第15章 望まぬスポットライト(プリクラ流出の夜)
1
あとになって三人から聞いた、その日の出来事は、こうだった。
青木さんが三人分のスマートフォンを預かり、書類をカバンに詰めて嵐のような勢いでアパートを飛び出していったのは、まだ朝八時前のことだった。
鉄製のドアが閉まる音に続いて、古いハイエースのエンジン音が遠ざかっていく。残された六畳間には、まるで部屋中の空気を根こそぎ持っていかれたような、重苦しい沈黙が満ちた。
窓の外では梅雨の小雨が灰色のアスファルトを濡らし、隅に置かれた小さな扇風機だけが、昨夜のZepp DiverCityの熱狂などまるで嘘だったかのように、カタカタと虚しく首を振り続けていた。
昨夜、この部屋に戻ってきたときの三人は、まだ興奮と疲労と幸福感の入り混じった、満ち足りた表情をしていた。ステージ衣装のまま倒れ込むように眠りについたはずだったのに、目を覚ました瞬間、世界はまったく違う姿に変わっていた。夢と現実の境目を、まだ誰の頭も正確に処理できずにいた。
「うあ、あ、ああ……っ」
折りたたみテーブルの横で、ユイが膝を抱え、畳に額をこすりつけるようにして、また声を上げて泣き始めた。スウェットの袖は涙と鼻水でぐっしょりと濡れ、昨夜二千五百人を魅了していたあの笑顔の面影はどこにもなかった。
「ユイ、落ち着いて。深呼吸して。青木さんが大丈夫だって言ってくれたでしょ」
ハルカがユイの背中をさすりながら、自分も泣きそうな声を必死にこらえていた。スマホを取り上げられたことへの反射なのか、その指先はかすかに震えている。
リーダーとして、ハルカは自分だけは冷静でいなければならないと、必死に自分に言い聞かせていた。だが、昨夜の勝利の熱狂と、今朝の絶望のあまりの落差に、彼女自身の心もまた、悲鳴を上げかけていた。それでも表には出せない。誰かが崩れずに立っていなければ、この部屋そのものが崩壊してしまう。その責任感だけが、今のハルカを辛うじて支えていた。
青木さんが言い渡した「個人での投稿や釈明は一切禁止」というルールは、三人をネットの刃から守るための正しい判断だと、誰もが分かっていた。だが、世界と繋がる唯一の窓を物理的に奪われ、情報から完全に遮断されたこの部屋では、その沈黙こそが、被害妄想を際限なく膨らませる檻のように感じられた。今この瞬間も、あのプリクラの画像が見知らぬ何万人もの指先で拡散され続けているはずだ。昨日まで最前列で名前を叫んでいたファンが、今は石を投げているかもしれない。その見えない恐怖が、六畳間の畳の匂いに混じって呼吸を浅くしていった。
テーブルの上には、昨夜の打ち上げのために買っておいた、まだ封も開けていないお菓子の袋が置かれていた。ほんの十二時間前まで、三人はここで祝杯を挙げるつもりでいた。その未来が、一夜にしてまったく違う色に塗り替えられてしまったことが、まだ誰の頭にもうまく馴染んでいなかった。壁の時計の秒針の音だけが、やけに大きく部屋に響いていた。
九時、十時、十時半。時計の針が進むごとに、部屋の空気はさらに重く沈んでいった。誰も何も食べようとせず、誰もテレビをつけようとしなかった。もし今、テレビをつければ、そこでもまたLUMINAの名前が、悪意混じりの文脈で取り上げられているかもしれない。その可能性だけで、リモコンに手を伸ばす勇気すら、誰も持てずにいた。
ハルカは何度も玄関の方に視線を向けた。青木さんが今すぐドアを開けて、すべてを解決してくれるのではないかという、根拠のない期待と、その期待を裏切られることへの恐怖が、交互に胸の中を行き来していた。
2
リナは二人から少し離れた壁際に、コンクリートの冷たさに背を預けて座っていた。前髪の隙間から、泣き崩れるユイと、それをなだめるハルカを、まるでガラス越しの別世界の出来事のように、無表情のまま見つめている。
その姿勢は、地下時代、倉庫での休憩時間にいつも見せていた姿勢とよく似ていた。感情を表に出さず、ただじっと状況を見極める。その癖は、メジャーに上がってからも変わっていなかった。
