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ルミナスの軌跡  作者: 久遠 睦


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3/25

第3章 コンビニ飯と自腹のレッスン

1

 午前四時四十五分。

 東の空が白み始める前の最も深い闇の中で、高架下の二十四時間営業のガソリンスタンドの計量機が、規則正しい電子音を響かせていた。

 カチリ、と給油ノズルが自動で止まる。私は冷え切った指先でノズルを引き抜き、ハイエースの給油口を閉めた。支払いは事務所の経費カードではなく、私の個人のクレジットカードだ。スターライトエージェンシー名義のガソリンカードは、先週末に利用限度額の上限に達し、大類社長が追加の入金を行うまではただのプラスチックの破片と化していた。

 レシートを引き抜く。

 レギュラーガソリン、五十・二リットル。金額、八千七百三十五円。

「……また、手出しが増えた」

 今月に入ってから、こうした個人負担の給油だけで、すでに三万円を超えている。誰かに褒められることも、経費として認められることもない、ただの持ち出しだ。私はため息を白い息に変えて吐き出し、運転席へと乗り込んだ。

 財布の中身を確認すると、千円札が二枚と、小銭が数百円。今月末の自分の家賃と光熱費の引き落とし口座からは、すでに必要な額が引かれており、次の給料日――それも、事務所の資金繰り次第で数日は平気で前後する――までは、私もまた極限のキャッシング生活を強いられている。

 ハイエースを走らせ、数時間前にメンバーを降ろしたばかりのアパートの前を通り過ぎる。

 二階の角部屋、LUMINAの三人が暮らす部屋の窓は、完全に暗いままだった。彼女たちは今、深い泥のような眠りの中にいるはずだ。いや、そうであってほしいと願う。なぜなら、あと数時間もすれば、彼女たちの「もう一つの現実」であるアルバイトのシフトが始まるからだ。

 ハルカは午前六時から駅前のベーカリーでパンの成形と品出しのバイト。

 ユイは午前八時から大手チェーンの居酒屋のランチ仕込みと清掃。

 リナは午前七時から、アパートから三駅離れた物流倉庫でのアマゾンの商品のピッキング作業。

 彼女たちが「LUMINA」としてステージに立ち、スパンコールの衣装を翻して都会の孤独を歌うためには、それぞれの「素顔の10代」の時間を、時給千百円前後の肉体労働へと切り売りしなければならなかった。

 現在のインディーズアイドル界における最大にして最も冷酷なシステム、それは「活動費の自腹負担」という構造である。

 スターライトエージェンシーのような資金力のない弱小事務所において、「メンバー募集中! レッスン費・衣装代の負担なし!」というオーディションの甘い謳い文句は、実質的に最初の数ヶ月しか機能しない。

 グループが始動し、数本のライブをこなしても一向に利益が出ないとなると、大類社長はすぐに「経費の削減」という名の刃をメンバーへと向けた。

 まず削られたのは、日々のスタジオまでの交通費の支給だった。

「売れてない時期の交通費まで事務所が持ってたら、会社が潰れる。チェキが売れるようになったら、その歩合から自分で出しなさい」

 それが大類の理屈だった。しかし、先日の下北沢・ERAでのライブのように、チェキの売上が一人数百円にしかならない日が続けば、スタジオへ通うための往復の電車賃だけで、彼女たちの収支は完全にマイナスになる。

 さらに、週に三回行われるダンス講師への謝礼、およびスタジオのレンタル代の「一部」までもが、実質的な「レッスン維持費」として、毎月メンバーの歩合から天引きされるようになっていた。

 売上がないから、歩合から引かれるとマイナスになる。マイナスになった分は、翌月の売上から相殺されるか、あるいは「預かり金」という名の借金として事務所の帳簿に記録されていく。

 少女たちは、アイドルとしてステージに立つために、事務所にお金を支払い、アルバイトで稼いだ金を貢ぎ続けている。それが、この華やかな世界の底辺を支える、あまりにも歪で、あまりにも生々しい経済の循環だった。

