第6章 チェキ券1500円の境界線
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週末の午後八時。原宿の明治通りから一本入った裏路地にある地下ライブハウス「アストロホール」のロビーは、酸欠になりそうなほどの熱気と、男たちの歪んだ情熱で満ちていた。
天井の低いコンクリート剥き出しの空間に、出演アイドルたちの重低音とファンのコールが壁を透過して地鳴りのように響いてくる。壁一面に貼られたバンドのツアーポスターや落書きの隙間で、私たちはいつものようにパイプ椅子を広げ、長机を設営していた。
「LUMINA特典会始めます! チェキ撮影、サイン付き一枚1500円です! メンバーとのトークは一分間でお願いします! 列の後ろの方は通路を塞がないよう、壁沿いに一列でお並びください!」
私は右手にストップウォッチ、左手に千円札の束とチェキ券を握りしめ、喉が張り裂けんばかりの声で叫んだ。今日の対バンイベントは週末のゴールデンタイムということもあり、フロアの動員は実数で百人を超えていた。LUMINAのパフォーマンスも上々で、都会の孤独を鋭利に切り取るようなダンスは、確実に新規の観客の足を止めさせていた。
その結果が、今、目の前にある「列」だった。
並んでいるのは全部で九人。私たちの規模からすれば、これは小さな「大盛況」と呼んで差し支えない数字だった。数ヶ月前の下北沢の惨状を知っている私にとって、この九人の列は、地味だが確かな前進の証だった。
「青木さん、お疲れ! 今日もハルカちゃんの落ちサビ、完全にキマってたね。鳥肌たったわ」
列の先頭に立っていたのは、いつもの大学生、タカシだった。彼はLUMINAが結成された最初期から通い詰めている、いわゆる「おまいつ」の筆頭格である。週に三回のライブのほぼすべてに顔を出し、物販では必ず最初にハルカの列に並ぶ。彼のような存在が、地下アイドルの初期の経済的・精神的基盤を支えているのは紛れもない事実だった。
「タカシさん、いつもありがとうございます。最前列でのコール、ステージ袖までしっかり聞こえていましたよ。はい、チェキ券二枚で三千円になります。ハルカのところへどうぞ」
私は笑顔で三千円を受け取り、代わりにピンク色の手作りのチェキ券を二枚手渡した。
長机の向こう側では、ネイビーのレース衣装を纏ったハルカが、タカシを見つけて「あ、タカシくん!」と嬉しそうに両手を振った。
「ハルカちゃん、今日も最高だった」
「本当? 嬉しい! タカシくんが最前で見守ってくれてるの、ちゃんと見えてたよ」
ポラロイドカメラのフラッシュが狭いロビーに炸裂し、白いフィルムがジジジと音を立てて吐き出される。ハルカは慣れた手つきでフィルムを振り、浮き上がってきた画像に黒い油性マジックでサインと今日の日付、そして「いつもありがとう」という文字を素早く書き込んでいく。その間も、彼女の口はタカシとの会話を絶え間なく紡いでいた。
たった一分間、千五百円の対価として支払われる、世界で一枚だけの親密さ。これが地下アイドルの生命線であり、すべてだった。ファンはステージの上の遠い存在を眺めるだけでなく、この一分間のためにアルバイトをし、汗を流し、なけなしの金を握りしめて地下の階段を下りてくる。自分を認識してもらい、自分のためだけに微笑んでもらい、自分の名前を呼んでもらう。その疑似恋愛的な、あるいは強烈な承認欲求の充足こそが、この歪なビジネスを動かす巨大なガソリンだった。
私は一分、二分と正確にストップウォッチのデジタル数字が進むのを見つめ、二枚目のチェキの時間が切れた瞬間に、タカシの肩にそっと手を置いた。
「はい、タカシさん、お時間です。ありがとうございました」
「あ、もう? 早いなあ。ハルカちゃん、また次の火曜日の定期ライブも行くからね」
「うん、待ってるね! 気をつけて帰ってね!」
タカシは名残惜しそうにハルカの手を離し、列の外へと去っていった。
