第2章 客抜けの風圧、わずか20分の戦場
1
数時間前――。
コンクリートの壁が、ベースの重低音に共鳴してびりびりと震えている。
下北沢の路地裏、急で狭い階段を下りた先にあるライブハウス「ERA」の楽屋は、お世辞にも人間が快適に過ごせる空間とは言えなかった。四畳半ほどのスペースに、錆びかけたパイプ椅子が四脚と、長年蓄積された汗と埃の匂いが染みついた姿見が一枚。天井近くを走るダクトからは、時折ゴトゴトと不穏な排気音が響いてくる。
「ハルカ、右側のイヤリング、ちょっと位置ずれてる。直すね」
私は手早くハルカの耳元に手を伸ばし、青いラインストーンが施されたイヤリングの位置を調整した。衣装の胸元にあしらわれたスパンコールが、楽屋の貧弱な蛍光灯の下でチープに明滅する。
「ありがとうございます、青木さん。……今日のタイテ、やっぱり厳しいですね」
ハルカは鏡越しに私を見つめ、小さく吐息をもらした。その瞳には、リーダーとしての強い意志と、それを覆い隠そうとする微かな焦燥が同居している。
今日の対バンイベント「GIRLS LIGHT vol.14」のタイムテーブルは、LUMINAにとって過酷という他ないものだった。平日の16時30分開演。出演グループは全五組。私たちの出番は、なんとトップバッターの直後、二番手である16時55分からの二十分間だった。
アイドルの対バンイベントにおいて、この「平日の夕方早い時間帯」は、もっとも動員が見込めない「死の枠」と呼ばれる。一般的な会社員はまだオフィスに縛り付けられており、学生たちも放課後の時間をやり繰りしてようやく移動している最中だからだ。
正直に言えば、この枠は私が自分から選んだものだった。三日前、主催者からタイムテーブルの候補として「死の枠」と、もう一枠、比較的マシな19時台の空きが提示されたとき、私は迷わず前者を選んだ。19時台は、後から売り込みをかけてきた中堅グループに取られる可能性が高い。それなら先にこちらが泥を被ってでも出演実績を積み、主催者に「LUMINAはどんな条件でも文句を言わずにやり切る」という印象を植え付けておいた方が、長期的には得策だ——そう自分に言い聞かせて決めた選択だった。
けれど、正直に言えば、それだけではなかった。私のどこかには、「この子たちなら、どんな悪条件でも客の心を掴んでみせる」という、根拠の薄い自信があった。その自信は、時に彼女たちへの信頼という美しい言葉に変換されるが、裏を返せば、私自身の判断力への過信でもある。今、楽屋でハルカの焦燥を目の当たりにして、私はその選択が本当に正しかったのか、初めて小さな迷いを覚えていた。
さらに悪いことに、私たちの直前、トップバッターを務めるのは「ハニークローバー」という、結成三年目で固定ファンを二百人以上抱える中堅の地下アイドルグループだった。彼女たちは動員力があるため、本来ならもっと遅い時間帯に出演すべきなのだが、メンバーの学業の都合でどうしてもこの時間しか出られないという、いわゆる「大人の事情」でトップバッターにねじ込まれていた。
「青木さん……ハニクロさんのファン、もうフロアを埋め尽くしてるみたいです」
衣装のスカートの裾を何度も引っ張りながら、ユイが青白い顔で言った。楽屋の防音ドアの隙間から漏れてくる地鳴りのような歓声と、統率されたMIX(アイドル特有の掛け声)の地響きが、フロアの熱狂を雄弁に物語っている。
「フロアに人がいるのは、私たちにとってはチャンスよ」
私はユイの肩を強く叩き、メンバー三人を見渡した。
「ハニクロさんのファンが百人以上入っている。彼女たちのステージが終わった後、その百人がそのまま残って私たちのパフォーマンスを見てくれれば、それはすべて新規のファンになる可能性を秘めているわ。ハニクロさんの圧倒的な熱量に、引っ張られる必要はない。私たちは私たちの『都会の夜』を、あのフロアに叩きつけるだけ」