2

 午後十二時三十分。

 新宿にあるレンタルスタジオ「ノア」のロビーは、平日の昼間にもかかわらず、様々なジャンルのダンサーや、演劇の稽古を控えた役者たちの熱気で満ちていた。

 私はロビーの自販機の前で、メンバーたちの到着を待っていた。

 最初に現れたのは、リナだった。彼女は倉庫での立ち仕事が終わった直後のはずで、いつも以上に顔色が白く、目の下には消しきれない灰色の隈が刻まれていた。右手の甲には、段ボールの擦れでできたと思われる小さな絆創膏が貼られている。

「おはよう、リナ。体、大丈夫?」

「……おはようございます、青木さん。大丈夫です。足の裏がちょっと痛いだけです」

 リナは無表情のまま、しかし自販機で売られている百四十円のミネラルウォーターのボタンを押すのを躊躇うように、自分の財布を見つめていた。私は何も言わず、自分のポケットから百円玉を二枚取り出して自販機に投入し、緑茶のボタンを押して彼女に手渡した。

「あ……すみません」

「いいの。水分補給はマネージャーの管理事項だから」

「……いつも、こういうの、気にしなくていいです。私、自分で何とかしますから」

 リナは緑茶を受け取りながらも、視線をわずかに逸らしてそう言った。感謝よりも、居心地の悪さの方が強く滲んだ声だった。彼女は、誰かに助けられることに対して、素直に「ありがとう」と言うことがどうしても苦手なのだと、私はこの数ヶ月でようやく理解していた。だからこそ、私は彼女に対しては、大げさな気遣いよりも、こういう小さな、事務的な体裁を取った手助けの方がいいのだと思っている。それが正しいやり方なのか、それとも私が彼女の本当の心の距離をまだ測りきれていないだけなのか、今の私にはまだ分からない。

 続いて、ハルカとユイがほぼ同時にロビーへ滑り込んできた。二人とも、それぞれのバイト先から制服の匂いを残したまま、息を切らせて走ってきたのが分かった。

「すみません、青木さん! バイトの上がり時間がギリギリになっちゃって!」

 ハルカが、ポニーテールを揺らしながら頭を下げる。

「大丈夫、時間はぴったりよ。みんな、スタジオに入りましょう」

 三時間のレッスンが始まった。

 今日の講師は、大類社長の古い知り合いで、インディーズ界隈ではそこそこ名前の知れた、厳しいことで有名な女性振付師のERI先生だった。

「はい、ワン、ツー、スリー、フォー! ユイ、そこステップが流れてる! バイトの疲れをステージに持ち込むんじゃないわよ!」

 ERI先生の容赦のない怒声が、鏡張りのスタジオに響き渡る。

「すみません!」

 ユイは激しく息を乱しながら、すぐに元のポジションに戻った。彼女の太ももは、居酒屋での立ち仕事と、その後のレッスンの二重の負荷で、目に見えて小刻みに震えていた。

 ハルカの声も、早朝のパン屋での大声での挨拶回りのせいで、高音の伸びが微妙に濁っている。

 リナだけは、倉庫作業の疲労を一切表に出さず、ロボットのような正確さでステップを刻み続けていたが、ターンの瞬間に、軸足が一瞬だけグラリと傾いた。

「リナ、大丈夫?」

 すぐ隣で踊っていたユイが、振りを止めずに、小声で囁いた。

「……平気。続けて」

 リナは短くそう答えたが、次のカウントで、ユイがほんの少しだけ自分の立ち位置をリナ側にずらし、もしリナがまた傾いた時にすぐ手を伸ばせる距離を保ちながら踊り続けていた。誰の指示でもない、ユイが自分の判断でとった、ささやかな備えだった。この間まで振付の間合いのことで小さくぶつかっていた二人だが、こういう瞬間、彼女たちは損得を抜きにして互いを気にかけている。私はそのことに、少しだけ救われる気持ちになった。

 私はスタジオの隅にパイプ椅子を置き、彼女たちのパフォーマンスをノートに記録しながら、激しい自己嫌悪に陥っていた。

 彼女たちの疲労の原因は、すべて「金」だ。

 もし事務所が、彼女たちに生活していけるだけの最低限の固定給、あるいはせめて交通費と食費だけでも全額支給できていれば、彼女たちは深夜や早朝のアルバイトにその貴重な体力と時間を奪われる必要はない。もっと万全なコンディションでレッスンに臨み、もっと圧倒的なクオリティのパフォーマンスを磨くことができるはずなのだ。

