフォームのアナリティクスタグの設定を確認した。指先がキーボードの上を狂ったように走り、ブラウザのタブが何十個も開かれていく。

 疲労は、とうに限界を超えていた。肩の筋肉は鉄板のように硬直し、頭痛はさらに激しさを増している。しかし、私の脳内を駆け巡るアドレナリンが、眠気という名の怪物を完全に押さえつけていた。

 これが、私の生きる戦場だ。誰もいないデジタルの虚空に向かって、ただ闇雲に叫ぶ日々は、今日で終わりだ。私はバックミラーに映る彼女たちの、あのコンビニ飯を分け合う生々しい必死さを思い出した。彼女たちの人生の重みが、私の背中を強く、強く押し続けている。

「待ってて、みんな。私が、あなたたちのために、このデジタルの闇の中に、絶対に消えない巨大な光の窓をこじ開けてみせるから」

 この計画書を、私はまだ誰にも見せていない。明日の朝、三人に説明する段になって初めて、私が今夜一人でここまで詰めていたことを彼女たちは知るだろう。本当なら、今夜のうちにグループチャットで進捗を共有し、彼女たちの意見も聞くべきだったのかもしれない。それでも私は、まだ完璧に仕上がっていない計画を彼女たちに見せることに、どうしようもない抵抗を感じていた。不完全なものを見せれば、彼女たちを不安にさせる。そう思い込んでいる自分が、本当に彼女たちのためを思っているのか、それとも「頼りになるマネージャー」でいたいだけなのか、深夜三時の頭では、もう判断がつかなかった。

 窓の外で、始発電車の走行音が微かに響いた。この街のどこかで、同じ時間に眠らずに何かと向き合っている人間が、私一人ではないはずだと思うと、少しだけ気持ちが軽くなった。私はもう一度キーボードに向き直り、ステップ一からステップ三までの導線図に、細かな矢印と注釈を書き加えていった。窓の外の空が、少しずつ白み始めている。

 夜明けの光が、事務所の窓ガラスを紫色のグラデーションに染め始める頃、私はようやく、完璧に構築されたプロモーション戦略シートを書き終えた。液晶モニターの向こう側、LUMINAのフォロワー数「350」という数字が、まるでこれから始まる巨大なムーブメントの前触れであるかのように、私の瞳の奥で静かに、しかし熱く輝いていた。

 この数字が、次に私の前に現れる時、どんな姿に変わっているのか。今の私にはまだ、想像することしかできなかった。だが、想像できるということ自体が、三週間前の、ただ絶望するしかなかった自分とは、確かに違う場所に立っている証だった。夜明けの光を浴びながら、私はゆっくりと立ち上がり、冷え切ったコーヒーの残りを飲み干した。


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