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ルミナスの軌跡  作者: 久遠 睦


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第10章 底の抜けたバケツに水を汲むな(生存率1%の現実)

1

 大手レコード会社「ネクストウェーブ・ミュージック」のチーフプロデューサー、高橋からの電話を切った私は、深夜一時を回った事務所のデスクで、一人静かにノートパソコンの画面を見つめていた。

 古い蛍光灯がパチパチと不吉な音を立てて白い光を放ち、私の周囲の静寂を際立たせている。画面に映し出されているのは、LUMINAの各種SNSおよびYouTubeのアナリティクス(アクセス解析)のダッシュボードだった。

 ユイが考案した「片手ハニカミ振付」をきっかけに始まったトレンドの狂騒は、一週間が経過した今もなお、指数関数的な広がりを見せ続けていた。公式TikTokの総再生回数は一千万回の大台を突破し、フォロワー数は地下時代の「350人」という遺物を遥か彼方に置き去りにして、一気に八万人へと跳ね上がっている。

 だからこそ、巨人が動いた。メジャーデビューを前提とした具体的な交渉の申し入れ。それは弱小インディーズに過ぎない私たちにとって、至高の福音であるはずだった。

 しかし、二十八歳のプロのマネージャーである私の脳内は、そのまばゆい数字の熱狂にも、大手の誘惑にも、一ミリも酔ってはいなかった。むしろ、私の頭の芯は、凍りつくほど冷徹に冴え渡っていた。

「中身のないバズは、底の抜けたバケツに水を汲むようなものよ……」

 言いかけて、私は一度、言葉を止めた。誰に向けるでもない独り言だったはずなのに、声に出した瞬間、その一文が今夜の自分に必要な羅針盤だと分かった。

 私はノートの新しいページを開き、思いつくまま数字を書き殴っていった。フォロワー八万人。総再生回数一千万回。並べれば、誰もが快哉を叫ぶだろう数字だ。けれど、その内訳を一つずつ剥がしていくほどに、背筋が冷えていく。

 保存率は低い。動画の平均視聴維持率も、思っていたより早いペースで落ちている。コメント欄の九割は「可愛い」「天使」といった一言で埋め尽くされ、「また観たい」「次はいつ配信ですか」という、継続を予感させる言葉は驚くほど少ない。つまり、この熱狂の大部分は、ユイの十五秒の笑顔という一瞬の花火に群がっただけの、通りすがりの群衆だった。花火はいずれ消える。消えたとき、その場所に何も残っていなければ、私たちは半年前と同じ場所へ、もっと惨めな形で逆戻りする。フォロワー数の桁だけが違う、中身のない廃墟へ。

「底の抜けたバケツに、いくら綺麗な水を注いだところで、溜まりはしない」

 もう一度、今度ははっきりと声に出す。今夜のうちにやるべきことは、大きく分けて二つだ。一つは、この一時的な熱狂を、底のあるバケツへ移し替えるための導線を寝る前に設計し尽くすこと。もう一つは――今日という日そのものへの備えだった。

 私はブラウザに新しいタブを開き、検索窓に「ネクストウェーブ・ミュージック 所属アーティスト」と打ち込んだ。

 大手の看板は、それだけで安心材料になる。けれど、私はこの半年で学んでいた。眩しい看板の裏側にこそ、本当に見るべきものがある。公式サイトに並ぶアーティスト一覧を、上から順に一つずつ開いていく。今も第一線で活躍するトップアーティストの名前の陰に、二年前、三年前にデビューし、今はもう更新の止まった公式アカウントがいくつも埋もれていた。

 目の奥が乾いて痛んだ。何時間もの間、瞬きの回数さえ忘れていたことに、そこで初めて気づいた。冷めきったコーヒーを一口飲み、椅子の背もたれに一度だけ体重を預ける。それでも、画面を閉じる気にはならなかった。眠気よりも、知らないまま今日という日を迎えることへの恐れの方が、はるかに大きかった。

「シュガーブレイズ」。四人組のガールズグループ。デビュー曲は大々的なタイアップつきでチャート上位に食い込んだものの、二枚目のシングルからプロモーションの規模が急速に縮小し、三年目に解散を発表していた。「ルミエール・ドロップス」。同じく大手からデビューしたユニットで、こちらはメンバーの脱退が相次ぎ、今は当初の半数以下の人数で細々と活動を続けている。どちらのグループも、デビュー当初のインタビュー記事では「事務所と二人三脚で夢を叶えたい」と、輝くような笑顔で語っていた。その笑顔と、今の静まり返った公式アカウントの落差が、私の指先を止めた。

 共通しているのは、デビュー直後の熱狂と、その後の急激な失速だった。私は業界紙のバックナンバーや、音楽ライターが書いた分析記事を、手当たり次第に読み漁った。ある記事の見出しが、目に焼きついて離れなかった。

『メジャーデビューという狭き門――その先で生き残るのは、わずか一パーセント』

 一パーセント。百組がデビューして、五年後も第一線で歌い続けているのは、たった一組。残りの九十九組は、契約満了とともに静かに看板を下ろすか、あるいはその前に、契約書のどこかに埋め込まれた小さな条項に足を取られて転ぶ。

 衣装、楽曲、活動方針――アーティストの「色」を決める最終決定権を、レーベル側がどこまで握るか。ここの一文字の違いが、五年後の彼女たちの人生を決定的に左右する。私はそのことを、数字よりも生々しい実感として、胃の底に刻みつけた。

 大手レーベルの標準契約書のひな形を扱った専門サイトも見つけた。そこに例として載っていた一文が、私の目を釘付けにした。

『アーティストは、レーベルが指定する範囲において、その芸名、肖像、および実演を独占的に使用させるものとし、契約期間中および契約終了後一定期間、これに制限を加えることができない』

「契約終了後一定期間」――この曖昧な一文の中に、どれだけの罠が仕込めるだろうか。もし解釈次第で何年でも縛れるとしたら、彼女たちは自分の名前で歌う権利すら、簡単に取り上げられかねない。

