第13章 防波堤の決断(下北沢のクライシス)
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渋谷から下北沢へ向かう道すがら、私の両手は、ギシギシと音を立てるハイエースの革製ハンドルカバーを、指の爪が白くなるほどの力で握り締めていた。夕暮れの渋滞を、クラクションの悲鳴をかき消すようなエンジンの駆動音とともに強引にすり抜けていく。脳内では、ハルカの悲鳴のような電話の言葉が、冷たい鋭利な針となって何度も明滅を繰り返していた。
『コウジさんが、カッターナイフを持って立てこもってます……! 警察の人がいっぱい来てて、ユイちゃんが奥の部屋から出られなくなってます……!』
裏垢の噂。カッターナイフ。立てこもり。原宿のアストロホールでの物販の長机の前で、ユイを貪るように見つめながら「俺がどれだけ金使ってるか分かってんの? 他の男とご飯行くの無理なんだけど」と、粘り気のある声で精神的なストーキングを繰り返していた、あのガチ恋の男、コウジだった。あの日の彼の粘着質な視線を、私は今でも鮮明に思い出せる。
あの日の記憶が、今、生々しい恐怖として蘇ってくる。トークタイムの制限時間を守ることに気を取られ、その裏側にある本質的な危うさを見過ごしていた自分。あの時点で毅然と対応していれば、今夜のこの惨事は起きなかったかもしれない。その悔恨が、ハンドルを握る手に、今まで以上の力を込めさせていた。
あの夜、私はコウジに対して警告こそ発したものの、完全に出入りを禁じることはしなかった。彼が落とす金額の大きさを天秤にかけ、危険の芽をどこかで見て見ぬふりをしていた自分がいたことを、私はハンドルを握りながら改めて突きつけられていた。もしあの時、もっと厳格にルールを適用していれば。もし躊躇なく彼を切り捨てていれば。今この瞬間、ユイが恐怖に震えることはなかったかもしれない。その「もし」を、私は運転席で何度も何度も反芻していた。
数字を守るために見送った小さな危険信号が、ここまで育ってしまった。あの時の自分に戻れるなら、何を差し置いても、まずコウジを完全に切り捨てただろう。あの日、四分間のトーク時間を律儀に守り切ったことを、私はどこかで自分の毅然とした対応として誇ってさえいた。だが本当に毅然としていたなら、あの場で即座に出入り禁止を言い渡すべきだったのだ。売上という数字への未練が、判断の芯を一ミリ鈍らせていた。その一ミリの鈍りが、今夜、ユイの命を危険に晒す結果に繋がった。この事実から、私は目を逸らすわけにはいかなかった。
信号待ちのたびに、私はハンドルに額を押し付けたい衝動と戦っていた。カーナビの示す到着予定時刻の数字が、いつもより長く、そして遠く感じられる。渋谷から下北沢までの道のりを、私はこれまで何十回と走ってきたはずなのに、今夜だけはまるで初めて通る見知らぬ土地のように感じられた。助手席に置いたスマートフォンが、グループチャットの通知で絶え間なく震え続けている。ハルカからの続報、リナからの短い状況報告。私は片手でハンドルを握りながら、赤信号の一瞬だけ画面に目を落とし、また前を向いた。
私が六本木の会議室で書類の重みを誇っていた、まさにその時刻に、下北沢では別のことが起きていた。デジタルの底辺に渦巻いていた独占欲と歪んだ愛憎が、ついに現実の暴力の形をとって、三人の目の前に立っていた。
数時間前まで、私は六本木の高層ビルで、大手の法務部相手に一歩も引かず、原盤権という名の巨大な利権を巡って対等に渡り合っていた。あの会議室での勝利の余韻は、今この瞬間、粉々に打ち砕かれていた。ビジネスの世界でどれだけ知性を尽くして戦おうとも、人間の剥き出しの狂気の前では、その武器はまるで意味をなさない。その事実を、私は身をもって思い知らされていた。
「待ってて、ユイ……! 私が、今すぐ行くから!」
ブレーキを焼き付かせるような勢いで、ハイエースを下北沢の細い路地裏、メンバーが新曲の自主練習を行っていた地下スタジオ「ガーデン」の入り口へと滑り込ませた。
