↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ルミナスの軌跡  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
14/25

第14章 バックステージのウォー・ルーム(光のジャックと影の暴風雨)

1

 コンクリート打ちっぱなしの床が、重低音のリハーサル音に合わせて小刻みに震えている。防音壁の向こうから伝わってくるその振動は、開演を控えた「Zepp DiverCity」の熱気そのものだった。お台場の湾岸に建つこのキャパシティ二千五百人のハコの舞台裏は、もはや「戦場」という比喩がそのまま実態になっていた。

「スタイリスト、ハルカの左肩のレース、あと一センチ甘い! メイク、ユイのリップの彩度、照明のシアンに負けないようもう二パーセント上げて! 音響、リナの返しが小さい、リハの設定から三デシベル追加して!」

 私は壁のタイムコードを睨みながら、ヘッドセットに向かって号令を飛ばし続けた。

 かつて、走行距離二十万キロを超えたハイエースのハンドルを一人で握り、ブッキングも搬入も物販もSNS運用もすべて一人でこなしていた日々が、今となっては別人の記憶のように遠い。今の私の周りには、ヘアメイク、スタイリスト、舞台監督、音響、照明、そしてネクストウェーブから配属されたプロモーションスタッフや警備チームまで、数十人のプロフェッショナルが、私の指示一つで動く組織として機能していた。

 この規模のチームを動かすことは、正直に言えば、たった一人でハイエースを走らせていた頃とはまったく違う種類の重圧を伴っていた。あの頃は、失敗しても自分一人が泥をかぶればよかった。今は、私の一つの判断ミスが、数十人のスタッフの仕事と、数千人の観客の期待を同時に裏切ることになる。その重さに、私はまだ完全には慣れきれていなかった。

 下北沢でのコウジによる立てこもり事件のあと、私が敷いた「最前列の完全指定席化」と「身分証確認の徹底」は、古参の最前管理グループの猛反発を招いた。クマたちはSNSで「古参切り捨て」「メジャーの犬」と吐き捨て、現場のボイコットまで匂わせていた。それでも私は退かなかった。法務部の連名警告と抽選制の導入で、彼らによる不法な場所取りと新規排除を完全に遮断した。結果、今のLUMINAの現場は、TikTokやYouTube経由で流れ込んできた新規のライト層が、恐怖を感じることなく安心して足を運べる場所に変わっていた。

 あの下北沢の夜以来、私は現場のセキュリティ計画書を、毎回のライブごとに更新し続けていた。入場動線、荷物検査の配置、緊急時の避難経路。どれだけ細部を詰めても、まだ何か見落としがあるのではないかという不安が、完全に消えることはなかった。今夜のような大規模な会場になればなるほど、その不安は比例して大きくなる。

「青木さん、新曲『真夏のミッドナイト・ブルー』の撮可タイム、SNS連動投稿まで仕込み完了です」

 ネクストウェーブの若いスタッフがタブレット片手に駆け寄ってくる。

「ありがとう。カメコ席の動線は? 新規のお客様の動線と一ミリでも交差したら、あの熱量は一瞬で冷える。番号マーカーと警備配置、最終確認して」

「すぐ現場に無線入れます!」

 彼女が駆けていくのを見送り、私は香盤表に目を落とした。

 LUMINAの3人は、正式契約と二年間の生活保障を得て、深夜のアルバイトに時間を奪われる生活からとうに解放されていた。今は「ステージで輝くこと」だけに人生の全てを注ぎ込み、その結果、公式TikTokは五十万フォロワー、YouTubeは三十万登録者を超えている。今夜、そのすべての熱量が、この二千五百席のペンライトの海に結晶しようとしていた。

 だが規模が大きくなるほど、裏方の私にのしかかる責任も比例して重くなる。搬入の一つのミス、音響の一秒の遅れが、何千人もの期待と何千万円もの損失に直結する。

「――怖がっている暇はない」

 私は両頬を軽く叩き、意識のピッチを締め直した。数十人のスタッフの視線が、今この瞬間も私の判断一つを待っている。その事実を胸に刻みながら、私はもう一度香盤表に目を落とした。開演まで、あと十五分だった。

