第16章 光から離れる勇気
1
雨上がりの光は、ひどく頼りなかった。雲の切れ間から差し込んだ白い陽射しが、六畳間の畳を薄く照らしている。けれど、その光には部屋の空気を温めるほどの力はなかった。
往診に来てくれた医師が帰ってから、誰もほとんど言葉を発していなかった。ユイは布団に横たわり、私の手を握ったまま目を閉じていた。眠っているわけではない。時折、確かめるように親指が動き、私の手の甲に触れる。そのたびに、私はここにいると伝えるように、握り返した。
ハルカは窓際に座り、カーテンの隙間から外を眺めていた。リナは壁に背を預け、膝を抱えている。三人とも、いつもよりずっと小さく見えた。Zepp DiverCityを埋め尽くした歓声も、青と白のペンライトも、今はもう遠い世界の出来事のようだった。
私のスマートフォンは、テーブルの上で何度も震えていた。取材依頼。番組出演の打診。雑誌の撮影日程。配信番組からの問い合わせ。地方イベントの主催者から届く出演条件。公式SNSの反応をまとめたスタッフからの報告。そして、ネクストウェーブから送られてくる、今後の対応を協議するためのメール。
画面が明るくなるたび、胸の奥に焦りが生まれた。今、動かなければならない。炎上への正式な声明を出し、誤った情報を訂正し、検索結果を正しい情報で押し流す。昨日のライブ映像を編集して公開し、三人の圧倒的なパフォーマンスを再び世間に見せつける。テレビや雑誌から届いている依頼も、熱が冷めないうちに受けるべきだ。
理屈では、そう分かっていた。この業界では、世間の関心ほど移ろいやすいものはない。一週間前まで誰もが名前を口にしていたグループが、翌月には話題にすら上らなくなる。炎上によって注目が集まっている今を、別の光へと変えることができれば、LUMINAはさらに上へ行ける。
画面の向こうには、今この瞬間にも動き続ける巨大な市場がある。立ち止まった者から忘れられる。その恐怖が、私の背中を強く押していた。
けれど、私の手を握るユイの指は、まだ微かに震えている。
「青木さん」
ハルカの声に顔を上げた。
「電話、出なくていいんですか」
「今はいいわ」
「でも、さっきからずっと鳴ってます」
「大丈夫。急ぎのものは後で折り返すから」
私はそう答えたものの、自分の声がひどく硬いことに気づいた。ハルカは何かを言いかけ、唇を閉じた。私の顔に浮かんでいる焦りを見抜いたのだろう。
リナも、黙ったまま私を見ていた。誰も責めてはいない。それなのに、三人の視線を受けると、契約書の細かい文字よりも鋭く、自分の迷いを見透かされているような気がした。
やがて、ユイがゆっくりと目を開けた。
「青木さん……」
「どうしたの。苦しい?」
「ううん。もう、大丈夫です」
大丈夫という言葉ほど、今のユイに似合わないものはなかった。顔色はまだ青白く、唇にもほとんど血の気がない。泣き腫らした瞼は重く、いつもの明るい笑顔はどこにも残っていなかった。
それでも彼女は、私を安心させようとしている。
「少し眠れそう?」
「分からないです。目を閉じると、スマホの画面が浮かんできて」
ユイは天井を見たまま、掠れた声で続けた。
「文字がいっぱい流れてくるんです。顔は見えないのに、みんなに囲まれて、ずっと責められてるみたいで。眠りかけると、誰かがまた写真を見つけて、笑ってるような気がして」
私は返す言葉を失った。普段なら、すぐに対応策を考えただろう。アカウントを閉じる。誹謗中傷を記録する。法務へ渡す。検索結果を監視する。カウンセラーを手配する。
けれど今、ユイが求めているのは、正しい手順ではなかった。
「怖かったね」
ようやく口から出たのは、それだけだった。ユイの目から静かに涙がこぼれた。
「はい。すごく、怖かったです」
「もう見なくていい。今は何も知らなくていいから」
「でも、ファンの人たちは……」
「あなたを心配してくれている人には、私から伝える。あなたが自分で説明しなくてもいいの」
「嫌われたままでも?」
「あなたを一枚の写真だけで嫌いになる人のために、自分を壊す必要はないわ」
そう言いながら、私は自分自身にも言い聞かせていた。数字を落とさないために。勢いを失わないために。話題を次の話題で上書きするために。
それらはすべて、LUMINAを守るためだと信じてきた。だが、本当に守るべきものは、画面の中の数字ではない。今、私の手を握り、怖かったと泣いている一人の女の子だ。
テーブルの上で、またスマートフォンが震えた。私は画面を見なかった。
「今日の予定は、全部中止にする」
ハルカとリナが同時に顔を上げた。
「今日だけじゃない。しばらく、三人の活動を止めるわ」
「しばらくって、どれくらいですか」
リナが静かに尋ねた。
「まだ決められない。ユイの状態を見ながら、医師とも相談する。少なくとも、明日の雑誌撮影と、明後日の配信番組は断る。週末に予定していたリリースイベントも延期する」
言葉にするたび、胸の中で何かが軋んだ。雑誌の表紙候補に入ることが、どれほど貴重な機会か分かっている。配信番組は若い世代への認知を広げる絶好の場だった。リリースイベントの延期は、会場やスタッフ、流通会社にも損失を生む。
それでも、私は続けた。
「今は、活動を続けることより、三人が壊れないことの方が大事よ」
「私のせいで、全部止まるんですか」
ユイの声が震えた。
「違う」
私は即座に否定した。
「あなたのせいじゃない。これは、私の判断よ」
「でも、ハルカとリナは元気なのに」
「元気に見えることと、本当に元気であることは同じじゃない」
ハルカが小さく息を呑んだ。リナは膝を抱えたまま、視線を落とした。
「三人でLUMINAでしょう。一人だけ休ませて、残った二人で何事もなかったように仕事を続けるつもりはない。これは誰か一人の問題じゃない。四人で立ち止まるための時間よ」
「青木さんも、休むんですか」
ハルカの問いに、私は答えられなかった。私には処理しなければならないことが山ほどある。各所への連絡、延期に伴う補償、声明文の作成、ネクストウェーブとの協議、法務への資料提出、流出元への対応。