 実際に、この条項をめぐって揉めた例がないか、私はさらに検索を続けた。三年前、別のレーベルで似た文言を含む契約が交わされ、契約終了後にアーティストが自分の名前でSNSを更新しただけで、使用差し止めの警告を受けたという記事が見つかった。結局は双方の合意で決着したとあるが、記事の行間には、若いアーティスト側がほとんど泣き寝入りに近い形で折れた様子がにじんでいた。芸名も、顔も、声も、すべてが「商品」として契約書の中に閉じ込められる。その怖さを、私は数字ではなく、一つの実例として初めて肌で理解した。

 同じ記事のコメント欄には、業界関係者と思しき投稿者による、短い一文が残されていた。「契約書を読み込むマネージャーがいるグループは強い。読み込まないマネージャーのグループは、いずれ痩せ細る」。それだけの言葉だったが、今の私にはどんな激励よりも重く響いた。痩せ細らせるわけにはいかない。三人の声も、名前も、これから先の五年も。

 正直に言えば、心のどこかに、小さな誘惑もあった。大手の看板さえ受け入れてしまえば、資金繰りに頭を悩ませる日々からは、今すぐにでも解放される。倉庫のアルバイトも、コンビニの廃棄弁当も、深夜の交渉の電話も、もう必要なくなるかもしれない。二十八歳の自分の中に、その誘惑が確かに存在することを、私は否定しなかった。だからこそ、私はノートの余白に、もう一行だけ書き足した。「楽になりたいという気持ちで、判断してはいけない」。自分自身への、最後の釘だった。

 半年前の自分を思い出す。フォロワー三百五十人という画面を前に、絶望していたあの夜。あのとき欲しかったのは、ただ一つ、誰かに見つけてもらうことだった。今、目の前にあるのは、見つけてもらった先にある、もっと残酷な選別だった。見つけてもらうことより、見つけてもらった後に消えないことのほうが、はるかに難しい。

 もちろん、暗い話ばかりではなかった。同じネクストウェーブから五年前にデビューし、今も着実にキャリアを積み重ねている女性デュオの記事も見つけた。インタビューの中で、片方のメンバーがこう語っていた。「デビューする時、マネージャーが契約書の隅々まで読み込んで、私たちの代わりに何十個も質問してくれた。あの時間がなかったら、今の私たちはいなかったと思う」。その一文を読んだとき、私は自分がこれから向かう場所の意味を、もう一度確信した。守るべきものは、夢そのものではなく、夢を長く歩き続けるための土台だ。

 私は続けて、高橋という人物についても調べられる限り調べた。業界誌のインタビューでは「アーティストの意志を尊重するプロデューサー」という評判が並ぶ一方、同業者らしき匿名の書き込みには「交渉のテーブルでは一歩も譲らない」「若い事務所ほど言いくるめられる」という辛辣な一文もあった。どちらが真実かは、会って確かめるしかない。ただ、少なくとも「与しやすい相手」だとは、決して思われてはいけない。私はその一点だけを、頭に強く刻みつけた。

 深夜二時を回った頃、私は思い立って、大学時代のゼミの先輩で、今はエンタメ業界専門の法律事務所に勤める知人にメッセージを送った。返事は期待していなかったが、五分もしないうちに既読がつき、短い返信が届いた。

『契約書、見せてもらえたら明日でも見るよ。ただ、口頭で一つだけ言えるのは――最終決定権と原盤権、この二つを取られたら、あとの条文がどれだけ好条件でも意味がない』

 画面のその一文を、私はノートの一番上に書き写した。最終決定権。原盤権。今日、何よりも先にこの二つの所在を確認する。それが、今夜の徹夜が導き出した、たった一つの結論だった。

『助かる。もし話が進みそうなら、正式に契約書のレビュー、お願いできる? もちろん、料金の話は別途』

『いつでも。青木の頼みなら、優先で見るよ。......にしても、半年前は普通の会社員だったのに、いつの間にか芸能事務所のマネージャーか。相変わらず無茶をする』

 その一文に、私は小さく笑ってしまった。無茶をする自覚は、ある。それでも、今この場所に立っている自分を、後悔したことは一度もなかった。

 ノートには、契約交渉で必ず確認すべき項目が、いつの間にか十五個以上、箇条書きで並んでいた。最終決定権の所在。グループ名と芸名の所有権。契約更新条項の自動更新の有無。原盤権の帰属。活動休止・脱退時の取り扱い。ビジュアルコンセプトの決定プロセス。移籍・独立時の違約金規定。

 一つ一つの項目の横に、私は自分なりの「譲れる」「絶対に譲れない」の印をつけていった。ペン先が紙を叩く音だけが、静まり返った事務所に響いていた。

 窓の外はまだ暗い。けれど、その暗さの中に、わずかに白いものが混じり始めているのが分かった。夜が明ける。今日という日は、LUMINAというグループの、次の五年を左右する日になる。

2

 翌朝、私は寝不足で赤くなった目をコンシーラーで隠し、大類社長のデスクの前に立った。

「――というわけで、ネクストウェーブ・ミュージックのチーフプロデューサー、高橋さんから、正式な交渉の申し入れがありました」

 大類社長は、椅子から今にも転げ落ちそうな勢いで身を乗り出した。

「ネ、ネクストウェーブって、あの……! 国民的アイドルグループも抱えてる、あの大手のネクストウェーブか!? 嘘だろう、青木くん、これは大金星じゃないか! すぐにでも判子を用意しないと――」

「社長」

 私は、努めて静かな声で遮った。感情の温度が違いすぎると、この話は正しく届かない。

「大手の看板だけを見て判子を押せば、五年後、LUMINAは看板の陰で消えている確率のほうが高いんです」

 私はゆうべ調べ上げた数字を、一枚の資料にまとめて差し出した。生存率一パーセントという文字を見た瞬間、大類社長の顔から、みるみる血の気が引いていった。

「一パーセント……そんな、まさか」

「まさか、ではありません。これが現実です。だからこそ、今日の交渉は、ただ『イエス』を言いに行く場ではありません。私たちが、彼女たちの五年後を守るための条件を、こちらから突きつけに行く場です」

