第12章 去勢のパステル(原盤権の攻防)
1
その日の朝、六本木へ向かう前に、私は事務所に立ち寄っていた。
「今日は最後の事務手続きだけだから、心配しないで。みんなはゆっくり過ごしてて」
私がそう言うと、ハルカは少し安心したような笑顔を見せた。
「よかった。実は今朝、母から電話があって……お父さんが、こっそりネットでLUMINAのニュース記事を検索してたのを見つけたって言うんです。何も言わずに、ただ記事を何度も読み返してたって」
その報告に、私は思わず手を止めた。ハルカの父親が、あの「地元に戻って就職しろ」と言い放った同じ人物が、娘の名前をネットで検索している。それは、まだ言葉にはならない小さな変化だった。
「……そう。焦らなくていいから、ゆっくり進めばいいわ」
「はい。今はまだ、それだけで十分嬉しいです」
ハルカは静かに頷き、隣に座るユイとリナの方を見た。ユイは自分のノートパソコンでリハーサル用の楽曲を聴きながら軽くリズムを取っており、リナはYouTubeのコメント欄を巡回する作業に集中していた。数ヶ月前の困窮していた三人とは、明らかに違う穏やかな空気が、この部屋には流れていた。
「青木さん、今日は何時頃戻ります?」
リナが、作業の手を止めずに尋ねた。
「夕方には戻れると思う。何かあった?」
「別に。ただ、今日の夜、みんなで新しいレシピの鍋を作ろうって話してたので」
その何気ない一言に、私は小さく笑った。倉庫作業の傷が消え、法的な争いの矢面に立つ必要もなくなった彼女たちの日常に、こうした些細な楽しみが戻ってきている。それこそが、この戦いを続ける本当の理由なのだと、改めて思い知らされた。今夜こそ、その鍋を一緒に囲めるように、必ず良い報告を持って帰りたい。そう心の中で誓いながら、私はカバンを肩にかけ直した。
「じゃあ、行ってくるわね。今日は本当に、事務的な確認だけだから」
私はそう言い残し、事務所を後にした。あの言葉に嘘はなかった。だが、大きな戦いはもう終わったのだという、私自身の中にあったわずかな油断が、この後すぐに手痛いしっぺ返しを受けることになる。
駐車場でハイエースに乗り込む前、私はふと振り返って事務所の窓を見上げた。カーテンの隙間から、リナがコメント欄の巡回作業をしながら、ときどきユイの流す音楽に合わせて肩を揺らしているのが見えた。数ヶ月前まで、あの子たちの表情には常に張り詰めた緊張があった。今はまだ完全に消えたわけではないが、確かに柔らかくなっている。この穏やかな日々を守り抜くためにも、今日の交渉は絶対に手を抜けない。私は自分にそう言い聞かせ、エンジンをかけた。信号待ちのたびに、私は無意識のうちに今日の想定問答を頭の中で繰り返していた。
2
六本木にそびえ立つ超高層ビル、大手レコード会社「ネクストウェーブ・ミュージック」の本社オフィス。その最上階にある第一会議室の巨大なガラス窓は、初夏の気配を孕んだ強い陽光を容赦なく跳ね返し、冷徹なまでの金属的な輝きを放っていた。
エレベーターを降りた瞬間から、私はこのビル特有の匂いに気づいていた。新しいカーペットと、消毒液のような清潔さの入り混じった匂い。地下のライブハウスに染みついていた汗と埃の匂いとは、あまりにも対照的だった。この匂いの違いこそが、私たちが足を踏み入れた世界の質そのものを、雄弁に物語っているように感じられた。廊下ですれ違う社員たちの誰もが、隙のないスーツを着こなし、こちらに一瞥もくれずに足早に歩き去っていく。
室内を支配するのは、都会の喧騒を完璧に遮断した静寂と、設定温度をあえて一段下げたかのような冷え切った空気だ。重厚なガラステーブルの上には、先週のうちに大類社長と私の署名・捺印を終え、正式に締結された『専属アーティスト包括契約書』の重厚なファイルが、深い青色の表紙を光らせて置かれていた。
高橋プロデューサーは、ガラステーブルの向こうから、静かに私へ視線を向けた。契約書の調印そのものは、先週のうちに済んでいる。今日ここへ呼ばれたのは、その先――具体的な制作実務を詰めるための場だった。その笑顔は完璧なまでに洗練されていて、営業スマイルなのか本心からの好意なのか、私にはまだ判別がつかなかった。この数分後、その笑顔の裏側にあるものを、私は思い知ることになる。
先週、渋谷のラウンジで交わした基本合意(LOI)、そしてあのビジュアルコンセプトを巡る激しい攻防を経て、ついに漕ぎ着けた本契約の調印。私の徹底的なリーガル交渉により、自動更新条項の削除や、グループ名およびメンバーの芸名の所有権をアーティスト側に留保し、ビジュアルもLUMINAの強みを活かしたスタイリッシュな『都会の真夏の夜』で進行するという、弱小インディーズとしては異例の好条件を本契約書に明記させることに成功していた。
先週署名を終えた契約書のページを、私はもう一度指先でなぞった。この一枚一枚に、ハルカたちの未来がどれだけ左右されるのか。その重みを噛み締めながら、私はふと、初めてこの会議室に足を踏み入れたときの緊張を思い出していた。あの時と比べれば、今の自分はいくらか場慣れしたはずだった。それなのに、今日もまた、心臓は同じ速さで脈打ち続けている。この仕事に、本当の意味での「慣れ」など、最後まで訪れないのかもしれない。それでも構わない、と私は思う。慣れてしまった瞬間こそが、いちばん危険なのだから。
「さあ、本契約の締結という最初のステップが完了した以上、ここからはメジャーとしての『具体的なプロダクト戦略』の実務の話に移ろう。我が社のリソースを投じる以上、最初のメジャーデビューシングルで、一気に市場の覇権をもぎ取りにいく」
高橋のその声のトーンには、先ほどまでの歓迎の温かさから、ビジネスとしての鋭さへと切り替わる、微かな変化があった。私はその変化を聞き逃さなかった。この巨大な会社にとって、契約の調印はゴールではなく、次の戦略のためのただの通過点に過ぎないのだ。長年この業界で戦ってきた人間だけが持つ、その切り替えの速さに、私は改めて緊張を新たにした。
