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ルミナスの軌跡  作者: 久遠 睦


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第1章 午前二時のハイエース

1

 アスファルトを低く舐めるようにして滑る、湿ったタイヤの駆動音だけが、私の薄れかける意識をかろうじて現実の側につなぎとめていた。

 午前二時。世界が深い眠りに落ちた東京の首都高速道路を、弊社のくたびれたハイエースがひたすら東へと走る。走行距離はとうに二十万キロを超え、アクセルを踏み込むたびに、エンジンの底から老人の咳払いのような不吉な振動が、床板を通じて私のストッキングに包まれたふくらはぎへと伝わってきた。

 深夜の長距離運転の相棒であるスニーカーに履き替えるため、夕方の現場から履きっぱなしだった五センチの黒いヒールを運転席の足元で蹴り脱ぐ。それだけで、足首のあたりに溜まっていた重い鬱血が、二十八歳の私の身体のリアルな疲労となって押し寄せてきた。

 フロントガラスの向こう、ナトリウムランプの無機質なオレンジ色の光が、一定の規則性を持って運転席に差し込み、そして背後へと通り過ぎていく。その光の明滅に合わせて、私はルームミラーに視線を走らせた。バックミラーの狭い枠の中に映し出されているのは、後部座席で互いにもたれかかり、まるで糸の切れた人形のように眠りこけている三人の少女たちの姿だ。

 リーダーとしての重圧をその小さな肩に背負い込み、寝ている間でさえ眉間に微かな皺を寄せているハルカ。天性の明るさでグループのムードメーカーを自任しながらも、その本質はガラス細工よりも脆く、今はリナの肩に頭を預けて小さく口を開けているユイ。そして、普段から口数は極端に少ないが、ステージにかける情熱と負けん気は人一倍強く、窓ガラスに額を押し付けたまま微動だにしないリナ。

 平均年齢十八・三歳。彼女たちが、現在の私のすべてだった。「LUMINAルミナス」。光、あるいは輝きを意味するその大層な名前とは裏腹に、私たちが今立っている場所は、陽の光など逆立ちしても届かない地下の奥深く、陽の当たらないライブハウスのコンクリート床だった。

 今日のステージも、下北沢にある、キャパシティわずか百五十人ほどの小規模なライブハウスで行われた対バンイベントだった。平日の夕方、出演者は毛色の違うインディーズアイドルが五組。私たちの持ち時間は、転換を含めてわずか二十分だった。

 二十分という時間は、砂時計をひっくり返せば瞬く間に消えてしまうほどに短い。しかし、暗く冷たい地下特有の湿気と、他グループのファンたちの値踏みするような視線に晒される空間において、その二十分は永遠の引き伸ばしに等しかった。

 フロアにいた観客は、お世辞にも三十人に満たなかった。その大半は、お目当てのグループの出番が終わった瞬間に、文字通り示し合わせたようにスマートフォンへ視線を落とすか、さもなければ一刻も早くこの場を立ち去りたいと言わんばかりに後方のドリンクカウンターへと背を向けてしまう。

 私たちがステージに立ち、イントロのSEが鳴り響いた瞬間、フロアの空気は目に見えて冷え切った。私たちのために、事前に告知した青と白のサイリウムを振ってくれたのは、最前列に陣取ったいつも見かける数人の固定ファン——いわゆる「おまいつ」と呼ばれる熱狂的な男たちだけだった。

 それでも。それでも、彼女たちはステージの上で、まるでそこが満員の巨大なアリーナであるかのように、全身から汗を流しながら、全力で歌い、踊った。

 リナの力強いステップが床を鳴らし、ハルカの張り裂けんばかりの高音がスピーカーを震わせ、ユイの必死の笑顔がフロアの暗がりに放たれる。その姿をステージ袖の狭い隙間から見つめながら、私はいつも、胸の奥が焼けるような痛みに襲われる。彼女たちの才能と努力は、こんな三十人足らずの、しかも半分以上が自分たちに興味のない空間で消費されていいものではないはずだ、と。

 終演後、楽屋と呼ぶのもおこがましい、パイプ椅子が四つ並んだだけの狭い通路で、彼女たちはまともな鏡もないまま汗を拭い、衣装を脱いだ。

 そういえば、撤収の最中、ユイが物販の長机を畳みながら、私の袖をちょんと引いたのを覚えている。

「青木さん、あとで話したいことがあって……時間、少しもらえますか」

 その声には、いつもの明るさに紛れて、微かな緊張が滲んでいた。だが私はその時、次のブッキング先とのメールの文面を頭の中で組み立てるのに気を取られており、「うん、後でね」と、上の空で応じてしまった。ユイはそれ以上何も言わず、コンテナを抱えてハイエースへと運んでいった。あの一瞬のに、彼女が何を言いたかったのか。今の私には知る由もない。

