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ルミナスの軌跡  作者: 久遠 睦


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4/25

第4章 名古屋、届かない声

1

 深夜零時を過ぎた事務所で、私のスマートフォンが震えた。ハルカたちをアパートへ送り届け、ハイエースを駐車場に戻した直後だった。

 画面には、見覚えのない携帯番号が表示されていた。

「はい、スターライトエージェンシー、青木です」

『夜分にすみません。名古屋と大阪でライブハウスの制作をやっている者です。以前、下北沢のイベントで少しだけご挨拶させていただきました』

 名前に、はっきりとした記憶はなかった。それでも、いくつかの対バンイベントで顔を合わせたことのある、地方のライブハウスを何軒か掛け持ちしているブッキング担当者だということは、声の調子で分かった。

『来週末、名古屋と大阪で二日連続の対バンを組んでいるんですが、出演予定だった一組が、メンバーの怪我で飛んでしまって。......LUMINAさん、都合つきますか』

 心臓が、一気に目を覚ました。

「出演料は」

『正直に言うと、今回は出せません。会場費とスタッフ代でこちらもぎりぎりなので。ただ、物販の取り分は全部そちらに渡しますし、名古屋と大阪、どちらも系列の会場です。うちの箱で結果を出してもらえたら、次に東京で枠が空いた時、優先的に声をかけられます』

 出演料はゼロ。交通費も、宿泊費も、すべて自腹。

 私は、数秒も迷わなかった。

「やります。ありがとうございます」

『急な話で申し訳ないですが、詳細、明日の朝までに詰められますか』

「大丈夫です。今すぐにでも」

 通話を切ったあと、私はしばらく、暗い事務所の中で立ち尽くしていた。

 東京の外に、LUMINAをまだ知らない人がいる。まだ誰も彼女たちを見たことのない街が、この国のどこかにある。その事実だけで、指先の震えが止まらなかった。

 翌朝、大類社長に電話をかけた。

「社長、来週末、名古屋と大阪で対バンが入りました」

『地方? うちにそんな予算ないぞ』

「事務所には一円も負担させません。出演料はゼロですが、交通費と宿泊費は私が個人で立て替えます」

 電話の向こうで、しばらく沈黙が続いた。

『......お前、正気か』

「正気です。系列の会場なので、結果を出せば、東京の出演枠も回してもらえます」

『赤字が確定してる遠征に、お前の金を突っ込むってことだろう』

「はい」

 大類は、大きなため息をついた。

『好きにしろ。ただし、うちの経費は一円も使うな。車のガソリン代も、高速代も、全部お前の財布からだ』

「分かっています」

『それと、青木』

「はい」

『無理するなよ。お前が潰れたら、あの三人はもっと困る』

 珍しく、素直な言葉だった。私は少しだけ声を詰まらせながら、「はい」とだけ答えた。

 その日の夕方、レッスンスタジオでメンバーに話した。

「来週末、名古屋と大阪で対バンライブが決まったの。二日連続、東京を離れる遠征になる」

 三人は、一瞬、言葉を失っていた。

「東京の外......ですか」

 ユイが、目を丸くして聞き返した。

「そう。私たちのことを、まだ誰も知らない街よ」

「出演料は」

 リナが、いつもの冷静な声で聞いた。

「出ない。物販の取り分だけ。交通費と宿泊費は、私が立て替える」

「青木さんが、自分のお金で......」

 ハルカが、言いかけて口をつぐんだ。

「気にしなくていい。これは私が決めたこと」

 本当は、気にしないでほしいというのは強がりだった。今月の家賃の支払いに、また少し無理をすることになる。ただ、その計算を彼女たちに見せるつもりはなかった。

「私、行きたいです」

 最初に口を開いたのは、意外にもユイだった。

「東京で誰にも見てもらえないなら、他の街で見てもらえるかもしれない。それなら、行った方がいいと思います」

「私も」

 ハルカが続いた。「新しい場所で歌えるなら、絶対に行きたいです」

 リナは、しばらく黙っていた。

「......機材は、現地のものを使うんですよね」

「そう。搬入から音合わせまで、限られた時間の中でやることになる」

「分かりました。行きます」

 三人の目に、共通する光が灯っていた。それは、東京の狭いライブハウスで少しずつ積み上げてきた自信とは、少し違う種類のものだった。まだ見ぬ場所への、根拠のない期待。私はその光を守りたいと思う一方で、期待が大きいほど、裏切られたときの落差も大きくなることを知っていた。

 だが、そのことを口にはしなかった。今、彼女たちの目の前にあるこの小さな希望を、私が最初に曇らせるわけにはいかなかった。

 その夜、私は事務所に一人残り、遠征の準備リストを作った。

 高速道路の料金表。ガソリン代の概算。ホテルの空室状況。現地の天気予報。物販に持っていくチェキのフィルムの残量。衣装のクリーニング店の営業時間。すべてを一つずつ、ノートに書き出していく。