フロントガラスの向こう、狭い階段の周囲には、すでに赤色灯を激しく明滅させた数台の警察車両が押し寄せ、物々しいブルーの規制線が張られていた。野次馬たちのスマートフォンのレンズが一斉に地下の暗闇へと向けられ、梅雨時の生ぬるい空気が、独特の不穏な熱気で歪んで見えた。
ハイエースを路肩に強引に停め、シートベルトを外す間ももどかしく、私は車外へと飛び出した。規制線の外側に集まった野次馬たちの間を縫うようにして走り抜けながら、私はこの数分間の遅れが取り返しのつかない結果を招いていないことを、ただ祈るしかなかった。
野次馬の中には、スマートフォンでこの状況をリアルタイムで配信している者もいた。彼らのカメラのフラッシュが、規制線の中の緊迫した空気にはあまりにも不釣り合いな、軽薄な光を放っている。この光景さえも、明日にはネットのどこかで消費されるコンテンツの一つになるのかもしれない。そう思うと、怒りに似た感情が喉の奥からせり上がってきたが、今はそれに構っている余裕はなかった。
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「ちょっと、中に入らせてください! 私はメンバーのマネージャーの青木です!」
私は警察官の制止の腕を強引にすり抜け、規制線の内側へと飛び込んだ。息が上がり、心臓が痛いほど脈打っていたが、足を止める理由にはならなかった。
地下へと続くコンクリートの狭い階段の踊り場。そこに、仕立ての悪いヨレたチェックシャツを着た男――コウジが、背中を壁に押し当てたまま、狂ったような目で立っていた。彼の右手には、引き出されたカッターナイフの銀色の刃が、警察官たちの持つ懐中電灯の光を反射して、不気味にギラギラと光っていた。
「来るな! 来るなよ! 警察を呼んだのは誰だ! ユイを出せ! ユイと話をさせろ!」
コウジの声は、喉を引き裂くような絶叫となって地下の通路に反響していた。
「ユイちゃんは俺のすべてなんだよ! なのにメジャーに行って、俺たちの手が届かない遠いところに行って……裏では別の男と裏垢で繋がって笑ってたんだろ!? 俺を裏切ったんだ! 嘘じゃないなら、今すぐここに出てきて俺に証明しろ!」
階段の最下段、スタジオの防音扉の奥には、恐怖に歯の根をガタガタと鳴らしながら、ハルカとリナに抱きしめられて震えている十九歳のユイが閉じ込められている。
「コウジさん、落ち着いてください。LUMINAの総括マネージャーの青木です。私が話を伺います」
私は、警察の説得班の前に一歩踏み出し、感情を完全に排した、冷徹な危機管理ガイドラインの仮面を纏って、コウジの濁った瞳を正面から見据えた。
一歩を踏み出すたびに、心臓が今にも喉から飛び出しそうなほど激しく脈打っていた。それでも、足を止めるわけにはいかなかった。防音扉の向こうで震えているユイのために、私は今、この場で誰よりも冷静でなければならない唯一の人間だった。恐怖を感じていないわけではない。ただ、その恐怖を表に出す権利は、今の私にはなかった。
ここで私が一歩でも取り乱せば、コウジの刃は防音扉を突き破り、少女たちの命を肉体的に破壊しかねない。知的な駆け引きの興奮はもはや遠い記憶となり、ここからは一分一秒の遅れも許されない、極限の『クライシス・マネジメント(危機管理)』の戦場だった。
警察の説得班の担当者が、私の腕を軽く引いて「あまり刺激しないように」と小声で釘を刺した。私はその忠告に頷きながらも、コウジの目をまっすぐに見据える視線だけは、一秒たりとも外さなかった。ここで視線を逸らせば、彼の中の最後の理性の糸が、完全に切れてしまうかもしれない。そんな予感があった。
階段の踊り場の壁に張り付いたコウジの背後、非常灯の緑色の光だけが、この地下空間を不気味に照らしていた。彼の足元には、いつも肩から下げていたカメラバッグが放り出されており、その中から、これまで撮り溜めてきたであろうLUMINAのチェキやポラロイド写真の束が、無造作にこぼれ落ちていた。その一枚一枚に写るユイの笑顔を見た瞬間、私の胸の奥に、怒りとも哀れみともつかない複雑な感情が渦巻いた。彼のこの歪んだ執着もまた、かつては誰よりも純粋な応援の気持ちから始まっていたはずだった。それがどこで、どうやってこの形に変質してしまったのか。その分岐点を、私はもう二度と見逃してはならない。