休めるはずがない。
「私は仕事があるから」
そう答えた瞬間、ハルカの表情が曇った。
「じゃあ、四人じゃないです」
「ハルカ」
「私たちには止まれって言うのに、青木さんは止まらないんですか」
責める口調ではなかった。だからこそ、その言葉は私の胸に深く刺さった。
「青木さん、ずっと寝てないですよね。昨日のライブの前も、ほとんど寝てなかった。ライブが終わって、少し眠ったら、すぐ炎上が起きて。それから契約の話をして、ユイのところに来て、病院の先生を呼んで……」
「私は大丈夫よ」
口にした直後、部屋の空気が止まった。大丈夫。つい先ほど、ユイが口にしたものと同じ言葉だった。リナが顔を上げた。
「青木さんも、私たちと同じこと言ってる」
その一言に、私は何も返せなかった。自分では守る側に立っているつもりだった。疲れているかどうか、怖いかどうかを考える必要などないと思っていた。私が倒れなければいい。倒れるまでは進める。そうやって、何度も自分を動かしてきた。
けれど、それを三人が真似した結果が、今ここにある。ユイが過呼吸を起こしてもなお、次のステージに出られるかと尋ねたのは、私の背中を見てきたからではないのか。
自分を削ってでも立ち続けることを、強さとして教えてしまったのではないか。私はユイの手を握ったまま、長く息を吐いた。
「……そうね。私も、少し休む」
ハルカの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「少しじゃなくて、ちゃんとです」
「善処します」
「それ、休まない人が言う言葉です」
弱々しくではあったが、ユイが笑った。その小さな笑い声が、重く沈んでいた部屋の空気に、細い穴を開けた。リナも口元をわずかに緩める。私も、ようやく笑った。
「分かった。ちゃんと休むわ」
口にすると、それは敗北の宣言ではなかった。むしろ、自分たちが再び立つために必要な、最初の決断のように思えた。
2
事務所へ戻ったのは、夕方を過ぎてからだった。ユイが眠りについたのを確認し、ハルカとリナには今夜一緒にいてもらうことにした。帰り際、冷蔵庫の中を確認すると、ミネラルウォーターと調味料しか入っていなかったため、近所のスーパーで消化のよい食べ物を買い込んだ。
おかゆ、うどん、豆腐、卵、バナナ、ヨーグルト。ハルカが「料理は任せてください」と言ったが、その直後に焦がした鍋の話をユイに暴露され、結局リナが台所を担当することになった。
ほんの少し前まで泣き崩れていた三人が、誰が一番料理に向いていないかで言い合う姿を見て、私はようやく息をつくことができた。それでも、事務所に戻った瞬間、現実は容赦なく押し寄せてきた。
留守番電話には二十七件の伝言が入っていた。メールの未読件数は三桁に達し、デスクには大類が印刷した資料が乱雑に積み上げられている。
「青木! やっと戻ったか!」
奥の部屋から飛び出してきた大類は、私の顔を見るなり両手を広げた。
「どうなってるんだ。雑誌の撮影を止めるって本気か? 先方から俺のところにまで連絡が来たぞ。表紙だぞ、表紙! 今まで何度頼んでも端の小さな記事すら載せてくれなかった雑誌が、向こうから表紙候補にしたいって言ってきてるんだぞ!」
「お断りします」
「はあ?」
「延期が可能なら延期をお願いします。不可能なら、今回は辞退します」
大類の口が開いたまま止まった。
「お、お前、自分が何を言ってるか分かってるのか」
「分かっています」
「今、世間の注目は全部LUMINAに向いてるんだぞ。いい意味でも悪い意味でもだ。このタイミングで表に出れば、例の写真だってただの昔話にできる。なのに姿を消したら、やましいことがあるから逃げたって言われるぞ」
「何をしても、言いたい人は好きなように言います」
「だからって全部止めるのか?」
「ユイが過呼吸を起こしました」
大類の表情が固まった。
「医師から、心身の休養を優先するように言われています。ハルカもリナも、表面上は落ち着いていますが、精神的な負担はかなり大きい。今の状態で撮影や収録に出せば、さらに悪化する可能性があります」
「でも……」
「倒れてからでは遅いんです」
自分で口にした言葉が、胸の奥に重く響いた。私は、すでに一度遅れかけた。ユイが息を吸えず、床に倒れるまで、彼女たちが限界に近づいていることを正確に把握できていなかった。
あれほど近くにいたのに。毎日、食事や睡眠時間まで確認していたのに。私は彼女たちの状態を管理しているつもりで、数字に表れない苦しさを見落としていた。
「今止めなければ、LUMINAそのものが続けられなくなるかもしれません」
大類は頭をかきむしり、部屋の中を歩き回った。
「契約はどうする。ネクストウェーブが認めると思うか? メジャーデビューしたばかりなんだぞ。向こうは広告費だけでいくら使ってると思ってる。イベント延期の損失だって、誰がかぶるんだ」
「私が高橋さんと話します」
「またお前が交渉するのか」
「それが私の仕事です」
「お前、さっき自分も休むって言ってなかったのか?」
驚いて大類を見ると、彼は気まずそうに視線を逸らした。
「ハルカから連絡が来た。お前がちゃんと休むか見張ってくれって」
「余計なことを……」
「余計じゃないだろ。鏡、見てみろ。顔色、ユイより悪いんじゃないのか」
壁際の小さな鏡に目を向けた。そこには、見慣れない女が映っていた。髪は乱れ、目の下には濃い影が落ち、唇は乾いている。いつもなら絶対に人前では見せない姿だった。
「高橋さんとの話が終わったら帰ります」
「本当だな?」
「はい」
「資料作り始めたりするなよ」
「必要な資料は作ります」
「ほら、もう休む気ないだろ!」
大類の声が、狭い事務所に響いた。以前なら、その騒がしさに苛立っていただろう。しかし今は、不思議と嫌ではなかった。少なくとも、私が休むかどうかを気にかけている人が、ここにもいる。