「華やかな世界の裏側」という言葉は使い古されているが、LUMINAの裏側にあるのは、華やかさの欠片もない、ただの「貧困」の二文字だった。

「はい、そこまで! 今日は全体的にキレが最悪。こんな締まりのないダンスじゃ、対バンでハニクロさんみたいな実力派に当たったら、一瞬でフロアの客を全員持っていかれるわよ。……青木さん、ちょっといい?」

 ERI先生が音楽を止め、汗を拭いながら私を呼んだ。私はノートを閉じて歩み寄る。

「先生、今日もありがとうございました」

「青木さん、あの子たちのポテンシャルは間違いないわ。ハルカの歌の表現力も、リナの体幹の強さも、地下で腐らせておくには本当にもったいない。……でもね、あの子たちの体、もう限界よ。これ以上無理をさせたら、どこかで大きな怪我をするわ。マネージャーなら、もう少しあの子たちの私生活の環境を整えてあげなさい」

 ERI先生の言葉は、正論だった。正論だからこそ、私の胸に鋭いナイフとなって突き刺さる。

「先生の仰ることは、痛いほど分かっています。ですが、今の環境で私がやれることは、正直、コンビニでご飯を買ってあげることくらいしかありません。バイトのシフトを減らせば、彼女たちの生活そのものが立たなくなる。……だから、今はこの負荷に耐えられるだけの体力づくりと、少しでも早く数字を出して事務所の予算を動かすことに、全力を尽くすしかないんです」

 言い終えた瞬間、自分の言葉の空虚さに気づいた。それは反論というより、単なる弁解だった。ERI先生が求めているのは、私が「今の環境の中で最善を尽くしている」という言い訳ではなく、「今の環境そのものを変える」という行動のはずだった。分かっていながら、私はまだ、根本的な部分では何も変えられていない。

 ERI先生は、私の言葉に何も答えず、ただ小さくため息をついただけだった。その沈黙が、下手な言葉よりもよほど鋭く私を打った。

「大類のバカ社長に何言っても無駄なのは知ってるわよ。でも、あの子たちを守れるのは、現場にいるあなただけなんだからね」

 ERI先生はそう言い残し、荷物をまとめてスタジオを去っていった。

 残されたスタジオの中、三人は床にペタンと座り込み、お互いの背中を預け合うようにして、荒い呼吸を繰り返していた。

「リナちゃん、足の裏、見せて」

 ユイが、リナの隣にぺたりと座り込み、有無を言わせない口調でそう言った。

「……いい。大丈夫」

「大丈夫じゃないの、さっきのターンで分かった。ほら、貸して」

 リナは一瞬だけ抵抗するように身を引いたが、ユイが強引に彼女の靴を脱がせるのを、結局黙って許した。ユイは自分のバッグから、いつも持ち歩いている安物の湿布のシートを取り出し、リナの足の裏に貼り付けていく。段ボールの角で擦れた右手の甲の絆創膏も、いつの間にか半分剥がれかけていた。

「……あなた、こういうの得意だよね」

 リナが、視線を逸らしたまま呟いた。

「マッサージ? 昔、おばあちゃんの肩とか腰、よく揉んでたから」

「そうじゃなくて。人の傷、見つけるの」

 ユイは少し驚いたように顔を上げ、それから照れたようにへらっと笑った。

「リナちゃんが隠すの下手なだけだよ。すぐ顔に出るもん、痛いの」

「出てない」

「出てる出てる。ほら、ハルカも見て、今のリナちゃんの顔」

 ハルカが小さく吹き出し、疲れきった顔のまま笑った。私はその光景を、スタジオの隅から黙って見つめていた。彼女たちは互いのボロボロになった身体を、こうしてささやかな方法で労わり合っている。私が用意するコンビニの弁当やスタジオの水よりも、この五分間の方が、彼女たちの心をよほど深く支えているのかもしれなかった。