 現在、ハイエースの車内には、特有の汗の匂いと、激しいダンスで乱れた髪を固定するために大量に消費されたヘアスプレーの硬質な香料の匂いが、逃げ場を失ってどんよりと充満している。

 信号待ちの刹那、私はハンドルから片手を離し、クリップで雑にまとめていたセミロングの髪を一度ほどいた。指先で頭皮を軽くマッサージしてから、もう一度きつめにゴムで結び直す。バックミラーに映る自分の顔は、ファンデーションが完全に浮き、目の下にはどす黒い隈が張り付いていた。一般的なアパレル企業で同世代の友人たちが「まともな大人の女性」としてのキャリアや私生活を謳歌している時間、私はこの男社会の泥臭いエンターテインメントの底辺で、埃まみれのプラスチックコンテナを一人で運び続けている。

 後部座席の足元には、スパンコールやレースがあしらわれた衣装、予備のヒール、物販用のチェキカセットや手作りのチラシが詰め込まれたプラスチックのコンテナが、今にも崩れそうなバランスで雑然と積み上げられていた。この中古のハイエースは、私たちの移動手段であり、臨時の楽屋であり、衣装やグッズの倉庫であり、連日連夜の強行軍に疲弊した彼女たちの、唯一の仮眠室でもあった。

 それは、ステージという刹那的な非日常と、明日の食費を気にしなければならない生活という生々しい現実の狭間に浮かぶ、私たちの唯一の城だった。

2

「青木さん、ちょっといいですか」

 ふいに、助手席側から声をかけられ、私は我に返った。意識が路面からハンドルを握る自分の両手へと戻ってくる。

 助手席に座っていたのは、LUMINAが所属する弱小芸能プロダクション「スターライトエージェンシー」の社長兼唯一のグラフィックデザイナーでもある、五十代半ばの男、大類だった。大類は、今日の物販の手伝いと、ライブハウスの店長への挨拶のために同行していた。

「……何でしょうか、社長」

「いや、今日の物販の数字、上がってきたやつ見たんだけどさ」

 大類はスマートフォンの画面をバックライトで顔を青白く光らせながら、ひどく億劫そうにため息をついた。

「チェキがトータルで五枚。売上にして七千五百円。ここからライブハウス側へのバックと、今日のガソリン代、それからスタジオのレンタル代を引いたら、完全に赤字だよ。これで今月に入ってから何回連続のマイナスだ?」

 知っている。そんなことは、私が誰よりも把握している。

「先週の渋谷の対バンも、その前の新宿の深夜イベントも、すべて手出しが出ています。メンバーの交通費を支給するのが精一杯で、衣装のメンテナンス代もハルカたち自身に手伝ってもらっている状態です」

 私は努めて冷静に、突き放すような事務的なトーンで返した。ここで私が感情的になれば、大類はすぐに「じゃあ、このグループ畳むか」と言い出しかねない男だからだ。

「分かってるよ。お前が寝る間も惜しんでこのハイエース転がして、あちこちのハコに頭下げて枠をもらってきてるのはさ。でもな、青木。ボランティアじゃないんだ。うちみたいな弱小は、三ヶ月打席に立ってヒットが出なけりゃ、次の打席のバットを買う金すらなくなるんだよ」

 大類は窓の外、並走する長距離トラックの巨大なタイヤを眺めながら、吐き捨てるように言った。

「あのTikTokの動画、お前が編集して毎日上げてるやつさ。あれ、なんとかならんのか?フォロワーが三百五十人って、俺個人のFacebookより少ないぞ」

 胸の奥に、冷たい針が突き刺さるような感覚を覚えた。

 正直に言えば、この瞬間、私の中には二つの声があった。一つは、冷静に現状を分析し、次の一手を考えようとする、マネージャーとしての声。もう一つは、もっと個人的で、もっと醜い声だった——大類のような、現場を知らない中年男に数字だけで詰められることへの、抑えきれない苛立ちと、それを絶対に認めたくないという意地。

 私はその二つ目の声を、いつものように無視した。ここで感情的になることは、プロとして正しくない。だから私は、大類に本当の懸念——今月の資金繰りがあと一週間で完全に底を突くという、最も深刻な数字——を、あえて口にしなかった。今それを言えば、大類は本当にグループを畳むと言い出すかもしれない。私はその可能性そのものを、彼の目の前から消してしまいたかった。

 それは正しい判断だったのか、それとも、自分の意地とプライドのために、社長に正確な情報を渡さなかっただけなのか。今の私には、まだその答えが分からない。

「難しい専門用語はいいんだよ」と、大類は煙草を吸うジェスチャーをしながら(車内は禁煙だ)遮った。「要するに、打つ手なしってことだろ」

「違います。打つ手は常に考えています」

 私はハンドルを握る手にぐっと力を込めた。手のひらにじっとりと滲んだ汗が、革製のハンドルカバーに吸い込まれていく。

「彼女たちは、確実に育っています。ハルカのピッチは三ヶ月前より遥かに安定していますし、リナのダンスのキレは他グループの主力メンバーと比較しても劣りません。ユイのレス(レスポンス)の丁寧さは、一度でも物販に来たファンを確実に固定化させています。足りないのは、彼女たちを見つけるための『窓』の大きさだけです。その窓を大きくするのが、私の仕事です」