2

「衣装、最終フィックスです」

 楽屋の扉が開き、三人が姿を見せた瞬間、私は一拍、息を止めた。

 シアン、ホワイト、深いネイビー。メジャー移行の際に大手が提示してきた「マカロンピンクの量産型コンセプト」を、私がデータとロジックで押し返し、彼女たち自身が守り抜いた、メジャー仕様の最高級シルクの衣装。ハイエースの後部座席で糸の切れた人形のように眠り、更新料の足りない家賃に涙し、半額のおにぎりを分け合っていたあの日々の面影は、もうどこにもなかった。二年分の巨大なステージを踏んできた者だけが持つ、揺るぎない自信が、彼女たちの立ち姿そのものに宿っていた。

「みんな、綺麗よ。本当に」

 私は三人の前に立ち、順番に目を合わせた。

「ハルカ、喉は万全ね。ユイ、あなたが考えたあの片手振付、今夜の二千五百台のスマホに、最高の形で焼き付けてきなさい。……そしてリナ」

 私はリナの右手を握った。傷一つない、しかしかつて倉庫の段ボールで荒れていたあの手だ。

「ERI先生が最前の関係者席にいる。レッスンのとき以上のキレを、あの空間に叩き込んでやりなさい」

 リナは無言のまま、小さく不敵に笑った。

「言われるまでもないです。今夜は完全に、私のダンスでフリーズさせます」

 ハルカが、鏡の前で最後に前髪を整えながら、ふと私の方を振り返った。

「青木さん、今日、地元の母から連絡がありました。……お父さんも、テレビでうちの特集を見てくれたみたいです。まだ何も言ってくれないけど、母が『お父さん、録画してたわよ』って教えてくれました」

 その報告に、私は思わず手を止めた。あの「地元に戻って就職しろ」と言い放った父親が、娘の姿を録画して残している。まだ言葉にはならない、しかし確かな変化だった。

「……そう。今夜のステージ、きっとその録画にも負けないくらいの姿を見せられるわ」

「はい。今夜は、誰よりも自分のために歌います」

 ハルカの瞳に、これまでとは違う、静かな強さが宿っていた。

「開演五分前です!」

 舞台監督の声が響く。

「よし。――LUMINA、ファイト!」

 ハルカの合図に三人が手を重ねる。

「ファイト!」

 まばゆい照明の方へ、三人が迷いのない足取りで歩いていく。客席から地鳴りのような歓声とコールがすでに床を震わせていた。私はヘッドセットのスイッチを入れた。

「全部署、本番開始します。……ショータイムよ」

 光の中へ向かう背中を見送りながら、私生活を削ぎ落として得たこの瞬間を、私は静かに噛み締めていた。この光景を守るためなら、私はまたどんな戦場にでも立つ。そう改めて心に誓いながら、私はモニターの前に腰を下ろした。

3

 暗転。都会の真夜中を思わせる冷たいシンセの重低音が空間を満たした瞬間、二千五百の客席が青と白のペンライトの海に変わり、地鳴りのような歓声が天井を突き抜けた。

 一曲目『都会の真夏の夜』。三人のパフォーマンスは、完璧という言葉すら足りないほどの領域に達していた。ハルカの声は最高峰の音響を得てその倍音の豊かさを一滴も逃さず客席へ届き、ユイの笑顔は最前列から二階最後列の女子高生まで一瞬で惹きつける。パステルピンクの量産路線を拒み、自分たちの牙を残した選択が、他のどのアイドルにもない生々しい説得力を生んでいた。そしてリナ。彼女のダンスは、あの地下時代の飢餓感を芯に残したまま、大手の過酷な振付を完全に血肉化し、レーザー光線のように正確な軌道を描いていた。

 私は上手袖のオペレートブースで、無数のモニターとにらめっこしながらコンマ秒単位で指示を飛ばし続けた。

「照明、サビ頭、ハルカのロングトーンでセンターに純白スポット固定! 音響、カメコ席の画角、ストロボ発光を三パーセント減光!」

 あの誰も見てくれなかった深夜のアナリティクス画面から積み上げてきたロジックが、今、二千五百人という現実の空間で寸分の狂いもなく作動している。

 隣に立つ舞台監督が、モニターを見つめる私の横顔にちらりと視線を送った。

「青木さん、こんな規模の現場、慣れてます?」

「慣れてません。……でも、慣れる必要もないんです。毎回、初めての気持ちで臨むからこそ、見落としが減る」

 その言葉に、舞台監督は小さく笑い、また自分のモニターへと視線を戻した。私はヘッドセットの向こうから聞こえてくる、各セクションの短い応答の一つ一つに耳を澄ませながら、二千五百人分の視線が集中するこの一瞬一瞬を、絶対に取りこぼさないと自分に言い聞かせていた。