高橋は再び席に座ると、傍らに控えていた法務部の佐藤弁護士と、制作ディレクターの川島に目配せをした。彼らは手際よく、A4の美麗にカラー印刷された予算計画書と、それに付随する『別紙細則』となる予定の、新しい書類を大類社長と私の前に並べた。
私はその書類のタイトルに踊る不穏な太字を見つめた瞬間、網膜の奥が凍りつくような感覚を覚えた。
『第一弾シングル音源制作における費用負担ならびに知的財産権の包括帰属細則』
「細則」という言葉の軽さと、その中身の重さのあまりの落差に、私は一瞬、目眩にも似た感覚を覚えた。まるで、本体の契約書という表玄関を丁重に整えておきながら、この裏口から、静かに、しかし確実に、最も重要なものを持ち去ろうとしているかのようだった。
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高橋プロデューサーの隣に座る制作ディレクターの川島が、緊張した面持ちで補足説明を始めた。
「ええ、青木マネージャー。先日合意した『都会の真夏の夜』というシネマティックなコンセプトを完全なクオリティで具現化するため、弊社が全額を出資する、総額二千五百万円の制作予算の内訳になります。最高峰のスタジオレンタル、一流の演奏ミュージシャンへの謝礼、そしてインディーズ時代の手腕を買って貴社指定の気鋭のアレンジャーを起用する費用が含まれています。……ただし、ネクストウェーブがこの資金を全額拠出する条件として、この制作プロセスによって発生するすべての音源の『原盤権(マスター権利)』は、包括契約書第15条に基づき、百パーセント、ネクストウェーブ・ミュージックに永久かつ排他的に帰属するものとします」
川島の口から滑り落ちた「原盤権」という単語の響きに、私は、万年筆を握る指先が微かに震えるのを自覚した。
原盤権。それは、録音され、完成した音源そのものに対して発生する、音楽ビジネスにおける最も強力で、最も莫大な利益を生み出す「王座の権利」の総称である。この権利を持つ者だけが、楽曲を音楽配信プラットフォームに配信し、CDをプレスし、タイアップに二次利用し、そのすべての売上から発生する莫大な利益を独占的に受け取る権利を有するのだ。
大学時代、契約法の講義で原盤権について学んだとき、教授は「これはアーティストにとっての土地の権利証のようなものだ」と説明していた。土地を持たない者は、いくら家を建てても、その土地の所有者の意向次第でいつでも立ち退きを命じられる。原盤権もそれと同じだ。楽曲という「家」をどれだけ美しく作り上げても、土地にあたる原盤権を持たない限り、その家に住み続ける保証はどこにもない。当時はただの学問上の比喩として聞き流していたその言葉が、今、目の前の現実として立ちはだかっていた。
包括契約書において、私は印税率の引き上げや、メンバーへの給与保障の特約を勝ち取ったはずだった。だが、彼らがこの実務的な細則で提示してきた条件は、そのすべての防壁を裏側から完璧に無力化させる、冷酷なシステムの力学そのものだった。
正直に言えば、私はこの「細則」という書類の存在そのものを、事前に想定できていなかった。契約書本体の条文はあれほど丹念に読み込んだのに、その本体に付随する別紙という形で、原盤権の帰属がまるごと再定義されてしまうという構造までは、想定問答の中に組み込んでいなかったのだ。契約書は本体だけを読んで安心してはいけない。その教訓を、私は今、最悪のタイミングで学ぶことになった。
思えば、独学で契約法を学んだ自分の限界が、ここに来て如実に表れたのかもしれない。プロの弁護士であれば、本体だけでなく、付随するすべての別紙、覚書、細則の存在まで事前に開示させ、精査するのが常識だったはずだ。私はその常識を知らなかった、あるいは知っていても、時間と費用の制約の中で徹底しきれなかった。この見落としのツケを、今この場で払わされている。それでも、後悔している時間はなかった。今この瞬間、目の前の高橋たちにどう対峙するかだけが、私に許された唯一の選択肢だった。
さらに、佐藤弁護士が冷淡な調子で言葉を重ねた。
「それだけではありません。インディーズ時代に貴社で制作された既存曲『モノクローム・シティ』の原盤権についても、今回のメジャー流通網への乗せ替え(再録)に伴い、弊社が一括して管理・所有する形に移行させていただきます。これが、当社のコンプライアンスおよび財務監査上の絶対的な前提条件となります」
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胸の奥に、冷たい氷の塊を突き刺されたような衝撃が走った。
「都会の真夏の夜」というクリエイティブの方向性を譲った代わりに、巨人は今度はこの「原盤権」という最も冷酷な法律と資本の鎖を使って、私たちの喉元を完璧に締め上げにかかってきたのだ。
「モノクローム・シティ」も含めたすべての音源の原盤権を、メジャー側に完全に渡す。それは、LUMINAが契約を満了、あるいは解除された後、自ら築き上げてきた過去の音源を、三人の判断だけで配信し直すことも、映像作品や広告へ使用することもできなくなるということだった。ステージで楽曲を歌う権利まで直ちに失うわけではない。それでも、自分たちの音楽の歴史をどう残し、どう届け続けるかを大手の資本に委ねたままになる。そんな冷酷な未来が、その数行の文言の裏側に張り付いていた。
脳裏に、あの木造アパートの六畳間で、ユイが徹夜で振付を考え、リナが倉庫での傷だらけの手でスマホを操作し、ハルカが等身大の言葉をストーリーズに紡いでいた光景が、次々とフラッシュバックした。「モノクローム・シティ」は、彼女たちがあの困窮の中で必死に磨き上げてきた、文字通り血の滲んだ結晶だ。それを、たった一枚の別紙一つで奪われようとしている。この不条理を、私は絶対に呑み込むわけにはいかなかった。