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「マネージャー……お前か! お前がユイちゃんをそそのかして、メジャーなんて大手の金(資本)の中に囲い込んだんだろ!」コウジはカッターの刃を私に向けて突き出し、激しい油汗を流しながら叫んだ。
「いいえ、コウジさん。私は彼女たちの魂である音楽を守るために、先ほどまで六本木の会議室で、大手の資本と法律相手に命がけで戦って、原盤権の買い戻しオプションをもぎ取ってきたばかりです」私は一歩も引かなかった。カバンから、先ほど高橋プロデューサーと交わしたばかりの、ネクストウェーブの公式ロゴが入った細則書類(LOI)の書面を、コウジの目の前に冷徹に突きつけた。
「ネットの出所も分からない裏垢の噂。そんな、アルゴリズムの底辺に澱のように溜まった匿名の悪意のレトリックを、あなたともあろう優秀な古参ファンが、なぜ盲目的に信じ込んでしまうんですか。……あなたがLUMINAの初期の売上を支え、誰よりもユイの笑顔に救われてきたこと。その『応援の原体験』の純粋さは、私もユイも、一秒たりとも疑っていません。……ですがね、コウジさん」
私は一度言葉を切り、深く息を吸い込んだ。ここから先の一言が、この対峙の結末を決定づけることになる。そのことを、私は痛いほど自覚していた。
私は声を一段落とし、地下の防音壁を震わせるほどの太いロジックの銃口を彼に向けた。
「その歪んだ独占欲を盾に、カッターナイフを振り回して彼女の肉体を恐怖で支配する行為は、もはやファンでも何でもない、ただの冷酷な『犯罪者』の暴挙です。もし、今すぐその刃を収めて警察の指示に従わないのであれば……ネクストウェーブ・ミュージック法務部、ならびにスターライトエージェンシーの連名において、あなたを刑事告訴いたします。今後のすべての現場からの永久追放はもちろんのこと、法的な民事損害賠償請求も含め、私は一ミリの容赦もなく、あなたをデジタルの宇宙から完全に社会的抹殺(ブラックリスト登録)いたします。……私を、ただの弱小事務所の現場マネージャーだと舐めないでください。ユイの命と、LUMINAの環境を守るためなら、私はどんな泥臭い現場調整も、冷徹な排除も、一瞬で実行してみせます!」
私の、背筋が凍るようなリーガルリスクを背景とした徹底的な警告と、マネージャーとしての圧倒的な気迫。コウジの顔から、先ほどまでの狂気的な怒りが一瞬にして消え去った。彼は、目の前の二十八歳の女性マネージャーが、もはや自分たちの手に負えるような「地下の住人」ではなく、大手のシステムをバックにつけた「本物のプロの法廷闘争者」へと進化していることを、その肌で理解したのだ。
数秒間、地下の踊り場には、コウジの荒い呼吸音だけが響いていた。私は彼の目の奥に、怒りとも絶望ともつかない、複雑な光が揺れているのを見た。この数秒間が、彼の中に残っていたわずかな理性が、最後にもう一度立ち上がろうとする時間だったのかもしれない。私はその時間を邪魔しないよう、ただ静かに、しかし揺るぎない視線を彼に向け続けた。
「……う、あ……あ、あ……」
コウジの右手から力が抜け、カッターナイフが、カランと虚しい金属音を立ててコンクリートの床板へと落ちていった。その瞬間、背後に控えていた数人の警察官が一斉に飛びかかり、コウジの身体を床へと組み伏せた。
連行されていくコウジの後ろ姿を、私は複雑な思いで見送った。彼のあの狂気じみた叫びの根底には、応援という名の純粋な感情が、いつの間にか歪んだ独占欲へとすり替わっていく過程があったはずだ。その変質の兆しを、私はもっと早い段階で見抜き、断ち切ることができたのではないか。今この場で彼を断罪する一方で、自分自身の見落としもまた、断罪されるべきものだった。
