第11章 初めての「イエス」と巨人の誘い
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初夏の生ぬるい雨が、原宿のコンクリートを重く叩いていた。スターライトエージェンシーの狭い事務所の窓ガラスには、無数の水滴が複雑な軌道を描いて流れ落ち、外に見える都会のビル群のネオンを乱雑に歪ませている。
時刻は午後二時。ネクストウェーブ・ミュージックとの基本合意の締結、そしてライブ現場での古参グループとの苛烈な衝突から数日。LUMINAを巡る状況の回転速度は、すでに人力での制御を不可能にするほどの超高速領域へと突入していた。あの下北沢の路地裏での対峙から、まだ一週間も経っていないことが、私には信じられなかった。
「――はい、スターライトエージェンシー、青木です」
私は事務机に置かれた固定電話の受話器を肩と耳の間に挟み、ノートパソコンのキーボードを猛烈な勢いで叩きながら応対した。
「あ、青木マネージャー? 日本テレビの制作ディレクターの佐藤です。先日の恵比寿リキッドルームの完売の件、ネットのトレンドデータを拝見しまして。来月の放送枠で、LUMINAさんの特集を5分枠で組みたいんですが、スケジュール調整いかがですか?」
「佐藤様、大変光栄なお話です。ぜひ前向きに進めさせてください。ただ、現在のメンバーの稼働状況が非常にタイトになっておりまして、直近の金曜日であれば、14時以降のスタジオ収録での調整が可能ですが、いかがでしょうか」
右手のペンで卓上カレンダーに素早く「日テレ」と書き込み、通話を切る。その刹那、今度はポケットの中で仕事用のスマートフォンが狂ったように振動を始めた。画面には、大手ライフスタイル誌の編集部の文字が表示されている。
「はい、青木です! ……ええ、衣装のネイビーを基調としたスタイリングのタイアップですね。もちろん対応可能です。香盤表をメールでお送りいただけますでしょうか」
電話を切り、受話器を置く。その間、わずか数秒。以前に構築したプラットフォーム間の導線は、もはや私の想像を遥かに超えた巨大な吸い上げポンプとして、芸能界のあらゆるメディアの関心を引き寄せ続けていた。
これまでこちらから何度頭を下げても門前払いを食らっていた地上波のテレビ局や、一流のファッション誌、大手フェスの主催者たちが、今や私たちのスケジュールを奪い合うようにして、殺気立った連絡を寄せてくる。
かつてフォロワー350人のガラガラのライブハウスで、客抜けの冷たい風圧に耐えながら、なけなしのチェキ券を売っていたあのLUMINAが、名実ともに「時代の寵児」へと変貌を遂げようとしていた。その変化の速さに、当のマネージャーである私自身が、いまだについていけていない部分があった。
「……信じられないな。本当に、うちの電話なのか、これは」
打ち合わせスペースのソファで、大類社長が自らのスマートフォンの画面を見つめたまま、呆然と呟いた。画面にはプレイガイドから送られてきた、ワンマンライブの追加席解放に関する凄まじいアクセス数のデータが映っている。
「青木、お前が仕掛けたマーケティング、本当に大当たりの大化けだよ。あのネクストウェーブの高橋プロデューサーから、正式な『本契約書』の草案が届いたぞ。来週の月曜、ついに契約書の調印式だ。これでうちは、一気に大手の仲間入りだ!」
大類はテーブルの上に、ネクストウェーブの重厚な社印が押された、青いファイルに入った数百ページに及ぶ契約書類をドンと置いた。その顔には、弱小インディーズの経営者から、メジャーのアーティストを抱えるプロデューサーへと出世したことへの、隠しきれない強欲な喜びと興奮が満ち満ちていた。
私は手を止め、その青いファイルを見つめた。ホテルのエグゼクティブラウンジにおける熾烈な交渉を経て、高橋プロデューサーはこちらの要求を観念したように呑んだはずだった。自動更新条項の削除、グループ名および各メンバーの芸名の所有権のアーティスト側への完全な留保、辞める際の名前の維持、そして印税率のインディーズ枠の「二倍」への引き上げ。