いつだったか、深夜のスタジオでハルカがぽつりと呟いたことがあった。「この曲、私たちが最初に本気で人前で歌った曲なんです。だから、たとえ売れなくなっても、いつか歳をとっても、この曲だけは自分の声で歌い続けたい」。その時の彼女の横顔を、私はまだ鮮明に覚えている。原盤権を手放すということは、その願いそのものを、法律の名のもとに奪い去ることに等しかった。
「青木! お前いい加減にしろよ!」
私の隣で、大類社長が原盤権という単語の持つビジネス的な意味の重さを理解できず、興奮して身を乗り出してきた。その顔は、二千五百万円という大金の数字に完全に目を眩まされ、強欲な笑みに歪んでいる。
「高橋さん、佐藤さん! 素晴らしい予算案ですね! 原盤権なんて大手のネクストウェーブさんが持ってくれた方が、管理も安心だし、二千五百万円も出してくれるんだから当然ですよ! おい青木、早くサインしろ! 包括契約はもう締結されたんだから、あちらのシステムに従うのが当然だろ!」
大類社長は、私のノートパソコンを奪い取らんばかりの勢いで詰め寄り、早く書類にハンコを捺せと、私のジャケットの裾を強く引っ張った。
「大類社長、黙っていてください」
私は大類のハンカチを握る手を、冷徹な力で振り払った。
「私はLUMINAの総括マネージャーです。彼女たちの人生のすべての権利を預かる立場として、彼女たちの魂である音楽を、大手の資本に完全に売り渡すような無能な真似は絶対にいたしません」
「お前、また同じことするのか……! 前回だってギリギリだったんだぞ! 高橋さんたちの堪忍袋の緒がいつ切れてもおかしくないんだ!」
大類は声を震わせながら、それでも私の腕を掴む手を離さなかった。彼のその必死さの中には、単なる強欲さだけでなく、ここまで積み上げてきたものを失うことへの、本物の恐怖も混じっているように、私には感じられた。
「社長の不安は分かります。……でも、ここで折れたら、私たちは二度と対等な立場でネクストウェーブと向き合えなくなる。今日、ここで一歩でも引けば、次のアルバム制作でも、その次のツアーの決定権でも、同じように資本の理屈だけで押し切られ続けることになるんです」
私はそう言い切ると、大類の手をそっと、しかし確実に自分の腕から外した。大類はそれ以上何も言わず、ただ深いため息をつき、椅子の背もたれに崩れるように身を沈めた。
その姿を横目に見ながら、私はふと、この男もまた、この巨大なビジネスの前では私と同じくらい無力な一人の人間なのだと気づかされた。強欲さの裏に隠れた、彼なりの必死さ。それを笑う資格は、私にはなかった。むしろ、この大金と巨大な組織を前にして怯えるのは、ごく当たり前の人間の反応なのかもしれない。怯えないふりをしているのは、この会議室の中では、おそらく私だけだった。
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高橋プロデューサーは、私が再び鋭い戦闘態勢に入ったことを察知し、眼鏡の奥の瞳に、最高にスリリングな大人の笑みを浮かべた。
「どうしたかね、青木マネージャー。お金を全額出資するのは我が社だ。出資者がその成果物である原盤権を所有するのは、近代ビジネスにおける絶対的な、そして当然の対価だ。弱小インディーズの事務所が、一円の制作費も出さないまま権利の留保を要求するなど、商業的なモラルに反していると言わざるを得ないがね」
その口調には、勝利を確信した者特有の、余裕にも似た穏やかさがあった。彼にとって、この原盤権の帰属は、交渉の余地のある論点というより、業界のルールブックにすでに書き込まれた「当然の前提」なのだろう。だからこそ、この揺るぎない前提を切り崩すには、同じくらい揺るぎない、別の前提を対置しなければならなかった。
高橋の言葉は、冷酷なまでに理路整然とした「資本主義の正論」だった。
「高橋さん、確かに二千五百万円という金額は、インディーズの私たちには逆立ちしても用意できない大金です。それは事実として認めます」
私は一旦、高橋の主張の正しさを認めた。ここで感情的に全否定すれば、この先の交渉の余地そのものを失う。数字を扱う交渉には、数字で応じる。それが、私がこれまで貫いてきたやり方だった。
「ですが、その二千五百万円という『初期投資』と、原盤権という『永久の権利』を、単純にイコールで結びつけるのは、現代の音楽ビジネスの構造としては、いささか古い発想だとも思います」
法務担当の佐藤弁護士も、私を侮蔑するような冷たい目を向け、資料をペン先で叩いた。
「青木さん、アーティスト側に原盤権を残す、あるいは一部を留保する前例など、我がネクストウェーブのメジャー契約において過去に一例も存在しません。もしこれ以上の無理な要求を続けられるのであれば、先ほど締結した包括契約そのものの『履行不能による解除』、ならびにすべてのプロモーション計画の中止を法務部として進めざるを得なくなりますが、本当にその覚悟がおありですか?」
佐藤の声には、感情の起伏が一切なかった。それがかえって、この脅しが単なるはったりではなく、実際に発動され得る現実の手続きであることを物語っていた。
大手の連名による、完璧な「法的な脅迫」だった。あの重力は、前回よりも重くなって戻ってきていた。私の手元にあるのは、現場のリアリティと、工程に潜む不条理を突く法的な知性だけだ。それだけを盾にして、彼女たちの魂の前に立ち塞がらなければならなかった。
「履行不能による解除」。その言葉の重みを、私は正確に理解していた。もしこの場で契約そのものが解除されれば、LUMINAはメジャーという舞台に足を踏み入れた事実だけを残し、その果実を何一つ手にできないまま、再びインディーズの荒野へと引き戻されることになる。しかも、一度「大手との契約を破棄されたグループ」という烙印を押されれば、他のレーベルからのオファーも今後は確実に遠のくだろう。この一言は、単なる交渉のブラフではなく、現実に私たちを完全に葬り去るだけの威力を持っていた。