 大類社長は、しばらく資料を見つめたまま黙り込んでいたが、やがて深く息を吐き、私の目をまっすぐに見た。

「……分かった。青木くんに、任せる。ただし」

「ただし?」

「一つだけ、約束してくれ。判断に迷ったら、必ず私に相談すること。この会社の看板を背負っているのは、君一人じゃない」

 その言葉に、私は一瞬、言葉に詰まった。これまで私は、判断のすべてを自分一人で抱え込むことを、責任感の証だと思い込んでいた。大類社長のこの一言は、その思い込みに、小さな、けれど確かな亀裂を入れた。

「――分かりました。相談します」

 私はそう答え、頭を下げた。

 大類社長は、私が資料を鞄にしまうのを見届けてから、ふと思い出したように付け加えた。

「青木くん。私は、正直、契約書の細かい条項なんて、君の半分も理解できていないと思う。それでも、これだけは分かる。君がこの半年、あの三人のために削ってきたものの重さは、私も見てきた。だから今日は、君の判断を信じる。ただし――勝つことばかり考えなくていい。守れないと感じたら、その場で席を立ってもいい。会社の経営のことは、私が何とかする」

 その言葉は、資料の数字よりもずっと重く、私の胸の中に落ちてきた。数字と条文だけで武装してきたつもりの自分の中に、まだ知らない支えがあったのだと、初めて気づかされた気がした。

「ありがとうございます、社長」

 私は深く一礼し、事務所を後にした。その足で、私は稽古場に向かった。

 稽古場のドアを開けると、まだ鏡に反射した朝の光の中で、三人が新曲のフォーメーションを合わせている最中だった。ユイの弾けるようなステップ、リナの一切の無駄を削ぎ落とした鋭い切り返し、そしてハルカの、二人を包み込むように支える柔らかな動き。半年前、狭い六畳間の畳の上で振り付けを覚えていた三人は、もういない。今、目の前にいるのは、鏡の中の自分たちの動きを、プロの目で確認できるようになった三人だった。

 音楽が止まる。ハルカ、ユイ、リナの三人が、朝の自主練習を終えたばかりのタイミングだった。汗に濡れたタオルを首にかけたまま、三人は私の顔を見るなり、何かを察したように動きを止めた。

「青木さん、今日、なんだか顔つき違います」

 真っ先に口を開いたのは、リナだった。

 私は三人を稽古場の隅に座らせ、昨夜の電話の内容を、できるだけ平静な声で伝えた。大手レコード会社からの正式なオファーであること。今日の午後、渋谷で高橋プロデューサーと会うこと。そして、そこには大きな夢と同じくらい、大きな危険が潜んでいること。

「メジャーデビュー……本当に、私たちが……?」

 ユイの声が、震えていた。目には、みるみるうちに涙が盛り上がってくる。

「夢みたい。ずっと、ずっと欲しかった言葉です」

「まだ何も決まってない。今日はあくまで交渉よ。契約の内容次第では、お断りする可能性だってある」

 私がそう釘を刺すと、ユイの表情に、一瞬だけ影が差した。

「……お断りする、なんてこと、あるんですか? こんなチャンス、二度と来ないかもしれないのに」

「あるわ。あなたたちの名前や、これから歌う曲を、あなたたち自身のものとして守れないなら、私はサインしない」

 私の口調が、思いのほか強くなっていたのだろう。ハルカが、少し驚いたように私を見た。

「青木さん。私たちにも、少しは考えさせてもらえませんか」

 ハルカの声は静かだったが、これまで聞いたことのない芯の強さを帯びていた。

「今までも、青木さんが決めて、私たちがついていく形でした。それでここまで来られたことには、心から感謝しています。でも、これは私たちの、この先五年の話です。青木さんが一人で交渉して、一人で背負って、結果だけを私たちに伝える――そのやり方は、今日はちょっと、違う気がします」

 その一言は、深夜の資料作りに没頭していた私の胸の、思いがけない場所に刺さった。私はいつも、彼女たちを守るという名目で、一番重い荷物を自分一人の背中に集めてきた。それは優しさであると同時に、彼女たちから「自分の言葉で交渉の場に立つ」という機会を奪う、静かな支配でもあったのかもしれない。

 リナが、珍しく自分から続けた。

「私、契約書とか、難しいことは分かりません。でも、ステージに立つのは私たちです。決める場所に、私たちがいないのは、変だと思う」

 三人の視線が、まっすぐに私へ向けられていた。反論の言葉を探したが、見つからなかった。見つからなかったこと自体が、答えだった。

「……そうね。今日は、条件を私が整理して持っていく。でも、最終的にサインするかどうかは、あなたたち三人にも、必ず判断してもらう。交渉の結果は、包み隠さず全部話す。それでいい?」

 ハルカは、少し驚いたように目を見開いてから、すぐに深く頷いた。

「はい。ありがとうございます」

 リナは、いつもの少ない言葉で「分かりました」とだけ言い、ユイは涙をこすりながらも、小さく笑って頷いた。

「一つだけ、お願いしてもいいですか」

 ハルカが、立ち上がりかけた私を呼び止めた。

「今夜、交渉がどうなっても、終わったらすぐ、私たちに会いに来てください。結果を、電話やメッセージじゃなくて、青木さんの顔を見て聞きたいです」

「私も」ユイが、涙の跡が残る顔のまま、小さく手を挙げた。「顔を見たら、結果がどっちでも、大丈夫って分かる気がします」リナは何も言わなかったが、いつもより少しだけ長く、私の目を見つめていた。それだけで、彼女が同じ気持ちでいることは十分に伝わった。

 その言葉に、私は少し驚いた。これまでの私なら、結果だけを簡潔に報告し、次の準備に取りかかっていただろう。けれど今は、その一言が、これから向かう戦場への、静かな支えになる気がした。