私はデスクに座り、まず各所への延期連絡を始めた。電話の向こうでは、困惑する声もあった。
「今が一番大事な時期ですよ」
「来月では同じ扱いをお約束できません」
「他の候補に切り替えざるを得ませんが、本当によろしいですか」
そのたびに、胸の中で何かが削られていった。一つの電話を終えるたび、貴重な機会が指の間からこぼれ落ちていく。
それでも、私は同じ言葉を繰り返した。
「メンバーの心身の回復を最優先にいたします」
午後八時を過ぎた頃、ネクストウェーブの高橋から直接電話がかかってきた。私は背筋を伸ばし、受話器を取った。
「お世話になっております。スターライトプロモーションの青木です」
『ずいぶん派手に止めているそうだな』
挨拶もなく、高橋の低い声が届いた。
「申し訳ございません」
『雑誌の表紙、配信番組、リリースイベント。こちらの制作部には、現場から問い合わせが殺到している。すべて君の判断か』
「はい」
『レーベルには事後報告で?』
「緊急性が高かったため、先に各所へ連絡しました。正式な協議が必要であることは理解しています」
電話の向こうで、短い沈黙があった。高橋が眼鏡の奥から、こちらを値踏みするように見ている姿が浮かんだ。
『理由は』
「ユイが過呼吸を起こしました。医師から、しばらく心身の休養を優先するように言われています。ハルカとリナについても、精神的な疲労が蓄積しています」
『診断書は出るのか』
「必要であれば、医師に依頼します」
『復帰の目安は』
「現時点ではお答えできません」
『君にしては、ずいぶん曖昧な回答だな』
その言葉に、指先へ力が入った。私はいつも、高橋の前では数字を示してきた。再生回数、保存率、エンゲージメント、動員予測、売上、利益率。数字を積み上げ、感情論ではないことを証明することで、大手の資本と対等に戦ってきた。
だが、人の心が回復するまでの日数を、表計算ソフトに入力することはできない。
「曖昧であることは認めます」
私は慎重に言葉を選んだ。
「ですが、今のユイに復帰期限を設定すれば、その日までに治らなければならないという新しい重圧を与えることになります。現段階で、日付を決めるべきではありません」
『メジャーの活動には、数百人の人間が関わっている。日付を決めなければ、誰も動けない』
「承知しています」
『延期によって発生する損失も小さくない』
「それも承知しています」
『そのうえで、止めると言っているのか』
「はい」
即答した。静寂が続いた。受話器の向こうから聞こえるのは、高橋のかすかな呼吸だけだった。私は最悪の展開を考えた。契約不履行。プロモーション予算の削減。次回作の延期。表舞台からの事実上の排除。
けれど、それらを避けるためにユイを再び立たせる選択だけはできなかった。
『分かった』
高橋の声は、予想外に静かだった。
「……よろしいのですか」
『よろしいも何も、医師が休養を求めている人間を、こちらが無理に引きずり出すわけにはいかない。雑誌と番組には、ネクストウェーブからも説明を入れる。リリースイベントの延期費用については、明日、制作部と協議する』
私は息を止めていたことに気づき、ゆっくりと吐き出した。
「ありがとうございます」
『ただし、一つ確認したい』
「はい」
『君は、なぜその決断をするまでに、彼女が倒れる必要があった』
胸の奥を、細い刃で刺されたような感覚が走った。
「それは……」
『君は食事の量も、睡眠時間も、移動距離も、SNSの反応も、すべて管理していたはずだ。炎上が起きた直後、心身への影響を予測できなかったとは言わせない』
反論できなかった。予測はしていた。誹謗中傷からユイを遠ざけなければならないことも、炎上直後に一人にしてはいけないことも理解していた。
それでも、私は法務交渉を最優先した。二千八百万円の在庫買い取りを撤回させなければ、事務所が潰れる。契約が切られれば、三人の未来がなくなる。だから、あの時の判断は間違っていなかったと、今でも思う。
けれど、正しい判断をしたことと、すべてを守れたことは同じではない。
「契約と損失への対応に意識を集中させすぎました」
私は唇を噛み、続けた。
「メンバー同士で支え合えると思い込んでいた部分もあります。私が戻るまでの数時間なら大丈夫だと。……結果として、ユイの状態が限界に近づいていることを見落としました」
『君は、完璧ではない』
「分かっています」
『いや、分かっていない』
高橋の声が少しだけ強くなった。
『分かっている人間は、自分一人ですべてを守れるような顔をしない。君は契約も、法務も、宣伝も、現場も、メンバーの心まで、すべて自分の管理下に置こうとする。誰かに任せて、その誰かが失敗することを恐れているからだ』
「任せられる人間がいなかったんです」
思わず、言葉が強くなった。地下の小さな事務所で、誰が彼女たちを守ってくれたというのか。大類は夢を語るが、契約書の細則すら読まない。ライブハウスの主催者は動員数だけを見て扱いを決めた。大手の企画担当者は、三人の個性を無視して売れ筋の色に塗り替えようとした。ファンを名乗る人間の中には、自分の思いどおりにならなければ少女たちを攻撃する者もいた。
私がやるしかなかった。私が見張っていなければ、彼女たちは簡単に消費され、壊され、捨てられる。
『そうやって、君は自分を休めない理由をいくらでも作れる』
高橋の声は冷静だった。
『だが、今の君が倒れたら、誰が彼女たちを守る』
私は答えられなかった。
『止まることも戦略だ、青木君』
その言葉は、私が高橋から聞くとは思っていなかったものだった。彼は常に利益を求め、数字を読み、成功の可能性がある場所へ資本を投じる人間だ。立ち止まることを最も嫌う側の人間だと思っていた。
「高橋さんから、その言葉を聞くとは思いませんでした」
『私を何だと思っている』
「利益のためなら、走れる人間を限界まで走らせる人かと」
電話の向こうで、高橋が短く笑った。
『ずいぶんな評価だな。否定はしないが、走れない人間を走らせて壊すほど非効率なことはない。アーティストは一度壊れれば、機械のように部品を交換して元に戻せるわけではない』