「……熱いねえ、相変わらず」

 大類は鼻で笑ったが、それ以上の追及は諦めたように、シートを深く倒して目を閉じた。「夜が明けたら、また次のハコのブッキングだろ。居眠り運転だけは勘弁してくれよ。車が潰れたら、次の足はないんだからな」

 助手席から、やがて規則正しい寝息が聞こえ始める。

 車内に残されたのは、エンジン音と、少女たちの微かな吐息、そして私の脳内で激しく渦巻く焦燥感だけだった。

 ルームミラーをもう一度見る。

 オレンジ色の光に照らされたリナの頬が、窓ガラスの振動で小さく震えていた。彼女は、まだ高校を卒業したばかりだ。地元の学校を辞め、親の反対を押し切って、この東京の片隅で私の言葉を信じてステージに立ち続けている。

『青木さん、私、もっと大きなステージで歌いたいです。私の声が、どこまで届くか試してみたい』

 いつだったか、深夜のレッスンスタジオの床に座り込み、冷え切ったスポーツドリンクのペットボトルを両手で握りしめながら、ハルカがまっすぐな瞳で私にそう言った。

 この車の中は、一種の聖域だ。

 ステージを降り、完璧なメイクを落とし、きらびやかな衣装を脱ぎ捨てた彼女たちが、ただの傷つきやすく不安定な10代の少女へと戻れる場所。

 そして、そんな彼女たちを社会の冷酷な目や大人の理不尽から守るための「鎧」を纏った私が、誰にも見せることのできない弱音や、底の見えない不安、焦燥感と、一人きりで向き合う場所でもある。

 ハンドルを握る私の両手には、彼女たちの人生そのものの重みが、ずっしりとした物理的な質量を伴ってのしかかっていた。

 もし、私がここでアクセルを踏み込む足を緩めてしまえば。もし、私がこの重圧に耐えかねてハンドルを手放してしまえば、彼女たちの夢も、人生も、すべてがこの暗い夜の首都高速のどこかへ投げ出され、粉々に砕け散ってしまう。

 この息が詰まるような重圧こそが、私がこの仕事を選んだ証であり、決して逃げ出すことのできない、そして逃げ出したくないと願う責任そのものだった。

3

 ハイエースが都心から少し離れた、家賃の安い私鉄沿線の住宅街にたどり着いたときには、東の空が白み始めていた。午前三時十五分。

 車をアパートの狭い駐車スペースに止め、エンジンを切ると、車内を支配していた駆動音が消え、代わりに奇妙な静寂が滑り込んできた。

「……みんな、着いたよ。起きて」

 私は後部座席に向かって、できるだけ穏やかな声で呼びかけた。

 少女たちが、小さく身じろぎを始める。まずユイが「んん……」と声を上げて両腕を伸ばし、続いてハルカが瞬きを繰り返しながら、自分が今どこにいるのかを確認するように周囲を見回した。

「青木さん……今、何時ですか?」

 ハルカの声は、極度の疲労でひどくかすれていた。

「五時過ぎ。まだ少し眠れるから、部屋に戻ってシャワーを浴びて、ベッドに入りなさい」

「はい……ありがとうございます。青木さんも、運転ありがとうございました」

 ハルカは意識が朦朧とする中でさえ、リーダーとしての礼儀を忘れない。彼女は隣でまだ半分眠っているリナの肩を優しく揺すり、「リナ、お部屋に戻るよ」と声をかけた。

 ドアが開き、三人が冷え切った早朝の空気に身を縮めながら車外へと出ていく、その瞬間だった。

「あ……青木さん、さっきの話なんですけど」

 ユイが、スライドドアに手をかけたまま、こちらを振り返った。楽屋で話しかけてきた時と同じ、あの微かな緊張を滲ませた表情だった。

「今度でいいので……忙しい時に、すみません」

「……ごめん、ユイ。今バタバタしてて。今度、ちゃんと聞くから」

 私はスマートフォンの画面から目を上げることもせず、そう答えた。答えた瞬間、自分の声のトーンがひどく上の空だったことに気づいたが、もう遅かった。ユイは小さく「はい、大丈夫です」と頷き、階段の方へと歩いていった。彼女の背中が、いつもより少しだけ小さく見えたのは、単なる疲労のせいだと、その時の私は自分に言い聞かせていた。