警察官の一人が私に近づき、今後の被害届の手続きや、事情聴取の日程について事務的に説明を始めた。私はその言葉を半分聞き流しながら、階段の下の防音扉に意識を向け続けていた。中にいる三人が、今どんな状態でいるのか。一刻も早く、この目で確かめたかった。手続きの説明を「後日、改めて伺います」と丁重に打ち切り、私は防音扉へと駆け寄った。
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胸の奥から一気に熱いアドレナリンが引いていき、私の身体を激しい虚脱感が襲った。階段の冷たいコンクリート壁に背中をもたれかけ、深く息を吐き出す。膝が、今にも崩れ落ちそうなほど震えていた。
防音扉が開き、中からハルカとリナに両脇を支えられたユイが、涙で顔をボロボロに濡らしながら出てきた。「青木さん……っ! 青木さん!」ユイは私の姿を見るなり、堰を切ったように私の胸へと飛び込んできて、ワンワンと声を上げて泣きじゃくった。ハルカも「よかった……本当に怖かった……」と、私のシャツの袖を強く掴んで涙を流していた。リナだけは、床に落ちたカッターナイフを一瞥し、自らの拳を白くなるほど強く握りしめて、プロとしての悔しさを滲ませていた。
ユイの背中は、まだ小刻みに震え続けていた。私はその震えが少しでも収まるまで、何も言わずにただ強く抱きしめ続けた。狭い防音室の中で、彼女たちがどんな時間を過ごしていたのか、想像するだけで胸が締め付けられた。ドア一枚を隔てた向こう側で、愛する仲間が刃物を持った男に脅かされている。その恐怖を、十九歳の少女がどうやって耐え抜いたのか。私には、その重さを完全には測りきれなかった。
「ユイ、本当にごめんなさい」
私はユイの背中を強く抱きしめながら、震える声で謝罪を口にした。
「……青木さんが謝ることなんて、何も」
「ううん、ある。あのコウジという人のこと、私はもっと早くに、完全に現場から締め出しておくべきだった。あなたが怖い思いをする前に、私が防げたはずのことだった」
私の告白に、ユイは涙で腫れた目を大きく見開いた。ハルカとリナも、驚いたように私を見つめている。これまでの私であれば、こうした自分の判断の甘さを、彼女たちの前で正直に口にすることはなかった。だが今夜だけは、都合の良い言葉で取り繕う気にはどうしてもなれなかった。
「青木さんのせいじゃないです。悪いのは、あの人です」
ユイが、涙を拭いながらそう言い切った。その声には、恐怖の余韻の中にも、確かな芯の強さが宿っていた。
「ありがとう、ユイ。……でも、あなたのその優しさに甘えて、次も同じ判断をしてはいけないと、今夜、心の底から思い知らされたわ」
ハルカが、震える手で私の腕にそっと触れた。
「青木さん、私たちも、少し無防備すぎたのかもしれません。危ないと感じたときは、もっと早く青木さんに相談すべきでした」
「ううん、それは違う。危険を見抜いて対処するのは、私の仕事。あなたたちが謝る必要は一ミリもないわ」
私はきっぱりとそう言い切った。誰か一人にすべての責任を背負わせるのではなく、この夜起きたことを、これからどう変えていくかを話し合うことの方が、今は大切だった。
それまで一言も発していなかったリナが、床に落ちていたカッターナイフの回収作業を終えた警察官の背中を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……怖かった、というより、悔しかったです」
「リナ?」
「私たち、あんなにたくさんの人に届くようになったのに。あんなにたくさんの言葉をもらってきたのに。……たった一人のああいう人のせいで、ユイが怖い思いをする。それが、悔しい」
リナの声は、いつもの淡々とした調子を保っていたが、その奥に、これまで見せたことのない強い怒りが滲んでいた。
「防音扉の向こうで、ユイちゃんが震えてるのを見ながら、私、何もできなかった。ハルカと二人で抱きしめることしかできなかった。……ダンスなら、どんな困難でも自分の努力で乗り越えられると思ってた。でも、こういう暴力の前では、努力なんて何の役にも立たないんだって、初めて思い知りました」
