第5章 大阪、空いた助手席
1
物販の集計を終え、片付けに入ったのは、閉店時間の少し前だった。
「今日の分、チェキ十二枚。売上、一万八千円。......想像より、多かったね」
私は、努めて明るい声で言った。
「でも、赤字ですよね」
ユイが、モップを手に取りながら聞いた。
「そうね。ガソリン代と高速代を引いたら、赤字」
「私たちが、青木さんにお金を払わせてる」
「そういう考え方はしないで。これは私が決めたこと」
私はそう答えたが、ユイの表情は晴れなかった。
誰からともなく、四人で客席とステージの床を拭き始めた。三十二人分の靴跡と、こぼれた飲み物の染みを、モップと雑巾で一つずつ消していく。誰に頼まれたわけでもない、四人だけの後片付けだった。
搬入口の店主が、掃除を終えた私たちを見て、少し驚いた顔をした。
「掃除まで、自分たちでやるのか」
「使わせていただいたので」
ハルカが答えた。
「今日は少なかったな、客」
「はい。でも、次は、もっと見てもらいます」
ハルカが、疲れた笑顔でそう言い切ると、店主は何も言わず、ただ小さく頷いた。私は、その短いやり取りを、少し離れた場所から見ていた。彼女の声には、疲労の底で、まだ折れていない何かが残っていた。
荷物をまとめ、控室に戻ったとき、部屋の空気が、それまでとは違うものに変わっていることに、私は気づいていなかった。
「今日の出来で、よく頑張ったなんて言いたくない」
最初に口を開いたのは、リナだった。汗の乾いていない顔で、まっすぐに私たちを見ていた。
「返しが聞こえなかったのは全員同じ。お客さんが少なかったのも、音響が悪かったのも言い訳にはできない。私たち自身が弱かった」
間違った言葉ではなかった。
だが、疲れ切った三人に、それを受け止める余裕はなかった。
「今、それ言わなきゃ駄目?」
ハルカが、声を荒らげた。
「みんな悔しいに決まってるでしょ。ユイなんて、本番中にイヤーモニターが外れても最後まで笑ってたんだよ」
「笑っていれば合格なの?」
「そんなこと言ってない!」
「じゃあ、何。慰め合って、次も同じことを繰り返すの?」
ユイが、二人の間に割って入ろうとした。
「二人とも、今日はもう」
けれど、ユイに向かって、リナは最も鋭い言葉を放ってしまった。
「泣けば誰かが守ってくれると思わないで」
控室の空気が凍った。
ユイの目に、みるみる涙が浮かぶ。それを見て、リナ自身も傷ついたような顔をした。それでも、一度抜いた刃を戻すことはできなかった。
「仲良しでいたいだけなら、私はいらない」
リナは、床に置いていたバッグを乱暴に掴むと、控室のドアを開けて出ていった。
「リナ!」
ハルカの声が、狭い通路に虚しく響いた。
2
私はすぐに、リナの後を追った。
裏口を出たところで、彼女の腕をつかんだ。細い雨が降り始めていた。
「全員で帰るわよ。話は東京に着いてからでいい」
雨の中で振り返ったリナの顔を、私は今でも忘れられない。
「青木さんは、いつもそれです」
その一言は、私の胸の奥に、まっすぐ突き刺さった。
「次で話す。あとで考える。数字が出たら決める。でも、今苦しいのは、今なんです」
言い返せなかった。
あの下北沢の楽屋で、ユイが「話したいことがあって」と言ったとき、私は「うん、後でね」と、その場をやり過ごした。大類に、資金繰りの本当の危うさを、いつも都合よく伏せてきた。時間を置けば冷静になれる。東京まで戻れば話せる。そう考えることで、私は何度も、目の前の痛みから逃げてきたのだ。
その事実を、リナに正確に見抜かれていた。
私が一瞬黙った隙に、リナは腕を振りほどいた。
「リナ、待って」
もう一度、声をかけようとした。だが、彼女はもう振り返らなかった。
雨の降る路地を、傘も持たずに歩いていくリナの背中を、私はただ見送ることしかできなかった。