条件としては、これ以上ないほどの「満額回答」である。大類が興奮するのも無理はなかった。これにサインすれば、LUMINAの3人は正式にメジャーデビューを果たし、スターダムへの階段を垂直に上り始めることができるのだから。
しかし、私の胸の奥には、冷たい雨の雫が落ちるような、得体の知れない「不穏な予感」が澱のように溜まっていた。音楽業界の頂点に君臨する大手の巨人が、二十八歳のインディーズマネージャーに一本取られただけで、大人しく引き下がるはずがない。この美しく修正された契約書の文言の裏側に、まだ私が見落としている、より深くて冷酷な「大人のシステムの力学」が隠されているのではないか、という疑念が消えなかった。
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「みんな、今日のミーティングの議題は、来週の月曜日に控えたネクストウェーブ・ミュージックとの『正式契約』についてよ」
午後四時。事務所の打ち合わせスペースに、衣装から着替えたばかりのメンバー三人が集まっていた。ハルカ、ユイ、リナ。彼女たちの顔からは、かつてコンビニ飯の廃棄おにぎりを分け合っていた頃の、生々しい困窮の色彩は完全に消え去っていた。
バズ以降、事務所の口座にはインディーズ時代の何十倍もの売上が流入し、私は大類社長と掛け合って、メンバー全員に対して、まずは同世代の会社員と同等以上の「固定給(月給二十五万円)」と、日々の交通費・食費の全額支給を完全に義務化させていた。
「もう、早朝のパン屋に行く必要も、深夜の居酒屋の皿洗いで足を痛める必要もない。あなたたちは今、名実ともに『プロの表現者』としての生活を保障されたのよ」
私がそう告げた日、ハルカとユイは事務所の床の上で抱き合って涙を流した。リナも、倉庫作業での段ボールの擦り傷が消えた美しい右手の甲をそっと見つめ、小さく、本当に安心したように息を漏らしていた。
経済的な困窮から解放された彼女たちの瞳には、しかし今、新しく訪れたあまりにも巨大な世界のルールに対する、特有の「重圧」と「戸惑い」が色濃く反射していた。
「青木さん……これ、本物のメジャー契約書ですか?」ハルカが、テーブルの上の青いファイルを、まるで爆発物でも見るかのようなおずおずとした手付きで触った。
「はい。私が高橋さんと戦って勝ち取った、すべての修正条項が完璧に明記されているわ。『LUMINA』の名前も、あなたたちの芸名も、ネクストウェーブに奪われることはない。契約が満了した後も、あなたたちの未来の自由は完全に法的に守られている。……文句なしの、最高の契約書よ」
私の言葉に、ユイが小さく胸を撫で下ろした。「よかったぁ……。私、ネットで調べたら『メジャーデビューした途端に名前が使えなくなって解散した』とか怖い話ばっかり出てきたから、本当に安心しました。青木さん、私たちのために戦ってくれて、本当にありがとうございます!」
ユイの無邪気な感謝の笑顔に、私はしかし、素直に微笑み返すことができなかった。私の視線は、契約書の第24条『アーティストの義務および活動の方向性』という、一見すると定型文のように見える条項の、わずか数行の文言に釘付けになっていた。
【レーベル側は、アーティストのプロモーション価値を最大化させるため、衣装、楽曲、およびビジュアルコンセプトの最終決定権を有する。アーティストは、プロのエンターテインメントとしてのクオリティを維持するため、レーベル側の提示するコンセプトに合理的な範囲で従わなければならない】
「……合理的な範囲」
私はその文字を、心の中で何度も、何度も反芻した。この言葉は、極めて曖昧で、かつ、大手の資本がアーティストの「魂」を合法的に塗り替えるための、最も洗練された免罪符になり得る。
「ハルカ、ユイ、リナ。……私はあなたたちに、嘘をつきたくない」私は姿勢を正し、三人の顔をまっすぐに見つめた。