私はその背中を見送りながら、ストップウォッチをリセットし、次のファンを呼び込む。タカシのようなファンは、マネジメント側からすれば「優良な顧客」である。ルールを守り、適度な距離感を保ち、定期的に金を落としてくれる。彼のような存在ばかりなら、この仕事にはきっと今よりずっと少ない緊張感で向き合えるはずだった。
しかし、ファンコミュニティというものは、そんな美しい善意だけで維持できるほど甘い場所ではなかった。
2
列の四番目に並んでいた男が、私の前に進み出てきた。
名前はコウジ。三十代後半の、いつも仕立ての悪いヨレたチェックシャツを着ている男だった。彼はユイの熱狂的なファン――というよりも、コミュニティ内では「ガチ恋」として有名な男だった。
「……青木さん、チェキ、四枚で」
コウジは財布から、くたびれた五千円札と千円札を一枚ずつ取り出し、無造作に机に置いた。
「四枚ですね。六千円になります。メンバーとのトーク時間は合計で四分間となります」
私は機械的にチェキ券を四枚ちぎり、彼に渡した。コウジはそれを受け取ると、視線を一切私と合わせることなく、ユイの正面へと進んだ。
六千円。今日一日の売上のうち、実に五分の一近くを、この一人の男が支払っている。その事実が、私の頭のどこかで、判断の天秤を静かに傾けさせているのを、私自身も薄々自覚していた。
ユイの顔が一瞬、ほんの微かにこわばったのを私は見逃さなかった。
「あ、コウジさん、こんばんは……」
「ユイちゃん、今日のライブさ……」
コウジの声は低く、そして粘り気を含んでいた。彼はユイとのチェキ撮影の際、不自然にユイの肩に自分の身体を近づけようとした。私はすかさず「コウジさん、メンバーへの身体接触は禁止となっております。一歩引いていただけますか」と冷たく警告を発した。コウジはチッと小さく舌打ちをし、渋々身体を離した。
撮影が終わり、四分間のトークタイムが始まる。
コウジは長机に両肘を突き、ユイの顔を貪るように見つめながら、早口で話し始めた。
「ユイちゃんさ、昨日、ツイッター(現X)で『夜ご飯、友達と食べてお腹いっぱい!』って写真上げてたじゃん。あの写真の背景に映ってるグラスさ、二つあったよね。あれ、誰と行ったの? 男?」
ユイの笑顔が、完全に凍りついた。
「え……? あ、あれは、高校のときの女の友達だよ? 久しぶりに地元で集まって……」
「女の友達なら、どうして友達の写真を上げないの? いつもなら『友達と遊んだ!』ってツーショット上げるじゃん。隠すってことは、男なんじゃないの? 俺、ユイちゃんが他の男とご飯行ったりするの、本当に無理なんだけど。俺がどれだけユイちゃんのためにチェキ代使ってるか、分かってる?」
コウジの言葉は、応援ではなく、完全な「査問」であり、精神的なストーキングだった。
ユイは必死に否定しようと「本当に違うの、信じて……」と言葉を詰まらせている。彼女の細い指先が、チェキを持つ手で小刻みに震えていた。
私はストップウォッチのデジタル数字を睨みつけながら、内心で自分に問いかけていた。今すぐ間に入り、時間の途中でこの査問を打ち切るべきではないのか。だが、四分きっかりで切れば、コウジはまた「話の途中だった」と騒ぎ立て、周囲のファンの前で現場が荒れる。荒れれば今日の残りの物販の空気も悪くなる。それに、彼を今日この場で完全に敵に回せば、今後の彼のチェキの売上――今月だけでも累計で数万円になる金額――は、確実にゼロになる。
そんな計算が、一秒にも満たない速さで、私の頭の中を通り過ぎていった。私は結局、規定の四分間が満了するまで、割って入ることをしなかった。
ガチ恋。
彼らの熱量は、時として一回の物販で数万円を費やすほどの爆発力を持つ。売上の立たないインディーズ初期において、彼らの経済力は喉から手が出るほど欲しいものである。大類社長などは「ガチ恋なんて勘違いさせて金を引っ張れるだけ引っ張ればいいんだよ」と平然と言うが、現場でタレントを守る立場からすれば、それは精神的な時限爆弾を抱えるのと同義だった。