3
控室に戻ると、ハルカがユイの肩を抱いていた。ユイは、両手で顔を覆ったまま、声を殺して泣いていた。
「リナは」
ハルカが、私を見て聞いた。
「一人で帰ると言っている」
「止めなかったんですか」
「腕を掴んだ。でも、振りほどかれた」
ハルカは、唇を強く噛んだ。それから、自分のスマートフォンを取り出し、震える指でメッセージを打ち込み始めた。
『電話に出なくていい。無事だとだけ教えて』
送信ボタンを押す音が、静かな控室に小さく響いた。
ユイも、涙を拭いながら、自分のスマートフォンを手に取った。
『怒っててもいいから、一人で終わらせないで』
私は、二人が送った文面を横目で見ながら、自分の業務用スマートフォンを取り出した。しばらく迷ってから、短い一文を打ち込んだ。
『東京で待っています。話は四人でします』
返信はなかった。
私たちは荷物をまとめ、ハイエースへ戻った。助手席には、誰も座らなかった。ハルカとユイは、後部座席に並んで座った。
雨は、大阪を出てもやまなかった。
ワイパーが規則正しく雨を払う音だけが、車内に響いていた。ユイは、窓に頭をもたせかけたまま、声を殺して泣き続けていた。ハルカは、何度もリナに電話をかけた。呼び出し音が途切れるたび、暗くなった画面を強く握りしめていた。
「私が、悪かったのかな」
しばらくして、ユイがぽつりと呟いた。
「私がイヤーモニター外れた時、ちゃんと手を挙げて止めればよかった。笑ってごまかしたから、リナちゃんを怒らせたのかもしれない」
「ユイのせいじゃない」
ハルカが、すぐに首を振った。
「じゃあ、誰のせい?」
「......誰のせいでもない。今日は、全員が限界だっただけ」
ハルカはそう言ったが、その声に、彼女自身も納得しきれていない響きがあった。私は、バックミラー越しに二人を見ながら、口を挟むべきかどうか迷い続けていた。今、私が何を言っても、それはきっと、また「後で」という言葉の延長でしかない気がした。
名神高速へ入ってしばらくした頃、私のスマートフォンが震えた。
リナからだった。
『帰っています』
たったそれだけだった。
安全を確認できた安堵より、四人で帰れなかった事実の方が、私の胸に重くのしかかった。
「リナから、連絡ありましたか」
ハルカが、後部座席から身を乗り出して聞いた。
「帰っていますって。それだけ」
ハルカは、小さく息を吐き、シートに背中を預けた。ユイは、何も言わずに、窓の外の暗い景色を見つめ続けていた。
東名高速に入り、東京までの距離を示す標識が、ヘッドライトの中に次々と現れては消えていった。私は、ハンドルを握る手に力を込めながら、頭の中で今日一日の判断を、何度も何度も繰り返し検証していた。
もっと早く、リナの苛立ちに気づくべきだったのではないか。モニターの不安定さを、もっと丁寧に説明すべきだったのではないか。何より、あの裏口で、私はもっと違う言葉をかけるべきだったのではないか。
答えは、まだどこにも見つからなかった。
しばらくして、再びスマートフォンが震えた。
『新横浜を過ぎました』
もうすぐ、東京に着く。それだけの、事務的な一文だった。それでも、その短い一行が、この夜、私たちがようやく手にできた唯一の確かな地図だった。
「もうすぐだって」
私がそう伝えると、ユイが初めて顔を上げた。目は真っ赤に腫れていた。
「新横浜って、私たちより先に着くってことですか」
「多分ね。新幹線の方が速いから」
「じゃあ、リナの方が先に、アパートに着くんですね」
ユイの声には、安堵とも寂しさともつかない色が混じっていた。
私は、それ以上何も言わなかった。ただ、アクセルを踏む足に、わずかに力を込めた。