リナがこれほど長く、自分の内側にあるものを言葉にするのを、私はほとんど見たことがなかった。私はその怒りを、ただ黙って受け止めた。彼女のこの怒りを、どんな言葉で慰めても、今は空虚に響くだけだろう。今の私にできるのは、この怒りを覚えておくことだけだった。
「あなたのその悔しさを、私は絶対に無駄にしない。……今夜のことを、次の現場のルール作りに、必ず活かすから」
私がそう言うと、リナは小さく頷いた。その頷きの中に、怒りだけでなく、かすかな信頼が滲んでいるのを、私は感じ取った。
「みんな、大丈夫よ。私がいるわ。嵐は去ったわ。……あなたたちの身の安全は、この私が命をかけて守り抜いたから」
私は三人の細い肩を抱き寄せ、静かに、しかし絶対的な決意を胸に固めていた。
あの夜、私はファンを最も危うい利害関係者だと考えた。その考えは間違っていなかった。ただ、危ういという言葉が実際に何を指すのかを、私はまだ何も分かっていなかった。大手の包括契約という魔法の絨毯(光)を掴み取ったまさにその裏側で、ライブ現場というリアルな空間には、ファン心理の光と影の歪みが、凄惨な実社会の暴力となって現れ始めている。
「明日から、LUMINAのすべてのライブ現場における『ルール』を完全に変更するわ」
私は涙を拭うユイの顔を見つめ、冷徹な声で告げた。
「最前列エリアの完全指定席化、入場時の顔写真付き身分証確認の徹底、そして手荷物検査の導入よ。ライト層の新規ファンが安心して足を運べる『クリーンな現場』を作らなければ、私たちは本当の意味でのトップ(アリーナ)には立てない」
「……大がかりですね」ハルカが、少し驚いたように呟いた。
「大がかりでいいの。今夜みたいなことは、もう二度と起こしたくない。少しでもリスクの芽が見えたら、たとえ売上が落ちようと、私はためらわずに切る。それが、今夜の私の誓いよ」
ユイが、まだ赤く腫れた目で私を見上げた。
「新しいルール、私、賛成です。……今までは、ファンの人を怖がることに、少し罪悪感があったんです。応援してくれてるのに、疑うのは失礼なんじゃないかって。でも、今日で分かりました。自分の身を守ることは、ファンの方々への感謝と、ちゃんと両立できることなんですね」
その言葉に、私は小さく頷いた。ユイのこの気づきこそが、今夜の恐怖から生まれた、数少ない確かな成果の一つだった。
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この下北沢の夜のクライシスを乗り越え、私が下した現場のセキュリティ強化という「防波堤の決断」。しかし、この一律の厳格なルール提示は、これまでの地下時代を暴力的な特権意識で支配してきた古参の「最前管理」グループたちのプライドを激しく逆撫ですることは火を見るより明らかだった。大手のネクストウェーブ・ミュージックと組んでメジャーという巨大な戦場へ挑むためには、古参の愛憎や新規の台頭という現場の摩擦を完璧にねじ伏せ、次なる最大の大舞台――キャパシティ二千五百人を誇る「Zepp DiverCity」でのファーストワンマンライブを、何が何でも完全な統制下で成功させなければならない。
現場を後にする直前、私は警察官から渡された、コウジの身元と今後の手続きに関する簡単な書面に目を通した。そこに記載された彼の年齢や住所を見つめながら、私はふと、この男にもかつては、ただ純粋にステージの上の三人を応援していただけの時間があったはずだと思わずにはいられなかった。その純粋さがどこで歪み、今夜の凶行へと転がり落ちていったのか。その答えを、この書面の文字だけから読み取ることはできなかった。
大類にはまだこの一件を報告していなかった。彼にこの経緯を伝えれば、また別の意味でパニックに陥ることは目に見えていた。だが、隠しておくわけにもいかない。明日の朝一番に、すべてを正直に報告し、セキュリティ強化にかかる追加コストについても正式に協議する必要がある。今夜のうちに、その報告用の資料を作っておかなければ。疲れ切った頭の片隅で、私はすでに次にやるべきことを数え始めていた。