 新曲『真夏のミッドナイト・ブルー』の撮可タイムが始まると、カメコ席から何百台ものシャッター音がドラムのビートの隙間を埋めた。指定席と身分証確認によって守られた客席は、新規も古参も分け隔てなく、手ブレのない完璧な映像を記録していく。ユイの片手振付が、そのまま無数のフレームの中に収まり、インターネットへ流れ出していく。

 可愛いだけでは終わらない。圧倒的なスキルと、ハルカが積み上げてきた言葉の物語が、ここで完全にシンクロし、一過性の興味を生涯のファンへと塗り替えていく。

 MCの時間、ハルカがマイクを両手で握りしめ、客席に向かって語りかけた。

「今日、ここまで来られたのは、地下のあの狭いライブハウスで、私たちを見つけてくれた最初の数人のファンの方々がいたからです。……そして、今この瞬間、初めて私たちを見つけてくれた皆さんがいるからです。古い人も、新しい人も関係ない。私たちの音楽を好きでいてくれる、その気持ちだけが、私たちにとってはすべてです」

 その言葉に、客席から地鳴りのような歓声が上がった。私はオペレートブースで、その光景を見つめながら、下北沢の路地裏でクマたちと対峙した夜のことを思い出していた。あの夜の決断が、間違っていなかったことを、この歓声が証明してくれているような気がした。

 ハルカの言葉は台本になかった、彼女自身の即興だった。その事実に、私は密かに胸を熱くしていた。かつて父親との関係に悩み、リーダーとしての立ち位置に迷っていた彼女が、今、自分の言葉で二千五百人の観客の心を掴んでいる。その成長を、私はこの数分間で、これまでのどんな瞬間よりも鮮明に感じ取っていた。

 アンコールの最後の曲が終わり、三人が深々と頭を下げた瞬間、Zepp DiverCityはこれまでで最も巨大な拍手と歓声に包まれた。

「ありがとうございました! LUMINAでした!」

 ハルカの声がお台場の夜空に響く。光の中へ飛び込んだ彼女たちの、歴史的な勝利の瞬間だった。

4

 最高のライブだった。鳴り止まないアンコール、満足げな観客の顔、バックステージを訪れたネクストウェーブ幹部たちの称賛。すべてが頂点を示していた。

 楽屋に戻ると、三人は汗だくのまま、お互いを抱きしめ合っていた。ユイが「やった、やった、本当にやったよ!」と涙声で叫び、ハルカもリナの背中を強く叩いていた。珍しくリナも、興奮を隠しきれない様子で頬を紅潮させていた。

「青木さん、今夜の照明、最高でした。センターの純白スポット、あのタイミング、完璧すぎました」

 ユイが私に抱きついてきた。私はその小さな身体を受け止めながら、この一年で積み上げてきたすべてが報われたような、深い充足感を覚えていた。

「みんなの努力の結晶よ。私はただ、それを最高の形で世界に届ける手伝いをしただけ」

「そんなことないです」ハルカが首を振った。「青木さんがいなかったら、私たち、今もあの木造アパートで、明日の食費を心配してたと思います」

 大類社長も楽屋に顔を出し、興奮した様子で「今夜の物販とグッズの売上、過去最高だ! このまま全国ツアーの企画も進めるぞ!」と、上機嫌にまくし立てていた。ネクストウェーブのスタッフたちも次々と祝福の言葉をかけてくれ、楽屋は歓喜の熱気に包まれていた。