 彼女たちの背中を見送りながら、私は運転席に座ったまま、ダッシュボードに置いたスマートフォンを取り出した。画面のロックを解除し、メールボックスを開く。

 私の朝は、アラームの音ではなく、絶え間なく鳴り響くバイブレーションと、画面を埋め尽くす通知から始まる。正確には、朝が始まるのではなく、昨日の夜がそのまま途切れることなく次の日へと接続されるのだ。

 まず行うのは、各方面からのメールのチェックと、メンバーへの一日のスケジュールに関するリマインド連絡である。

「おはよう。今日のレッスンは13時から。遅くとも12時45分にはスタジオのロビーに集合してください。ハルカは喉の調子を最優先に。ユイは昨日指摘されたフォーメーションの修正点を確認しておくこと。遅刻は厳禁です」

 一文字ずつ、スマートフォンのキーボードを叩いていく。

 地下アイドルの世界において、遅刻やスケジュール管理の甘さは、単なる個人のルーズさでは片付けられない。それは、ただでさえ脆弱なグループの信用を、業界全体から一瞬にして失墜させる命取りの綻びになるからだ。対バンイベントのタイムテーブルは分刻みで管理されており、一組の遅れが全体の進行を狂わせる。一度でも「時間にルーズなグループ」という極印を押されれば、二度と良い時間帯の枠はもらえなくなってしまう。

 メールを送信し終えると、私はようやくハイエースから降りた。アパートの階段を上っていく彼女たちの足取りは、まるでお互いの身体を支え合わなければ一歩も進めないほどに重かった。

 自室に戻り、シャワーの熱いお湯を浴びながら、私は今日の脳内スケジュールを組み立てる。シャワーヘッドから降り注ぐ水滴が、肩や背中の凝り固まった筋肉を刺激するが、疲労の芯までは届かない。

 髪を乾かす時間さえ惜しみ、タオルを頭に巻いたままキッチンでインスタントのコーヒーを淹れる。マグカップから立ち上る安価な苦味を胃に流し込みながら、私はノートパソコンを開いた。

 午前七時。ここからが、私の本当の「個人の戦場」の始まりだった。

 ノートパソコンの画面に、動画編集ソフトを立ち上げる。昨日、レッスンの合間や楽屋の片隅でスマートフォンを使って撮影した、彼女たちの練習風景の断片。それを一本のショート動画として形にしていく作業だ。

 現代のアイドルシーンにおいて、SNS、特にTikTokやInstagramの縦型ショート動画での発信は、資本のない弱小グループが外部の世界と繋がるための、数少ない、そして最大の武器だった。

「ただ可愛いだけの動画じゃ、タイムラインの速さに埋もれる……」

 私はリナのダンスの一部を切り取り、コンマ数秒単位でカットを調節する。最も彼女の脚のラインが美しく見え、ステップのキレが際立つ瞬間。そこに、目を引くビビッドなフォントでテロップを入れていく。音のタイミングに合わせて効果音を加え、視聴者が最初の三秒で画面をスクロールしてしまわないよう、冒頭の構図に細心の注意を払う。

 編集が終わると、今度はブッキング用の資料の作成だ。LUMINAのプロフィール、現在のファン層の分析データ、過去の動員実績。それらを一枚のPDFにまとめ、来月開催される中規模イベントの主催者たちへメールを送る。

「お世話になっております。スターライトエージェンシーの青木です。弊社のLUMINAですが、現在の動員こそ実数値で三十名前後ですが、SNS上でのコアなファンのエンゲージメント率が非常に高く……」

 嘘ではないが、言葉のレトリックを使って少しでも魅力的に見せるための泥臭い営業文句。一通、また一通とメールを送信していくうちに、時計の針はあっという間に午前十一時を回っていた。

4

「おはようございます……」

 午後十二時四十五分。都内にあるレンタルダンススタジオの薄暗いロビーに、三人が現れた。

 数時間前の泥のような表情からは一転、ハルカは髪をきっちりとポニーテールに結び、ユイは目の下の隈をファンデーションで巧みに隠し、リナはレッスン用のスウェット姿でストレッチの体制に入っていた。

 彼女たちのプロとしての意識の高さには、いつも救われる。どれだけ私生活が困窮していようとも、スタジオに足を踏み入れた瞬間から、彼女たちは「LUMINA」の顔になるのだ。

「みんな、喉の調子はどう?ハルカ、声は出そう?」

 私は三人に駆け寄り、個々の体調を確認する。

「大丈夫です。移動中にしっかり加湿マスクをしてたので」

 ハルカが小さく微笑む。

 その隣で、ユイがストレッチをしながら、リナの方へひょいと顔を寄せた。

「リナちゃん、また靴下左右バラバラだよ。今日で三回目」

「……気づいてる。わざとだから」

「わざとって何、それ絶対忘れてるだけじゃん!」

 ユイがくすくすと笑い、リナは前髪の隙間からじろりとユイを一瞥したが、その口元にはほんの微かな緩みがあった。この二人は、傍から見ればまったく噛み合っていないようで、実は誰よりも呼吸が合っている。ステージの上での命がけの真剣さと、こういう楽屋裏の他愛のない冗談。その両方があるからこそ、彼女たちはこの過酷な生活の中で、かろうじて自分たちが十代の少女であることを保っていられるのだと、私はいつも思う。