東京の夜景が、フロントガラスの向こうに滲みながら近づいてくる。三人で積み上げてきたはずのものが、たった一晩の遠征で、こんなにも簡単に軋んでしまうのだという事実に、私は打ちのめされていた。
それでも、車は走り続けるしかなかった。
アパートの前に到着したのは、深夜三時を回った頃だった。二階の角部屋、リナの部屋の窓には、小さな明かりが灯っていた。
ハルカとユイは、その明かりを見上げたまま、しばらく車から降りようとしなかった。
「今日は、もう休みましょう」
私がそう促すと、二人はようやく荷物を持って、ゆっくりとハイエースを降りた。
私は、二人がアパートの階段を上っていく後ろ姿を見送りながら、リナの部屋の窓の明かりを、もう一度見上げた。
声をかけるべきかどうか、私はまだ決めかねていた。今夜、無理に話をすれば、また同じことを繰り返すだけかもしれない。だが、このまま何もせずに車を出せば、それはまた、私がいつも選んできた「後回し」と、何も変わらないのかもしれなかった。
結局、私はその夜、リナの部屋のドアをノックしなかった。
明日、もう一度話そう。そう自分に言い聞かせながら、私はハイエースのエンジンをかけた。
窓の明かりは、私が車を出すまで、ずっと灯ったままだった。
事務所へ戻る道すがら、私は何度も、あの裏口でのやり取りを頭の中で巻き戻した。
『青木さんは、いつもそれです』
あの一言は、正しかった。ユイの「話したいことがあって」という声を、私は今日まで一度も拾い直していない。大類に告げていない資金繰りの数字も、まだ机の引き出しの中に眠ったままだ。私はいつも、痛みを先送りにすることを、冷静さだと勘違いしてきたのかもしれない。
だが、今この瞬間、私に何ができるのかは、まだ分からなかった。
翌朝、練習スタジオに三人が揃ったとき、リナはいつもと変わらない顔をしていた。誰も、昨夜のことには触れなかった。私も、あえて何も聞かなかった。
それが正しい選択だったのか、それとも、また一つ、私が「後回し」にしただけなのか。その答えを、私はまだ持っていなかった。
4
大阪から戻って三日が経っても、練習スタジオの空気は、どこかぎこちないままだった。
振付は合っている。声も揃っている。だが、曲と曲の合間に交わされていたはずの軽口が、以前より明らかに少なくなっていた。リナは相変わらず正確にステップを刻み、ユイは笑顔を絶やさなかったが、その笑顔が、以前より少しだけ硬いことに、私は気づいていた。
誰も、大阪の夜のことを口にしなかった。それぞれが、それぞれのやり方で、あの夜をやり過ごそうとしているように見えた。
だが、その沈黙こそが、私がいつも選んできたものだと、今ならはっきり分かる。
レッスンが終わり、三人が帰り支度を始めたとき、私は初めて、自分から切り出した。
「今日、このあと少し時間をもらえる? ......ライブの準備でも、次の予定の話でもない」
三人が、驚いたように顔を上げた。
「今度でいいですか、じゃなくて?」
ユイが、少し茶化すように聞いた。だが、その声には、確かな緊張も滲んでいた。
「今日、話したい」
私はそう答えた。自分の声が、いつもより少しだけ強張っているのが分かった。
スタジオの隅、鏡張りの壁を背にして、四人で床に座った。いつものレッスン後の輪ではなく、誰も衣装に着替えていない、ただの四人としての輪だった。
「まず、私から話す」
私は、膝の上で両手を組んだ。
「リナが裏口で言ったこと、あれは正しかった。私はいつも、都合の悪いことを『後で』に変えてきた。ユイが話したいことがあると言った時も、大類社長に本当の資金繰りを伝える時も。......大阪で、あなたたちの間に亀裂が入りかけているのを見ていた時も。全部、今日じゃなくていいと、自分に言い訳してきた」
三人は、何も言わずに聞いていた。