「……はい!」
ハルカが力強く頷き、リナも無言のまま、しかし確かな闘志を宿した目で私の言葉を受け止めた。
その隣で、ユイが小さく深呼吸を繰り返しているのに気づき、リナがふと口を開いた。
「ユイ、また息止めてる。吸って、吐いてって、さっき先生に言われたばっかりでしょ」
「うっ……分かってるけど、緊張すると忘れちゃうの」
「私が数える。ワン、ツー、スリー」
リナが指を折りながら小さく数えると、ユイは言われるがまま息を吸い、吐いた。ぎこちなかったユイの表情が、少しだけ緩む。
「……ありがとう、リナちゃん」
「別に。あなたの声が震えてたら、私まで調子狂うから」
素っ気ない言い方だったが、その一言でユイの背筋が伸びたのを、私は見逃さなかった。リナは決して優しい言葉を選ぶタイプではない。だが、こういう瞬間、彼女は誰よりも仲間の異変に敏感だった。
防音扉が開き、ハニークローバーのメンバーたちが、汗だくになりながら楽屋へと戻ってきた。
「ありがとうございましたー!」と息を弾ませながらすれ違う彼女たちの表情は、完全な燃焼感に満ち溢れていた。入れ替わるようにして、ステージへと続く狭い通路へ足を踏み入れる。
暗転したステージの袖。心臓の鼓動が、ライブハウスのスピーカーのノイズと完全に同期していくのを感じる。
「LUMINA、行きます」
ハルカの低い呟きを合図に、三人は暗闇のステージへと滑り込んでいった。
2
イントロのSE——都会の夜の雑踏と、冷たいシンセサイザーの音がフロアに流れ出す。
ステージの照明が、一気に鮮烈な青と白の閃光となって世界を照らし出した。
その瞬間。
私はステージ袖で、文字通り息を呑んだ。
目の前の光景は、数秒前までハニークローバーが作り出していた熱狂の渦とは、完全に乖離していた。
「――っ」
ハルカの身体が、一瞬だけ硬直したのを私は見逃さなかった。
フロアの最前列から中央にかけて、ぎっしりと詰まっていたはずの百人以上の観客たちが、私たちのSEが鳴り響いた瞬間、文字通り「一斉に」背を向け、出口へと向かって歩き始めていたのだ。
これが、地下アイドル界の冷酷な現実であり、現場の人間が最も恐れる「客抜け」という現象だった。
対バンイベントにおけるファンたちの多くは、自分のお目当てのグループ(推しメン)の出番だけを目的に来場している。そのため、そのグループのパフォーマンスが終了した瞬間に、彼らは次のグループを見るためにフロアに留まることはしない。なぜなら、出番が終わった直後のグループは、すぐにライブハウス内の別スペース(ロビーや階段踊り場など)で「並行物販」と呼ばれる特典会を開始するからだ。
ファンたちにとっては、「見たこともない二番手のグループのステージを見る20分」よりも、「さっきまでステージにいた推しメンとチェキを撮り、言葉を交わす並行物販の20分」の方が、何百倍も価値がある。それは経済合理性に基づいた、あまりにも当然の行動だった。
バタバタと退場していく無数の足音。
お目当てが終わった解放感から、大声で談笑しながらドリンクカウンターへと向かう男たち。
フロアに残されたのは、私たちの固定ファンである「おまいつ」のタカシを含めた、わずか四人の男たちだけだった。彼らは、前方の広い空間がぽっかりと空いたことで、かえって困惑したように立ち尽くしている。
百人以上の人間の肉体が移動したことで、フロアには物理的な「冷たい風圧」が生じていた。ステージ上の三人は、その拒絶とも言える風圧を、遮るものもなく正面から浴びることになった。
笑顔を作ろうとするユイの頬が、微かに引き攣っている。
一瞬にして閑散としたフロア。床にこびりついた乾いたビールの跡が、照明に照らされて虚しく光っている。
普通の人間なら、その圧倒的な孤独と拒絶に心が折れ、歌うことすら放棄したくなるような凄惨な空間。