「分かった。今夜、必ず会いに来る」

 三人のその顔を見て、私は昨夜の自分の緊張が、少しだけほどけていくのを感じた。

3

 稽古場を出た直後、スマートフォンが震えた。ネクストウェーブの高橋のアシスタントを名乗る人物からのメッセージだった。

『本日十四時、渋谷東急ホテル最上階、エグゼクティブラウンジにて。高橋より、資料は不要とのことです。お手ぶらでお越しください』

 たった数行の業務連絡だったが、その素っ気なさが、かえって不穏だった。資料は不要。つまり、こちらの準備など最初から意味を持たない、と言われているに等しい。あるいは、口頭のやり取りだけで、後に何の証拠も残さないつもりなのか。私は画面をしばらく見つめた後、返信を打った。

『承知いたしました。念のため、弊社側でも簡単な確認資料を準備の上、同席させていただきます』

 一方的に決められたルールに、黙って従うつもりはなかった。小さな一文だったが、これが今日最初の意思表示だった。

 正午過ぎ、私は事務所の給湯室で、冷めきったコーヒーを一気に飲み干した。頭の芯は疲労で重く痺れていたが、瞳の奥だけは、昨夜と変わらず冷たく澄んでいた。

 昨夜まとめた十五項目のリストを、もう一度スーツの内ポケットで確かめる。最終決定権。名前の所有権。原盤権。更新条項。譲れない一線を、私は指の腹でなぞるように、頭の中で何度も反芻した。

 大手の看板に怯んではいけない。生存率一パーセントの世界で、彼女たちを残りの九十九に落とさないための盾は、感情でも根性でもなく、この紙一枚に書かれた条件そのものだ。

 事務所を出る前、私はハルカ、ユイ、リナの三人に、もう一度だけ声をかけた。

「行ってくる。今日は、私たちの側から条件を出す。彼らの言うことを、ただ受け入れるためじゃない」

「青木さん」

 ユイが、私の袖をそっと引いた。

「勝ってきてください。でも、無理はしないでください」

 その両方を同時に叶えるのは、簡単なことではない。それでも私は、迷わず頷いた。

「大丈夫。底の抜けたバケツに、綺麗な水を注ぎ続けるような真似は、もうしない」

 三人の視線に背を押されるようにして、私は事務所のドアを開けた。外は、初夏の強い日差しが、アスファルトを白く灼いていた。渋谷までは、電車で二十分。その二十分の間に、私はもう一度、頭の中で高橋プロデューサーとの会話をシミュレーションした。

 彼が最初に切り出す言葉。私が返す言葉。相手が譲らなかった場合の、次の一手。想定される反論を一つ潰すたびに、隣の座席の窓ガラスに映る自分の顔が、少しずつ強張っていくのが分かった。

 スマートフォンが震えた。大学時代の先輩からだった。『念のため、最終決定権と原盤権の条文だけは、絶対に読み上げさせて確認すること。口頭の説明を鵜呑みにしないで、必ず条文の文字そのものを見せてもらって』短いメッセージだったが、徹夜明けの頭に、もう一度芯を通してくれるような一文だった。私は『了解』とだけ返し、画面を閉じた。

 車窓に映る自分の顔を見つめながら、私はふと、半年前の自分ならこの電話一本さえ怖くて出られなかっただろうと思った。今は違う。怖くないわけではない。ただ、怖さの隣に、初めて「準備してきた」という確かな手応えが並んでいた。

 電車が渋谷に近づくにつれ、窓の外の景色が、見慣れた雑踏へと変わっていく。あの雑踏の片隅に、かつて私たちが物販の列を数え、コンビニの廃棄おにぎりを分け合っていた日々がある。あの日々を知っているからこそ、今日、私は絶対に折れるわけにはいかなかった。

 渋谷駅の改札を抜け、東急ホテルへと続く坂道を上りながら、私は自分の心拍数が、静かに、しかし確実に上がっていくのを感じていた。これは恐怖ではない。これは、戦いの前の、正常な緊張だ。

 ロビーの奥、エレベーターホールに立った瞬間、私は一度だけ深く息を吸い込み、スーツの襟を正した。ポケットの中のノートの角を、指先で最後にもう一度確かめる。

 最上階のボタンを押す。扉が閉まり、箱がゆっくりと上昇を始める。

 窓の外に、渋谷の街が、みるみるうちに小さくなっていく。あの雑踏のどこかに、かつて三十人にも満たない客の前で歌っていた、地下のライブハウスがある。冷たいコンクリートの床、湿った空気、客席の隙間から漏れる、数えるほどのペンライトの光。あの場所から、私たちはここまで来た。

 ふと、ポケットの中でスマートフォンが小さく震えた。ハルカからの短いメッセージだった。

『青木さん、いってらっしゃい。私たちも、稽古、頑張ります』

 その一文を見て、私は詰めていた息を、静かに吐き出した。生存率一パーセントの世界へ、たった一つの盾と、三人の言葉を胸に、踏み込もうとしている。

 階数表示のランプが、一つ、また一つと上がっていく。エレベーターの扉が開いた先には、これまで足を踏み入れたことのない、広いラウンジフロアが広がっていた。

4

 渋谷の東急ホテル、最上階。ガラス張りの天空から見下ろすスクランブル交差点は、まるで精緻な回路基板の上を走る無数の電子の群れのように見えた。陽光が反射する高層ビル群のパノラマの真ん中で、私たちの座るボックス席の空気だけが、極低温の窒素を満たしたかのように完全に凝固していた。

「前例がないのであれば、今ここで作りましょう」

 私が放ったその一言の残響が、高級なクラシック音楽のBGMをガラスの破片のように切り裂いていく。

 私の正面に座る高橋プロデューサーは、微動だにせず、ただ眼鏡の奥の切れ上がった瞳を私に向けていた。その視線は、熱を完全に排した、冷徹な顕微鏡のレンズそのものだった。私のすぐ隣では、大類社長が「――っ」と声にならない悲鳴を喉の奥で鳴らし、上質な仕立てのテーブルクロスを握りしめる自らの指先をガタガタと震わせていた。