彼らは投資した金額の多さに比例して、「アイドルを私物化する権利」を獲得したと錯覚し始める。そして、アイドルの私生活やSNSの一挙手一投足に異常な監視の目を向け、少しでも自分の理想から外れると、「裏切られた」という強烈な被害妄想を抱いて暴走するのだ。
私はその理屈を、誰よりも正確に理解していた。だからこそ、コウジのような男を本当は今この瞬間に切るべきだと、頭の芯では分かっていた。分かっていながら、私は今日もまた、その判断を「次の機会に」と先延ばしにした。
二分、三分……コウジの独りよがりな追及はエスカレートし、ユイは今にも泣き出しそうな表情で俯いていた。
「はい、コウジさん、四分経過しました。お時間です」
私は正確に四分が経った瞬間、コウジとユイの間に割って入るようにして身体を滑り込ませた。
「おい、まだ話してる途中だろ! 空気を読めよ!」
コウジが激昂し、ロビー中に響き渡るような大声で私を怒鳴りつけた。周囲のファンたちの視線が一斉にこちらに集まる。
「ルールですので。他のお客様も後ろにお並びです。コウジさん、これ以上メンバーに威圧的な態度を取られる場合は、今後のイベントへの出入りを禁止とさせていただきます」
私は感情を一切排した、冷徹な仮面のような声で言い放ち、まっすぐにコウジの目を睨みつけた。
ここで一歩でも引けば、現場の統制は完全に失われる。ファンを単なる「お客様」として甘やかすだけでは、コミュニティは内側から腐敗し、タレントの精神は崩壊してしまうのだ。彼らは「応援してくれるありがたい存在」であると同時に、常に毅然とした態度でコントロールしなければならない「利害関係者」でもあった。
コウジは私と数秒間視線をぶつけ合わせた後、フンと鼻を鳴らし、ユイのチェキを乱暴に引っ掴んでロビーの奥へと去っていった。
「……ユイ、大丈夫?」
私はすぐにユイの元へ駆け寄り、背中に手を当てた。
「……はい、青木さん。ありがとうございます。……ちょっと、怖かった」
ユイは涙を堪えるように何度も瞬きをし、深呼吸をしてから「次の型、どうぞ!」と、再びプロの笑顔を作って叫んだ。その痛々しいほどの健気さに、私は胸の奥をキリキリと締め付けられるような痛みを覚えた。
物販の合間、次のファンが並ぶまでのわずか数十秒。私はユイの背中に手を添え、小声で囁いた。
「本当に大丈夫? 今日はもう、無理して笑わなくていいから」
「いえ……大丈夫です。あと少しだから、頑張ります」
ユイは小さく首を振り、震える指先で自分の頬を軽く叩いた。私はその健気さに救われながらも、同時に、彼女がこうして無理を重ねることに慣れてしまっていることへの、名前のつけられない不安を覚えていた。彼女が「大丈夫」と言うたび、私はその言葉を額面通りに受け取ってきた。だが、それは本当に大丈夫だからなのか、それとも、私にこれ以上心配をかけたくないからそう言っているだけなのか。私はまだ、その区別をつける自信がなかった。
長机の反対側で、リナがその一連のやり取りを、無言のまま見つめていた。彼女は自分の列のファンとの撮影の合間、ほんの数秒だけユイの方に視線をやり、それからまた自分の前に立つファンへと笑顔を向け直した。表情には何も出さなかったが、次にユイの列が空いた瞬間、リナは自分の長机の下に置いてあった小さな紙コップの水を、何も言わずにユイの手元へすっと滑らせた。ユイはそれに気づき、一瞬だけ驚いたように顔を上げたが、リナはもう次のファンへの対応に戻っていて、目を合わせようとはしなかった。
3
物販の列が途切れ、LUMINAの長机の前には静寂が戻ってきた。
まだ制限時間は十五分ほど残っている。ハニークローバーのブースからは相変わらず賑やかな声が聞こえてくるが、私たちの周りにはもう誰もいない。
すると、ロビーの隅で腕を組んでこちらを見ていた三人の男たちが、ゆっくりと長机へと近づいてきた。
彼らはタカシたちのような「おまいつ」とは明らかに違う、特有の威圧感を放っていた。首からは高級なデジタル一眼レフカメラをぶら下げ、耳には無線インカムをつけている。
彼らこそが、この界隈のライブハウスの最前列を不法に占拠し、新規のファンを徹底的に排除する「最前管理」と呼ばれる厄介な古参グループの幹部たちだった。