 そんな中、関係者席にいたERI先生が、楽屋の入り口からひょっこりと顔を覗かせた。

「リナ」

 ERI先生の声に、リナがはっとしたように振り返った。

「今日のダンス、悪くなかったわ。……ううん、正直に言うと、あの地下のスタジオで教えていた頃より、何倍も強くなってた」

 その言葉に、リナの目が一瞬だけ大きく見開かれた。ERI先生は、いつもの辛辣な調子を崩さないまま、しかしその口元にはわずかな微笑みが浮かんでいた。

「あなたの振付、ユイちゃんが考えたやつでしょ。あれも含めて、今日のステージは完璧だった。……この調子で、次はもっと私を驚かせなさい」

「……はい。ありがとうございます」

 リナが深々と頭を下げると、ERI先生は満足そうに頷き、足早に楽屋を後にした。私はその一連のやり取りを見つめながら、この一年で積み重ねてきたものの重みを、改めて噛み締めていた。

 私はその夜、久しぶりに深い眠りに落ちた。事務所のソファで、明日の朝食の心配すらせず、ただ純粋な達成感の中で目を閉じた。この数ヶ月で、初めて訪れた完全な安堵の夜だった。

 だが翌朝七時。枕元のスマートフォンが、悪夢の始まりを告げるように激しく震え続けた。

 朦朧としたまま画面を開くと、大類からの十数件の着信履歴と、公式SNS管理画面を埋め尽くす真っ赤な炎上アラートが視界に飛び込んできた。全身の血が引いた。震える指でXを開くと、トレンド一位に見慣れない文字列が並んでいた。

『#LUMINA_ユイ_裏切り』『#WeNeedTruth_Yui』

 暴露専門の匿名アカウントが、センセーショナルな見出しとともに一枚の画像を投稿していた。

『成功の絶頂にある清純派アイドルLUMINAのユイ、インディーズ時代からファンを騙して男と密会か。高校時代の元カレとの、親密すぎるプリクラ画像が流出』

 添付されていたのは、LUMINA結成前、地元の高校時代のユイが、当時の友人である少年と頬を寄せ合って写っている、ただのプリクラだった。今の洗練されたビジュアルとは無縁の、一人の女子高生の私生活の断片。それを投稿主は「清純派の裏の顔」「ファンをATM扱いしながら裏で密会」という悪意のレトリックで飾り立て、拡散させていた。

 コウジの狂気、クマたちの「大手の犬」という捨て台詞が、脳裏で最悪の形に重なった。流出の経路は分からない。ただ、知名度がアリーナクラスへ跳ね上がったその翌朝を狙ったかのように、澱のように溜まっていた古参の愛憎が、LUMINAの最も柔らかい部分を突き刺しにきたのだ。

 タイムラインはすでに修復不能な炎上と化していた。昨夜まで彼女たちを崇めていた観客の多くが、匿名の陰から石を投げ始めていた。

『幻滅したわ、結局オタクの金でデート代稼いでただけじゃん』『特典会の一分間、全部嘘だったんだね。もうファン辞める』『グループ全体で責任取れよ』

 人格否定に近い罵倒と憶測が、秒単位で積み上がっていく。昨夜の勝利の余韻は、一夜にして少女たちの命運を賭けたクライシス・マネジメントの戦場へと反転していた。

 私はベッドから跳ね起き、まだ着替えもしないままノートパソコンを開いた。画面を埋め尽くす通知の数を見つめながら、指先が小刻みに震えているのに気づいた。半年前、フォロワー350人の画面を前にして、同じように指先を震わせていたことを思い出す。あの時は絶望による震えだった。今は、まったく違う種類の恐怖による震えだった。

 私は真っ先に確認したのは、ユイのアカウントだった。すでに数百件のリプライが押し寄せ、その大半が悪意に満ちた憶測と罵倒で埋め尽くされている。私はその一つ一つに目を通しながら、この暴力の総量を、たった十九歳の少女がどう受け止めればいいのか、想像するだけで胸が潰れそうになった。

 画面をスクロールする指が、ふと止まった。ユイ自身のアカウントに、深夜のうちに書きかけて消された下書きの痕跡が残っていた。「本当のことをお話しします」という書き出しから始まる、公式な謝罪文の草稿だった。もしこれがそのまま投稿されていたら、無実の説明のつもりが、かえって「認めた」という誤った解釈を招き、炎上をさらに悪化させていただろう。間一髪のタイミングだったことに、私は背筋が冷たくなった。今すぐ、こうした個人判断での対応を止めなければならない。私はスマートフォンを掴み、震える指でユイに電話をかけた。