「はい、ストップ。ユイ、靴下の指摘はレッスン後にね。今日のレッスンは新曲のフォーメーション移動がメインです。三時間、集中して取り組みましょう。先生がもう中に入っているから、始めて」

 彼女たちをスタジオに送り届け、防音性の高い重い扉が閉まった瞬間、私の携帯電話がポケットの中で激しく震えた。ディスプレイに表示された名前を見て、私はスタジオの廊下の端へと素早く移動する。

「お世話になります!スターライトエージェンシーの青木です!」

 私は声を一段階高くし、受話器に向かって頭を下げた。相手は、来週出演を予定しているライブハウスのブッキング担当者だった。

「あ、青木さん?来週の土曜の対バンの件なんだけどさ。ちょっとタイムテーブル調整が入って、LUMINAさんの枠、当初予定してた18時から、14時15分に前倒しになりそうなんだけど、大丈夫?」

 心臓がどきりと跳ねた。土曜日の14時。そんな早い時間帯では、一般的な会社員や学生のファンは現場に来られない。動員が壊滅的になるのは火を見るより明らかだった。

「……あの、遠藤さん。そこをなんとか、当初の18時枠のままお願いできませんでしょうか。その日のために、遠方から駆けつけると予定しているファンの方々も多くいらっしゃいまして、14時台ですと、どうしても動員に影響が出てしまいます」

「いや、うちとしてもさ、18時枠にはもう少し動員が見込める大手を入れなきゃいけなくなっちゃって。大人の事情ってやつよ。機材費の回収もあるし」

 電話の向こうの担当者の声は、完全にビジネスライクで、こちらの事情など一顧だにしていなかった。ここで引き下がれば、LUMINAは永久に「扱いやすい都合の良いグループ」として、冷遇され続けることになる。

「遠藤さん、承知いたしました。では、もし14時15分の枠をお受けする代わりに、当日の物販スペースを、メインフロアの出入り口に最も近い、一番目立つ場所に確保していただくことは可能でしょうか。また、次回以降のイベントの際には、優先的に19時以降のゴールデン枠を一部確保していただくという条件で、社長とも交渉いたします」

 数千円の売上、数パーセントのバック率、そして物販の一等地の確保。

 私は受話器を握りしめ、言葉を尽くして頭を下げ、相手を持ち上げ、LUMINAの将来的なポテンシャルを熱弁した。一歩も引けない、しかし相手の機嫌を損ねてはならない、綱渡りのような交渉。数分間の押し問答の末、相手から「……分かったよ。じゃあ、物販の場所は一番良いところを空けておくよ」という妥協を引き出した。

「ありがとうございます!今後ともよろしくお願いいたします!」

 通話を切り、壁にもたれかかるようにして深く息を吐き出す。額から冷たい汗が流れ落ちた。

 これが、私の日常における「交渉」という名の戦場だった。

 息つく暇もなく、私はスタジオの廊下の硬いベンチにノートパソコンを広げた。Wi-Fiを繋ぎ、午前中にやり残した動画の最終書き出しを行う。キーボードを叩く指先が、微かに震えていた。

 この仕事の本質的な苦しさは、その責任の重さと、自分に与えられている権限やリソースの圧倒的なギャップにあるのかもしれない、と時折思う。

 私は、LUMINAの三人の成功、彼女たちの人生、そして事務所の今後の収益という、あまりにも途方もない責任を一人で一身に背負い込んでいる。しかし、私がその責任を果たすために持っている武器は、あの走行距離二十万キロの古いハイエースと、大類社長が渋々出すなけなしの予算、そして「この子たちは絶対に売れる」という、何の客観的データもない私自身の盲目的な確信だけなのだ。