もし私が、ここで大手の威光に怯え、資本の論理に平伏して「イエス」と答えてしまえば、ハルカたちの夢は、その瞬間に大人の都合の良いビジネスの歯車へと変貌し、彼女たちの放っていたあの唯一無二の「音楽のアイデンティティ」は、完全に死に絶えてしまう。
だが同時に、私は自分の中に生まれた冷や汗の感触を、正直に認めないわけにはいかなかった。この「細則」の存在を見抜けなかったのは、明確な私の準備不足だ。もし今この場で、佐藤弁護士の言う通り契約解除という最悪の事態に転がり込めば、その責任のすべてが、私のこの見落としに帰着することになる。膝の上で、両手を強く握りしめた。震えを、絶対に相手に悟られるわけにはいかなかった。
大類がちらりとこちらを見た。その視線には、先ほどまでの強欲な笑みは既になく、代わりに、この場の空気の重さを初めて正確に理解し始めたような、青ざめた緊張が浮かんでいた。彼もまた、この交渉が単なる書類仕事ではなく、LUMINAの存続そのものを賭けた瀬戸際に立っていることを、遅ればせながら悟ったのだろう。
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「……高橋さん、佐藤さん。商業的なモラルを語るのであれば、現代のデジタル市場におけるアーティストとレーベルの『本当の投資比率』について、正確なデータを元に議論しましょう」
私はノートパソコンの画面を再び高橋の目の前へと突き出し、一晩かけて構築した、大手の法務部のエリートたちをも論破するためのカウンターのロジックの銃口を正面から向けた。この一晩、ほとんど眠らずに作り込んだ資料が、今ようやくその真価を問われようとしていた。
指先はまだ、先ほどの動揺の名残でわずかに冷たかった。それでも、声だけは絶対に震わせてはならない。私は自分の呼吸を整えながら、資料のページをめくる手を、意識的にゆっくりと動かした。
「二千五百万円という制作費は、確かに大きな金額です。ですが、この楽曲が生み出すであろう生涯収益、配信のストリーミング収益、タイアップ収益、そしてグッズやライブへの波及効果まで含めた『生涯価値』の総額を試算すると、その回収期間は決して長くありません。すでにLUMINAが証明してきたデジタル上のエンゲージメント率を踏まえれば、二千五百万円の投資回収は、早ければ半年以内に完了する可能性が極めて高いんです」
私はスライドの数字を一つずつ指し示しながら、努めて冷静な口調を保ち続けた。
「その回収が完了した後もなお、原盤権という『永久の所有権』だけをレーベル側に残し続けることに、果たしてどれほどの合理性があるでしょうか。世界の主要な音楽市場では、近年、原盤権の期間限定ライセンス契約や、収益分配型の共同保有というモデルが急速に広がっています。御社ほどの規模のレーベルであれば、そうした先進的なモデルへの移行を、業界の中でいち早く実践するという選択肢もあるはずです」
私は畳み掛けるように、もう一枚のスライドを表示させた。そこには、海外の主要マーケットにおける原盤権の分配モデルの推移が、折れ線グラフで示されていた。
「日本の音楽業界だけが、いまだにこの旧来型の『全部取り』の構造に固執していれば、いずれ優秀なアーティストたちは、より公正な条件を提示する新興のレーベルや、自主流通のプラットフォームへと流出していくことになります。LUMINAとの契約を、御社が『旧来型の搾取モデル』ではなく『新時代の共存モデル』の成功事例として業界に示すことができれば、それ自体が御社にとっての大きなブランディングにもなるはずです」
高橋は腕を組んだまま、私の言葉に一言も口を挟まなかった。その沈黙が、賛同なのか、単なる次の反撃の準備なのか、この時の私にはまだ判別がつかなかった。
知的なコンセプトの攻防は終わり、ここからは、LUMINAの音楽の魂であり、彼女たちのこれからの十年の生命線そのものである『原盤権』を巡る、本当の、命がけの「リーガル・バトル(法廷闘争)」が幕を開けようとしていた。
この遮音壁に囲まれた静寂の会議室の中で、私たちの運命のすべてを賭けた、本当の大人の攻防が爆発することになる。私は事務所で待つハルカたちの顔を一瞬だけ思い浮かべ、目の前の巨人に向かって、誇り高く不敵な微笑みを返した。
高橋は私の資料を手に取り、ゆっくりとページをめくり始めた。その仕草の一つ一つに、次の反撃をどう組み立てるかという計算が透けて見えた。佐藤弁護士は、腕時計にちらりと目をやり、川島は落ち着かない様子で自分のペンをカチカチと鳴らしている。この部屋にいる誰一人として、まだこの議論の着地点を見通せていなかった。
大類だけが、もはや何も言わず、ただ祈るような目でこちらを見つめていた。その視線の中に、これまでの強欲さとは違う、純粋な不安の色が混じっているのを、私は初めて見た気がした。彼のその表情もまた、この交渉の重さを物語る証拠の一つだった。
窓の外では、六本木の街が初夏の陽光の下で何事もなく動き続けていた。信号待ちの車列、行き交う通行人、遠くに見えるクレーンの影。この会議室の中だけが、時間の流れを止められたように張り詰めている。私はその静けさの中で、もう一度深く息を吸い込んだ。
あの木造アパートの六畳間で、三人が半額のおにぎりを分け合っていた夜。あの夜の彼女たちの顔を思い出すと、この会議室の冷たい空気の中でも、不思議と足がすくむことはなかった。私が守るべきものは、こんな高層階の眺めの中にはない。もっと低く、もっと生々しい場所に、その答えはいつもあった。
——今夜、この結果をどう伝えればいいのか。まだこの部屋にいる私自身、その答えを持っていなかった。ただ一つだけ確かなのは、どんな結果になろうとも、私は今日、ここで得たものと失ったもののすべてを、正直に彼女たちに話すつもりだということだった。今度こそ、都合の良い部分だけを切り取って伝えるようなことは、絶対にしたくなかった。壁の時計は、午後四時を回ろうとしていた。
