第17章 完璧なマネージャーの誤算
1
三人の歌声が公園の木々の間へ消えてから、二週間が過ぎた。LUMINAは、まだ表立った活動を再開していなかった。公式SNSの更新は、過去のライブ写真と事務所からのお知らせだけに絞っている。メンバー個人の投稿は止めたままにし、三人には自分たちの名前を検索しないよう伝えていた。
ユイは、少しずつ日常を取り戻していた。朝になるとカーテンを開け、ハルカやリナと一緒に近所を歩く。人通りの少ない時間を選び、帽子とマスクをつけて外へ出る。
最初はアパートの周囲を一周するだけだった。やがて駅前の小さなカフェまで歩き、短い時間なら店内で過ごせるようになった。近くでスマートフォンの通知音が鳴ると、肩を強張らせることはあった。それでも、以前のように呼吸が大きく乱れることはなくなっている。
歌も、毎日少しずつ続けていた。初めは三人で小さく口ずさむだけだった。やがてハルカがキーボードを持ち出し、リナが机を指先で叩いてリズムを取り、ユイが短いフレーズを歌うようになった。
誰かに聞かせるためではない。音程も、表情も、カメラ映りも気にしない。ただ三人で声を重ねることを楽しむための時間だった。私は、できるだけ口を出さなかった。
以前なら、ユイの呼吸の使い方やハルカの発声、リナが刻むリズムのわずかなずれまで気になっていただろう。だが今は、三人が歌いたい時に歌い、疲れた時にはやめる。その判断を尊重しようと決めていた。
少なくとも、そのつもりだった。
「もう一度、人前で歌ってみたいです」
ユイがそう口にしたのは、八月の終わりに近い午後だった。四人で事務所の会議室に集まり、これからのことを話していた時だった。窓の外では、まだ夏の強い陽射しがビルの壁を白く照らしている。けれど、時折吹き込む風には、わずかに秋の気配が混じり始めていた。
私はユイの顔を見た。
「本当に?」
「はい」
「怖くない?」
「怖いです」
ユイは迷わず答えた。以前なら、大丈夫ですと笑っていたかもしれない。怖いと正直に言えるようになった。その変化を、私は嬉しく思った。
「今でも、知らない人がスマホを向けていると、自分を撮られているんじゃないかって思う時があります。ステージに立って、客席からカメラを向けられたら、あの写真のことを思い出すかもしれない」
「撮影は禁止にできるわ」
私はすぐに答えた。
「撮可タイムもなしにする。客席でスマートフォンを出すこと自体を禁止して、入口でも案内する。スタッフを増やして、客席の確認も――」
「青木さん」
ハルカに名前を呼ばれ、言葉を止めた。
「今は、まずユイの話を聞きましょう」
私は口を閉じた。話を聞く。その当たり前のことが、まだ十分には身についていなかった。
「ごめんなさい。続けて」
「撮影が怖いのは本当です。でも、ずっと避けたままにはしたくない気持ちもあります」
ユイは両手を膝の上で組んだ。
「前は、カメラを向けてもらえるのが嬉しかったんです。私たちを知らない人のところまで、動画や写真が届くかもしれないって。自分で考えた振付を真似してくれる人が増えるのも、本当に嬉しかった。だから、カメラそのものを嫌いになりたくないんです」
「無理に好きになる必要はない」
リナが言った。
「今は嫌なら、嫌でいいと思う」
「うん。でも、歌うことまで怖くなりたくない」
ユイはリナを見て、ゆっくりと続けた。
「ステージに戻りたい。前と同じようにできるかは分からないけど、一度、小さい場所で歌ってみたいです」
ハルカがユイの横顔を見つめた。
「私も、歌いたい」
リナも頷いた。
「私も」
三人の視線が、私に集まった。決めるのは私ではない。四人で話すと約束した。私は一度深く息を吸い、手元のノートを開いた。
「分かった。では、どのような条件なら安心して立てるか、一緒に考えましょう」
ホワイトボードに、三人の希望を書き出した。会場は百人以下。客席との距離が近すぎないこと。体調が悪くなった時に休める場所を用意すること。
客席からの撮影は全面禁止。
公演時間は一時間以内。終演後の特典会は行わない。リハーサル中でも、本番中でも、誰か一人が続けるのは難しいと判断したら中止できること。
「最後の条件、本番中でもですか」
ハルカが確認した。