3

 レッスンが終わり、スタジオのレンタル時間が終了する午後四時。

 私たちはハイエースへと戻った。次のライブ現場である秋葉原の「ツインボックス」までは、車で三十分ほどの距離だ。

「みんな、今日の夜の物販までの時間、ここで少し休みなさい。……あと、これ」

 私は、道中のコンビニであらかじめ購入しておいた、大きなレジ袋を後部座席へと手渡した。

 中に入っているのは、いくつかのパンと、おにぎり、そして栄養ドリンクだった。

「青木さん、またこんなの買ってくれたんですか……? 本当に申し訳ないです」

 ハルカが、レジ袋を受け取りながら、すまなそうに目を伏せた。

「いいから。食べなきゃ倒れるわよ。ユイ、あなた居酒屋の賄い、食べてこなかったでしょ」

「……はい。シフトの都合で、仕込みが終わったらすぐに出なきゃいけなくて」

 ユイは恥ずかしそうに白状し、袋の中から一番安いツナマヨのおにぎりを取り出した。

 彼女たちの食生活は、完全に「コンビニの廃棄」か、あるいは「百円均一の食材」で構成されていた。

 アパートのキッチンには、大袋で購入された業務用のパスタの麺と、一玉数十円のキャベツ、そしていくつかの調味料しか並んでいないことを、私は知っている。ハルカがパン屋のバイトから持ち帰ってくる、形が崩れた廃棄寸前の食パンが、彼女たちの主食になる日も珍しくなかった。

「リナ、これ、飲みなさい」

 私はリナに、タウリンが配合された栄養ドリンクを手渡した。

「……ありがとうございます」

 リナは無言でキャップを開け、一気に胃の中へと流し込んだ。その小さな喉が動くたびに、彼女の必死な生存本能が垣間見えるようだった。

「ねえ、リナちゃん、そんな一気に飲むと変な味してオエッてなるよ」

 ユイが笑いながら茶々を入れる。

「うるさい。効くなら味とか関係ない」

「相変わらず、真面目というか、面白いというか」

 ユイが小さく笑い、ハルカも二人のやり取りを見て、疲れた顔にわずかに柔らかさを取り戻した。

「……そういえば、ユイ。この間、青木さんに何か話したいことがあるって言ってなかった?」

 ハルカが、何気なくそう口にした。私はその一言にドキリとして、思わず後部座席を振り返った。

「あ……ううん、大したことじゃないから、大丈夫。今度でいいの」

 ユイは慌てたように手を振り、おにぎりの包装を剥くことに意識を移した。ハルカは「そう?」と、それ以上は追及せず、自分のパンの袋を開け始める。

 私は、あの下北沢の楽屋で聞いた「話したいことがあって」という一言を思い出し、もう一度尋ねようかと一瞬迷った。しかし、今はレッスンとライブの合間の限られた休息時間だ。ここで込み入った話を切り出せば、彼女の緊張をさらに高めてしまうかもしれない。今、聞くべきタイミングではない――そう自分に言い聞かせて、私はまた、その話に踏み込まないことを選んだ。

 衣装に着替えるため、三人はハイエースのカーテンを閉め切った。

 暗い車内、プラスチックのコンテナから取り出されたレースの衣装が、メンバーたちの汗ばんだ肌に擦れる音が聞こえてくる。

 昨日、ハルカが私に打ち明けた言葉が、私の脳裏から離れなかった。

『青木さん、私、先週の家賃の更新料がどうしても足りなくて、田舎の両親に電話したんです。……そしたら、父親から「いい加減にそんな夢みたいなことは諦めて、地元に戻って就職しろ」って言われて、電話を切られちゃいました』

 ハルカは、そのとき泣いていなかった。泣くことすら忘れてしまうほど、彼女の現実的な生活は逼迫していたのだ。

 彼女たちを支えているのは、「いつか売れる」という、根拠のない、しかしそれだけが唯一の救いである青い光だった。その光が消えてしまえば、彼女たちは自分が何のために毎日時給千百円の労働をこなし、何のためにコンクリートのステージで誰もいないフロアに向かって微笑んでいるのか、その理由を見失ってしまう。

「着替え、終わりました」

 ハルカがカーテンを開けた。

 そこには、数分前までスウェット姿で疲弊していた少女たちの姿はなかった。

 都会の夜をイメージした、深いネイビーと白のシルクを基調とした、凛としたLUMINAのメンバーたちが、そこに並んでいた。

「よし。今日の秋葉原の対バン、私たちの出番は19時20分。昨日よりは良い時間帯よ。ハニクロさんはいないけれど、油断は禁物。フロアの熱量を、私たちの色に染め上げるわよ」