「効率の問題ですか」
『今の君には、それくらいの言い方をした方が受け入れやすいだろう』
私は何も言えなかった。悔しいが、そのとおりだった。優しさや心配という言葉だけを向けられたら、私はきっと「大丈夫です」と返していた。だが、壊れることは非効率だと言われれば、休むことを合理的な判断として受け入れられる。
高橋はそれを分かっている。
『三人を休ませろ。そして、君も最低二日は現場から離れろ』
「二日もですか」
『その反応が出る時点で、休む必要がある』
「ですが、延期に伴う調整が」
『こちらで引き取る。法務案件は佐藤に、制作関係は川島に回す。スターライト側の連絡は大類社長にやらせろ。社長なのだから、その程度は働いてもらえばいい』
部屋の奥で聞き耳を立てていた大類が、露骨に嫌そうな顔をした。
「大類社長だけでは、不安です」
『そこまで聞こえているぞ!』
大類が叫んだ。高橋にも聞こえたらしく、電話の向こうで小さな笑い声がした。
『君が戻った時に会社が残っている程度には、我々も支える。心配するな』
「しかし――」
『これはプロデューサーとしての指示だ。明日の正午までは必要な引き継ぎを認める。それ以降、四十八時間、業務連絡は禁止する。メールも見るな』
「高橋さん」
『君が休めないのなら、三人も本当の意味では休めない。彼女たちは君の背中を見ている。君が自分を削りながら、彼女たちにだけ健康でいろと言っても、説得力はない』
ハルカたちにも指摘されたことだった。守る側の人間が、守られることを拒絶し続ければ、いつか周囲にも同じ無理を強いる。私は椅子の背もたれに身体を預けた。
途端に、全身を重い疲労が覆った。これまで感じないようにしていたものが、隙間を見つけて一気に押し寄せてくる。肩は石のように固まり、目の奥が熱い。指先には力が入らず、受話器を持つことさえ億劫になっていた。
「……分かりました」
『聞こえないな』
「四十八時間、休みます」
『よろしい』
高橋の声に、わずかな満足が滲んだ。
「高橋さん」
『何だ』
「どうして、そこまでしてくださるんですか」
少しの沈黙があった。
『LUMINAには、まだ稼いでもらわなければ困る』
いかにも高橋らしい答えだった。だが、電話を切る直前、彼は小さな声で付け加えた。
『それに、優秀なマネージャーは、使い潰すより長く働いてもらった方がいい』
通話が切れた。私はしばらく、受話器を耳に当てたまま動けなかった。大類がデスクの向こうから、気味の悪いものを見るような目を向けていた。
「お前、高橋さんに休めって言われたのか」
「そうですが」
「あの高橋さんが?」
「そうです」
「明日、東京に雪でも降るんじゃないか」
「七月です」
私は受話器を置き、目の前に積まれた資料を見た。すべて今夜中に処理するつもりだった。だが、紙に並ぶ文字を追おうとしても、焦点が合わない。
「明日の正午までに引き継ぎを作ります」
「今夜は帰れ」
「まだ連絡が残っています」
「俺がやる」
思わず、大類の顔を見た。
「できますか」
「できるかじゃない。やるんだよ。俺だって一応、社長だぞ」
「一応をつけるんですね」
「お前がいつもそういう扱いするからだろ!」
大類は文句を言いながら、私のデスクから連絡先一覧を引き寄せた。
「延期先と担当者、付箋に書け。あとは俺が電話する」
不安しかなかった。けれど、任せなければ何も変わらない。私は必要な事項を書き出し、大類の前に置いた。
「雑誌編集部には、メンバーの健康上の理由とだけ伝えてください。炎上については話さないでください。配信番組には、復帰時期が決まり次第、優先的に再調整したいとお伝えを。リリースイベントの会場費については、先方の規約を確認して――」
「分かった、分かった」
「まだ説明の途中です」
「その細かさが、お前を休めなくしてるんだよ」
大類は付箋を手に、電話をかけ始めた。最初の挨拶から噛んでいた。今すぐ受話器を奪いたくなった。
けれど、私は拳を握って耐えた。多少不格好でも、私でなくても仕事は進む。それを認めることは、怖かった。同時に、ほんの少しだけ肩が軽くなる感覚もあった。
3
翌日の正午。私は、業務用のスマートフォンとノートパソコンを事務所の金庫に入れた。
「本当に入れたな」
大類が確認する。
「はい」
「予備の端末、持ってないだろうな」
「持っていません」
「鞄を見せろ」
「信用していないんですか」
「仕事に関してだけは、まったく信用してない」
鞄の中まで確認され、ようやく事務所から解放された。外へ出ると、真夏の陽射しが容赦なく降り注いでいた。雨上がりの路面はすでに乾き始め、アスファルトから立ち上る熱気が、街全体を揺らしている。
いつもなら、移動中にも電話をかけ、信号待ちの時間にメールを確認していた。だが、手元には私用のスマートフォンしかない。業務用の通知音が鳴らないだけで、世界から切り離されたような不安を覚えた。
本当に、私がいなくても大丈夫なのだろうか。雑誌編集部への説明で、大類が余計なことを話していないだろうか。ネクストウェーブの制作部が、延期の責任をスターライト側だけに押しつけていないだろうか。公式SNSの声明文に、誤解を招く表現が入っていないだろうか。
考え始めると、今すぐ事務所へ戻りたくなった。その時、私用のスマートフォンにメッセージが届いた。ハルカからだった。
『青木さん、ちゃんと事務所を出ましたか?』
私は短く返信した。
『出ました』
すぐに既読がつく。
『証拠の写真を送ってください』
思わず立ち止まった。
『何の証拠?』
『事務所にいない証拠です。外で自撮りしてください』
私は自撮りが嫌いだった。それでも、事務所の看板が遠くに見える位置で、渋々写真を撮って送った。数秒後、ユイから返信が来た。
『顔が怖いです』
続いて、リナからも届く。
『休む人の顔じゃない』
さらにハルカから。
『今からこっちに来てください』