「もちろん。本番が始まっていても、続けられないと思ったら止める」
「お客さんがいても?」
「三人が倒れるよりいいわ」
ユイは少し不安そうな表情を浮かべたが、最後には頷いた。会場については、下北沢にある小規模なライブハウスが候補に挙がった。かつて出演した場所とは違うが、客席は八十人ほどで、楽屋からステージまでの導線も短い。
音響設備は新しくないものの、支配人は地下時代からLUMINAを知っていた。事情を説明すると、平日の昼間であれば、通常営業前の時間を使わせてくれることになった。
告知は一般には行わず、地下時代からライブへ来てくれていたファンを中心に、事務所から個別に招待する。入場料も取らない。
「復帰ライブ」という大げさな名前はつけない。
三人が再び人前に立てるかを確かめるための、小さな試運転だった。日程は三週間後に決まった。
「無理のない範囲で準備しましょう」
私は三人に告げた。
「レッスンは一日二時間まで。途中で必ず休憩を入れる。取材も撮影も受けない。このライブ以外の予定は入れない」
「はい」
三人が揃って答えた。その時は、本当に守るつもりだった。三人の心と身体を最優先にする。焦らない。以前と同じ状態へ戻そうとしない。
小さな一歩を、小さなまま受け止める。私はノートの上に並んだ条件を見つめながら、今度こそ間違えないと心に誓っていた。
だが、その誓いの裏側では、別の感情が静かに膨らみ始めていた。LUMINAが活動を止めている間にも、新しいアイドルは次々に世に出ていた。同世代の三人組が、大型フェスへの出演を発表した。別のグループのダンス動画が急速に拡散され、LUMINAが持っていた週間再生数の記録を塗り替えた。
音楽番組では新人特集が組まれ、LUMINAが立つはずだった場所を埋めるように、別の名前が紹介されていた。公式アカウントのフォロワー数は、大きく減ってはいない。
楽曲の再生数も、一定の水準を保っている。それでも、新規フォロワーの増加率は明らかに落ちていた。世間は、待ってはくれない。私はその数字を三人には見せなかった。
今は回復に集中させるべきだ。焦りを与えてはいけない。そう考えていた。
だが、数字を見続ける私の中では、一日ごとに不安が積み重なっていた。立ち止まることも戦略だと、高橋は言った。それは正しい。
しかし、いつまで止まればいいのか。三人が再び走れるようになった時には、戻る場所そのものがなくなっていたらどうする。その恐怖を、私は誰にも話さなかった。
2
レッスンは、三日後から始まった。最初の日は、ストレッチと軽い発声だけで終えた。ユイはスタジオへ入った瞬間、少し表情を強張らせた。壁一面の鏡。天井のスピーカー。床に貼られた立ち位置の目印。これまで当たり前に見ていたものが、休養を挟んだことで、別の場所のように感じられるのだろう。
「今日は踊らなくていいから」
私が言うと、ユイは鏡越しに頷いた。ハルカがキーボードの音に合わせ、ゆっくり声を出す。リナは隣で呼吸を整え、ユイの様子を見ながら同じ音を重ねた。初めは、三人の声がうまく揃わなかった。
技術が落ちたわけではない。互いを気遣いすぎて、誰も前へ出ようとしないのだ。ハルカはユイの声量に合わせ、いつもの力強さを抑えていた。リナも、ユイがついてこられるようにテンポをわずかに遅らせる。
二人が自分に合わせていることに気づいたユイは、申し訳なさそうに、さらに声を小さくしていた。
「一度、止めましょう」
私はキーボードの音を止めた。三人がこちらを見る。以前なら、声量のバランスや呼吸の位置を具体的に指摘しただろう。
だが、それでは三人が再び正解だけを探し始めてしまう。
「今、何を考えていた?」
ハルカに尋ねた。
「ユイが苦しくならないように、声を抑えようと思ってました」
「リナは?」
「テンポを少し後ろへ引こうとしました」
「ユイは?」
ユイは鏡から視線を逸らした。
「二人の邪魔をしないようにしなきゃって」
やはり、そうだった。
「誰かが誰かを守ろうとしすぎると、三人の歌ではなくなるわ」
私はできるだけ穏やかに言った。
「今のユイが出せる声を、そのまま出して。ハルカとリナも、自分の声を勝手に小さくしない。ユイが難しいと感じたら、その時に止める。先回りして、できないと決めないで」