だが、ハルカはマイクを強く握り締めると、誰よりも太い声をフロアの奥の壁に向かって放った。
「――LUMINAです! 楽しんでいきましょう!」
その叫びとともに、一曲目『シティライト・ディストピア』の激しい四つ打ちのビートが爆発した。
リナが、誰もいない空間に向かって、地を這うような鋭いステップを踏み出す。彼女のヒールがステージの床板を叩く音が、観客の歓声がないせいで、楽屋にまで響くほどクリアに聴こえてきた。ハルカの声は、冷え切った空間を切り裂くように、どこまでもまっすぐに伸びていく。
ユイの笑顔だけが、二曲目に入ったあたりから、少しずつ崩れ始めていた。誰もいない客席に向かって微笑み続けることの虚しさが、彼女の頬の筋肉から少しずつ力を奪っていく。
それに気づいたのは、私だけではなかった。
サビの間奏、フォーメーションが入れ替わる一瞬。リナがユイの真横を通り過ぎる際、誰にも気づかれないくらいの動きで、ユイの手の甲にほんの一瞬だけ自分の指先を触れさせた。それだけだった。台詞もない、視線すら交わさない、コンマ何秒かの接触。だが、その瞬間、ユイの頬に、また力強い笑顔が戻ってきたのを、私はステージ袖から確かに見た。
——リナは、決して優しい言葉をかけるタイプではない。だが、こうして仲間の心が折れかけた瞬間を、誰よりも早く察知し、誰よりも不器用な方法で支えようとする。私は、彼女たちのことをまだ全部は分かっていないのかもしれない、とその時初めて思った。
フロアに残ったタカシたちが、必死になって大きな声を張り上げ、青いサイリウムを振り回している。彼らもまた、メンバーが受けた傷を少しでも埋めようと、自分たちの喉を枯らして戦っているのだ。
私はステージ袖の鉄柱を、指の爪が白くなるほどの力で握り締めていた。
悔しかった。彼女たちのパフォーマンスは、ハニークローバーに何一つ劣っていなかった。むしろ、ダンスの同期率や歌唱の安定度で言えば、LUMINAの方が遥かに洗練されている。
それなのに、ただ「ブッキングの時間帯」と「知名度」という冷徹なシステムの力学だけで、彼女たちはこれほどまでに無惨に踏みにじられなければならないのか。
——いや。違う。私は鉄柱を握る手に、さらに力を込めた。
システムのせいだけにするのは、都合が良すぎる。この「死の枠」を選んだのは、他ならぬ私自身だ。彼女たちの実力を過信し、自分の采配への自信を過信した結果が、今、目の前で彼女たちの心を静かに削り取っている。この痛みの何割かは、私が生み出したものだった。
二十分という時間は、普段なら一瞬で過ぎ去る。しかし、この日の二十分は、彼女たちのプライドと精神を少しずつ削り取っていく、残酷な拷問のようだった。
三曲が終わり、最後の曲のイントロが流れる頃には、三人の衣装は完全に汗で張り付いていた。
誰もいないフロアに向かってレスを送り、誰もいない空間に向かって微笑みかける。それは一見、滑稽なスピリチュアルの儀式のようにも見えたかもしれない。しかし、彼女たちの瞳から、闘志の火は消えていなかった。
「ありがとうございました! LUMINAでした!」
ハルカが最後の挨拶を終え、三人がステージ袖に飛び込んできた瞬間、私はすぐにタオルと水を用意して彼女たちを抱き止めた。
ユイはステージ袖の暗がりに足を踏み入れた瞬間、堰を切ったように大粒の涙をボロボロと流し始めた。
「……青木さん、みんな、みんないなくなっちゃった。ハニクロさんが終わった瞬間、誰もこっちを見てくれなかった……」
ユイの身体は、小刻みに震えていた。彼女の細い指先が、私のシャツの袖を強く掴む。
「分かってる。分かってるよ、ユイ。でも、あなたたちは最後まで最高の笑顔だった。タカシさんたち四人は、間違いなくあなたたちのために全力で声を上げてくれていたわ」
私はユイの背中を何度も擦りながら、前を見つめた。