彼らは自分たちのお目当てのアイドルの出番のときだけ最前列を陣取るだけでなく、他のグループの出番のときにも最前列の場所を他のファンに譲らず、自分たちの仲間内だけで回したり、最前列で観たいファンに対して「場所代」として法外な現金を要求したりする、現場の暗部だった。
「あ、青木マネージャー。ちょっといい?」
リーダー格の、恰幅のいい男――通称「クマ」が、長机にどっかりと手を置いて私を呼んだ。
「何でしょうか、クマさん」
私は笑顔の裏で、警戒レベルを最大に引き上げた。
「さっきさ、うちの若い奴がリナちゃんのステージ撮ろうとしたら、青木さん止めたよね? 今日のイベント、主催者側は『撮可(撮影可能)』ってアナウンスしてたはずだけど。なんでLUMINAだけダメなわけ?」
クマは不満げにカメラのレンズを弄りながら言った。
「今日のイベント全体としては撮影可能ですが、LUMINAに関しては、公式SNSおよび物販POPで事前告知させていただいている通り、撮影は『運営が許可した特定のプロモーション曲のみ』となっております。本日のステージでは撮影許可曲は設定しておりません。ルールは一律で適用させていただいております」
私は理路整然と返した。
最前管理やカメコ(カメラ小僧)と呼ばれる層は、機材に何十万円も投資しているプライドがあり、自分たちが「特別な絵」を撮るためなら、運営の細かいアナウンスなど無視してシャッターを切りたがる。そして、それを注意されると「俺たちが綺麗に撮って拡散してやってるんだから、ありがたく思え」と、さも恩着せがましい態度を取るのが常だった。
「ケチくさいこと言うなよ。リナちゃんのあのソロダンスの瞬間とか、うちの機材でバチバチに綺麗に撮ってツイッターに上げたら、それだけで宣伝になるだろ? 新規が増えて嬉しいのはお前ら事務所も一緒じゃん」
クマの隣にいた男が、小馬鹿にしたように笑う。
「皆様に美しく撮影していただき、拡散していただけることは大変ありがたく思っております」
私は声を一段落とし、彼ら三人を見据えた。
「ですが、私たちの最優先事項は、ステージの上のメンバーが、許可されていないカメラのフラッシュやアングルに怯えることなく、百パーセントのパフォーマンスを発揮できる環境を守ることです。もし、カメコ席や撮可タイムを正式に導入する際には、すべてのファンの方々が公平に、かつ安全に楽しめるルールをこちらで設計し、アナウンスいたします。それまでは、例外は一切認めません」
私の毅然とした、一歩も引かない態度に、クマはつまらなそうに頭を掻いた。
「相変わらずお堅いね、LUMINAのマネージャーは。まあいいや。でもさ、次のワンマンのとき、最前のエリアのチケット、俺たちに優先的に回してくれるんだよね? いつも現場支えてやってるの、誰だか分かってるよね?」
「チケットの販売に関しては、すべてプレイガイドを通した厳正な抽選とさせていただきます。特定の方への優先販売は行っておりません」
「……チッ、使えねえな」
クマたちはそれだけ言うと、吐き捨てるように背を向け、ハニークローバーの物販の方へと歩いていった。
長机の横で、ハルカが小さく息を漏らすのが聞こえた。
「……青木さん、すみません。私たちのために、いつも悪役になってもらっちゃって」
ハルカは申し訳なさそうに、私のシャツの裾を引いた。
「いいのよ。私はあなたたちのマネージャーであり、この現場の『法』なのだから」
私はハルカに向かって、悪戯っぽくウインクしてみせた。
「ファンの方々は、LUMINAを支えてくれる大切な宝物。でもね、全員が善意の塊ではない。エゴもあれば、独占欲もある。それを適切な枠組み(ルール)の中に閉じ込めて、誰も傷つかない空間を維持することこそが、私の本当の仕事なの。あなたたちは、そんな大人の泥臭い駆け引きなんて一切気にせず、ステージの上でただ純粋に輝いていればいいのよ」
私の言葉に、ハルカは安心したように、今日一番の、本当の意味で憑き物が落ちたような笑顔を見せてくれた。