ハイエースの後部座席に三人を乗せ、私は静かに車を発進させた。車内は、これまでのどの夜よりも静かだった。誰も、無理に明るい話題を口にしようとはしなかった。
「……今日、私、初めて青木さんが謝るところ見ました」
沈黙が長く続いたあと、最初に口を開いたのはリナだった。
「意外でした」
「そう?」
「いつも完璧な作戦を持ってる人だと思ってたので。……でも、なんか、ちょっと安心しました。青木さんも、間違えることがあるんだって分かったから」
ユイが、涙で腫れた目のまま、小さく笑った。
「私も、実は同じこと思ってました。青木さんって、いつも私たちの何十歩も先を歩いてる人だと思ってたから……。今日、隣を歩いてくれてるんだなって、初めて感じました」
その言葉に、私は不意を突かれた。先を歩き、道を切り開くことこそが自分の役目だと、ずっと信じて疑わなかった。だが、今夜の彼女たちが求めていたのは、道を示すことよりも、同じ高さで隣にいることだったのかもしれない。その違いに、私はようやく気づかされた気がした。
リナのその言葉に、ハルカとユイも小さく頷いた。私はルームミラー越しに三人の顔を見つめ、小さく笑った。
「これからも、間違えることはあると思う。……でも、間違えたときはちゃんと言うから。あなたたちにも、私にも、それが一番誠実なやり方だと思うから」
車内に、初めて小さな、しかし温かい空気が戻ってきた。ユイが涙を拭いながら、それでも小さく笑みを浮かべた。
「青木さん」
ハルカが、静かに口を開いた。
「私たち、これからもっと大きな舞台に立っていきます。そのたびに、今日みたいな怖いことが、また起きるかもしれません。……でも、青木さんがそうやって私たちと同じ目線で悩んでくれるなら、私、どんなことがあっても大丈夫な気がします」
「私も」ユイが小さく頷いた。
「私も、同じです」リナも静かに続いた。その声には、先ほどの怒りとは違う、穏やかな確かさが宿っていた。
三人の言葉に、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。守るべき存在だと思っていた彼女たちに、今、逆に支えられている。その事実を、私は素直に受け止めることにした。これまでの自分なら、きっと「大丈夫、任せて」とだけ返して、この感謝の言葉を軽く受け流していただろう。だが今夜だけは、その言葉を、そのまま胸の奥にしまっておきたかった。
私はハイエースのハンドルを強く握り締め、アクセルを踏み込んだ。フロントガラスの向こう、夜の都内の渋滞をヘッドライトで切り裂きながら、私はLUMINAの未来を絶対に守り抜くと、暗闇の首都高速道路に向かって静かに誓った。今夜のこの痛みを、二度と繰り返さないために。数時間前まで六本木の会議室で対峙していた「大人の資本の脅威」と、今夜この階段で対峙した「剥き出しの人間の狂気」。その両方から彼女たちを守り抜くことこそが、私の本当の仕事なのだと、今夜、改めて思い知らされた。
バックミラーに映る三人は、いつしか互いにもたれかかるようにして、浅い眠りに落ちていた。まだ完全には拭いきれない恐怖の名残を顔に滲ませながらも、その寝顔には、確かな信頼の色が浮かんでいるように、私には見えた。この信頼を裏切らないためにも、私は明日から、もっと厳しい目で現場のリスクを見極めていかなければならない。そう固く心に刻みながら、私は夜の首都高速道路を、ただひたすらに走り続けた。
窓の外を流れる街灯の光の数を、私は無意識のうちに数えていた。一つ、また一つ。その単純な作業だけが、今夜の張り詰めた神経を、わずかに落ち着かせてくれるようだった。
明日からの現場ルールの変更、大類への報告、そしてコウジの件の事後処理。やるべきことは山積みだったが、今夜だけは、その一つ一つを頭の中で整理することを、自分に許さなかった。ただ、後部座席で眠る三人の寝息だけを、私は静かに聞き続けていた。三人が今、こうして眠れていること。今夜という夜の結末は、まずそれだけで十分だった。
夜明けまで、まだ数時間ある。それでも、今夜だけは、この静けさの中に少しでも長く留まっていたかった。