「この契約書にサインすれば、私たちはメジャーという名の巨大なコロシアムへ足を踏み入れることになる。そこは、私たちが今まで戦ってきた『インディーズの現場』とは、完全にルールの違う世界よ。今までは、私があなたたちの味方であり、現場のルールだった。私がイエスと言えばそれがLUMINAの正解だった。でも、メジャーに行けば……私たちは、何億という金を動かす大人の男たちの『意向』という名の、巨大な力と毎日のように直面することになるわ」
三人の表情が、一瞬にしてピンと張り詰めた。
「衣装が変わるかもしれない。私たちが大切にしてきた『都会の夜に差す、儚くも強い光』というクールな音楽性が、レーベル側の『もっと大衆向けにポップで可愛い路線にしろ』という商業的な判断によって、不当に塗り替えられそうになるかもしれない。……そのとき、あなたたちは、その巨大なシステムに魂を売ってでも、メジャーのスターになりたいと思う? それとも……」
私の問いかけは、あまりにも重く、そして残酷なものだった。夢を叶えるということは、同時に、その夢をビジネスとして管理する大人たちのシステムの中に、自らの肉体を最適化させていくプロセスでもあるからだ。
言い終えた直後、私は自分がまだ十代の少女たちに、あまりにも重すぎる問いを投げてしまったのではないかという迷いに襲われた。この決断の重さを、本当に彼女たち自身に背負わせていいのか。私が先に方向性を決め、道筋だけを示してあげる方が、マネージャーとしては優しいやり方だったのかもしれない。それでも私は、この問いを取り消さなかった。彼女たちの人生を、これ以上私一人の判断だけで決めさせたくないという思いの方が、最終的には勝った。窓の外の雨脚が、その迷いを見透かすように、一段と強くなった気がした。
沈黙が、事務所の中に重く澱んだ。窓の外の激しい雨の音が、少女たちの心の迷いを遮るように響いている。
やがて、一番最初に口を開いたのは、リナだった。
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「……私、退きません」
リナは無表情のまま、しかし自らの下唇を強く噛み締めて言った。彼女の瞳には、かつてライブハウスのステージのラストで見せた、あの誰も予想しなかった驚異的な粘りの裏側に張り付いていた、野生的なまでの強靭な闘志が、再び冷たく燃え上がっていた。
「早朝から倉庫で段ボールを運んで、足の裏が血まみれになっても、私はステージの上で踊ることを諦めなかった。それは、ただ地下の暗闇で可愛いだけの玩具として消費されるためじゃない。世界中の一番大きなステージで、私のダンスがどこまで通用するかを試すためです。大人がコンセプトを変えようとしてくるなら……変えられないくらいの圧倒的なスキルを、私たちがステージの上で見せつければいいだけの話です」
リナの冷徹で、圧倒的な覚悟に満ちた言葉に、ユイがハッとしたように顔を上げた。「リナ……うん、私もそう思う! 私が一生懸命考えたあのスマートフォンの画面に映える片手振付だって、最後はロジックで先生に認めてもらったもん。メジャーの大人の人たちが何か言ってきたって、青木さんと、私たち三人で力を合わせれば、絶対にLUMINAの『光』は守り抜けるよ!」
そう言うと、ユイはリナの手をそっと握った。リナは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、振り払うことはせず、そのまま握られるがままにしていた。その小さなやり取りを、私は言葉にせず、ただ静かに見守っていた。
そして、リーダーのハルカが、テーブルの上の包括契約書のファイルを、自らの両手で力強く胸に抱きしめた。
「青木さん。私たちは、何も持たないところから、青木さんの言葉とハイエースだけを命綱にして、ここまで走ってきました。……食べていけない人間が九十九パーセントを超える、死屍累々たるコロシアム。望むところです。そのわずか一パーセントの頂点に、私たちが立ってみせます。だから、青木さん……私たちと一緒に、あの光の中へ行ってください」
ハルカの瞳は、都会の夜のいかなるネオンよりも、まっすぐに、美しく輝いていた。私はその少女たちの圧倒的なきらめきと覚悟に、自らの胸の奥が熱いアドレナリンで満たされていくのを確かに感じた。