 この矛盾、この不条理こそが、私の日々のストレスの最大の源流であり、同時に、この仕事をどうしても辞められない、狂気にも似たやりがいそのものなのかもしれない。

 不可能な任務を、限られた手札の中で、どうにかして成し遂げる。泥を捏ねて黄金を作るような作業。それが、私の生きる日常だった。

5

 三時間の激しいレッスンを終え、スタジオから出てきた三人は、汗で髪を頬に貼りつかせ、肩を大きく上下させていた。

「お疲れ様。みんな、よく頑張ったね。はい、お水とスポーツドリンク」

 私は用意していた冷たい飲み物を手渡す。

 車内に戻ると、そこは再び臨時の反省会場と化した。

「今日の新曲のサビのステップ、移動がタイトすぎてハルカとぶつかりそうになった」

「私の歌、やっぱり後半になると息が上がっちゃう」

 ハルカが自分のノートを開き、修正点を書き込んでいく横で、ユイが唐突に口を挟んだ。

「私、思うんだけど、あそこの振り、リナちゃんが半歩早く動いちゃうから私が合わせるの大変なんだよね。もう少し待ってくれたら——」

「私は先生の指示通りにやってる。合わせるのはあなたの仕事でしょ」

 リナの声は淡々としていたが、ユイの表情が一瞬固まった。車内の空気が、微かに冷たくなる。

「……そんな言い方しなくても」

「事実を言ってるだけ」

「リナ」

 私はバックミラー越しに、努めて静かな声で割って入った。

「今のは、ユイの指摘の方が現場感覚として正しいと思う。テンポの受け渡しは、リズムを刻む側が半歩待つのが基本のセオリーよ。……でも、リナが誰よりも正確に振りを叩き込んでいるからこそ、こういう微妙なズレに一番気づけるのも事実。二人とも、間違ってはいない」

 車内が一瞬、しんとなる。ユイが小さく頷き、リナも前髪の下でわずかに視線を落とした。完全に解決したわけではない。だが、少なくとも今この場で、それ以上刃を交わす必要はなくなった。

 こういう小さな摩擦は、実はこの数ヶ月で少しずつ増えている。私はそのことに気づいていたが、「レッスンの疲労のせい」「今だけのこと」と、自分の中で処理を後回しにしてきた。彼女たちの間に本当は何が積もっているのか、私はまだ、正面から向き合う時間を取っていない。

「あそこのフォーメーションは、次のレッスンで先生に少し位置をずらしてもらえるよう交渉してみる」と、私は具体的な解決策を提示し、時にはただ「本当にそうだね、きつかったね」と共感した。

 精神的なケア。それもまた、私が彼女たちに対して果たさなければならない、最も重要な職務の一つだった。10代の多感な時期に、私生活の困窮とステージ上での評価という二重のプレッシャーに晒されている彼女たちの心は、常に薄氷の上を歩くような危うさを孕んでいる。私が彼女たちの絶対的な味方であり、安全基地でなければ、グループは内側から崩壊してしまう。

 ——そう分かっているつもりで、私は今朝、ユイの「話したいこと」を後回しにしたばかりだった。

 夕方、再び別のライブハウスへ移動する。今日の現場は、新宿の地下にある、天井の低い湿ったライブハウスだ。

 到着するや否や、私はハイエースから重い衣装コンテナや物販用の長机、折りたたみ椅子の搬入を開始する。音響スタッフや照明スタッフの元へ走り、音源の確認と、LUMINAの楽曲特有のライティング(都会の夜をイメージした青と白の明滅)のイメージを伝える。他の出演グループのマネージャーたちへの挨拶回りを済ませる頃には、シャツは完全に汗で張り付いていた。

 開場時間が近づき、私はフロアの片隅に長机を一つ置き、その上に手作りのグッズやチェキ券を並べた。LUMINAの物販の開始だ。

「チェキ撮影、一枚1500円です!メンバーとのトークは一分間でお願いします!」

 ストップウォッチを片手に、私は長机の前に立った。今日の列は、いつもより少しだけ長かった。一人、二人、三人……数えていくと、全部で五人のファンが並んでくれた。

「青木さん、お疲れ様。今日のハルカちゃんの落ちサビ、最高だったよ」

 先頭に並んだのは、いつも一番に駆けつけてくれる大学生の男の子、タカシだった。彼は私たちがデビューした当初からのファンで、いわゆる「おまいつ(お前、いつもいるな)」と呼ばれる、数少ないLUMINAの熱心な支持者の一人だ。

「タカシさん、いつもありがとうございます。本当に、皆様の応援だけが彼女たちの支えです。はい、チェキ券一枚ですね。ユイの列へどうぞ」

 私は笑顔で千五百円を受け取り、ストップウォッチのボタンを押した。

 長机の向こうでは、ユイがタカシに向かって、満面の笑みで両手を振っていた。ポラロイドカメラのフラッシュが狭い空間を鋭く照らし、世界に一枚だけのチェキが吐き出される。ユイはその写真の余白に、手慣れた手つきでサインや今日の日付、そして小さなイラストを描き込みながら、楽しそうにタカシと会話を交わしていた。

「タカシくん!今日、最前列で私のカラーのサイリウム振ってくれてるの見えたよ!すっごく嬉しかった!」

「本当!?気づいてくれたんだ。今日の新曲のダンス、ユイちゃんが一番輝いてたよ」

 たった一分間の、ささやかな会話。しかし、この濃密な一分間こそが、ファンとアイドルの間に切っても切れない特別な絆を生み出すのだ。ステージの上では決して手が届かない遠い存在である少女が、今、この瞬間だけはすぐ目の前で、自分だけのために微笑み、自分の名前を呼んでくれる。この強烈な「接触の原体験」こそが、地下アイドルというビジネスの絶対的な生命線だった。