「青木マネージャー」高橋がゆっくりと、珈琲カップをソーサーに戻した。磁器が触れ合うカチリという小さな音が、妙に大きくラウンジに響く。「君がこの一ヶ月で成し遂げたデジタルマーケティングの成果には、先ほども言った通り、最大の敬意を払っている。……だがね、ここは六畳間のアパートでもなければ、インディーズのライブハウスでもない。音楽ビジネスという、年間数千億の資本が動く巨大な市場マーケットだ。そこで『前例のないルール』を、資本も実績もない弱小事務所の、しかも二十代の現場マネージャーが要求する。それがどれほど不条理なことか、本当に理解して発言しているのかね?」

 高橋の声には、怒りの色彩すら混じっていなかった。ただ、圧倒的な規模を持つ資本家メジャーが、世界のことわりを無知な子供に説いて聞かせるような、絶対的な断絶がそこにはあった。

「十分に理解しております、高橋さん」私はカバンから、一晩かけて印刷したA4の資料の束を取り出し、ガラステーブルの上に静かに滑らせた。

「ネクストウェーブ・ミュージックが提示された包括契約書、全四十八条。そのすべてに目を通させていただきました。……表向きは『LUMINAを世界へ羽ばたかせるためのパートナーシップ契約』と謳われていますが、その実態は、アーティストの肉体と才能、そして将来の自由を完全に縛り付ける『法的な罠』と言わざるを得ません」

「青木! お前いい加減にしろ!」大類社長がついに耐えかねたように身を乗り出し、私のシャツの袖を強引に引っ張った。その顔は完全に血の気が引き、土気色に変色している。「高橋さん、すみません! こいつ、ちょっと最近のバズで頭がのぼせ上がってて、おかしなこと言ってるんです! うちとしては、ネクストウェーブさんの提示された条件なら何でも喜んでサインさせていただきますから! おい青木、早く謝れ!」

「大類社長、黙っていてください」私は大類のハンカチを握る手を、冷徹な力で振り払った。「私はLUMINAの総括マネージャーです。彼女たちの人生のすべての権利を預かる立場として、彼女たちを破滅させる契約書に、ただ盲目的に『イエス』と答えるような無能な真似は絶対にいたしません」

 高橋は、私のその頑なな態度を面白がるように、微かに口元を歪めた。「……破滅、かね? 随分と大げさな表現を使う。我が社は彼女たちに、インディーズでは逆立ちしても用意できない、一億規模の制作予算と、地上波のタイアップ、そして全国の流通網を約束しているんだ。これを破滅と呼ぶ人間は、世界中どこを探してもいないと思うがね」

「いいえ、高橋さん。数字ロジックは嘘をつきません」私は差し出した資料の一ページ目を、親指で強く指し示した。そこには、過去五年間にメジャーデビューを果たしたインディーズ出身のアイドルグループ、全百四十二組の『生存率』に関する、私が独自に集計した冷酷なデータシートが記載されていた。

5

「高橋さん、これが日本の音楽業界における、美しきメジャーデビューの『真実』の姿です」

 私は資料の数値を、高橋の眼鏡の奥の瞳へと突きつけるようにして読み上げた。

「過去五年間にメジャーデビューしたグループのうち、三年後もレーベルとの契約を維持し、アーティスト活動の歩合ロイヤリティだけでメンバー全員が最低限の生活を維持できているグループは、全体のわずか『〇・七パーセント』。一パーセントにも満たないんです。残りの九十九パーセント以上のアーティストは、華々しいデビューの裏で、制作費やプロモーション費の『回収』という名の名目によって、実質的な無報酬、あるいはインディーズ時代よりも酷い困窮状態に置かれ、数年以内にレーベル側からの都合で契約を打ち切られ、市場から静かに退場させられています。食べていけないアーティストが九十九パーセントを超える世界。これが、メジャーという名の、冷酷なシステムの正体です」

 高橋の眉が、ピクリと動いた。しかし、彼はまだ沈黙を崩さない。

「今回の契約書の第12条。専属マネジメント期間の『自動更新条項』についてです。レーベル側にのみ、一方的な契約延長の選択権オプションがあり、アーティスト側からの解約申し入れは一切認められていません。つまり、LUMINAがどれだけ売れても、あるいはどれだけ干されて売れなくても、ネクストウェーブが『イエス』と言わない限り、彼女たちは他の事務所へ移籍することも、自力で活動を再開することもできない。これは実質的な『事務所縛り』による、才能の囲い込みです」

 私はさらに契約書をめくり、最も悪質な条項をペン先で叩いた。

「そして最も看過できないのは、第15条の『知的財産権の帰属』。ここには、契約が満了、あるいは解除された後も、楽曲の『原盤権』はもちろんのこと、『LUMINAルミナス』というグループ名、さらには『ハルカ』『ユイ』『リナ』という芸名の使用権に至るまで、すべての権利が永久にネクストウェーブ・ミュージック側に帰属すると記載されています。……高橋さん、これはあまりにも残酷な罠です。もし数年後、レーベルの経営判断や方針転換で契約が切られた瞬間、彼女たちは、自らが血を流して築き上げてきた『LUMINA』という名前すら奪われ、自らの芸名でステージに立つことすら法律で禁止される。すべてを奪われ、職を失い、デジタルの海から完全に抹殺される。そんなリスクを孕んだ契約書に、どうしてサインができるでしょうか」

 ラウンジの窓の外、初夏の強い光に照らされた渋谷のビル群が、不気味なほど静まり返って見えた。大類社長はもはや完全にキャパシティをオーバーし、椅子の背もたれに崩れ落ちたまま、幽霊でも見るかのような目で私を見つめていた。

 大手のメジャー契約というものは、アーティストを輝かせるための魔法の絨毯ではない。それは、アーティストの持つすべての権利を資本によって合法的に買い叩き、企業の利益を最大化させるための、洗練された「支配のシステム」なのだ。