その隣で、リナだけが長机の脚を、いつもより少し強い力で握っていた。
「リナ、クマさんたちの言い方、気になった?」
私が声をかけると、リナは一瞬だけ視線を上げ、それからすぐに逸らした。
「……別に。あの人たち、いつも私の名前だけ出して、勝手に持ち上げるから。撮りたいのは私のダンスじゃなくて、自分の機材の腕前を自慢したいだけなんだろうなって、思うだけです」
淡々とした口調だったが、その言葉の奥には、彼女がいつも隠している、微かな苛立ちと、居心地の悪さが滲んでいるように私には聞こえた。リナは自分の実力を「利用される対象」として扱われることに、人一倍敏感なのかもしれない。
「……前にも一度、似たようなこと言われたことがあって」
リナが、珍しく自分から言葉を続けた。
「地元にいた頃、ダンスの発表会で、知らない大人に『その振り、うちの生徒にも教えてやってよ』って、まるで私のダンスが誰かの持ち物みたいに言われたことがあったんです。……あの時から、ちょっとだけ、人に見られることが怖くなりました」
私は初めて聞く話だった。リナが自分の過去について、こんなふうに具体的に語ることは、これまでほとんどなかった。
「それでも、あなたはステージに立ち続けてる」
「立たないと、悔しいから」
リナはそれだけ言うと、また元の無表情に戻った。私はそのことに気づきながらも、今はそれ以上踏み込まず、ただ「そうだね」と短く応じるだけにした。
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「本日のLUMINAの特典会はすべて終了とさせていただきます! ありがとうございました!」
午後九時。物販終了のブザーとともに、私は長机を素早く解体し、衣装コンテナの中へと詰め込んだ。今日の総売上を集計する。チェキ券、合計で二十一枚。売上、三万千五百円。
週末の効果、そして新規のファンが何人か並んでくれたおかげで、ここ数ヶ月の中で最も高い数字を記録していた。これなら、今日消費したハイエースのガソリン代と、メンバー三人の明日の交通費の実費を全額支給しても、事務所にわずかながら利益を残すことができる。
「みんな、今日の売上、これ。今日の分の交通費と、それから今週分の活動手当、ちゃんと社長から許可もぎ取ってきたから」
私はハイエースの車内で、三人にそれぞれの現金が入った封筒を手渡した。
「ありがとうございます、青木さん……!」
ユイは封筒を受け取ると、まるで命の恩人に感謝するかのように両手でそれを握りしめた。これで今週は、半額のおにぎりをハルカと半分こにするような惨めな思いをせずに済むはずだ。
「ハルカ、喉の調子はどう? 後半、ちょっと掠れてた気がしたけれど」
私は運転席に座り、バックミラー越しにハルカを見た。
「大丈夫です。少し乾燥してただけなので、帰ったらしっかり蜂蜜舐めて寝ます」
「リナ、今日のクマさんたちの件、怖かった?」
「……別に」
リナは窓ガラスに額を押し付けたまま、淡々と答えた。
「ルール守らない人たちは、私のファンじゃなくて、ただのカメラのファンだから。気にしていません」
リナのその冷徹なまでのプロ意識と割り切りに、私は驚かされると同時に、深く感心させられた。彼女は誰よりも若いが、誰よりもこの世界の「本質」を見抜いているのかもしれなかった。
「ねえ、リナちゃん」
ユイが、封筒をバッグにしまいながら、ふと横から口を挟んだ。
「そんなにいつも『別に』『気にしてない』って言うけど、たまには気にしたって言ってもいいんだよ。私、さっきコウジさんに絡まれたとき、本当は今も手がちょっと震えてるもん」
リナは黒目だけを動かして、ユイの方をちらりと見た。
「……気にしたところで、何か変わるんですか」
「変わらないかもしれないけど。誰かに聞いてもらうだけで、ちょっと楽になることもあるよ」
ユイはそう言うと、自分の掌をリナの目の前に差し出した。まだ微かに震えている。リナはそれを数秒見つめ、それから小さく、聞き取れるかどうかの声量で「……ありがとう」と呟いた。ユイは満足そうに笑い、その手をポケットの中にしまった。