「……分かったわ」私は深く、深く頷き、心からの信頼を込めて微笑んだ。
「あなたたちがそう言うなら、私は何度でも大人の会議室で悪役になり、何度でも冷徹な法廷闘争者になってみせる。……行きましょう。巨人の誘いに、私たちの初めての『イエス』を突きつけてやるのよ」
週が明け、月曜日の午後一時。私たちは再び、渋谷の東急ホテルの最上階にあるエグゼクティブラウンジにいた。窓の外は、梅雨の晴れ間のまばゆい陽光が、東京の街並みを隅々まで鮮明に照らし出していた。
テーブルを挟んで私たちの対面に座る高橋プロデューサーは、契約書の最後のページに、大類社長と私の署名・捺印が完璧になされた書面を確認すると、満足そうに深く頷いた。
「――素晴らしい。これで正式に、LUMINAの皆様はネクストウェーブ・ミュージックの所属アーティストとなりました。心から歓迎いたします、青木マネージャー」
高橋は立ち上がり、私に向かって、プロのビジネスパートナーとしての右手を差し出してきた。「ありがとうございます、高橋さん。これからよろしくお願いいたします」私はその手をしっかりと握り返した。手のひらを通じて、大手の持つ巨大な資本の熱量と、同時に、決して油断の許されない冷徹な力学が伝ってくる。
「さあ、契約が締結された以上、ここからはメジャーとしての最初の『プロダクト戦略』の始まりだ」高橋は再び席に座ると、傍らに控えていた数人の若いスタッフたちに目配せをした。彼らは手際よく、A4の美麗にカラー印刷されたプロモーション企画書を、大類と私の前に並べた。
「第一弾シングルのタイトルは『シャイニー・サマー・デイズ』。これまでのインディーズ時代の、都会の夜をイメージしたネイビーのクールな路線から一転、メジャーの第一弾としては、全編マカロンピンクを基調とした、王道の、徹底的にポップで弾けるような『可愛いサマーチューン』で市場をジャックしたいと考えている」
その言葉が、高橋の口から滑り落ちた瞬間。ラウンジの陽光が、一瞬にして冷たく色褪せて見えた。私の隣で大類が「おお、ピンク! いいですねぇ! 夏らしくてキャッチーだ!」と無邪気に歓声を上げる声を、私は完全に無視していた。
契約書の第24条。【レーベル側は、衣装、楽曲、およびビジュアルコンセプトの最終決定権を有する】
巨人は、こちらの要求を呑んだ代わりに、最初からこの「決定権」という名の刃を完璧に研ぎ澄まして、私たちの魂を塗り替えにかかってきたのだ。知的なリーガル・バトルは終わり、ここからは、メジャーという名の巨大な支配システムと、LUMINAらしさを巡る、本当の過酷な「コンセプトの攻防」が幕を開けようとしていた。
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「――高橋さん、コンセプトの変更について、少しお話をさせてください」
私は手元の企画書に目を落としたまま、感情を完全に排した、冷徹な仮面のような声で切り出した。大類社長が「おい、青木、また始まったよ……」と青い顔をして私の服の裾を小突くのを、私は一瞥もせずに無視した。
高橋プロデューサーは、眼鏡の奥の瞳に「やはり来たか」と言わんばかりの、不敵な笑みを浮かべた。
「何かな、青木マネージャー。マカロンピンクの王道アイドル路線。これは、現在のJ-POP市場において最も大衆にリーチしやすく、CMタイアップや地上波の朝の情報番組のテーマソングを獲得するための、我が社のマーケティング部が総力を挙げて導き出した『勝てる数式』だよ。インディーズ時代のあの狭いネイビーのクール路線では、コアなオタク層には刺さっても、一億の資本を回収する大衆のムーブメントにはなり得ない。これに関しては、契約書通り、我が社に最終決定権があるはずだがね」
高橋の言葉は、ビジネスとして、数字を扱うプロとして、完璧な正論だった。大手レコード会社が一億の制作予算を投じる以上、彼らは最も不確実性の低い「王道の数式」にタレントを当てはめようとする。それが、大人のビジネスの生存戦略だからだ。