 もし私が、ここで大手の威光に怯え、ハルカたちの夢が叶ったことだけに目を奪われてひれ伏してしまえば、彼女たちは数年後、あの木造アパートの六畳間よりも遥かに冷たい、法的な暗闇の底へと突き落とされることになる。

 私は、高橋の視線を真っ向から睨み据えたまま、一ミリも身体を引かなかった。

「私は、彼女たちを『消費されるだけの消耗品』としてメジャーへ送り出すつもりはありません。彼女たちの未来の自由と、自らの名前で歌い続ける権利。それだけは、どのような巨人が相手であろうとも、絶対に譲渡バーターいたしません」

6

 高橋プロデューサーは、私の激しい言葉の連射をすべて受け止めた後も、しばらく無言のまま、テーブルの上のデータシートを見つめていた。エグゼクティブラウンジに、長い、あまりにも重い沈黙が支配する。氷が溶けてグラスの底でカランと鳴った音が、まるで銃声のように響いた。

 やがて。高橋の肩が、微かに揺れた。

「……フッ、ハハハハハ」

 低く、しかし腹の底から湧き上がるような笑い声が、高橋の口から漏れ出た。彼は眼鏡を指先で押し上げ、私を見て、初めてその瞳の奥に「一人のプロフェッショナルに対する、本物の敬意の火」を灯した。

「参ったな。ただの、バイラル動画の波に乗っただけのラッキーなインディーズマネージャーかと思っていましたが……まさか、これほど正確に音楽業界の『骨組み』を解剖してくるとは。……驚きましたよ、青木マネージャー」

 高橋は椅子の背もたれに深く寄りかかり、両手を組んだ。

「君の言う通りだ。契約書というものは、企業のリスクをゼロにするために作られている。アーティストが脱落したときの損失を最小限に抑え、名前や楽曲の権利を会社に残す。それが、資本主義のルールだ。生存率一パーセント未満。それも紛れもない事実だよ。メジャーという大舞台は、毎年何百人もの少女たちの死屍累々たる山の上に成り立っている、巨大なコロシアムだ」

 高橋はそこまで言うと、表情を再びプロの交渉者のそれへと引き締めた。

「だがね、青木さん。リスクを恐れていては、あのアリーナの景色は絶対に踏めない。我が社としても、LUMINAの持つデジタルマーケティングの『歩留まり率の高さ』、そして何より、彼女たちをここまで冷徹にコントロールしている君という『マネジメントの知恵』を、どうしても我がグループの傘下に引き入れたい。……分かった。条項の修正のテーブルに付きましょう」

 高橋は手元の手帳を開き、素早い手つきでいくつかの項目を書き留めた。

「第12条の自動更新条項は、二年の固定期間満了後、アーティスト側からの解約申し入れ権を明記する。そして第15条の知的財産権についてだが、グループ名『LUMINA』および各メンバーの芸名の所有権は、スターライトエージェンシーおよびメンバー個人に留保する。契約満了後は、彼女たちがその名前を維持したまま、他社へ移籍することも、インディーズに戻ることも法的に保証しよう。……ただし、楽曲の『原盤権』の完全な分割だけは、我が社の法務部が絶対に認めない。その代わり、著作隣接権の分配率(印税率)を、通常のインディーズ出身枠の『二倍』に引き上げる。……これでいかがかね、青木マネージャー」

 それは、音楽業界の巨人が、二十八歳のインディーズマネージャーに対して、明確にその「知性と覚悟」を認め、最大の妥協のステップを踏み出した瞬間だった。

「……ありがとうございます、高橋さん」私は、深く、深く息を吸い込んだ。胸の奥の、破裂しそうだった緊張の塊が、温かい勝利の手応えとなって溶けていくのを感じた。

「その修正条件であれば、弊社としても、喜んで包括契約の基本合意(LOI)に進まさせていただきます」

 私は立ち上がり、高橋に向かって、深々と頭を下げた。大類社長はもはや完全に魂が抜けたような顔で、ただ呆然と私たちのやり取りを見つめているだけだった。

7

 エグゼクティブラウンジでの熾烈なリーガル・バトルを終え、ホテルのロビーへ下りるエレベーターの中で、大類社長がようやく堰を切ったように声を荒げた。

「おい……おい青木! お前、本当に何て奴だ! 一時はどうなることかと思ったぞ! ネクストウェーブのチーフプロデューサー相手にあんな生意気な口叩いて、原盤権の譲歩だの印税二倍だの……。俺はな、寿命が十年の縮んだぞ!」

 大類はハンカチで額の汗を何度も拭いながら、しかしその顔には、信じがたい条件を勝ち取ったことへの、隠しきれない興奮と強欲な笑みが浮かんでいた。

「社長、言ったはずです。時代のルールが変わったのであれば、私たちはただ大手の言いなりになる消耗品になってはならない、と」私はエレベーターの鏡に映る、自分の冷徹な、しかし確かなプロとしての自信に満ちた顔を見つめながら言った。

「高橋プロデューサーは、LUMINAの数字だけでなく、マネジメントである私が、彼女たちの未来を守るために『どれだけの知性を持って戦えるか』を冷徹に値踏みしていたんです。もし私が、提示された不平等な罠だらけの契約書に、ただ盲目的に『イエス』と答えて平伏するような無能なマネージャーであれば、彼はLUMINAを『都合よく使い捨てられるただのプラスチックの玩具』として扱ったでしょう。私が知性を持って真っ向から戦う姿勢を見せたからこそ、彼は彼女たちを『対等にリスペクトすべきプロのアーティスト』として遇することを選んだんです」

 チーン、と音を立ててエレベーターの扉が開き、渋谷の喧騒が私たちの前に広がった。私はカバンの中の、修正確約がなされた基本合意書の重みを感じながら、駐車場に止められた古いハイエースへと歩き出した。

 地下の暗闇から、メジャーという名のまばゆい光の差す場所への扉は、今、私たちの自らの知性と戦略によって、完全に、そしてこれ以上ないほど強固な形でこじ開けられたのだ。