7
同じフロアの、同じ会議室だった。違うのは、テーブルの上に置かれた書類の厚みと、私の背中を伝う汗の理由だけだ。数時間前に締結したばかりの契約書の余韻に浸る間もなく、次の戦いはすでに始まっていた。
ガラステーブルの中央に置かれた一冊の書類。
『第一弾シングル音源制作における費用負担ならびに知的財産権の包括帰属細則』
その白紙のページに印刷された明朝体の文字が、まるで鋭利な剃刀の刃のように私の網膜を刺激する。
「――青木マネージャー、大類社長。改めて、弊社法務部および制作部としての基本方針を提示させていただきます」
高橋プロデューサーの傍らに控える法務部の佐藤弁護士が、冷たい金属フレームの眼鏡を指先で直しながら、抑揚のない声で言い放った。その手元にある万年筆のクリップが、室内の蛍光灯を反射して無機質に光っている。その光の反射だけが、この部屋の中で唯一、生きて動いているもののように私には見えた。
「今回のデビューシングル制作に際し、弊社が全額を拠出する音源制作費、スタジオレンタル、アレンジャーや演奏ミュージシャンへの謝礼、総額二千五百万円。これに伴い、発生するすべての音源の『原盤権』は、包括契約書第15条の規定に基づき、百パーセント、ネクストウェーブ・ミュージックに永久かつ排他的に帰属するものとします。また、インディーズ時代に貴社で制作された既存楽曲『モノクローム・シティ』の原盤権についても、メジャー流通網への乗せ替え(再録)に伴い、弊社が一括して管理・所有する形に移行させていただく。これが、当社のコンプライアンスおよび財務監査上の絶対的な前提条件となります」
佐藤弁護士の口から滑り落ちた「原盤権」という三文字。それが、この会議室全体の重力を一気に十倍へと跳ね上げたかのような錯覚を私に抱かせた。
原盤権――すなわち「音源制作者の権利」。それは、作詞や作曲といった「著作権」とは全く異なる、音楽ビジネスにおける最も強力で、最も莫大なキャッシュフローを生み出す『王座の利権』の総称だった。スタジオのマルチトラックレコーダーに記録され、マスタリングを経て完成した「音源のマスターテープ」そのものを支配する権利。この権利を持つ者だけが、楽曲をSpotifyやApple Musicなどのデジタルプラットフォームに配信し、CDとしてプレスし、テレビCMやアニメのタイアップに二次利用し、そのすべての売上から発生する莫大な「原盤印税」を独占的に受け取る権利を有するのだ。
先ほど、私は高橋が提示してきた「マカロンピンクの量産型アイドル路線」という安易なビジュアルコンセプト変更に対し、現場のデータと生存率一パーセントという冷酷なロジックを突きつけて真っ向から宣戦布告し、ビジュアルをLUMINA本来の「都会的でクールな夜の夏」へと引き戻す妥協を勝ち取ったばかりだった。
だが、彼らはクリエイティブの方向性を譲った代わりに、今度はこの「原盤権」という最も冷酷な法律と資本の鎖を使って、私たちの喉元を締め上げにかかってきたのだ。
包括契約書において、私はメンバー三人への「二年間の最低生活保障(月給二十五万円)」の特約を認めさせ、印税率を二倍に引き上げる約束を取り付けた。だが、もしこの細則通り、インディーズ時代の『モノクローム・シティ』も含めたすべての音源の原盤権をネクストウェーブに永久に奪われてしまえば、それは何を意味するのか。
もし数年後、LUMINAがネクストウェーブとの契約を満了、あるいはあちらの都合で契約を打ち切られたとしても、原盤権を持たないだけで、三人が自分たちの楽曲をステージで歌えなくなるわけではない。だが、自ら築き上げてきた過去の音源を自由に配信し直すことも、映像作品や広告へ使用することもできなくなる。既存音源をどのように世に残し、届け続けるかは、すべて大手の意向に委ねられる。彼女たちの音楽の歴史が、自分たちの手を離れたままでいいのか。メジャーという名の工場の中で、自らの過去を自由に扱えないまま、資本を回収するための「使い捨ての歯車」にされる危険を、私は見過ごすことができなかった。
「……高橋さん、佐藤さん。この細則の文言、そのままサインするわけにはいきません」
私はカバンから万年筆を取り出し、ガラステーブルの真ん中に置かれた書類の上に、カチリと音を立てて置いた。その小さな金属音が、やけに大きく耳に残った。
私の隣で、高級なロゴ入りウォーターを美味しそうに飲んでいた大類社長が、私の声のトーンの変化に気づき、ゲホゲホと激しくむせ返った。大類は青い顔をして「おい、青木! もう本契約の調印は終わったんだろ!? なんでまだ文句つけるんだよ! 原盤権なんて大手のネクストウェーブさんが持ってくれた方が、管理も安心だし、二千五百万円も出してくれるんだから当然だろ!」と、私のジャケットの裾を強く引っ張った。
「大類社長、黙っていてください」私は大類のハンカチを握る手を、冷徹な力で振り払った。「私はLUMINAの総括マネージャーです。彼女たちの人生のすべての権利を預かる立場として、彼女たちの魂である音楽を、大手の資本に完全に売り渡すような無能な真似は絶対にいたしません」
二十八歳の私が、音楽業界の巨人を相手に、彼女たちの未来のすべてを賭けた、命がけの「リーガル・バトル」の火蓋を完全に切った瞬間だった。窓の外に広がる東京の街並みが、いつもより遠く、そして小さく見えた。
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「青木マネージャー」高橋プロデューサーが、珈琲カップをソーサーに静かに戻した。カチリという磁器の音が、会議室の防音壁に跳ね返って不気味にクリアに響く。その音を合図に、室内の空気がまた一段と張り詰めた。