 コール音が三回鳴った後、ユイの震える声が応答した。「……青木さん」

「ユイ、あの下書き、絶対に投稿しないで。今すぐそっちに向かうから、それまで何も発信しないで待ってて」

「はい……分かりました」

 電話を切り、私は着替えもそこそこに部屋を飛び出した。

5

 私はすぐに新しいハイエースのキーを掴み、メンバーのアパートへ車を走らせた。道中、大類からの電話がスピーカーに響く。

『青木! ネクストウェーブの法務から緊急連絡だ! セカンドシングルの流通停止、すでにプレス済みのCDとグッズ、総額数千万円分を「スターライト側で買い取れ」って通知が来た! 違約金込みで、うちは物理的に潰れるぞ!』

 大類の声は恐怖と怒りで裏返っていた。受話器越しにも、彼の手が震えているのが伝わってくるようだった。メジャー契約という仕組みは、輝かせてくれる翼であると同時に、スキャンダルが起きた瞬間にその損失をすべて弱小事務所へ押し付ける、冷徹な防衛装置でもあったのだ。

「社長、落ち着いてください。契約書の第31条、不可抗力条項の適用範囲を確認します。今回のようなプライバシー侵害を原因とする炎上が、アーティスト側の契約違反に該当するかどうか、法的な解釈の余地はまだ残っているはずです」

 信号待ちの一瞬、私は助手席に置いたカバンの中の契約書の背表紙を横目で確認した。頭の中では、条文の文言がすでに一つ一つ組み上がり始めていた。

『そんな悠長なこと言ってる場合か! 向こうはもう倉庫の在庫を止めろって言ってきてるんだぞ!』

「社長、私が高橋さんに直接連絡します。今回のことで慌てて悪い前例を作れば、次に何かあったときも同じ扱いを受けることになります。……信じてください。今度も、私が交渉します」

 電話の向こうで、大類が長いため息をついた。

『……分かった。お前に任せる。だが、今度こそ本当にギリギリなんだからな』

 大類の声が、電話越しに小さくため息をついた。

 通話を切り、私はハンドルを握り直した。数時間前まで勝利の余韻に浸っていた自分が、今度は倉庫に眠る数千万円分の在庫という、まったく新しい種類の重圧と向き合うことになっていた。窓の外を流れる街灯の光を見つめながら、私はもう一度、深く息を吸い込んだ。

 アパートに着くと、ユイが膝を抱えてスマートフォンを見つめたまま泣きじゃくり、ハルカが「もう見ちゃダメ!」と端末を奪おうとし、リナは床の一点を見つめて拳を握りしめていた。玄関のドアを開けた瞬間、私はまずこの光景に息を呑んだ。三人がここまで追い詰められている姿を見るのは、コウジの一件以来だった。

「みんな、スマホを置いて。私を見て」

 私は感情を排した声で告げた。

「今から言うことを徹底して。個人のSNSでの投稿、釈明、反論は今日から全面禁止。パスワードはこの瞬間からすべて私が管理する」

 私はユイの震える手からスマートフォンを静かに取り上げた。冷たい画面の感触が、今この瞬間の事態の重さを、改めて私に突きつけてくるようだった。

「泣かなくていい、ユイ。高校生の頃、友人とプリクラを撮っただけで、責められる理由なんてない。悪意のレトリックに、私たちが屈服してやる理由はどこにもない。……今の私の仕事はただ一つ。ネットの悪意からも、大人の資本の重さからも、あなたたちを盾になって守り抜くこと」

 私はユイの目をまっすぐに見つめながら、一語一語をゆっくりと刻み込むように告げた。この言葉が、今夜、彼女の心に届く唯一の防波堤になることを願いながら。

「でも……」ユイが涙で濡れた顔を上げた。「あの写真、本物なんです。高校の時、本当に付き合ってた人で……。嘘は書いてないんです、ただ、切り取り方が」

「事実の一部を切り取って、悪意で塗り替える。それが、こういう攻撃の一番卑劣なところよ。あなたが謝る必要は、一ミリもない」

 ユイは私の言葉に何度も頷きながら、それでもまだ涙を止められずにいた。私はその小さな肩に手を置き、彼女が落ち着くまで、ただ静かにそばに座り続けた。

 私は三人の目を順番に見つめた。

「法務部が数千万円を突きつけてこようが、ネットがどれだけ石を投げてこようが、最前線には私が立つ。あなたたちは、心をこれ以上すり減らさずに、また三人でステージに立つ準備だけをしていなさい」