「高橋さん、マーケティングの『数式』としては完璧です。ですが、タレントの『定着率』という観点から見れば、その戦略は、LUMINAの持つ最大の強みを自らの手で完全に無力化させる、致命的な悪手と言わざるを得ません」
私はノートパソコンを開き、これまでに完全に証明された各種デジタルプラットフォームのユーザー遷移データを、高橋の目の前へと突きつけた。
「現在のLUMINAのフォロワー数、そして動画チャンネルの登録者数の大半を支えている最大のコアバリューは、動画の最初の三秒で視線をハッキングする仕掛けのすぐ後ろに配置された、定点映像による『圧倒的なスキルの証明』。そして、ハルカがSNSで紡ぎ続けている、都会の孤独と困窮を生き抜いてきたという『生身のリアリティ』への深い共感です。もし、彼女たちがメジャーデビューした途端に、何の文脈もなくマカロンピンクの衣装を着せられ、笑顔で平坦なポップソングを歌わされれば、新規のユーザーたちは即座に『あ、LUMINAも結局、大人の資本に魂を売って、どこにでもある量産型の可愛いアイドルになっちゃったんだ』と失望し、バケツから流れ出るように怒涛の勢いで離脱していくのは火を見るより明らかです」
私は一歩も引かなかった。契約書に最終決定権がネクストウェーブにあると記載されていようとも、現場のデータと、彼女たちの流してきた汗の重みだけは、誰にも塗り替えさせない。
「市場へリーチさせるためのサマーチューン。それ自体は否定しません。ですが、ビジュアルコンセプトは『ネイビーとホワイトを基調とした、都会の真夏の夜』であるべきです。ただ可愛いだけの夏ではなく、ギラギラとした熱帯夜の孤独の向こう側で、自らの手で光を掴み取ろうとする少女たちの、あのLUMINA特有の『必死さと飢餓感』。それらが衣装やサウンドのベースラインに残されていなければ、彼女たちはこの生存率の極めて低いコロシアムの中で、一瞬で消費され、退場させられる有象無象へと成り下がってしまいます」
ラウンジの空間に、再びピンと張り詰めた、鋭い火花が散るような緊張感が走った。高橋は無言のまま、私の提示したデータシートと、私の血走った眼を正面からぶつめ合わせている。
大類社長はもはや完全に思考を停止させ、冷えた珈琲をロボットのような動きで口に運ぶことしかできなくなっていた。
大手の資本と最終決定権という名の「巨大な重力」。それに対して、私は現場のリアリティと、完璧に計算されたユーザー心理のロジックだけを武器に、真っ向から引力に逆らい続けていた。
数分間の、息が詰まるような沈黙の後。高橋プロデューサーは、深くため息をつくと、手元の企画書をパタンと閉じた。
「……なるほど。『都会の真夏の夜』、ですか。……相変わらず、君の言葉には、大手のマーケティング部のエリートたちですら説き伏せるだけの、現場の生々しい引力がある」
高橋は眼鏡を外し、目元を強く指先で揉みほぐしてから、私を見て苦笑した。
「分かった。我が社の法務部と制作部をもう一度説得しよう。楽曲のメロディラインは大衆向けにキャッチーなものにするが、アレンジには、君たちのインディーズ時代を手掛けたアレンジャーを起用し、都会的なベースラインを残す。衣装もマカロンピンクではなく、シアンとホワイトを基調とした、スタイリッシュな『夜の夏』のビジュアルへと変更の交渉を試みよう。……これでいかがかね、青木マネージャー」
それは、大手の巨人が、正式に包括契約を結んだ後もなお、インディーズマネージャーの持つ「知性と覚悟」に対して、明確に妥協を示した瞬間だった。
「ありがとうございます、高橋さん。その修正案であれば、メンバーも百パーセント以上のパフォーマンスで、一億の資本を必ず回収してみせます」
私は深々と頭を下げ、契約書と修正企画書を丁重にカバンにしまった。頭を下げながら、私はふと、この一ヶ月足らずの間に、高橋に対してどれだけの「無理」を通してきたかを数えていた。原盤権、知的財産権、そして今度はコンセプト。彼の忍耐と信頼は、決して無尽蔵ではないはずだ。次に何かを要求するときには、今日ほど簡単には頷いてもらえないかもしれない。その予感を、私は勝利の余韻の奥にそっとしまい込んだ。この駆け引きの貯金を、私はいつか使い果たすことになるのかもしれない。