 項目を書き終える頃には、日付が変わっていた。合計金額は、私の予想を少しだけ上回っていた。支出の欄を見つめながら、私はその数字に怯む自分を、意志の力でねじ伏せた。

 この投資が回収できる保証は、どこにもない。それでも、彼女たちの歌を、東京という狭い箱の外へ持ち出さなければ、いつまで経っても「350人」という数字の外側には出られない。そう自分に言い聞かせながら、私はノートを閉じた。

 窓の外はすでに白み始めていた。数時間後には、また彼女たちを迎えに行かなければならない。

2

 金曜日の早朝、私たちは古いハイエースに荷物を積み込み、東京を出た。

 東名高速を西へ向かう車内は、いつもより静かだった。三人とも、慣れない長距離移動に、早くも身体を強張らせている。

「何時間かかりますか」

 ユイが、地図アプリの画面を覗き込みながら聞いた。

「休憩を挟んで、五時間くらい」

「五時間......学校の授業、何コマ分だろう」

「六コマくらいじゃない」

 ハルカが答える。

「六コマ分、ずっと座ってるの、無理です」

「対バンの時間は二十分だから、我慢して」

 リナが、窓の外を見ながら静かに言った。

 サービスエリアで一度休憩を挟み、私たちは正午過ぎに名古屋へ入った。会場は、繁華街から少し離れた雑居ビルの地下にある、こぢんまりとしたライブハウスだった。

 搬入口で待っていたのは、前日の電話の主だった男性と、四十代くらいの音響スタッフだった。

「遠いところ、ありがとうございます」

 音響スタッフが、私たちを見て軽く頭を下げた。

「東京から、ずっと運転してきたんですか」

「はい。交代なしで」

「それは大変だ」

 男性は、機材の準備をしながら、私たちの搬入を手伝ってくれた。物腰の柔らかい、話しやすい人だった。

 だが、リハーサルの時間は、想定よりも大きく削られることになった。

 直前に出演していたグループの照明機材にトラブルが発生し、修理と再設定に時間を取られたのだ。私たちの持ち時間は十五分。音合わせは、実質五分ほどしかできなかった。

「本番のモニター、多少不安定になるかもしれません。すみません」

 音響スタッフが、申し訳なさそうに言った。

「大丈夫です。よろしくお願いします」

 私がそう答えると、ハルカが隣で小さく頷いた。三人は、控室の狭い鏡の前で衣装に着替えながら、何度も小声で振付を確認していた。

 開演の時間になり、私はフロアの端から客席を見渡した。

 実数で、十人に満たなかった。

 対バン相手のファンたちも、自分たちの推しの出番が終わると同時に、次々とロビーへ流れていく。東京で何度も味わってきた光景と、まったく同じだった。ただ、その虚しさに、見知らぬ土地であるという事実が、さらに重くのしかかった。

 それでも、三人はステージの上で全力を尽くした。

 一曲目の途中、ハルカのマイクの音が、一瞬だけ小さく落ちた。私はステージ袖で、思わず身を乗り出した。

 だが、リナは動揺することなく、自分のマイクをさりげなくハルカの方へ向けた。ユイも、歌いながら半歩だけ横へ移動し、ハルカの声を自分の声で支えるように重ねた。三人の呼吸は、一瞬も乱れなかった。

 誰かの声が届かなくなれば、残りの二人が埋める。それは、この数ヶ月の間に、彼女たちが言葉ではなく身体で覚えてきたことだった。

 二十分のステージが終わり、私はタオルと水を持って三人を迎えた。

「ハルカ、マイク大丈夫だった?」

「はい。途中で音が落ちたのは分かりましたけど、二人がすぐカバーしてくれたので」

「客席、少なかったですね」

 ユイが、少し寂しそうに言った。

「でも、最後まで残ってくれた人たちの顔、ちゃんと見た?」

 リナが、ユイに聞いた。

「うん。ペンライトを振ってくれてた人、二人いた」

「その二人のために、私たちは今日、名古屋まで来たんだと思う」

 リナの言葉に、ハルカが小さく頷いた。まだこの時、三人の間には、確かな一体感があった。

 物販の長机の前には、六人が並んだ。そのうちの一人は、最後まで残っていたペンライトの二人組のうちの片方で、東京から遠征してきたという、地元の大学生だった。

「わざわざ名古屋まで来てくれる子がいるって、SNSで見て気になってたんです。今日、生で見られてよかった」

「ありがとうございます。また、東京にも来てください」

 ハルカが、チェキにサインを書きながら答えた。

「絶対行きます。今日のダンス、特にリナさんの動き、鳥肌立ちました」

 リナは、少し驚いたように顔を上げ、それから小さく頭を下げた。

「......ありがとうございます」

 たった六人の列だったが、その一枚一枚のチェキに、三人はいつもと変わらない集中力を注いでいた。売上は、チェキ六枚で九千円。それだけの数字なのに、東京から見知らぬ街まで来て、六人の人に自分たちの顔を覚えてもらえたことを、三人は素直に喜んでいた。