 ハルカの瞳に、リーダーとしての強さが戻った。彼女は涙を拭い、ユイの肩を抱き寄せた。その仕草には、あのZepp DiverCityのステージで見せた凛とした姿と、同じ強さが宿っていた。

「……はい。青木さんを信じます」

 それまで黙っていたリナが、ぽつりと呟いた。

「……前に話した、地元のダンス発表会のこと、覚えてますか。私のダンスを、知らない大人が勝手に自分のものみたいに扱おうとした話」

「覚えてる」

「ユイちゃんの今の状況、あれと似てる気がします。誰かの人生の一部が、勝手に他人の手で消費されて、都合よく作り変えられる。……それが、一番、腹が立つ」

 リナの声には、静かな、しかし確かな怒りが滲んでいた。私はその言葉に頷きながら、この怒りもまた、いつか彼女たちの力に変わる日が来ると信じたかった。あの下北沢の夜、リナが見せた悔しさの延長線上に、今夜の怒りもまた、確かに繋がっているように思えた。

 私は契約書と損害賠償の通知書をカバンに詰め、階段を駆け下りて再びハイエースに乗り込んだ。運転席に座った瞬間、ようやく詰めていた息を吐き出すことができた。

 車を発進させながら、私はふと自分自身に問いかけていた。下北沢の事件のあと、私は現場のセキュリティを徹底的に見直した。だが、この種のデジタル上のプライバシー流出に対しては、何の備えもしていなかった。物理的な脅威にばかり気を取られ、もう一つの、もっと見えにくい脅威への警戒を怠っていたのではないか。この見落としもまた、いつか清算しなければならない宿題として、私の中に重く積み上がっていった。

 生存率一パーセント未満のコロシアム。光が強く放たれた翌朝に、これまでで最も暗い影が牙を剥いた。それでも私は、ハンドルを握る手にさらに力を込めた。

 裏方としての本当の戦いは、この暗闇の中からこそ始まる。

 信号待ちで一瞬だけ目を閉じ、私は昨夜のステージの光景を思い出そうとした。二千五百人のペンライトの海、ハルカの声、ユイの笑顔、リナのダンス。あの光景は、まだ間違いなく本物だった。今この瞬間、ネット上でどれだけの悪意が渦巻いていようと、あの一夜の輝きが嘘になるわけではない。その事実だけを、私は今、自分の心の支えにするしかなかった。

 事務所に戻り、私はすぐに高橋プロデューサーへの電話をかけるための資料をまとめ始めた。プライバシー侵害の経緯、事実関係の整理、そして今後の対応方針。この一枚一枚の資料が、また新たな「リーガル・バトル」の武器になる。深夜の事務所で、私はキーボードを叩く手を止めなかった。今夜もまた、眠れる夜にはならなそうだった。手元のコーヒーはとうに冷め切っていたが、それを温め直す余裕さえ、今の私にはなかった。

 窓の外、お台場の夜景が、昨夜と変わらず輝いていた。同じ景色のはずなのに、昨夜の勝利の高揚感は、もうどこにも見当たらなかった。それでも、私は資料を作る手を止めなかった。この一枚の資料が、明日のユイの、ハルカの、リナの盾になる。そう信じることだけが、今の私を支える唯一の力だった。

 時計の針が深夜二時を回った頃、私はふと手を止め、窓の外を見つめた。半年前、同じようにこの窓から夜景を眺めながら、フォロワー350人という数字に絶望していた自分がいた。あの頃と比べれば、今の状況は遥かに複雑で、遥かに大きな責任を伴っている。それでも、あの頃に戻りたいとは、不思議と一度も思わなかった。この重さもまた、彼女たちと共に歩んできた証なのだと、私は自分に言い聞かせながら、再びキーボードに向き直った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。