「君がメンバーの将来を憂う気持ちは分からなくもないが、些か感情が先走りすぎているな。音源の制作資金を百パーセント出資するのは我が社だ。二千五百万円という大金をリスクを負って投じる以上、その結果として生まれるプロダクト(原盤権)の所有権が我が社に帰属するのは、近代ビジネスにおける絶対的な、当然の対価だ。弱小インディーズの事務所が、一円の制作費も出さないまま権利の分割を要求するなど、商業的なモラルに反していると言わざるを得ないがね」
金を出した者が権利を持つ。高橋が並べているのは、その一行を丁寧に敷き延べただけの理屈だった。そして、この六本木の高層階では、その一行を疑うことのほうが不条理と見なされる。
法務担当の佐藤弁護士は、こちらを見もしなかった。ペン先で資料の同じ箇所を、二度、続けて叩いただけだった。
「青木さん、アーティスト側に原盤権を残す、あるいは一部を留保する前例など、我がネクストウェーブのメジャーデビュー契約において過去に一例も存在しません。インディーズの楽曲『モノクローム・シティ』についても、メジャーの流通網に乗せて世界に配信するためには、弊社の権利一括管理がシステム上の絶対条件です。もしこれ以上の無理な要求を続けられるのであれば、先週締結した包括契約そのものの『履行不能による解除』、ならびにプロモーション計画の中止を法務部として進めざるを得なくなりますが、本当にその覚悟がおありですか?」
言い回しは丁寧で、内容は脅迫だった。ここで私が一歩でも引けば、ハルカたちが血を流し、爪を剥がしながら守り抜いてきたLUMINAの音楽は、大人の都合の良いポートフォリオ(資産)として完全に買い叩かれ、彼女たちはただの操り人形へと成り下がってしまう。その未来だけは、絶対に許すわけにはいかなかった。
大類社長はもはや完全に血の気が引き、土気色の顔でがたがたと震えながら、「高橋さん、佐藤さん! すみません! こいつ、ちょっと頭がおかしくなってるんです! うちとしては原盤権なんて一ミリも要りませんから! 全部差し上げますから、どうかデビューだけは取り消さないでください!」と、テーブルに額を擦り付けんばかりの勢いで頭を下げ始めた。
「大類社長、みっともないから頭を上げてください」私は大類の背中を冷たく突き放し、ノートパソコンのアナリティクス画面(そこには最新のLUMINAの動画チャンネルのエンゲージメント率の推移が映っていた)を、高橋と佐藤の目の前へと鋭く突きつけた。
「高橋さん、佐藤さん。商業的なモラルを語るのであれば、現代のデジタル市場におけるアーティストとレーベルの『本当の投資比率』について、正確なデータを元に議論しましょう」
私は、一晩かけて構築した、大手の法務部のエリートたちをも論破するための、冷徹なリーガル・ロジックの銃口を正面から向けた。
「先生方の仰る『二千五百万円の出資』。それは確かに、スタジオのレンタル代や機材費という物理的な資本としては巨大です。……ですがね、現在の音楽ストリーミング市場において、楽曲の売上を爆発させるための最大の原動力は、レーベルが配置する高価なスタジオではなく、アーティスト自身が日々の私生活や尊厳を削りながらSNS上に構築してきた、ファンコミュニティの『磁力』そのものなんです」
私は画面の数値をペン先で強く叩いた。
「LUMINAの現在のSNS総フォロワー数、二十五万人。動画チャンネルの登録者数、十五万人。彼女たちが地下の暗闇で、コンビニ飯の廃棄おにぎりを分け合いながら、時給千百円の労働をこなしてスタジオに通い、自らの肉体と人生を投資して築き上げてきたこのデジタル資産の価値を、現在の一般的な顧客獲得単価(CAC)に換算すれば、優に『五千万円以上』の市場価値に匹敵します。……つまり、今回の包括契約における本当の投資比率は、ネクストウェーブの二千五百万円に対し、LUMINA側はすでにその二倍に相当する五千万円以上の無形資産を、この交渉のテーブルに最初から先出しして投資しているんです。お金を出しているのは、ネクストウェーブ側だけではない。彼女たちもまた、自らの人生という名の最大の資本を、この音源制作に等価交換(出資)しているんです!」
会議室の空間に、張り詰めた、耳が痛くなるほどの静寂が滑り込んできた。佐藤弁護士のペンの動きが、ピタリと止まった。高橋プロデューサーも、私の放った「無形資産の投資換算」という極めて現代的で、かつ冷酷なマーケティングのロジックに、眼鏡の奥の瞳を一瞬にして鋭く細めた。
9
大手のレーベルがインディーズのタレントを囲い込む際、最もよく使う手口が、「こちらが金を全額出してやってるんだから、全ての権利をこちらに渡すのは当然だ」という、前世紀の古いCD全盛期のパワーバランスに依拠した資本の論理である。
しかし、現代のデジタルネイティブな市場においては、アーティスト自身が持つ発信力やコミュニティのエンゲージメント(愛着)の高さこそが、最も希少で、最も代替不可能な「最大の資本」なのだ。それをただの弱小インディーズだからといって、一円も出していないと見なして権利を買い叩く行為は、現代のビジネスロジック(適正取引)において、明らかな搾取の構造に他ならなかった。
「原盤権の百パーセント譲渡が、例外なき絶対条件だと言うのであれば……」
私は一呼吸置いてから、カバンから、もう一冊の、厚みのある資料を取り出した。それは、かつて大学の法学部時代に学んだ契約法務の知識、あるいはインディーズ界隈の先輩マネージャーたちから書き集めた「判例集」をベースに作成した、特約条項の修正要求書だった。
「原盤権の『完全な分割・共有(共有持分五十パーセント)』、あるいはネクストウェーブ側との専属マネジメント契約が満了、解除された後、一定の算出根拠に基づく対価を支払うことで、アーティスト側が原盤権を買い戻すことができる『原盤権買い戻しオプション(バイアウト条項)』の追加。このどちらかを、この細則に法的に明記していただきます。特に、インディーズ時代に彼女たちが自費で制作した『モノクローム・シティ』の原盤権については、ネクストウェーブ側には『十年間の独占的営業利用許諾権』のみを付与し、権利の所有権そのものは、スターライトエージェンシーおよびメンバー個人に留保していただきます。これらを一切認められないというのであれば……」