「……ユイ、いつまで泣いてるの。うるさい」
その一言が、剃刀のように冷たく落ちた。
「――え?」ハルカが信じられないという顔でリナを振り返る。ユイの泣き声が一瞬止まった。
「リナ、何言ってるの! ユイがどれだけ怖い思いしてるか分かってるの!? 同じメンバーでしょ!」
「分かってるよ。ネットで叩かれて、清純派の看板が落ちて、怖くてたまらないんでしょ」
リナは視線一つ動かさず、膝の上の埃を払った。
「でも、泣いたって何も変わらない。青木さんは今、六本木で違約金の書類と戦ってくれてる。ユイがここで泣いてても、拡散された画像は消えないし、レーベルの計算も止まらない。……過去の管理の甘さでグループ全体をリスクに巻き込んだんだから、泣く暇があるなら、次のステージでどう信頼を取り戻すか考えたら?」
正論だった。だからこそ、感情が飽和したこの部屋では、最も鋭い刃になってユイの胸を刺した。
「あ、う、ああ……っ」
ユイは両耳を塞ぎ、布団の中へ丸くなって潜り込んだ。布越しに、絶望的な嗚咽が漏れ続ける。
「リナ! いい加減にして!」
ハルカが立ち上がり、リナの肩を掴んだ。
「ユイは何も悪くない! アイドルになる前の、ただの高校生の写真でしょ! 勝手に流されただけなのに、なんでユイが責められなきゃいけないの! あなたには血も涙もないの!?」
「血も涙もあるから、こうやって怒ってるんだよ、ハルカ」
リナはその手を静かに振り払った。顔を上げた彼女の瞳に宿っていたのは、ハルカの感情的な怒りよりもずっと深く冷たい、飢えにも似た何かだった。
その視線の奥には、地下時代からずっと積み上げてきた、誰にも打ち明けたことのない焦りが渦巻いていた。倉庫のピッキング作業で荒れた指先、段ボールの角で切れた右手の甲。あの日々を思い出すたびに、リナの中で「もう二度と、あの場所には戻りたくない」という思いが、他の誰よりも強く根を張っていた。だからこそ、目の前でただ泣き崩れるユイの姿が、リナには耐えられなかったのだ。
3
「ハルカ、あなたはリーダーだから、傷ついたメンバーを慰めるのが仕事なのかもしれない。でも私は『表現者』として、このステージに人生を賭けてる」
リナは立ち上がり、数センチの距離でハルカの目を見た。
「早朝から倉庫で段ボールを運んで、足の裏が血まみれになっても踊り続けたのはなぜ? 仲良しごっこで満足するためじゃない。世界で一番大きなステージで、自分がどこまで通用するか試すためだよ。プリクラが流出した経路なんてどうでもいい。コウジさんの執着かもしれないし、地元の誰かの嫉妬かもしれない。問題は、このスキャンダルでセカンドシングルが止まったり、動員が割れたりして、LUMINAが『一発屋』として市場から捨てられるリスクが生まれたことそのものだよ」
リナの声は震えていなかった。この若さで、彼女は音楽ビジネスというシステムの冷酷さを、誰よりも正確に見抜いていた。
「生存率一パーセント未満。青木さんが命がけで勝ち取った二年間の生活保障だって、売上がゼロになればいくらでも打ち切りの理由にされる。ユイが被害者なのは分かってる。でも社会は『被害者だから』で数千万円の損失をチャラにはしてくれない。私たちは今、王冠と同時に、その足元の重力を背負ってる。ハルカ、あなたにその覚悟、本当にある?」
ハルカは言葉を失い、一歩後ずさった。彼女がSNSで紡いできた「生身の言葉」は確かに多くの共感を呼んだ。だが今、目の前にある「数千万円の違約金」という剥き出しの現実の前では、あまりにも脆く感じられた。
「……覚悟なら、あるつもり」
ハルカは震える声を絞り出した。
「でも、覚悟があることと、仲間が傷ついてるのを見て見ぬふりすることは、別の話でしょ。リナ、あなたのその強さ、本当は誰よりも自分を守るための鎧なんじゃないの?」
その一言に、リナの表情が初めて僅かに揺らいだ。図星を突かれた者だけが見せる、一瞬の沈黙だった。
窓の外の雨脚が強くなり、屋根を叩く音が部屋の緊張をさらに増幅させていた。ユイはまだ布団の中で身体を丸めたまま、二人のやり取りに聞き耳を立てていた。自分をめぐる争いが、これ以上大きくならないでほしいと、心のどこかで祈るような気持ちだった。