「今日は、後回しにしない。......リナ、大阪で私に言ったこと、もう一度言ってくれる?」
リナは、しばらく黙っていた。それから、視線を膝の上に落としたまま、静かに口を開いた。
「......言い過ぎました」
その一言は、裏口で見せた鋭さとは、まるで違う声だった。
「ユイに言ったことも、ハルカに言ったことも。全部、本当に思っていたことです。でも、あんな言い方をする必要はなかった」
「リナちゃん」
ユイが、リナの方を見た。
「私、リナちゃんが言ったこと、間違ってないと思ってる。イヤーモニターが外れた時、本当は怖かった。笑ってごまかしただけ。......それを、ちゃんと言葉にできなかったのは、私」
「ユイのせいじゃない」
ハルカが、すぐに口を挟んだ。
「じゃあ、誰のせいなの」
リナが、初めて顔を上げ、ハルカを見た。
「誰のせいでもない。......強いて言うなら、全員が、いっぱいいっぱいだった。それだけ」
沈黙が落ちた。雨の匂いも、ワイパーの音も、もうここにはない。ただ、鏡に囲まれた狭い部屋の中で、四人の呼吸だけが聞こえていた。
「私、新幹線の中で、ずっと考えてた」
リナが、ぽつりと言った。
「東京に着いたら、辞めるって言おうと思ってた」
ユイの表情が、凍りついた。
「辞め......」
「自分がいなくなれば、二人がもっと楽になるんじゃないかって。......倉庫に戻るのは、怖くなかった。前からいた場所だから。でも、三人でいられなくなることの方が、ずっと怖かった」
「言わなかったじゃない」
ハルカが、震える声で言った。
「言えなかった。......ハルカからの電話、何回も来てたから。無視できなかった」
「無視してほしくなかったよ」
ハルカの目に、涙が浮かんだ。
「リナがいなくなるって考えるだけで、......今も、怖い」
リナは、しばらく黙っていた。それから、小さく頷いた。
「ごめん」
短い一言だった。だが、それだけで、部屋の空気が、わずかに緩むのが分かった。
「私も、謝る」
私は、三人の顔を順番に見た。
「あの裏口で、私はあなたを止めることしかできなかった。......リナが本当は何を怖がっているのか、聞こうとしなかった。マネージャーとして対応することばかり考えて、あなたという一人の人間の言葉を、ちゃんと受け止めていなかった」
「青木さんは、青木さんの仕事をしてただけです」
リナが言った。
「それだけじゃ、足りない。......これからは、後で話すじゃなくて、今、話す。それを、私からの約束にする」
完全に元通りになったわけではなかった。三人の間にできた小さな傷は、この一晩の会話だけで消えるものではないと、私は分かっていた。それでも、四人で同じ部屋にいて、同じ沈黙を分け合えることが、今夜はまだ、確かな一歩だった。
帰り際、リナがユイの前で足を止めた。
「イヤーモニター、次外れたら、すぐ手を挙げて」
「......うん」
「隠さなくていい」
ユイは、小さく頷いた。それから、少しだけ笑った。
「リナちゃんも、次苛立ったら、先に言ってね。一人で溜め込まないで」
リナは、一瞬だけ戸惑ったような顔をしたが、やがて短く答えた。
「......考える」
その素っ気なさに、ハルカが小さく笑った。張り詰めていた空気に、ようやく、いつもの温度が戻り始めていた。
スタジオを出ると、外はすでに暗くなっていた。三人は、いつものように並んで歩き、他愛のない話を始めていた。何かが完全に治ったわけではない。それでも、少なくとも今夜は、四人とも、一人で抱え込んだまま帰る夜にはならなかった。
次の対バンライブは、来週末に決まっていた。東京に戻ってきた、いつもの小さなライブハウスでの二十分間。遠くまで行かなくても、まだ積み上げるべきものは、目の前にたくさん残っていた。