私は三人のアパートへ向かった。玄関を開けると、昨日までの重苦しさが少しだけ薄れていた。畳の上には布団が三組並べられ、テーブルには湯気の立つ鍋が置かれている。
「いらっしゃいませ、青木さん」
ユイが布団の上に座り、両手を広げた。顔色は昨日よりよくなっていた。まだ目元には疲労が残っているが、声には少し力が戻っている。
「身体はどう?」
私が尋ねると、ユイは頬を膨らませた。
「今日は体調確認禁止です」
「禁止?」
「青木さん、仕事の話を始めるから」
リナが鍋の蓋を開けながら言った。
「今日は全員休む日。体調管理の面談もしない。スケジュールの相談もしない。SNSも見ない」
「では、私は何をすればいいの」
三人が顔を見合わせた。
「何もしない」
ハルカが答えた。それが一番難しい。私は部屋の中央に立ったまま、どうしていいか分からなかった。
「とりあえず座ってください」
ハルカに促され、テーブルの前に座る。鍋の中には、野菜と鶏肉の入ったうどんが煮えていた。昨日私が買った食材を使ったらしい。
「リナが作ったの?」
「三人で作りました」
「ハルカはネギを切っただけだけど」
ユイが言う。
「ユイだって卵を割っただけでしょ」
「私は味見もしました」
「それ、手伝いに入らないから」
二人の言い合いを横目に、リナが器へうどんを取り分けた。
「青木さん、食べて」
差し出された器から、柔らかな出汁の匂いが立ち上る。そういえば、最後にまともな食事をしたのがいつだったか、思い出せなかった。ライブ前に口へ入れた栄養補助食品が最後だった気がする。
箸でうどんをすくい、口へ運ぶ。温かい。ただそれだけのことに、胸の奥がほどけていく。
「おいしい」
私が呟くと、三人が一斉にこちらを見た。
「青木さんが、ご飯食べておいしいって言った」
ユイが驚いたように言う。
「私だって、おいしいものはおいしいと言うわ」
「いつも五分くらいで食べ終わるから、味わってるように見えないんです」
ハルカの指摘に、反論できなかった。
「今日はゆっくり食べてください」
リナが言った。
「うどんは逃げないから」
私は小さく頷いた。四人で鍋を囲み、時間をかけて食べた。仕事の話は禁止されていたため、最初は会話が続かなかった。私たちの間にある話題のほとんどは、ライブ、楽曲、振付、衣装、SNS、売上、次の仕事だったからだ。
仕事を取り除くと、四人の間に何が残るのか。その事実に気づき、少し怖くなった。
だが、ユイが突然、最近見た夢の話を始めた。
「私、昨日、ものすごく変な夢を見たんです。見たこともないくらい大きな会場なのに、お客さんが全員キャベツで」
「キャベツ?」
ハルカが聞き返す。
「そう。客席にキャベツが何千個も並んでて、サビになると葉っぱを振るんです」
リナが吹き出した。
「何それ」
「しかも、アンコールが『おかわり』なの。おかわり、おかわりって、キャベツが言うの」
「キャベツ生活がトラウマになってるじゃん」
ハルカが笑い、私も思わず口元を緩めた。そこから、話題は少しずつ広がっていった。ハルカが子どもの頃、父親に連れられて海へ釣りに行ったこと。魚に触れず、結局父親に針から外してもらったこと。
リナが小学生の頃、運動会のダンスで一人だけ振付を変え、先生に怒られたこと。ユイが高校時代、文化祭のステージで歌詞を忘れ、同じ一節を三回繰り返したこと。
私は聞く側に回っていた。ステージの外にいる三人の話を、私はどれほど知っていただろう。ハルカがどんな景色を見て育ったのか。リナがいつから、自分の表現を曲げることを嫌うようになったのか。ユイが失敗した時、どんなふうに笑ってごまかすのか。
プロフィール資料に書かれた出身地や趣味なら知っている。だが、それは人を知っていることとは違う。
「青木さんの話もしてください」
ユイが言った。
「私の?」
「はい。子どもの頃の話とか」
「特に面白い話はないわ」
「好きだったものは?」
「好きだったもの……」
思い出そうとして、言葉に詰まった。勉強は嫌いではなかった。テストでよい点を取れば、周囲から認められた。失敗しないように準備し、決められた期限を守り、期待された結果を出す。それが私にとって一番安全な生き方だった。
「図書館が好きだった」
ようやく答える。
「意外」
リナが言った。
「そう?」
「青木さん、子どもの頃からパソコンで表を作ってそうだから」
「どんな子どもよ」
「夏休みの予定表を分刻みで作る子」
三人が笑った。完全には否定できなかった。
「本を読んでいる時間は、誰からも何かを求められなかったから」
口にしてから、自分でも驚いた。そんなふうに考えていたことを、これまで誰かに話したことはなかった。
「家でも学校でも、ちゃんとしていれば怒られなかった。でも、本の中では、ちゃんとしていなくてもよかった。失敗する人も、逃げる人も、迷う人もいた。それでも物語は続いていた」
「青木さんも、迷うんですね」
ハルカが静かに言った。
「迷わないように見える?」
三人が同時に頷いた。
「いつも答えを持ってるように見えます」
ユイが続ける。
「何が起きても、青木さんに聞けば正解を教えてくれるって思ってました」
胸が痛んだ。
「私は、正解なんて持っていないわ」
「でも、そう見せてた」
リナの言葉は、責めるものではなかった。私は箸を置き、三人を見た。
「怖かったのよ」
自分の口から出た言葉は、思った以上に弱かった。
「あなたたちが少しずつ知られて、仕事が増えて、大きな会社と契約して。嬉しかった。でも、怖かった。私が一つ判断を間違えたら、全部失うかもしれない。誰かの言葉を信じたせいで、あなたたちが傷つくかもしれない。だから、何も見落とさないようにしなければと思った」
誰も口を挟まなかった。
「契約書も、SNSも、数字も、現場の導線も、全部確認した。分からないことは調べて、相手より先に答えを用意した。完璧にできれば、あなたたちを守れると思っていた」
私は自分の手を見た。
「でも、ユイが倒れるまで、三人がどれほど苦しんでいるのか分からなかった」