光が強く放たれたその直後、三人の間には、外からの悪意によってこじ開けられた深い亀裂が、音を立てて走り始めていた。
布団の中で丸まるユイ、正論の仮面をかぶって立つリナ、無力感に立ち尽くすハルカ。青木さんが会議室で盾となって戦っているその同じ時刻、この六畳間は、三人だけの「内なる地獄」と化していた。
4
長い沈黙が部屋を支配した。小雨が窓を打つ音だけが、時間の経過を静かに刻んでいく。
ハルカがゆっくりと膝をつき、布団の端をめくった。そこには涙で目を真っ赤に腫らし、歯の根を鳴らして震えるユイの素顔があった。
「……ユイ、ごめんね。リーダーなのに、何もできなくて」
ハルカの声から怒りは消え、代わりに無力さの震えが混じっていた。
「リナの言う通りかもしれない。私たち、青木さんに手を引かれてメジャーっていう凄い世界に来た。そこは歌って踊るだけの場所じゃなくて、お金や法律や、化け物みたいな大人の事情がうごめく場所だった。……私、SNSで格好いい言葉ばっかり書いてたけど、本当は、私だって怖いよ。明日ステージに立ったとき、みんながどんな目で私たちを見るのか、考えるだけで足が震える」
大粒の涙が畳に落ちていった。
完璧なスターを演じる必要はない。青木さんが以前教えてくれた「生身のリアリティ」という言葉の本質が、今、絶望の底にいる少女たちの間で、剥き出しの姿のまま静かに重なり始めていた。
壁際に立ったままのリナも、その光景を黙って見つめていた。彼女の中で、先ほどまでの鋭い刃のような言葉と、今目の前にある二人の涙が、少しずつ折り合いをつけようとしているようだった。
「……私も、本当は怖い」
リナがぽつりと呟いた。二人が驚いたように顔を上げる。
「倉庫に戻る夢を、まだ時々見る。段ボールの匂いとか、腰の痛みとか、あの生活の感触が、まだ身体のどこかに残ってる。……だから、もう二度とあそこには戻りたくない。その気持ちが強すぎて、さっきは言葉がきつくなった。ごめん」
リナが誰かに謝るのを、ハルカもユイも初めて見た気がした。
「リナちゃん……」ユイが涙を拭いながら、リナの方へにじり寄った。「私、知らなかった。リナちゃんがそんな夢見てたなんて」
「言ったことなかったから。……弱いところ見せるの、苦手だから」
リナは膝を抱えるようにして座り込み、珍しく視線を落とした。
「でも、さっきユイが『バラバラになりたくない』って言った時、私も同じこと思ってた。ただ、それを言葉にする代わりに、正論をぶつけることしかできなかった。……不器用で、ごめん」
ハルカがそっとリナの肩に手を置いた。
「不器用でもいいよ。リナが本気で心配してくれてたこと、ちゃんと伝わったから」
三人の間に、これまでとは違う種類の静けさが流れた。争いの後だからこそ生まれる、より深い理解の静けさだった。
ユイが布団から手を伸ばし、ハルカの涙で濡れた手を握った。
「ハルカ……リナ……。私、本当にLUMINAが好きなの。バイトが辛くても、キャベツしか食べられなくても、ハイエースの中でみんなで夢を語った夜が、人生で一番幸せだった。……クビになりたくない。バラバラになりたくないよ」
その叫びを聞いた瞬間、壁際のリナの視線が初めて揺れた。彼女は歩み寄り、テーブルの上のユイの振付ノートを手に取った。
「……ユイ、あなたが徹夜で考えたこの振付、まだ世界中の子がTikTokで真似してるよ」
先ほどまでの刺々しさが、その声から消えていた。
「ネットのバッシングなんて、アルゴリズムが変われば一週間で忘れられる砂の城。私たちが見せるべきなのは言い訳じゃない。次のステージで、この影を焼き尽くすくらいの、圧倒的な実力の証明だけ。……ユイ、踊れる?」
ユイは涙を拭い、ハルカの肩を借りて、自分の足で立ち上がった。
「……うん。踊れるよ。マイクを右手で固定して、左手だけで、世界で一番強い光、何度だって表現してみせる」