 しかし。契約を勝ち取った喜びも束の間、私のスマートフォンが、ポケットの中で不吉な、激しいバイブレーションを響かせて震え始めた。ディスプレイに表示されたのは、メンバーのグループチャットからの、ハルカの悲鳴のようなテキストメッセージだった。

『青木さん、大変です、今すぐアパートに戻ってきてください! ライブハウスの周りに、変な人たちが集まってて……タカシくんたちが、別のファングループと、大喧嘩を始めてます……!』

「――っ!」私の脳裏に、以前クマたちから投げつけられた、あの不穏な言葉がフラッシュバックした。

『いつも現場支えてやってるの、誰だか分かってんよね? 次のチケット、俺たちに優先的に回してくれるんだよね?』

 知名度が爆発的に跳ね上がり、メジャーデビューという巨大な大人の資本が動き出したLUMINA。しかし、その急速な拡大の裏側で、ライブ現場という生々しい空間のファンコミュニティには、古参と新規の剥き出しのエゴと愛憎が渦巻く、決定的な「亀裂」が走り始めていたのだ。

 私はハイエースのキーを強く捻り、エンジンの悲鳴とともに、少女たちが待つ次なる混沌の現場へと、アクセルを強く踏み込んだ。

8

 渋谷からハイエースを激しく飛ばし、メンバーたちが次のステージの準備を進めている下北沢のライブハウス「ガーデン」の裏路地に滑り込んだときには、午後四時を回っていた。初夏の生ぬるい風が吹くアスファルトの上で、私の最悪の予感は、生々しい現実となって目の前に広がっていた。

「おい! お前ら新参が、リナちゃんの撮可のときだけカメラ持って前にしゃしゃり出てきてんじゃねえよ! 最前列はな、うちのグループが最初から管理してんだよ!」

 路地裏の自動販売機の陰で、以前の対バンで私に毅然とルールを突きつけられた、最前管理グループの幹部であるクマが、高級一眼レフカメラを首からぶら下げたまま、若い新規のファンと思われる男子大学生の胸ぐらを強く掴んで怒鳴りつけていた。

「そんなの勝手だろ! 今日のイベントは主催者が『最前列の場所取り禁止』ってアナウンスしてるはずだ! 俺たちだって、LUMINAのダンスプラクティス動画を見て、今日初めてチケット取って見にきたんだ!」男子大学生も、恐怖に顔を引き攣らせながらも、必死になって反論している。

 周囲には、クマの仲間である最前管理の男たちが数人、威圧的な態度で取り囲んでおり、さらにその様子を、古参ファンの筆頭であるタカシが「おい、クマさん、やめろよ! 現場の空気悪くするな!」と、必死になって間に割って入ろうとしていた。

 ライブハウスの入り口付近には、急激に増えたLUMINAの新規ファンたちが、その異様な光景に怯えたように遠巻きに立ち尽くしている。知名度が爆発し、デジタル成長記録が数万人、数十万人へと跳ね上がったことで、ライブ現場には、YouTubeやTikTokから流入した膨大な数の「新規ライト層」が押し寄せていた。しかし、ライブハウスの最前列という限られた特権的な空間を、これまでの地下時代を支えてきたという自負プライドを持つ「最前管理」の古参たちが完全に占拠し、新参を激しく排除しようとする、苛烈な摩擦が発生していたのだ。

「全員、そこまでよ!」

 私はハイエースのドアを叩きつけるようにして閉め、男たちの間に真っ向から割って入った。私の、感情を一切排した、冷徹なマネージャーとしての仮面の声に、クマたちの視線が一斉にこちらへと向いた。

「青木マネージャー……。お前、ちょうどいいところに来たな」クマは男子大学生の胸ぐらを乱暴に離すと、私に向かって、小馬鹿にしたように鼻で笑った。

「おい、青木さんよ。ネットでバズって新規が増えたからって、うちのやり方にケチつけるんじゃねえぞ。LUMINAがフォロワー350人のガラガラのハコで誰も見てくれなかったとき、最前列でチケット何枚も買って現場を支え続けてやったの、誰だか忘れたわけじゃねえよな? 大手がついてメジャーデビューするからって、古参を切り捨てるような真似するなら、うちの若い奴ら全員使って、次のリキッドルームの現場、完全にボイコット(ジャック)して荒らしてやってもいいんだぞ」

 クマの言葉は、剥き出しの脅迫であり、肥大化したエゴの醜い露出だった。彼らは、自分たちがグループの「功労者」であるという歪んだ特権意識を盾に、メジャーへと羽ばたこうとするLUMINAの足を、再び地下の泥の中へと引きずり回そうとしていたのだ。私はその歪んだ論理に、一瞬でも心を動かされてはならないと、自分に強く言い聞かせた。

 私は、クマのその濁った瞳を、数センチの至近距離からまっすぐに睨み据えた。その視線を外せば、すべてが崩れる。そう分かっていたから、私は瞬きすらこらえていた。

「クマさん、そして皆様。……LUMINAが最も苦しかった地下の時代、皆様が最前列で声を張り上げ、彼女たちのステージを支えてくださったこと。その事実は、私も、メンバーのハルカたちも、一秒たりとも忘れてはいません。心から、深く感謝しております」

 私は努めて静かに、しかし路地裏の壁に反響するほど芯の太い声で告げた。その声の奥で、心臓は今にも破裂しそうなほど早鐘を打ち続けていたが、それを表に出すことだけは絶対に許されなかった。

「ですが。現在のLUMINAは、もはや一部の特定の方々のためだけの『閉じた聖域』ではありません。彼女たちの音楽は、世界中の、何万、何十万という、日々の生活に傷つきながらも一筋の光を求めている新しいファンの方々のためのものへと、進化を遂げたんです。古参だからといって、新しく彼女たちを見つけてくれた大切なファンの方々を威圧し、排除する権利など、この現場のどこにも存在しません。ルールは、一律です。もし、これ以上現場の統制を乱し、他のお客様への暴力行為や、チケットの不正な転売・場所取りを続けられるのであれば……」