「はい!」

 三人の声が、ハイエースの狭い車内に力強く響いた。

 私はアクセルを踏み込み、夕暮れの都内の渋滞の中へと、古いハイエースを滑り込ませた。

4

 秋葉原「ツインボックス」のフロアは、金曜日の夜ということもあり、独特の熱気と興奮に包まれていた。

 LUMINAの出番が近づくにつれ、私の心臓の鼓動は激しさを増していく。

 ステージ袖に立ち、フロアを見渡す。

 実数で、約五十人。平日の下北沢に比べれば、遥かにマシな動員だった。私たちのために集まってくれた「おまいつ」のタカシたちも、最前列でしっかりと青いサイリウムを構えている。

「――LUMINA、行きます」

 ハルカの低い、しかし確かなトーンの掛け声とともに、三人がステージへと飛び出していった。

 イントロの重低音が鳴り響き、照明が青く爆発する。

 一曲目『モノクローム・シティ』。

 ハルカの声は、今日のレッスンの疲労を微塵も感じさせないほど、クリアに、そして力強くフロアの奥まで突き抜けていった。彼女の喉は、早朝のバイトと激しいレッスンという酷使を経て、かえって野生的な強靭さを獲得しているかのようだった。

 ユイの笑顔が、ステージの最前列のファンへと放たれる。彼女の居酒屋での立ち仕事で鍛えられた(と言えば皮肉だが)脚は、激しいターンでも一ミリも軸がブレることなく、美しい放物線を描いていた。

 そして、リナ。

 彼女のダンスは、今日のERI先生の指摘を完全に消化していた。倉庫での単調なピッキング作業の最中も、彼女の頭の中では常にこの曲のカウントとステップのシミュレーションが繰り返されていたのだろう。無駄な動きが一切削ぎ落とされた、鋭利な刃物のようなパフォーマンスが、フロアの観客たちの視線を次々と釘付けにしていく。

「――おい、あの二番目の子、ダンスやばくないか?」

「なんてグループ? ルミナス?」

 フロアの中央にいた、他のグループのファンたちの間で、小さなざわめきが起こるのが見えた。私はステージ袖で、小さく拳を握りしめた。

 届いている。

 彼女たちの、あのコンビニ飯と自腹のレッスンという、泥のような生活の底から湧き上がってくる「必死さ」と「飢餓感」が、ステージの上で圧倒的なリアリティとなって、観客たちの胸を直撃しているのだ。

 美しいだけのアイドルなら、今の時代、いくらでもいる。

 しかし、LUMINAのパフォーマンスにあるのは、洗練された都会の美しさの裏側に張り付いた、生きるか死ぬかの「切迫感」だった。その圧倒的な熱量が、観客たちを引きずり込んでいく。

 二十分間のステージが、あっという間に駆け抜けていった。

 最後の曲が終わり、三人が深々と頭を下げた瞬間、フロアからは、昨日とは比べ物にならないほどの、大きな拍手と歓声が湧き起こった。

「ありがとうございました! LUMINAでした!」

 ハルカの挨拶が、スピーカーを通じて秋葉原の夜へと響き渡る。

 ステージ袖に戻ってきた三人の顔には、滝のような汗とともに、昨日失いかけた「輝き」が、完全に型を取り戻して宿っていた。

5

「チェキ撮影、一枚1500円です! メンバーとのトークは一分間でお願いします!」

 終演後のロビー。LUMINAの長机の前には、いつも以上の列が形成されていた。

 タカシたち「おまいつ」の四人に加え、今日初めて彼女たちのステージを見たという、新規のファンが三人、合計で七人が並んでくれた。

「ハルカちゃん、今日のステージ、本当に圧倒されたよ。なんか、今までと全然気迫が違った」

 新規のファンの一人が、興奮気味にハルカに話しかけている。

「ありがとうございます! 私たちの歌、届いて本当に嬉しいです!」

 ハルカは、汗で張り付いた前髪も気にせず、最高の笑顔で応じていた。

 リナの前にも、今日初めてチラシを受け取ってくれたという男の子が立っていた。

「ダンス、すごく格好よかったです。これ、これからも応援します」

「……ありがとうございます。また、見に来てください」

 リナは少し照れたように、しかししっかりと相手の目を見つめて、チェキにサインを書き込んでいた。

 今日の総売上は、一万五百円。昨日よりは増えた。しかし、やはりここから事務所のマージンやスタジオ代の相殺を引けば、メンバーの手元に残る金は、一人頭千円にも満たない現実には変わりなかった。