三人が、狭い部屋の中で手を強く結び合った。外からの悪意が暴いた内側の亀裂を、彼女たちは大人の言葉に頼るのではなく、自分たち自身の表現者としてのプライドで繋ぎ直したのだ。
その直後、テーブルの上に置かれたままの固定電話が鳴った。青木さんが念のため残していった、事務所への直通回線だった。ハルカが震える手で受話器を取る。
「――もしもし、ハルカです」
『ハルカ、青木よ。今、法務部との交渉の合間。……みんな、大丈夫?』
受話器の向こうから聞こえる声は、疲労で掠れていたが、それでも確かな力強さを保っていた。
「はい……大丈夫です。みんなで、ちゃんと話しました」
『そう。……詳しいことは戻ってから聞く。今は、私を信じて待っていて。必ず、悪い結果にはさせないから』
通話はそれだけで切れた。だが、その短い十数秒のやり取りが、部屋に残された三人の心に、確かな支えとなって染み込んでいった。遠く離れた場所で、たった一人で戦ってくれている人がいる。その事実だけで、この部屋の重苦しい空気が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
5
午前十一時四十五分。アパートの前に、激しいブレーキ音とともにハイエースが滑り込んできた。ドアが開き、髪を乱した青木さんが息を切らしながら部屋に飛び込んでくる。
「みんな……! 待たせてごめんなさい!」
疲労困憊のはずのその顔には、確かな勝利の光が宿っていた。書類をテーブルに置くと、彼女は力強く告げた。
「ネクストウェーブの法務部との交渉、完全に終わらせてきたわ! リリースのサスペンドも、二千八百万円の在庫買い取りも、全部白紙撤回。ペナルティはゼロよ!」
その報告を聞いた瞬間、ハルカの目からまた涙が溢れ出した。今度は恐怖の涙ではなく、安堵の涙だった。
「どうやって……こんな短時間で、そんな……」
「高橋さんに、契約書の不可抗力条項を根拠に、今回の炎上が第三者による悪意ある名誉毀損に起因するものであり、アーティスト側の契約違反には該当しないことを、判例を交えて説明したの。……それに、ユイのプライバシーを侵害した投稿元の特定と法的措置についても、ネクストウェーブの法務部が全面的に協力してくれることになったわ。この件は、もう一人で抱え込まなくていい」
青木さんの声には、疲労の色が濃く滲んでいたが、その瞳はどこまでも澄んでいた。
リナも、その報告を聞いて小さく息を吐いた。先ほどまでの張り詰めた表情が、わずかに緩んでいる。
「……よかった。本当に」
その一言だけを呟き、リナは目を伏せた。数字と法律の話になった途端、感情を排して分析に走ろうとする自分の癖を、この瞬間だけは意識的に脇に置いていた。今はただ、素直に安堵していい瞬間なのだと、彼女なりに自分に言い聞かせているようだった。
ハルカとユイが「青木さん……っ!」と叫びながら胸に飛び込んでいく。
だが、その瞬間だった。
青木さんに抱きしめられていたユイの身体から、ふっと力が抜けた。
「――え? ユイちゃん……?」
ハルカが異変に気づいて声を上げる。ユイは胸元に手を当て、浅く速い呼吸を繰り返していた。息を吸おうとするほど呼吸が乱れ、指先が小さく震えている。
「ユイ、私の声が聞こえる?」
青木さんはユイを床へゆっくり座らせ、倒れないように背中を支えた。
「大丈夫、大丈夫だから。ゆっくり、ゆっくり吐いて」
青木さんはユイの視線の高さまで身をかがめ、自分の呼吸をゆっくり見せながら、短い言葉で語りかけ続けた。
「無理に吸わなくていい。ゆっくり吐こう。そう、少しずつでいい」
ハルカとリナもそばに膝をついた。ハルカはユイの手を包み、リナは照明を少し落として窓を開けた。二人とも不安を押し隠し、青木さんの言葉に重ならないよう、静かにユイの名前を呼んだ。長い数分のあと、浅かった呼吸が少しずつ間隔を取り戻し、強張っていた視線が青木さんへ向いた。
窓の外の雨音と、四人の呼吸だけが、狭い部屋を満たしていた。誰もユイを急かさなかった。ユイが息を一つ吐くたび、三人は静かにそばにいた。
「……青木、さん……?」
か細い声で、ユイが呟いた。