「それは青木さんだけのせいじゃないです」
ハルカが言った。
「私たちも言わなかったから」
「私、青木さんに心配かけたくなかった」
ユイも続けた。
「青木さんがずっと戦ってくれてるのに、怖いとか、休みたいとか言ったら、迷惑だと思って」
「私も」
リナが小さく頷いた。
「弱いって思われたくなかった。青木さんが完璧だから、私も完璧でいないと、置いていかれる気がしてた」
その言葉に息を呑んだ。私が完璧であろうとするほど、三人にも完璧を求めることになる。失敗してもいいと、口では何度も言ってきた。けれど、私自身が一度も失敗を許さない姿を見せ続けていれば、そんな言葉に説得力はない。
「ごめんなさい」
私は頭を下げた。
「謝らないでください」
ハルカがすぐに言った。
「謝るわ。私は、守ることと管理することを、同じだと思い始めていたのかもしれない」
沈黙の後、ユイが私の袖を引いた。
「じゃあ、これからは一緒に迷いましょう」
顔を上げると、ユイが微笑んでいた。
「青木さんが分からない時は、分からないって言ってください。私たちも、怖い時は怖いって言います」
「しんどい時も」
ハルカが付け加える。
「無理なものは無理って言う」
リナも続けた。
「それで、四人で考える」
四人。その響きが、胸の奥に静かに広がった。私はいつも、自分が三人を連れていくのだと思っていた。彼女たちは光の中を歩き、私はその後ろで道を整える。彼女たちが転ばないよう、障害物を取り除き、危険が近づけば盾になる。
けれど本当は、私も同じ道を歩いていた。迷い、傷つき、時には三人に支えられながら。
「分かった」
私は三人の顔を順番に見た。
「これからは、四人で決めましょう」
「はい」
ハルカが答えた。
「約束です」
ユイが小指を差し出す。
「まさか、指切り?」
「こういう約束は、ちゃんと形にした方がいいんです」
二十八歳にもなって、指切りをすることになるとは思わなかった。けれど、私は小指を差し出した。ハルカとリナも指を重ねる。四本の小指が、不格好に絡み合った。
誰からともなく笑いがこぼれた。窓の外では、夕方の光が建物の隙間を淡い橙色に染めていた。昨日まで、光は強ければ強いほどよいと思っていた。
より多くの人に見つけてもらうために。誰にも奪われない場所へ行くために。暗闇へ戻らないために。
だが、強すぎる光は、時に人の輪郭を消してしまう。今の私たちに必要なのは、数千人を照らす照明ではなかった。狭い部屋で、互いの表情が見える程度の、小さく穏やかな明かりだった。
4
休養に入って三日目の朝、私は久しぶりに目覚まし時計をかけずに眠った。目を開けると、時計の針は午前十時を回っていた。一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
寝過ごした。その言葉が頭に浮かび、反射的に起き上がる。だが、今日の予定は何もない。電話も会議も、リハーサルも取材もない。
カーテンを開けると、夏の空が広がっていた。雲の輪郭が眩しいほど白く、遠くで蝉の声が聞こえる。仕事へ向かう人々はとっくに街へ出た後で、住宅街にはゆったりとした時間が流れていた。
私は台所へ行き、湯を沸かした。いつもならインスタントコーヒーを作り、冷める前に飲むこともなく仕事を始める。今日はカップを持ったまま、窓際の椅子に座った。
何もしない時間に、身体が慣れていなかった。仕事の状況が気になる。大類は本当に各所へ連絡できただろうか。高橋は延期による社内の反発を抑えられただろうか。公式SNSにはどんな反応が寄せられているのか。
業務用端末を取りに戻ろうと思えば、すぐに戻れる。しかし、三人と交わした約束を思い出した。四人で決める。怖い時は怖いと言う。
無理な時は無理だと伝える。私はコーヒーを一口飲んだ。すでに少しぬるくなっていたが、いつもより味がよく分かった。昼を過ぎた頃、私用のスマートフォンに高橋から電話がかかってきた。
業務連絡は禁止すると言った本人からの電話だったため、少し迷ってから出た。
「もしもし」
『休んでいるか』
「高橋さんこそ、業務連絡は禁止では?」
『これは確認だ』
「それを業務連絡と言うのではありませんか」
『口が減らないようなら、少し安心だな』
高橋の背後から、紙をめくる音と、遠くで誰かが話す声が聞こえた。彼は仕事中なのだろう。
「状況はどうなっていますか」
『質問は禁止だ』
「電話をかけてきたのは高橋さんです」
『各所との調整は進んでいる。雑誌は来月以降に再検討。配信番組も復帰後の優先枠を用意すると言っている。リリースイベントの会場費は、保険とレーベルの予備費から一部を補填する』
「そうですか」
胸の奥に詰まっていたものが、少しほどけた。私がいなくても、世界は崩れていない。
『君が恐れていたほど、大きな損失にはなっていない』
見透かされたようで、素直に認めたくなかった。
「まだ結果が出たわけではありません」
『結果が出る前にすべて悲観するのは、リスク管理ではなく不安症だ』
「随分な言い方ですね」
『君にはそれくらいでちょうどいい』
高橋は少し間を置き、声の調子を変えた。
『ユイの様子は』
「昨日は、三人で買い物に行ったそうです。人の多い場所は避けて、近所を少し歩いただけですが」
『外へ出られたのなら、一歩前進だな』
「ただ、スマートフォンはまだほとんど触れません。通知音を聞くと、身体が固まることがあります」
『急がせるな』
「分かっています」
『本当に分かっているか』
「昨日から何も急がせていません」
『復帰時期を考えたか』
私は窓の外を見た。青空を、一羽の鳥が横切っていく。
「考えていません」
『ほう』
高橋が意外そうな声を出した。
「考え始めれば、そこから逆算してしまうので。いつまでに外出できるようにする。いつまでに歌えるようにする。いつまでにステージへ戻す。そうやって、回復まで仕事の予定表にしてしまいます」
『少しは学んだようだな』
「三人に教えられました」
『君が誰かから教わることもあるのか』
「失礼ですね」