巨人の誘いに「イエス」と答え、その巨大なシステムの内側へ滑り込んだ。しかし、私たちは決して飼い慣らされた犬にはならない。自らの知性と、彼女たちのきらめきを武器に、私たちはこの巨大なメジャーという名の戦場をも、完全にLUMINAの色へとハッキングしていくのだ。
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東急ホテルを出て、駐車場に止められた古いハイエースに戻ったときには、夜の帳が渋谷の街を完全に覆い尽くしていた。フロントガラスの向こう、スクランブル交差点を埋め尽くす無数のヘッドライトの光の海を見つめながら、私は運転席のシートに深く身体を沈めた。
カバンの中の包括契約書のファイルの重みが、私の指先にずっしりとした物理的な質量を伴って伝わってくる。
「……終わった。いや、ここからが本当の、一パーセントの生存率をかけた戦いよ」
私はハンドルを強く握り締め、低く呟いた。ラジオのボリュームをゼロにしたまま、私はしばらくフロントガラスの向こうの光の海を、ただ黙って見つめ続けていた。私たちはついに、大手のメジャー契約という名の巨大なシステムの扉を、自らの手で完全にこじ開けて中へと進んだ。ハルカ、ユイ、リナの3人は、もうあの木造アパートの貧困に怯える必要はない。プロとしての最高の舞台と、最高の環境が、今、彼女たちの足元に完璧に用意されたのだ。
しかし。私がハイエースのエンジンキーを捻ろうとしたその瞬間、ダッシュボードに置いたスマートフォンが、再び鳴り響いた。画面に表示されたのは、今度は大類社長からの連絡ではなく、公式SNSのコミュニティ管理画面のアラート通知だった。
画面を開いた私の網膜の裏側に、冷たい、凍りつくような電流が一瞬にして駆け巡った。
『LUMINA公式より重要なお知らせ:一部のファンの方々による、ライブ会場周辺での迷惑行為、および他のお客様への暴力・威圧行為を受け、今後のすべての現場における「最前列エリア」の完全指定席化、および身分証確認の徹底を導入いたします。ルールを守っていただけない一部の古参ファンの方々に関しては……』
そのアナウンスの投稿の下のコメント欄には、先ほどの契約交渉の勝利の余韻を完璧に粉砕するほどの、凄惨な「愛憎の嵐」が吹き荒れていた。
『最前管理のグループを追い出すのか!? 地下時代、ガラガラのハコで誰も見てくれなかったとき、あいつらがどれだけチケット買ってLUMINAを支えてやったと思ってんだよ! メジャーデビューした途端に古参切り捨てかよ!』『裏切り者! ネットのバズで増えたにわかの新規ばっかり優遇して、俺たちのこれまでの二年間は何だったんだよ! もうファンやめるわ!』『熱狂的なファンの一人も、ユイのSNSに「もう信じられない。死にたい」って病み投稿を連投してるぞ。現場の空気、完全に崩壊してる』
「――っ」
私はスマートフォンの画面を見つめたまま、指先が激しく震えるのを止めることができなかった。大手のメジャー契約という最高に綺麗な「光」を掴み取った、まさにその瞬間に、ライブ現場という生々しい空間のファンコミュニティには、古参と新規、迅速な拡大の歪み、そしてメンバーへの歪んだ独占欲という名の、深く、暗い「影」が、修復不可能なレベルの亀裂となって走り始めていたのだ。
美しいシスターフッドのサクセスストーリーの裏側に張り付いた、ファン心理の光と影。この巨大な時代の熱狂が生み出した濃い影の暴風雨が、LUMINAの3人と、マネージャーである私の前に、容赦なく襲いかかろうとしていた。
私はハイエースのアクセルを強く踏み込み、ヘッドライトで夜の渋谷の闇を切り裂きながら、少女たちが待つ、次なる混沌の戦場へと車を走らせた。あの「死にたい」という投稿の主が誰なのか、今の私にはまだ分からなかった。だが、その三文字が、私の胸の奥に、これまでのどんな交渉の重圧よりも重く突き刺さっていた。契約書のページ数よりも、たった三文字のその言葉の方が、今の私にははるかに重かった。