「そう、私よ。ここにいる。もう大丈夫」
青木さんの声には、これまで見せたことのないほどの安堵と、同時に深い自責の色が滲んでいた。彼女は、契約交渉という目の前の戦いに集中するあまり、この一週間、メンバーの心身の限界がどこまで来ていたのかを、正確に測りきれていなかったのかもしれない。数千万円の違約金を防いだことよりも、今この瞬間、ユイの手を握っていることの方が、彼女にとってはるかに重い現実として突きつけられているようだった。
救急車を呼ぶべきかどうか、青木さんは一瞬だけ迷った様子を見せたが、ユイの呼吸が徐々に落ち着きを取り戻していくのを確認すると、代わりに近くのかかりつけ医に往診を依頼する電話をかけた。その手際の良さの裏で、彼女の顔には、これまで見せたことのない種類の疲労が色濃く滲んでいた。
三十分後に到着した医師は、ユイの血圧と脈拍を丁寧に確認し、過度のストレスによる過呼吸発作であること、身体的には深刻な異常はないことを告げた。
「しばらくは、心身ともに休息が最優先です。……お仕事の状況にもよるでしょうが、無理はさせないであげてください」
医師の言葉に、青木さんは深く頭を下げた。
「はい。……必ず、そうします」
医師を玄関まで見送る青木さんの背中を、ハルカとリナはそれぞれ違う思いで見つめていた。ハルカは、その背中に自分が知らない重さがどれだけ積み重なっているのかを、初めて具体的に想像しようとしていた。リナは、この人が本当に自分たちの盾になり続けてくれるのかを、静かに、しかし確かに見極めようとしていた。二人の視線の質は違っていたが、どちらも同じ一人の女性への、深い信頼の裏返しだった。
医師が帰った後、部屋には再び静けさが戻った。ユイは布団に横たわったまま、青木さんの手を握り続けていた。
「青木さん。……次のステージ、私、出られますか」
その問いに、青木さんは即答しなかった。少しの沈黙の後、彼女は静かに答えた。
「今は、それを考えなくていい。あなたの身体と心が、それを決めるの。私はどんな結論でも受け止める準備がある」
その言葉に、ユイの瞳から、また新しい涙が溢れた。今度は、恐怖でも絶望でもない、安心からくる涙だった。
「ハルカ、リナ。……ごめんなさい。私、契約書と数字にばかり気を取られて、あなたたちの心がどれだけ限界に近づいていたか、正確に見えていなかった」
青木さんはユイの手を握ったまま、二人に向かってそう告げた。その声には、契約交渉の場では決して見せない、剥き出しの自責の念があった。
「青木さんのせいじゃないです」
ハルカが静かに首を振った。
「私たちも、青木さんに心配かけたくなくて、無理してた部分があります。……お互い様です」
リナも小さく頷いた。
「これからは、私たちも、もっと早く『しんどい』って言葉にします。……青木さんだけに、全部背負わせるのは、もう嫌だから」
その言葉に、青木さんは一瞬だけ言葉を詰まらせた。守る側だと信じてきた自分が、また一つ、彼女たちに教えられた瞬間だった。
窓の外の雨は、いつしか小雨に戻っていた。灰色の空の隙間から、わずかに薄日が差し込み始めている。狭い六畳間に、疲れ切った四人の女性たちが、それでも確かに寄り添って座っていた。地下の暗闇から、メジャーという名の光の只中まで、彼女たちが一緒に歩んできた道のりが、この一部屋の中に凝縮されているようだった。
ユイが、まだ震える声で、それでも小さく笑った。
「……次のステージ、頑張れる気がしてきました。まだちょっと、怖いけど」
「怖くていいのよ」青木さんが、その頭をそっと撫でた。「怖さを抱えたまま前に進むことこそが、本当の強さだから」
その言葉に、三人はそれぞれ小さく頷いた。窓の外では、いつの間にか雨が上がり始めていた。
外からの罠は、確かに防ぎきった。だが、あまりにも強い光が生んだ影は、システムの外側ではなく、少女たちの肉体と心そのものに、初めて牙を剥いたのだ。旅はまだ終わらない。今日この部屋で繋ぎ直した絆を抱えたまま、四人は次の一歩を探さなければならなかった。