高橋が低く笑った。契約交渉の席では、互いの隙を探し、数字と条文を突きつけ合ってきた。こんなふうに目的の定まらない会話をするのは初めてだった。
「高橋さん」
『何だ』
「以前、担当していたアーティストを休ませたことはありますか」
電話の向こうが静かになった。無遠慮な質問だったかもしれない。
けれど、高橋が昨日口にした言葉は、単なる理屈ではないように感じていた。
『ある』
しばらくして、短い答えが返ってきた。
『十年ほど前だ。デビュー直後から売れ始めた若いバンドだった。メディアもライブも次々に決まり、本人たちも休みはいらないと言っていた。私も、それを本気だと受け取った』
高橋の声から、いつもの冷徹な響きが少しだけ消えていた。
『止める理由がなかった。数字は伸び続けていた。ライブの動員も、音源の売上も、すべて計画を上回っていた。だから、次の予定を入れ続けた』
私は黙って聞いた。
『ボーカルが歌えなくなった。喉ではない。声を出そうとすると、身体が拒絶した。半年休ませたが、元には戻らなかった。バンドは解散した』
遠くで蝉が鳴いていた。
『当時の私は、本人が走りたいと言う限り、走らせることが正しいと思っていた。プロなのだから、自分の限界は自分で判断するべきだと』
「今は、違うのですか」
『限界を越えている人間ほど、自分では止まれない。それを知った』
高橋がわずかに息を吐いた。
『だからといって、甘やかすつもりはない。プロとして結果は求める。ただ、再び走るために止まる時間まで奪えば、長くは続かない』
私はカップの縁を指でなぞった。高橋もまた、失敗したことがある。その事実が意外だった。彼は初めから、何も見落とさない巨大な壁のように見えていた。こちらの要求を読み、次の交渉を用意し、莫大な資本を動かす。私がどれほど資料を揃えても、その先に立っている人だった。
けれど、彼も誰かを守れなかった過去を抱えている。
「その方に、今も会いますか」
『いいや』
高橋は短く答えた。
『最後に会った時、二度と音楽業界には戻らないと言われた。私の顔も見たくないとな』
後悔を口にしたわけではない。それでも、その声には長い年月を経ても消えない重さがあった。
『君には、同じ失敗をしてほしくない』
胸の奥が、静かに揺れた。
「ありがとうございます」
『礼を言われるような話ではない』
「それでも、ありがとうございます」
高橋は何も答えなかった。
しばらくして、いつもの事務的な声に戻った。
『三人が戻る時は、いきなり大きな現場には出さない方がいい』
「私もそう考えています」
『小規模のファンイベントか、ライブハウスから始めるか』
「まだ決めません」
『慎重になったな』
「四人で決めると約束しましたから」
『四人?』
「ハルカ、ユイ、リナ、私です」
『マネージャーまで数に入るのか』
「入れてもらいました」
高橋が、また小さく笑った。
『なら、その四人でよく話せ。決まったら企画を持ってこい』
「はい」
『青木君』
「何でしょう」
『今日いっぱいは休め。明日になれば、嫌でも仕事は戻ってくる』
電話が切れた。私はしばらくスマートフォンを見つめていた。高橋から、私を気遣うような言葉を聞く日が来るとは思わなかった。
だが、彼の優しさは温かな毛布のようなものではない。傷跡を隠さず見せ、同じ場所で転ぶなと告げる、硬く不器用な標識のようなものだった。それで十分だった。
私はスマートフォンを伏せ、窓の外を見た。何も決めなくていい午後が、まだ残っている。その時間を怖いと思う気持ちは、完全には消えていなかった。
それでも私は、椅子に座ったまま、しばらく空を眺めていた。
5
活動を止めてから一週間が過ぎた。公式SNSには、メンバーの心身の回復を優先し、一部活動を休止することを発表した。流出した写真については、LUMINA結成前の私生活を不当に切り取ったものであり、ユイに謝罪すべき行為は一切ないこと、悪意ある投稿については法的措置を進めていることを明確にした。
発表直後には、批判も届いた。逃げた。説明が足りない。プロ意識がない。活動休止は事実を認めたのと同じだ。
以前の私なら、その一つ一つを分析し、反論の材料を探しただろう。だが、その何倍もの応援が届いていた。待っています。ゆっくり休んでください。
ユイちゃんは何も悪くない。三人がまた笑って歌える日まで、LUMINAの曲を聴いています。公式アカウントでは個別のコメントに返信せず、すべて保存した。いつか三人が読む準備ができた時に、悪意ではなく、支えてくれた声を先に見せるためだった。
ユイは、まだSNSを見ていない。その代わり、毎日少しずつ外へ出るようになった。最初はアパートの前まで。次は近所のコンビニまで。その次は、三人で人通りの少ない公園へ。
帽子を深くかぶり、マスクをしていても、誰かに気づかれるのではないかと怯えた。通りすがりの人がスマートフォンを持っているだけで、肩を震わせることもあった。
それでも、ユイは一歩ずつ進んだ。ハルカとリナは、左右から彼女を囲むのではなく、少し前と少し後ろを歩いた。守っていることを意識させず、それでも手を伸ばせば届く距離にいた。
私は少し離れた場所から、その三人を見守った。以前なら、人通りや逃げ道、撮影される可能性を計算し、最も安全な経路を指示していただろう。
今は、三人が自分たちで歩く道を選ぶのを待った。公園の木陰にあるベンチへ座ると、ユイがマスクを少しずらし、深く息を吸った。
「外の匂いがする」
「ずっと部屋にいたからね」
ハルカが笑う。
「蝉、うるさい」
リナが空を見上げた。
「でも、ライブのコールよりは静か」
ユイが言い、三人で笑った。その笑顔を見た瞬間、私は胸の奥にあった硬いものが、ゆっくりと溶けていくのを感じた。ステージに戻れるかどうかは、まだ分からない。
歌えるか。踊れるか。ファンの前へ立てるか。テレビカメラを見ても、過去の写真や悪意を思い出さずにいられるか。
何一つ、答えは出ていない。けれど、今ここで笑えている。それだけで十分だと思えた。