ハルカが、バックミラーの中の私と目を合わせ、小さく笑いかけてきた。
「青木さん、今日も車内会議、開いてもいいですか? ちょっと反省点あるので」
「もちろん。でも、まずは十分休憩。今日は特に濃い一日だったから」
私はそう言って、車内の空気を換えるように少しだけ窓を開けた。冷たい夜風が、車内に籠った汗と香水と、微かな緊張の匂いを攫っていく。
十分ほど経って、ハルカが改めて口を開いた。
「今日の反省点、二つあります。一つは、三曲目のフォーメーション移動、私がユイの位置を確認しきれてなくて、少しぶつかりそうになったこと。もう一つは……さっきのコウジさんの件、私、隣にいたのに何もできませんでした。ユイを守るのは、リーダーの私の役目でもあるはずなのに」
ハルカの声には、悔しさが滲んでいた。
「あの場面、ハルカが口を挟んでいたら、コウジさんはもっとヒートアップしていたと思う。あなたはちゃんと、自分の持ち場——歌とファンサービス——を守っていた。それも立派な仕事よ」
私はそう答えたが、内心では、その言葉が自分自身にも向けられているのを感じていた。もっと早く割って入るべきだったのは、ハルカではなく私だ。彼女に「立派な仕事だった」と言いながら、私は自分の判断の遅れを、まだ誰にも打ち明けていなかった。
「……青木さんも、いつも一人で全部背負おうとしすぎです」
ふいに、ユイがそう呟いた。私は思わずバックミラーに視線を戻す。
「え?」
「なんとなく、そう思っただけです。……いつも私たちのことばっかり心配して、青木さん自身は大丈夫なのかなって」
ユイの言葉に、私は一瞬、返す言葉を失った。彼女は時々、こちらが油断した隙に、驚くほど鋭い場所を突いてくる。私は「大丈夫よ」と、いつもの答えを返そうとしたが、その言葉が今日はいつもより少しだけ薄っぺらく感じられた。
「……ありがとう、ユイ。心配してくれて」
私はそれだけ言うと、それ以上の会話を続けることができなかった。本当は、コウジのことも、資金繰りのことも、彼女たちには言えていないことがまだたくさんある。それを全部抱え込むことが、マネージャーとしての正しい在り方だと信じてきた。だが、たった今のユイの一言で、その信念に、ほんの小さな亀裂が入ったような気がした。守るべき相手に、自分の弱さの一部を見せることは、本当に「盾」としての役目を損なうことになるのだろうか。そのとき私は、その問いを考えるのではなく、脇へ置いた。
チェキ券千五百円という境界線。その薄いプラスチックの券一枚を巡って、私たちは毎日、金と、法律と、ネットの悪意と、そして人間の剥き出しのエゴと戦い続けている。ファンを愛し、ファンを憎み、ファンを管理する。その泥臭い現場調整の連続の果てにしか、彼女たちが目指す「本物の光」は存在しないのだ。
そして、私自身もまた、その境界線の上で毎日、小さな取引をしている。コウジのような危険の兆候を見せる客を、今日もまた「売上」という理由で見送った。その判断がいつか、もっと大きな代償を連れてくるかもしれないという予感を、私はまだ、頭の隅に押し込めたままにしていた。
私はハンドルを強く握り締め、アクセルを踏み込んだ。
ルームミラーの中で、三人はすでに、お互いの肩にもたれかかりながら、無防備な寝顔を晒して眠りに落ちていた。今日一日で交わした無数の駆け引きも、査問も、警告も、この寝顔の前ではすべて等しく無力になる。それでも私は、明日もまた同じ駆け引きの場に立つことを、少しも躊躇していなかった。
その少女たちの平穏な眠りを守るためなら、私は何度でも現場で悪役になり、何度でも冷酷な法廷闘争者になってみせる。
ハイエースは、エンジンの力強い駆動音を響かせながら、暗い首都高速道路を、光の方へと向かって走り続けた。
助手席の窓に額を預けながら、私は今日交わした小さな判断の一つ一つを、もう一度頭の中で並べ直していた。正しかったものと、正しくなかったかもしれないもの。その境界線は、今夜もまだ、はっきりとは見えてこなかった。