そこには、悔しさで唇を血が出るほど噛み締めているハルカと、荒い息を繰り返しながら、床の一点を見つめて拳を握りしめているリナの姿があった。
本当は、この場で「今日の枠を選んだのは私の判断ミスだった」と、彼女たちに正直に告げるべきだったのかもしれない。だが、その言葉は、喉の奥で止まったまま出てこなかった。ここで私が弱さを見せれば、ただでさえ心が折れかけている三人を、さらに不安にさせてしまう——そう自分に言い訳をして、私はその告白を、また先送りにした。
「着替える時間は十分。すぐにロビーで並行物販を始めるわよ。……私たちの戦いは、まだ終わっていない」
私は自らに言い聞かせるように、低い声で彼女たちに告げた。
3
「チェキ撮影、一枚1500円です。メンバーとのトークは一分間でお願いします」
ERAの狭いロビー。壁には無数のバンドのステッカーやフライヤーが乱雑に貼られ、独特の饐えた匂いが漂う空間で、私は長机を組み立てて声を張り上げていた。
数メートル先では、ハニークローバーの物販スペースが、文字通りの大盛況を呈していた。五十人以上の男たちが幾重にも列をなし、メンバーと大声で笑い合い、チェキのフィルムが次々と吐き出される小気味よい音が響いている。
対するLUMINAの長机の前に並んでいるのは、先ほどフロアに残ってくれたタカシたち四人だけだった。
「ハルカちゃん、今日の新曲、歌がすっごく響いたよ。客が抜けたのなんて関係ないくらい、俺たちには届いてたから」
タカシはハルカの前に立ち、励ますような優しい口調で言った。
「タカシくん、ありがとう……」
ハルカは精一杯のプロの笑顔を作って応じているが、その声のトーンはいつもより明らかに低い。
四人とのチェキ撮影とトークは、わずか十分足らずですべて終了してしまった。
まだ並行物販の制限時間は四十分以上残っている。ハニークローバーのブースからは依然として狂騒のような声が聞こえてくる中、LUMINAの三人は、誰も並んでいない長机の向こう側に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
通り過ぎていく他のグループのファンたち。彼らは私たちの前を通りかかる際、チラリとメンバーの顔に視線をやるものの、興味なさそうにそのまま通り過ぎていく。その「品定め」されるような視線に晒され続けることは、ステージで誰もいないフロアを見るのと同じくらい、少女たちの尊厳を削り取っていく。
「青木さん、私、ちょっとチラシ配ってきます」
リナが、長机の下から手作りのフライヤーの束を取り出し、私に言った。
フライヤーには、メンバーのプロフィールと、公式SNSのQRコードが印刷されている。すべて、私が事務所の安価なプリンターで夜な夜な印刷し、メンバーたちが一枚ずつ手書きでメッセージを書き加えたものだ。
「リナ……」
「じっと待ってても、誰も来ないですから」
リナはそう言うと、私の制止を待たずに、ハニークローバーの列に並んでいるファンや、ドリンクカウンターで佇んでいる男たちの元へと歩み寄っていった。
「私も行きます」
ハルカが咄嗟に一歩踏み出そうとしたが、私はその肩に軽く手を置いて止めた。
「ハルカはここに残って。長机が完全に無人になると、通りすがりの人にも『誰もいないブース』だと思われて、余計に立ち寄りにくくなる。ユイと二人で、笑顔だけは絶対に切らさないで」
「……はい。分かりました」
ハルカは素直に頷いたが、その頷き方には、ほんの一瞬、納得しきれないものが滲んでいるのを私は感じ取った。リナだけが動いて、自分は長机の前に立ち続けるしかない。リーダーとして皆を鼓舞する役目と、実際に動いて数字を作っていく役目——そのどちらも自分が担うべきだという焦りが、彼女の中でせめぎ合っているのかもしれなかった。私はその小さな違和感に気づきながらも、今は目の前の物販を回すことを優先し、深く踏み込まなかった。