「青木さんも、こっちに来てください」
ハルカが手を振った。私は三人のところへ歩いた。ベンチは三人が座るといっぱいだったため、隣の芝生へ腰を下ろした。スーツではなく、久しぶりに着た白いシャツとデニムだった。芝が服につくことを気にせず、そのまま両手を後ろについた。
「青木さん、似合わない」
リナが言った。
「何が?」
「仕事してない姿」
「失礼ね」
「でも、前より話しかけやすいです」
ユイが笑った。
「前は話しかけにくかった?」
「仕事中は、ちょっとだけ」
親指と人差し指で、ほんのわずかな隙間を作る。
「その指、かなり開いてるけど」
「気のせいです」
ハルカとリナが笑った。風が吹き抜け、木々の葉が重なり合う音がした。どこかで子どもたちが遊んでいる。犬を連れた老人が、ゆっくりと遊歩道を歩いていく。自転車のベルが遠くで鳴り、雲が時間をかけて空を流れていた。
LUMINAが活動を止めても、街の日常は変わらない。世間の話題が移り変わっても、朝は来る。人々は働き、食事をし、眠る。その当たり前の時間から、私たちはいつの間にか遠く離れていた。
「歌いたいな」
ユイが、不意に呟いた。ハルカとリナが彼女を見る。私は何も言わなかった。いつから。どこで。何を歌うのか。
質問は浮かんだが、飲み込んだ。ユイは足元の草を見つめながら続けた。
「今すぐステージに立ちたいとかじゃなくて。三人で、普通に歌いたい。誰かに見せるためじゃなくて」
「歌おうか」
ハルカが言った。
「ここで?」
「小さい声なら大丈夫でしょ」
「何を歌う?」
リナが尋ねる。三人は顔を見合わせた。
やがてハルカが、LUMINAがまだ何者でもなかった頃から歌ってきた曲の冒頭を、小さく口ずさんだ。ユイが重なり、リナが低い声で支える。
マイクも、照明も、イヤーモニターもない。音響設備もなければ、カメラもない。木々のざわめきと蝉の声に紛れれば、数メートル先にも届かないほどの歌だった。
それでも、三人の声は確かに重なっていた。ユイは途中で一度だけ息を止めた。ハルカが歌いながら、その手を握る。リナはユイの呼吸に合わせ、少しだけテンポを落とした。
ユイは二人を見て、再び声を出した。最後の一音が夏の風に溶ける。誰も拍手をしなかった。誰も成功か失敗かを判断しなかった。
三人はただ、顔を見合わせて笑った。私はその姿を見つめながら、胸の奥に込み上げるものを堪えた。Zeppの巨大な歓声よりも、何百台ものカメラが向けられた撮可タイムよりも、今の歌は静かだった。
けれど、彼女たちが再び自分の意思で歌ったという事実は、どんな数字よりも重かった。
「青木さん」
ユイが私を見る。
「私たち、また歌えますか」
以前の私なら、迷わず答えていただろう。歌える。必ず戻れる。私が戻してみせる。
だが、今は安易な約束をしたくなかった。
「分からないわ」
正直に答えた。三人が静かに私を見つめる。
「いつ戻れるのかも、前と同じように歌えるのかも分からない。戻った時に、どれくらいの人が待っていてくれるかも分からない」
私は一度、息を吸った。
「でも、戻りたいと思った時は、一緒に方法を考える。三人のうち誰か一人でも、まだ怖いと言ったら待つ。私が勝手に日付を決めることはしない」
ユイは少しだけ目を潤ませ、頷いた。
「はい」
「私も、それがいいです」
ハルカが言う。リナも、静かに頷いた。
「戻るなら、大きな会場じゃなくて、小さいところからがいい」
「小さなところ?」
私が聞き返す。
「お客さんの顔が見えるところ」
リナは公園の木々の向こうへ視線を向けた。
「今のユイに、いきなり何千人の視線を浴びせるのは無理だと思う。でも、何人かの顔なら、一人ずつ見られるかもしれない」
ユイが考え込む。
「最初に出たライブハウスみたいなところ?」
「あそこまでボロくなくてもいいけど」
リナの言葉に、ハルカが笑った。
「でも、いいかもしれない。私たち、ずっと大きな場所に行くことばかり考えてたから」
三人の間で、まだ形にならない思いが芽生え始めていた。それは活動再開の計画ではない。期限も、会場も、集客目標も決まっていない。
ただ、もう一度歌いたいという、小さな意志だった。今は、それでよかった。
「青木さんも歌いますか」
ユイが尋ねる。
「歌わないわ」
「四人で決めるんですよね?」
「歌うかどうかまで四人で決めないで」
「一曲くらい」
「嫌です」
「青木さん、音程を外すのが怖いんじゃないですか」
リナの言葉に、三人が笑った。
「怖くありません」
「じゃあ歌えますよね」
「歌えることと、歌いたいことは別です」
「逃げた」
ユイが楽しそうに言う。
「これは逃げではなく、適切な役割分担です」
私が真顔で答えると、三人の笑い声がさらに大きくなった。その声につられ、私も笑った。空を見上げる。強い夏の陽射しは、木々の葉に遮られ、細かな光となって地面に落ちていた。
光の中心から離れたからこそ、見えるものがあった。数字に映らない表情。言葉になる前の迷い。誰かの呼吸に合わせて、歌う速さを変えること。
止まっている時間にも、人は少しずつ前へ進んでいる。私は、ようやくそれを知った。LUMINAの旅は止まっていなかった。歓声のない場所で、カメラのない場所で、誰にも見つけられないほど小さな歩幅で、それでも確かに続いていた。
風が吹き、四人の髪を揺らした。ユイがもう一度、先ほどの歌を口ずさむ。ハルカとリナが、その声に重なる。私は歌わなかった。
ただ、三人のすぐそばで、その音を聞いていた。今はまだ、それでよかった。いつか再び、彼女たちがまばゆい光の中へ戻る日が来る。その時、私は先頭に立って引っ張るのではなく、同じ速さで隣を歩いていたい。
誰かが立ち止まれば、一緒に止まる。誰かが怖いと言えば、その怖さが消えるまで待つ。そして、四人ともがもう一度進みたいと思えた時に、また歩き出せばいい。
遠くで、夕方を知らせる音楽が流れ始めた。三人の小さな歌声は、その旋律と混ざりながら、夏の空へゆっくり昇っていった。