 特典会が終了し、片付けを終えたのは二十二時三十分。

「みんな、今日も本当にお疲れ様。……これ、今日の分の歩合。少ないけれど、社長から預かってきたから」

 私は、封筒に入ったなけなしの現金を、三人に手渡した。

 一人数千円。一か月の彼女たちの交通費にも満たない額だ。

 ハルカはその封筒を受け取ると、愛おしそうに胸に抱きしめ、小さく笑った。

「ありがとうございます、青木さん。これで……明日のバイトの前の電車賃と、キャベツが買えます」

 その言葉に、私は返す言葉が見つからなかった。

 二十八歳の私が、十八歳の彼女たちに、こんな数千円の金を手渡して「よく頑張った」と言わなければならないこの状況の理不尽さに、胸の奥が激しく疼いていた。

 帰りのハイエースの中、ユイがふと、疲れた声で呟いた。

「……ねえ、もし私たちがこのまま売れなかったら、青木さんはどうするんですか」

 不意の質問に、私は一瞬、ハンドルを握る手を強くした。

「どうする、って?」

「事務所、畳んだりするのかなって。……青木さんの人生も、私たちに賭けさせちゃってるみたいで、時々怖くなるんです」

 車内が静かになる。ハルカもリナも、無言でユイの言葉の続きを待っていた。

 私は、本当なら「絶対に売れる。心配しないで」と即答するべきだったのかもしれない。だが、その夜の私は、いつもより少しだけ本音に近い言葉を選んだ。

「……正直に言うと、怖くないわけがない。私にも生活があるし、この仕事を選んだこと自体、周りには理解されないことも多い。でも、あなたたちに賭けさせているんじゃなくて、私が勝手に賭けたくなったの。あなたたちの努力を、誰にも知られないまま終わらせるのが、私には一番怖い。……それだけは、本当よ」

 ユイは何も言わず、ただ小さく頷いた。ハルカが、ユイの手の上に自分の手を重ねる。リナは窓の外を見つめたまま、何も言わなかったが、その横顔からは、いつもより張り詰めていた何かが、少しだけ緩んでいるように見えた。

 しばらくの沈黙の後、リナがぽつりと呟いた。

「……私は、怖くないです」

「リナ?」ハルカが振り返る。

「売れなかったら、また倉庫で働くだけです。今と何も変わらない。だから、怖いものなんて、最初から一つもない」

 その言葉は、突き放すような響きを持っていたが、私にはそうは聞こえなかった。何も持たない者だけが言える、覚悟という名の強さだった。同時に、それは裏を返せば、彼女がこれまでの人生で「怖がることを許されてこなかった」ということの証でもある気がして、私の胸の奥がまた小さく痛んだ。私は今夜もまた、彼女の本当の心の内側には、まだ触れられていない。

 帰り道、ハイエースのハンドルを握りながら、私はルームミラーを見た。

 後部座席では、三人が再び、お互いの身体をもたれ合わせるようにして、眠りに落ちていた。

 その寝顔は、ステージの上のスターでもなく、アルバイトの労働者でもない、ただの、守られるべき無防備な少女たちの姿だった。

 彼女たちが、明日の朝、また時給千百円のためにその身体を酷使し、ボロボロになりながらもスタジオへ通い続けることを、私は止めることはできない。それが、今の彼女たちがこの世界で生存するための唯一のルールだからだ。

 しかし、私はハンドルを握る手に、さらに強い力を込めた。

 この古いハイエースが走る限り、このエンジンの悲鳴が続く限り、私は彼女たちの生活の困窮を、その必死さを、すべてステージの上での「爆発的な輝き」へと変換するための触媒であり続ける。

 法律が、金が、大人が、どれだけ彼女たちから搾取しようとも、私は彼女たちの夢の最後の防波堤として、この暗い東京の夜を走り続ける。

 ハイエースは、ヘッドライトで深夜の幹線道路の闇を切り裂きながら、彼女たちが暮らすアパートへ向かって、静かに、しかし力強く進んでいった。

 フロントガラスの向こうに広がる、眠らない都会の光の粒。その一つ一つが、いつか彼女たちの名前を呼ぶ日を、私はまだ、信じ続けるしかなかった。


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