 私はカバンから、先ほど高橋プロデューサーと交わしたばかりの、ネクストウェーブの公式ロゴが入ったLOI(基本合意書)の書面を、クマの目の前に突きつけた。

「ネクストウェーブ・ミュージックの法務部、およびスターライトエージェンシーの連名において、今後のすべてのLUMINAの主催ライブ、および参加イベントへの出入りを永久に禁止(ブラックリスト登録)とさせていただきます。法的措置も含め、毅然と対応いたします。……私を、ただの弱小事務所の現場マネージャーだと舐めないでください。彼女たちの未来の環境を守るためなら、私はどんな泥臭い現場調整も、冷徹な排除も、一ミリの躊躇もなく実行いたします」

 私の、背筋が凍るようなリーガルリスクを背景とした徹底的な警告に、クマたちの顔から、先ほどまでの横柄な笑みが一瞬にして消え去った。彼らは、目の前の二十八歳の女性マネージャーが、もはや自分たちの手に負えるような「地下の住人」ではなく、大手の資本と法律をバックにつけた「プロの法廷闘争者」へと完全に進化していることを、その肌で理解したのだ。

「……チッ、大手の犬が。もう勝手にしろよ。行くぞ!」

 クマは吐き捨てるように言うと、仲間を引き連れて、路地裏の闇の向こうへと去っていった。

 胸の奥から、一気に熱いアドレナリンが引いていき、私の身体を激しい虚脱感が襲った。自販機の壁にもたれかかり、深く息を吐き出す。膝の裏側が、まだ小さく震えているのを感じた。

 正直に言えば、たった今クマに突きつけた「法務部との連名でのブラックリスト登録」という言葉は、完全な事実ではなかった。LOIはまだ基本合意の段階に過ぎず、ネクストウェーブの法務部がそこまでの対応を確約したわけではない。追い詰められた勢いのまま、私はほとんど口からでまかせに近い脅し文句を並べていた。もしクマがこの場で「本当にそんな連名があるのか、書面を見せろ」と食い下がっていたら、私のはったりは即座に崩れていただろう。この綱渡りのような賭けが今回は通用しただけで、次も同じように通用する保証はどこにもなかった。

 今夜のうちに、高橋プロデューサーに事後承諾でも構わないので、この一件を報告し、法務部との正式な連携を本当に取り付けておく必要がある。そう考えると、勝利の余韻の中にも、冷たい緊張の芯が一本通っているのを感じた。ロジックと事実だけを武器にしてきたはずの自分が、今日は初めて、事実ではないものを武器として振りかざしてしまった。その一線を越えたことへの後ろめたさが、胸の奥にじわりと残り続けていた。

「……青木さん、ありがとうございました」タカシが、すまなそうに私に頭を下げた。「俺……みんなが揉めるの、止めたかったんだけど、力不足で……」

「いいのよ、タカシさん。あなたは悪くないわ。いつも彼女たちを純粋に応援してくれて、本当にありがとう」私はタカシの肩を優しく叩き、ライブハウスの楽屋口へと歩き出した。その背中に、彼のほっとしたような小さな声が届いた。

 ファンは単なる背景ではない。彼らは時に、マネジメント側が身を挺してコントロールしなければならない、最も巨大で、最も危うい「利害関係者」なのだ。古参の愛憎、新規の台頭。この現場の泥臭い摩擦を乗り越えなければ、私たちは本当の意味でのトップ(アリーナ)には立てない。

 楽屋のドアを開けると、そこには、衣装に着替えたハルカ、ユイ、リナの三人が、不安そうな顔で私を待っていた。

「青木さん! 大丈夫でしたか!?」ハルカが真っ先に駆け寄ってくる。

「ええ、大丈夫よ。クマさんたちには、ちゃんとルールを守るようにお話ししてきたわ」

 私はいつも通りの、揺るぎないマネージャーの顔でそう答えた。だが、その笑顔の下にある微かな疲労の色を、リナだけが見逃さなかった。

「……青木さん、少し座ってください。顔、白いです」

 リナが、パイプ椅子を私の方へと押しやりながら、静かに言った。その口調には、いつもの淡々とした響きの奥に、隠しきれない気遣いが滲んでいた。

「大丈夫よ、これくらい」

「大丈夫かどうかは、青木さんじゃなくて私たちが決めます」

 リナの思いがけない一言に、ハルカとユイも小さく頷いた。私は一瞬、返す言葉を失った。いつもメンバーの体調を管理する側だった自分が、逆に気遣われている。その事実に、面映ゆさと、言葉にできない温かさが同時にこみ上げてきた。

「……ありがとう。少しだけ、座らせてもらうわ」

 私は素直にパイプ椅子に腰を下ろした。ユイが冷たいお茶のペットボトルを差し出し、ハルカが私の背中にそっと手を添えた。三人に囲まれるようにして座るこの数分間だけは、私は「守る側」ではなく、ただ守られる一人の人間でいることを許された。

 こんなふうに自分の弱さを、言葉ではなく行動でそっと差し出してもらったのは、この仕事を始めてから初めてのことだった。いつも与える側だと思い込んでいた自分にも、受け取るべきものがあったのだと、この数分間で初めて気づかされた。

「……さあ、みんな。世界の景色が変わっても、私たちのやるべきことは一つだけ。ステージの上で、完璧な光を放つこと。準備はいい?」

「はい!」

 三人の、自信に満ちたプロの顔つき。私は静かにヘッドセットのマイクをオンにし、彼女たちの背中を見送った。メジャー契約という罠を突破し、現場の混沌をねじ伏せた。それでも、今夜勝ち取ったものより先に、まだ片付けていない問題が一つ残っていた。先ほどクマに突きつけたはったりのことを、私はまだ誰にも話していなかった。舞台袖から聞こえてくる開演前のざわめきに耳を澄ませながら、私はもう一度、自分の背筋を伸ばし直した。


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