「こんにちは、LUMINAです。よかったらチラシ受け取ってください」
離れた場所で、リナは深々と頭を下げ、フライヤーを差し出している。
しかし、大半の男たちは、リナの顔を見ることもなく、「あ、大丈夫です」と冷たく手を振るか、あるいは無視してスマートフォンに目を戻してしまう。中には、受け取ったふりをして、リナが背を向けた瞬間に足元のゴミ箱へ丸めて捨てる男さえいた。
私はその光景を、胸が引き裂かれるような思いで見つめていた。
リナは、学校では誰もが振り返るような、端正な顔立ちの美少女だ。そんな彼女が、この地下の薄暗い空間で、海のものとも山のものともわからない男たちに頭を下げ、冷酷に拒絶され続けている。
それでもリナは、一度も足を止めなかった。断られても、無視されても、次の男の前で同じように深く頭を下げる。その背中には、悲壮感というより、むしろ静かな意地のようなものが張り付いていた。誰にも弱音を吐かず、一人で黙々と数字を作りにいく——それが彼女なりの、この現実への抗い方なのだと、私はこの時、なんとなく理解し始めていた。
これが、地下アイドルを生きるということの、もう一つの生々しい現実だった。
物販終了のブザーが鳴り、今日の売上を集計する。
チェキが合計で五枚。売上、七千五百円。
ここからライブハウスへのマージンを引けば、手元に残る金は数千円。今日のハイエースのガソリン代と高速道路の料金を支払えば、完全に赤字だった。
「お疲れ様でした……」
衣装の上に私服のジャージを羽織ったメンバーたちが、トボトボと楽屋から荷物を持って出てくる。
私は彼女たちを促し、下北沢の冷たい夜風が吹く路地裏へと出た。
ハイエースに荷物を積み込んでいると、私のスマートフォンの画面が光った。大類社長からの着信だった。私はメンバーから少し離れた自販機の陰に移動し、通話ボタンを押す。
「はい、青木です」
『おぅ、青木。今日のERAの数字、店長から連絡あったよ。動員、実数で四人だって?』
大類の声は、呆れ果てたように低かった。
「時間帯が早すぎたんです。直前がハニクロさんで、客抜けの煽りを完全に受けました。パフォーマンス自体は悪くありませんでした」
私は、その枠を自分から選んだことを、大類には言わなかった。言えば、判断力そのものを疑われ、今後の交渉権限を狭められかねない。だからこの通話でも、私はまた一つ、都合の良い情報だけを差し出していた。
『言い訳はいいんだよ。数字がすべてなんだ、この世界は。ハニクロの事務所は、同じ時間帯でも身内のサクラを使ってでも最低限の形は作るぞ。お前、LUMINAの今月の活動費、もう底をつきかけてるの分かってんのか?』
自販機の冷たい缶コーヒーのサンプルの光が、私の視界を無機質に照らす。
『来週のレッスンスタジオ代、まだ振り込めてないからな。メンバーの交通費も、今月分はちょっと支給を待ってもらうしかない。青木、お前からも上手く言っておいてくれよ。じゃあな』
一方的に電話が切られた。
受話器から聞こえるツーツーという無機質な音が、私の耳の奥でいつまでも鳴り響いていた。
メンバーの交通費の支給猶予。
それは、彼女たちの極貧の生活を、さらに限界まで追い詰めることを意味していた。
彼女たちに、この事実をどう伝えるべきか。私は自販機の光の中で、しばらく立ち尽くしていた。すべてをありのまま伝えれば、彼女たちは今夜、眠れないほどの不安に苛まれるだろう。だが、情報を丸めて伝え続ければ、いつか彼女たちは、私が本当の危機を隠していたことに気づき、私という「盾」そのものを信じられなくなるかもしれない。どちらが正しいのか、この時の私には、まだ判断がつかなかった。
4
ハイエースの車内は、下北沢を出発してから十五分以上、完全な沈黙に支配されていた。