 私はストップウォッチの画面を冷徹に見つめながら、一分が経過した瞬間に「はい、お時間です。ありがとうございました」と声をかけ、タカシを次のファンのために誘導する。

 この光景を、私はマネージャーとしての冷静なビジネスの分析の目と、彼女たちの成長を見守る母親のような温かい眼差しの、両方で見つめていた。

 これはビジネスだ。時間を切り売りし、疑似的な親密さを提供して対価を得る。しかし、その歪なシステムのやり取りの中に生まれる感情だけは、紛れもなく本物なのだ。

 一方で、私の胸の奥には、常に一抹の鋭い不安がよぎっていた。

 ファンの中には、アイドルに対して純粋な応援を超え、本気で本物の恋愛感情を抱いてしまう「ガチ恋」と呼ばれる層が必ず一定数存在する。彼らの抱く熱量は、グループの初期の動員や売上を支える巨大な原動力になるが、それは諸刃の剣でもある。一歩間違えれば、その歪んだ想いは「裏切られた」という憎悪へと反転し、アイドル自身を精神的、あるいは物理的に傷つける鋭利な刃へと変貌しかねないからだ。

 私は、並んでいるファン一人一人の視線、手の震え、メンバーにかける言葉の端々から、その危険な兆候を読み取ろうと、網膜の裏側を常に張り詰めさせていた。

 だが、五人目、列の最後に並んでいた若い男が、ユイに向かって少し早口に「今日、他の男といるところ見たけど、あれ誰?」と聞いた時、私は一瞬、ストップウォッチを押す手を止めた。何気ない一言に聞こえるが、独占欲の匂いがした。私は本来、そこですぐに間に入り、話題を逸らすべきだった。しかし、今日は既に予定より二十分押しており、次の会場への移動時間が気になっていた私は、「はい、お時間です」と、いつもより一秒早くその会話を切ってしまった。男は不満げな顔をしたが、大人しく列を離れていった。

 その時の私には、それが単なる時間管理の一場面にしか見えなかった。だが今振り返れば、あの早すぎた「お時間です」の一言が、何かのボタンを静かに押してしまったのかもしれない——そんな予感めいたものが、頭の片隅にわずかに引っかかっていた。

「……本日の特典会は以上で終了となります。ありがとうございました!」

 五人目のファンが去り、ライブハウスの照明が完全に落とされた。今日の総売上は、七千五百円。大類社長が言った通り、ここからスタジオ代やガソリン代、ハコ代を引けば、完全に大赤字だ。それでも、長机を片付けるメンバーたちの顔には、激しいステージの疲労感とともに、確かな充実感の色彩が浮かんでいた。

「マネージャーさん」

 ふいに、リナが私の袖を小さく引っ張った。普段は感情を表に出さない彼女の瞳が、微かに潤んでいる。

「今日、初めて私の名前をコールしてくれた人がいたんです。……私のステージ、ちゃんと誰かに届いてたんですね」

 その声は、小さく震えていた。

 私はノートパソコンをリュックにしまい、リナの頭を優しく撫でた。

「……うん。届いてるよ、リナ。あなたの努力は、絶対に誰かが見てる。これからもっと、たくさんの人があなたの名前を呼ぶようになるよ。私がそうしてみせるから」

 すぐそばで、ハルカがユイの肩をぽんと叩き、「私たちも、リナに負けないようにしなきゃね」と笑いかけた。ユイが「うん!次は絶対、私の名前もコールしてもらう」と、拳を握って応じる。三人がそうして小さく笑い合う姿を、私は少し離れた場所からじっと見つめていた。

 こんな瞬間があるから、私はこの仕事を辞められないのだと、改めて思う。彼女たちは、私が組んだ戦略の「駒」ではない。互いに支え合い、時にぶつかり合いながら、それでも同じ場所を目指して歩いている、三人の少女たちなのだ。

 そうだ。これなのだ。

 この、他者から見ればあまりにも小さく、価値のないように思える一歩ずつの喜びの積み重ね。それだけが、いつか彼女たちを巨大な光の当たる場所へと導く道標になると、私は盲目的に信じるしかなかった。

 私たちは、まだ地下の暗闇の、そのさらに底にいる。

 だが、確かに、一歩ずつ、私たちは光の方へ進んでいるはずだった。

6

 深夜一時半。事務所の片隅に置かれた、私の事務机。

 古びた蛍光灯がパチパチと不吉な音を立てて白い光を放ち、私の周囲の孤独をこれ以上ないほど鮮明に際立たせていた。

 メンバーをアパートへ送り届けた後、私は一人事務所に戻り、再びノートパソコンの画面と向き合っていた。

 目の前のモニターに映し出されているのは、LUMINAの公式SNSアカウントのアナリティクス(解析)画面だった。

 フォロワー数、350。

 直近の一週間の投稿への平均「いいね」数、15件。

 その無機質な数字の並びは、まるで広大なデジタルの宇宙という名の虚空に放り出された、ちっぽけな存在の、誰にも届かない悲鳴のようだった。

 私たちは、やれることはすべてやっているはずだった。

 本屋のビジネス書コーナーに並んでいる「現代のSNS活用マーケティング戦略」や「ファンコミュニティの構築法」といった教本に書かれていることは、文字通り一通り試したのだ。