私はノートパソコンをバタンと閉じ、カバンの中に丁重にしまい込んだ。無機質な会議室の照明の下、私は高橋と佐藤の顔を順番にまっすぐに見つめ、二十八歳のプロのマネージャーとしての、最も誇り高く、最も冷徹な覚悟を告げた。この一言で、すべてが決まる。「包括契約の解除、上等です。LUMINAのチケットは、プレイガイドの一般発売開始からわずか三十秒で完売する磁力を持っています。ネクストウェーブという巨人の力を借りずとも、私たちは自らの知性と戦略だけで、再びインディーズの荒野から、自らの名前と音楽を守ったまま、あの頂の景色まで上り詰めてみせます。彼女たちの未来の自由と、自らの楽曲を一生涯歌い続ける権利。それらを資本に売り渡してまで得るメジャーデビューなど、LUMINAには一ミリの価値もありません!」
「青木、お前、お前本当に……!」大類社長はもはや完全にキャパシティをオーバーし、椅子の背もたれに白目を剥くようにして崩れ落ち、額から滝のような冷や汗を流していた。
会議室の中に、長い、あまりにも重い、地獄のような沈黙が支配した。窓の外、渋谷のビル群の上を流れる白い雲が、不気味なほど音もなく通り過ぎていく。
制作ディレクターの川島は、私の放った圧倒的な気迫とロジックに気圧され、自分の手元のペンを握りしめたまま完全に硬直していた。佐藤弁護士も、私の突きつけた「バイアウト条項」と「無形資産の投資換算」の適正性を前に、法的な反論の糸口を見失ったように、ただ眼鏡の奥の目を小刻みに動かしていた。
大手の資本という名の「巨大な重力」。それに対して、私は現場のリアリティと、完璧に計算されたユーザー心理、工程に潜む不条理を突く法的な知性の盾だけを武器に、真っ向から引力に逆らい、彼女たちの魂を守るための防波堤として立ち塞がり続けていた。
やがて。高橋プロデューサーが、深く、深くため息をついた。彼は眼鏡を外し、目元を強く指先で揉みほぐしてから、私を見て、初めてその口元に、敗北を認めた者の、しかし最高に楽しげな笑みを浮かべた。
「……ハハ、ハハハハハ。本当に、とんでもないマネージャーだ、君は」
高橋の低い笑い声が、会議室の防音壁に反響した。その笑い声を聞きながら、私はようやく肩の力を少しだけ抜くことができた。まだ交渉は終わっていなかったが、最悪の展開だけは免れたという確信があった。
10
「佐藤、ペンを貸しなさい」
高橋プロデューサーは、隣で完全に硬直していた佐藤弁護士から無造作に万年筆を引っ掴むと、ガラステーブルの上の細則書類のページを乱暴にめくった。
「青木マネージャー、君の言う通りだ。今の時代、レーベルが金を出しているからという理由だけで、アーティストの過去の遺産まですべて巻き上げるようなやり方は、スマートなビジネスとは言えないな。原盤権の『共有』は、我が社の財務上の監査の関係で、逆立ちしても認められない。……だがね、君の提示した『バイアウト条項(買い戻しオプション)』、ならびに『モノクローム・シティ』のライセンス処理。これであれば、我が社の法務部を説き伏せるだけの、十分な商業的合理性がある」
高橋は幕を開けたばかりのこの実務協議の場で、素早い手つきで、細則の第15条と第32条の文言の上に、大きな斜線を走らせた。
「新曲の原盤権の所有権は一度ネクストウェーブに帰属させるが、契約満了後、あるいは解除後、過去三年の平均営業利益の三倍に相当する対価を支払うことで、アーティスト側が原盤権を百パーセント買い戻すことができるオプション条項を明記する。そしてインディーズ楽曲『モノクローム・シティ』については、君の要求通り、弊社には『十年間の独占的営業利用許諾権』のみを付与し、原盤権の所有そのものはスターライトエージェンシーに留保する。……これでいかがかね、青木マネージャー。これ以上の譲歩は、我が社の社長の首を挿し替えない限り、絶対に不可能だよ」
高橋は万年筆を机の上にコトリと置くと、両手を組んで私を見つめた。それは、音楽業界の巨人が、二十八歳のインディーズマネージャーに対して、明確にその「知性と覚悟」を認め、勝ち誇るための刃を引っ込めて、迷いのない本物のリスペクトを示した瞬間だった。
「――ありがとうございます、高橋さん。その修正条件であれば、弊社としても、喜んで細則への調印に進まさせていただきます」
私は深々と頭を下げ、カバンから会社の実印を取り出し、大類社長の震える手を無理やり掴んで、修正された細則書類のすべてのページに、完璧な割印と署名・捺印を注ぎ込んだ。指先はまだ微かに震えていたが、その震えはもう先ほどまでの恐怖のものではなく、達成感によるものだった。
佐藤弁護士は、まるで狐につままれたかのような呆然とした顔で、私たちが実印を捺していく様子を見つめていた。彼のペン先は、もう一度も動くことはなかった。
大手の資本、法律、そして大人のエゴという名の巨大な支配システム。それに対して、ただ感情的に「メンバーが可哀想だから権利を返してください」と泣き叫ぶだけでは、一瞬で踏み潰されて終わっていただろう。資本の論理を、より上位の「現代のデジタル市場のロジック」によってハッキングし、法的な代替案(バイアウト条項)をこちらから主導して提示する。その知性の戦い(リーガル・バトル)があったからこそ、私たちはLUMINAの音楽の魂を、巨人の胃袋の中から、完璧な形で守り抜くことができたのだ。
「青木……お前、お前本当に……」会議室を出て、ホテルのロビーへ下りるエレベーターの中で、大類社長がようやく堰を切ったように声を絞り出した。その顔はまだ半分白くなったままで、ハンカチで額の汗を何度も拭っている。「俺はな、お前が『包括契約の解除、上等です』って言った瞬間、本当に心臓が止まるかと思ったぞ! もし高橋さんが怒って席を立ってたら、うちの会社は今日で破産してたんだからな!」