いつもなら、どんなに動員が悪くても「次は頑張ろう」と声を掛け合うハルカさえも、今日ばかりは窓の外の景色を見つめたまま、一言も発しない。
「……みんな、ちょっとお腹空かない? どっか寄ろうか」
私はバックミラー越しに、極めて努めて明るい声を意識して発した。
「……大丈夫です、青木さん。お腹、空いてないから」
ユイが蚊の鳴くような声で応じる。
「嘘おっしゃい。お昼から何も食べてないでしょ。マックでも、牛丼でも、私が奢るから」
本当は、私の財布の中にも、今月の生活費を切り詰めたなけなしの数千円しか入っていなかった。しかし、このまま彼女たちを空腹のままアパートへ帰せば、彼女たちの精神の糸が完全に切れてしまうという確信があった。
「……じゃあ、コンビニでいいです」
ハルカが静かに言った。
「温かいものでも食べようよ」
「本当にお腹空いてないんです。ただ、炭酸水だけ買いたくて」
私は諦めて、幹線道路沿いにある大手コンビニの駐車場にハイエースを滑り込ませた。
天井の白いLED照明が、夜の駐車場を昼間のように明るく照らしている。車を止めると、メンバーたちは無言のままドアを開け、店内へと吸い込まれていった。
私は運転席に残ろうとしたが、ふと思い直して、彼女たちの後を追うように店内に入った。
お弁当コーナーの前で、三人が佇んでいた。
彼女たちが熱心に見つめているのは、新商品の華やかなお弁当ではなく、棚の最下段に並んでいる「半額シール」が貼られた、賞味期限間近の焼きそばや、おにぎりのパックだった。
「……これ、ハルカと半分こにすれば、一人百円くらいだよね」
ユイが、小声でハルカに話しかけているのが聞こえてしまった。
「うん。私はこのおにぎり一個で足りるから、ユイ、焼きそば多く食べていいよ」
「リナは? 何か買う?」
「私は……家に買い置きのパスタの麺があるから、塩コショウで炒めて食べる。大丈夫」
リナはそう言うと、棚から一番安い一リットルの紙パックの麦茶だけを手に取り、レジへと向かおうとした。
私はその場で、胸が激しく締め付けられるような衝動に駆られた。
これが、華やかなステージの上でスパンコールを輝かせ、都会の夜を歌っている少女たちの、本当の足元の現実なのだ。
地下アイドルの大半は、実質的な無報酬期間が数ヶ月、あるいは数年にわたって続く。スターライトエージェンシーのような弱小事務所では、チェキの売上からの歩合がメンバーの主な収入源となるが、今日のように売上が七千五百円では、一人当たりの取り分は数百円にも満たない。そこから日々の交通費や、ステージ用のコスメ代、衣装のストッキング代などを支払えば、収支は完全にマイナスだった。
彼女たちは全員、事務所の共同アパートで暮らしながら、平日の深夜や早朝に、居酒屋の皿洗いや深夜のコンビニの品出しといったアルバイトを掛け持ちして、かろうじて日々の食いぶちを繋いでいた。
睡眠時間を削ってアルバイトをし、昼間は三時間の過酷なレッスンを受け、夕方からはライブハウスで誰もいないフロアに向かって歌う。そんな限界を超えた生活が、もう一年以上も続いているのだ。
「三人とも、ちょっと待ちなさい」
私は彼女たちの間に割って入り、カゴの中に並んでいた半額のお弁当やおにぎりを、文字通りすべて自分の手で掴み取った。さらに、ホットスナックのコーナーから、出来立てのフライドチキンを三つ、レジ袋へと追加させた。
「青木さん!? 何してるんですか、悪いですよ!」
ハルカが慌てて私を止めようとする。
「いいから。マネージャーの命令。今日のERAの件は、私のブッキングのミス。あなたたちがこんなところでひもじい思いをする必要は、一ミリもないの」
私は財布から、最後の野口英世を数枚取り出し、レジの店員に叩きつけるようにして支払いを済ませた。
袋詰めにされた温かい弁当の熱が、私の手のひらを通じて、冷え切った心へと伝わってくる。
ハイエースに戻り、メンバーたちにレジ袋を手渡すと、車内にはフライドチキンの香ばしい匂いが一気に広がった。