『世界観を統一する』

 LUMINAのコンセプトである「都会の夜に差す、儚くも強い光」というテーマに沿って、投稿する写真はすべて青みがかったクールなトーン、彩度を少し落としたフィルム調の色彩で一貫性を持たせた。タイムラインに並んだときの美しさは、大手のグループにも劣らない自負があった。

『継続こそが最大の力』

 毎日欠かさず、最低でも週に3回は動画や写真をアップデートし続けた。激しいレッスンの合間のオフショット、楽屋での無防備な笑顔、メンバーが私生活で食べたささやかなランチの写真。投稿のネタに困れば、メンバーをアパートの近くの公園に連れ出し、その日の私服コーディネートを何枚も撮影した。

『ハッシュタグを最大活用する』

「#地下アイドル」「#ライブアイドル」「#LUMINA」「#都会の夜」。検索に引っかかりそうな関連ワードを、文字数制限の許す限り執拗に並べ立てた。

 しかし。

 現実はどこまでも非情だった。

 私たちの必死の声は、デジタルの壁の向こう側にいる一般のユーザーには、何一つ届いていなかった。

 投稿に対する数少ない「いいね」やコメントの通知欄に並ぶのは、あの物販の列に並んでくれたタカシをはじめとする、いつもの「おまいつ」のファンのアカウント名ばかりだった。

 新しいファンを獲得する、未知の領域の人々にグループの存在を知らしめるという、本来の目的は一歩も達成できていなかった。

 それはまるで、完全に密閉された防音室の中で、外に向かって全力で喉を掻き切りながら叫び続けているような、圧倒的な虚しさと無力感の同義語だった。

「どうすれば……どうすれば、この子たちを見つけてもらえるんだろう……」

 思わず、暗い事務所の中に独り言が漏れた。キーボードの上に置いた自分の両手が、情けないほど冷え切っているのに気づく。

 このデジタルの世界には、地道な努力や純粋な才能だけではどうにもならない、残酷な「運」や「アルゴリズム」という名の、姿の見えない神が存在している。そしてその神は、今のところLUMINAに向かって一度も微笑みかけてはくれていなかった。

 この圧倒的な無力感は、マネージャーとしての私の存在意義そのものを、根本から激しく揺さぶる。

 ハルカも、ユイも、リナも、毎日血の滲むような、爪が剥がれるような努力を続けている。彼女たちの人生の貴重な時間を、この地下の暗闇に投資してくれている。

 彼女たちの隠された才能を、その血の滲むような努力を、世の中に知らしめ、正当な評価を受けさせることこそが、私の唯一の仕事のはずだった。

 なのに、私は何一つ形にできていない。フォロワー三百五十人という現実が、私の無能さを証明しているようで、胸が押し潰されそうになる。

 この重すぎる責任と、あまりにも貧弱な現実のギャップが、冷たい鉛の塊となって私の両肩に深くのしかかっていた。

 私は液晶モニターの放つ青白い光を睨みつけながら、強く下唇を噛んだ。血の味が口の中に広がる。

 諦めるわけにはいかない。ここで私が思考を止めたら、彼女たちの未来は完全に閉ざされる。

 ふと、今日一日の細かな出来事が、頭の中を巡った。ユイが伝えたがっていたこと。リナとユイの間の小さな摩擦。あの、少し早すぎた「お時間です」の一言。どれも、今の私にとっては「後で対応すればいい」程度の些事に見える。だが、本当にそうなのだろうか。数字と戦略のことばかりを考えている今の私は、彼女たち三人の間に実際に起きていることを、どれくらい正確に見えているのだろう。

 ——分からない。今はまだ、その答えを探す時間さえ、自分に与えていない。

 何か、何か決定的なきっかけが必要なのだ。

 ただ闇雲に世界の片隅で叫ぶのではなく、人々の視線を、心を、一瞬で鷲掴みにして離さないような、暗闇を切り裂く鋭い閃光のような「何か」が。

 その「何か」が一体何なのか、今の私にはまだ、影も形も見えてはいなかった。

 ただ、私はモニターを閉じ、深くため息をつきながら、このデジタルの虚空の向こう側に、必ず私たちが突き進むべき突破口が存在しているはずだと、自分に言い聞かせるように祈るしかなかった。

 夜明け前の東京は、まだ冷たい静寂に包まれていた。


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