 その夜は、会場近くの安いビジネスホテルに一部屋だけ取り、三人で泊まった。私は、少しでも出費を抑えるため、駐車場に停めたハイエースの後部座席で仮眠を取った。

 冷えたシートの上で目を閉じながら、私は明日の大阪公演の進行表を、頭の中で何度も組み立て直していた。

3

 翌日の昼過ぎ、私たちは大阪へ向けて名古屋を出発した。

 高速道路を走る間、車内には、昨日の疲労がそのまま残っていた。誰も口数が多くない。ユイは窓に頭をもたせかけて眠り、ハルカは膝の上で今日の曲順を確認し、リナは無言のまま外を見つめていた。

「今日の会場、キャパは百五十人くらいって聞いてる」

 私は、沈黙を埋めるように口を開いた。

「名古屋より少し大きいんですね」

 ハルカが答えた。

「昨日の分、取り返せるといいけど」

 ユイが、目を開けずに呟いた。

 私は何も答えなかった。取り返せるかどうかは、蓋を開けてみるまで分からない。ただ、この場でその不確かさを口にすることは、彼女たちの数少ない希望を削ることになる気がして、私は黙ってハンドルを握り続けた。

 大阪に到着したのは、開場の三時間前だった。心斎橋の外れにある、雑居ビルの地下に入った小さなライブハウス。搬入口の前で、私たちを待っていたのは、少し不機嫌そうな顔をした年配のスタッフだった。

「搬入、遅かったね」

「申し訳ありません。高速が少し混んでいて」

「今日、機材のトラブルがあってさ。予定より時間が押してる」

 聞けば、前日から使っていたミキサーの一部が不調で、急遽、代わりの機材を別の店舗から借りてくることになったのだという。復旧の目処はまだ立っていなかった。

「音合わせ、どれくらいできますか」

 私が尋ねると、スタッフは首を横に振った。

「正直、五分あるかどうかだな。ごめんな」

 名古屋に続き、また同じ状況だった。だが今日は、それよりも深刻な問題があった。

「本番中の返し、多分、安定しない。イヤーモニターも、ワイヤレスの調子が悪くて、途中で切れるかもしれない」

 ステージに立つ三人にとって、自分の声や仲間の声を確認するためのモニターが不安定になるということは、暗闇の中で歌うようなものだった。

 私は、控室で待つ三人にその事実を伝えるべきかどうか、一瞬迷った。伝えれば、余計な不安を抱えさせてしまう。伝えなければ、本番で対応が遅れる。

 結局、私は正直に伝えることを選んだ。

「今日は、モニターが不安定になる可能性がある。返しが聞こえにくくても、慌てないで。お互いの気配だけを頼りに歌って」

 三人は、一瞬顔を見合わせた。

「昨日と同じですね」

 リナが、短く言った。その声には、微かな苛立ちが滲んでいた。

 わずかな音合わせを終え、開演の時間になった。

 客席には、三十二人が入っていた。名古屋よりは多い。けれど、百五十人のキャパシティに対しては、寂しい数字だった。

 最前列の端に、青いキャップを被った男性が一人、立っていた。他の誰よりも早く手を叩き、曲の合間にも、一定のリズムで拍手を続けている。名古屋にはいなかった顔だった。

「あの人、ずっと手拍子してる」

 ステージ袖で、ユイが小声で言った。

「私たちのために、リズムを作ってくれてるのかもしれない」

 私がそう答えると、ユイは小さく頷いた。

 だが、本番が始まると、事前の懸念がそのまま現実になった。

 イヤーモニターに入る音が、曲の途中で何度も不安定に揺れる。ハルカの歌声が、自分の耳には遠く、頼りなく聞こえていたはずだ。リナのステップも、いつもより固い。ユイの笑顔も、消えかけては、また戻ってを繰り返していた。

 三曲目、フォーメーションの入れ替わりで、ユイの立ち位置がわずかに遅れた。リナが、その遅れを埋めるように、自分のターンを一拍だけ速めた。誰の目にも留まらないほどの、小さなズレだった。だが、ステージ袖から見ていた私には、リナの横顔が、いつもより硬く強張っているのが分かった。

 それでも、三人は最後まで立ち続けた。

 最後の曲が終わり、三人は深く頭を下げた。青いキャップの男性が、誰よりも大きな拍手を送っていた。だが、その拍手の音は、フロア全体を包み込むには小さすぎた。


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