「……いただきます」
ユイが最初にチキンを口に含んだ。その瞬間、彼女の目から、再び涙がポロポロと溢れ出し、チキンの衣の上に落ちた。
「おいしい……。すっごく温かいです、青木さん……」
「ちょっとユイ、涙のしょっぱさでチキンの味変わっちゃうよ」
リナが横から茶化すように言った。普段の彼女からは想像もつかない軽口に、ユイが思わず「なにそれ!」と噴き出す。ハルカも、その様子につられて、久しぶりに小さく肩を揺らして笑った。
車内に張り詰めていた重い空気が、ほんの少しだけ緩む。だが、その笑いの余韻が消えた直後、ハルカの表情がふっと曇った。彼女はチキンの入った容器をじっと見つめたまま、しばらく言葉を発しなかった。
「……ハルカ?」
私が声をかけると、ハルカは慌てたように顔を上げ、「あ、いえ、何でもないです」と首を振った。だがその目には、うっすらと涙の膜が張っていた。リーダーとして誰よりも強くあろうとする彼女が、人前で涙をこぼすことを、自分に許していないのだと分かった。
リナが、無言のまま自分のポケットからポケットティッシュを取り出し、何も言わずにハルカの膝の上へそっと置いた。ハルカは一瞬驚いたようにリナを見たが、リナは窓の外を見つめたまま、視線を合わせようとしない。ただ、その不器用な優しさだけが、車内の空気の中に静かに残った。
ハルカも、リナも、無言のまま、しかし貪るようにして温かい食べ物を口に運んでいた。
バックミラーに映る彼女たちの姿は、ステージの上のきらびやかなアイドルなどでは決してなく、明日の生活の保証すら奪われた、現代の都市の底辺を生きる「困窮した少女たち」そのものだった。
経済的な切迫感。
それは、彼女たちの活動のすべてに、生々しい「必死さ」を植え付けていた。彼女たちにとって、アイドルとして売れるということは、単なる名誉や自己実現の欲求ではない。この泥のような極貧の生活から抜け出すための、文字通りの「生存をかけた戦い」なのだ。
その必死さ、その圧倒的な飢餓感こそが、LUMINAのパフォーマンスに、他の一流アイドルにはない、ある種の「狂気的な輝き」を与えているのも事実だった。
「みんな、聞いて」
私はハンドルを握り、ゆっくりと車を発進させながら、バックミラーの彼女たちに向かって語りかけた。
「社長から、今月の交通費の支給が少し遅れるって連絡があった。……本当に申し訳ない。私の力不足です」
車内が一瞬、静まり返る。しかし、ハルカはすぐに首を振った。
「大丈夫です、青木さん。みんな、バイトのシフトを少し増やせば、今月くらいなら乗り切れます。……それより、私たち、もっと強くならなきゃダメですよね」
ハルカの瞳は、チキンの油で光る唇の向こう側で、夜の東京の街灯よりも鋭く輝いていた。
「今日みたいな客抜け、もう二度と経験したくない。どんな時間帯でも、私たちの名前がコールされるような、そんなグループに絶対になります。だから、青木さん……私たちを見捨てないでください」
「見捨てるわけないでしょ」
私はフロントガラスの向こう、遠くに見える東京タワーの赤い光を見つめながら、心の中で誓った。
この子たちの牙を、この地下の泥の中で腐らせてなるものか。
法律が、金が、この業界の冷酷なシステムが、どれだけ彼女たちを押し潰そうと、私は必ず、彼女たちのための盾になり、武器になる。
——けれど、その誓いを立てながらも、私はたった今また、彼女たちに「少し遅れる」とだけ伝え、「底をつきかけている」という本当の言葉は飲み込んだままだった。守ると誓う相手に、本当のことを隠し続けて、それでも私は彼女たちの盾でいられるのだろうか。その問いに、まだ自分なりの答えを出せないまま、私はハンドルを握り直した。バックミラーに映る三人の寝顔だけが、今の私にとって唯一の、答え合わせだった。