「破産はしません、社長」私はエレベーターの鏡に映る、自分の冷徹なプロとしての最高の勝利の誇りに満ちた顔を見つめながら言った。その顔には、疲労の色も濃く滲んでいたが、大類にそれを気取られるつもりはなかった。
「高橋プロデューサーは、ビジネスマンです。ビジネスマンである以上、感情で席を立つような愚かな真似はしません。彼は、LUMINAの放つ『数字』、揺るぎない冷厳なデータ、そして何より、彼女たちの未来を守るために、大手相手にここまで冷徹に法的なナイフを突きつけてくる私の『マネジメントの知恵』も含めて、LUMINAというプロダクトの価値として高く評価しているんです。私がここでただ平伏してサインしていたら、LUMINAの音楽は数年後に完全に大手の倉庫の肥やしになって死んでいました。私たちが自らの知性で戦ったからこそ、彼女たちはこれからも、一生涯、自分たちの名前で、自分たちの歌を歌い続けることができるんです」
長い下降のあと、エレベーターの扉が音もなく開いた。六本木の、磨き上げられた石張りのエントランスが目の前に広がる。私はカバンの中の、買い戻しオプションが明記された細則書類の重みを確かめながら、来客用駐車場の隅に停めた古いハイエースへと歩き出した。夕暮れの空気が、火照った頬に心地よかった。
歩きながら、私はふと今日一日を振り返った。細則という思わぬ落とし穴に一度は足をすくわれかけたが、なんとか持ち直すことができた。だが、この種の見落としが今後も起きないとは言い切れない。次の交渉までに、せめて信頼できる弁護士を一人でも味方につけておくべきかもしれない。そう考えながら、私はスマートフォンを取り出し、知り合いのマネージャーに紹介を頼むメッセージを打ち始めた。
打ち終えたメッセージを送信しようとした、まさにその指先の動きが、次の瞬間、完全に凍りつくことになる。
11
しかし。
権利の死守という、裏方としての最高の勝利の余韻に浸る時間など、この激動のLUMINAの世界には、一分一秒たりとも用意されてはいなかった。
ハイエースの運転席に乗り込み、エンジンキーを捻ろうとしたその瞬間、ダッシュボードに置いた私のスマートフォンが、まるで悲鳴を上げるかのような、激しい連続のバイブレーションを響かせて震え始めた。ディスプレイの画面に表示されたのは、公式SNSのアラート通知、それに続く、メンバーのグループチャットからのハルカの狂気的なテキストメッセージだった。
『青木さん! 大変です! 今すぐ下北沢のスタジオに戻ってきてください! コウジさんが、ユイちゃんのSNSの裏垢の噂を信じ込んで、スタジオの入り口の階段のところで、カッターナイフを持って立てこもってます……! 警察の人がいっぱい来てて、ユイちゃんが怖がって奥の部屋から出られなくなってます……!』
「――っ!」私の網膜の裏側に、冷たい、凍りつくような電流が一瞬にして駆け巡った。先ほどまでの勝利の高揚感が、一瞬で完全に吹き飛んだ。
裏垢の噂。カッターナイフ。立てこもり。脳内の中で、不吉なキーワードがバラバラと音を立てて最悪の回路を形成していく。かつて物販の長机の前で、ユイに向かって「俺がどれだけ金使ってるか分かってんの? 他の男とご飯行くの、本当に無理なんだけど」と、粘り気のある声で精神的なストーキングを繰り返していた、あのガチ恋の男、コウジだった。
——あの時。まだLUMINAが原宿のアストロホールで駆け出しだった頃、私はコウジの査問じみた独占欲を、四分間の規定時間が満了するまで止められなかった。今日この場で忠告を守れず出入り禁止を告げたにもかかわらず、それでも今日まで彼を完全に切ることができなかったのは、あの日々のなけなしのチェキ収入を失いたくないという、私自身の判断の甘さのせいだったのではないか。売上という数字を天秤にかけ、危険の芽を見て見ぬふりをした報いが、今、最悪の形でユイの身に降りかかろうとしている。その可能性を、私は運転席で認めないわけにはいかなかった。
あの頃の私は、コウジのような危うい客を切り捨てれば売上が下がる、その恐怖の方を優先していた。今思えば、なんと愚かな計算だったことか。数字を守るために見送った小さなリスクの芽が、これほどまでに育ってしまうことを、私は本当に想像できていなかったのだろうか。それとも、想像していながら、見ないふりをしていただけなのか。ハンドルを握る指先が、その自問に答えられないまま、白くなるほど強張っていた。
メジャーデビューという最高に美麗な「光」を掴み取り、大手の会議室でのリーガル・バトルに完全勝利した、まさにその同じ時刻。ライブ現場という生々しい空間、あるいはデジタルの底辺に渦巻く、ファンの肥大化した独占欲、執着、そして歪んだ愛憎という名の、深く、暗い『影の暴風雨』が、ついに実社会の暴力となって、LUMINAの3人の肉体と精神の目の前に、容赦なく吹き荒れ始めたのだ。
知的な駆け引きの興奮は一瞬にして消え失せ、ここからは、少女たちの「命」とグループの存続をかけた、極限のクライシス・マネジメント(危機管理)の戦場が幕を開けようとしていた。
「待ってて、ユイ……! 私が、今すぐ行くから!」
私はハイエースのアクセルを床板が踏みちぎれるほどの力で踏み込み、エンジンの悲鳴のような駆動音を響かせながら、夕暮れの渋谷の街から、少女たちが恐怖に震える下北沢の混沌の現場へと、狂ったように車を走らせた。ハンドルを握る手が、今日何度目かも分からないほど強く震えていた。今度こそ、判断を誤るわけにはいかない。
信号が赤に変わるたび、私は舌打ちを堪えながらブレーキを踏んだ。数分の遅れが、何を意味するか分からない。カーナビの示す到着予定時刻が、いつもより長く、そして遠く感じられた。窓の外を流れる夕暮れの街並みが、まるで別の世界の風景のように、現実感を失って過ぎ去っていく。