三人は互いの顔を見た。
「もう一度、やってみよう」
ハルカが言う。二度目の声は、最初よりも自然に重なった。ユイの声量は、以前より小さい。
それでも、震えてはいなかった。十五分歌い、十分休む。水分を取り、その都度、三人自身に状態を確認してもらう。その繰り返しで、最初のレッスンは予定どおり二時間で終わった。
「今日はここまで」
私が告げると、リナが少し不満そうに時計を見た。
「まだ動けますけど」
「動けるところでやめるの」
「前は、限界を越えてからが練習だって言ってた」
「前のやり方を変えるのよ」
リナは何かを言いかけたが、やがて頷いた。レッスンを終えた三人の表情は明るかった。ユイも、額の汗を拭きながら笑っている。
「思ってたより歌えました」
「そうね」
「明日は少し踊ってもいいですか」
「明日の状態を見て決めましょう」
「はい」
その時の私は、確かに慎重だった。二日目も、三日目も、予定を守った。四日目には、一曲だけ振付をつけて通した。ユイは途中で呼吸を確かめるように胸元へ手を置いたが、曲を止める必要はなかった。
五日目には、三人で二曲を続けて歌った。六日目には、休憩を挟みながら三曲。少しずつ動ける時間が増え、ユイの表情にも以前の明るさが戻り始めた。
「順調ですね」
ハルカが言った。
「ええ」
私もそう答えた。順調。その言葉が、私を油断させた。最初に届いたのは、延期をお願いしていた雑誌編集部からの連絡だった。
表紙候補はすでに別のアーティストに決まっていた。しかし、巻頭六ページの特集であれば、翌週に撮影できるという。
「活動休止から戻る三人」という内容にはしない。過去の炎上にも触れず、ファッションと音楽を中心にした明るい企画にする。
撮影時間も二時間程度に抑える。条件としては、悪くなかった。私は一度、断ろうとした。小さなライブ以外の予定は入れないと約束している。
だが、電話を切る前に、編集者が言った。
『今回を逃すと、次にいつ枠をご用意できるか分かりません』
その言葉が胸に残った。
雑誌の読者層は、LUMINAがこれから広げたい女性層と重なる。音楽番組だけでは届かない人に、三人の存在を知ってもらえる。撮影は二時間。
歌わない。踊らない。衣装を着て、写真を撮るだけだ。身体への負担は少ない。
私はその場で返事をせず、三人に相談することにした。
「雑誌の撮影?」
話を聞いたハルカは、驚いたように目を見開いた。
「無理に受けなくていいのよ」
私は言った。
「ただ、条件はかなり配慮してもらえる。撮影は二時間以内。インタビューは短くして、炎上についての質問は一切なし。ライブの四日前だから、その後に休む時間も取れる」
自分で説明しながら、受ける理由ばかりを並べていることに気づいていた。
三人が断りやすいように話しているつもりだった。けれど、私の声からは、受けてほしいという気持ちが漏れていたのかもしれない。
「ユイはどう?」
ハルカが尋ねた。
「写真……」
ユイの表情が、わずかに曇った。
「怖い?」
「少し。でも、撮るのはプロのカメラマンさんですよね」
「もちろん。撮影データの管理についても、事前に契約書を交わす。勝手に使われることはないわ」
「それなら、やってみたいです」
「本当に?」
「はい。カメラをずっと怖がったままにはなりたくないから」
リナも頷いた。
「二時間なら、大丈夫だと思う」
「では、難しいと思った時は、途中でも止めることを条件に入れるわ」
私は撮影を受けた。予定表に、新しい色の帯が一本加わった。それだけのはずだった。
翌日、延期になっていた配信番組の担当者からも連絡が来た。通常のスタジオ収録ではなく、スターライトの事務所から短い生配信を行う形に変更してもいいという。
出演時間は二十分。コメント欄には事前に承認した内容だけを表示し、視聴者からの質問もスタッフが選別する。予定日は、ライブ前日の夜だった。
普通なら断るべき日程だった。しかし、内容は三人が椅子に座って話すだけだ。移動もなく、衣装も簡単なものでいい。小さなライブを一般には告知しない以上、ファンへ元気な姿を見せる機会が必要ではないか。
私は、また三人に相談した。
「二十分だけなら、私は大丈夫です」
ハルカが答えた。
「ファンの人たちに、ずっと心配をかけてるから」
ユイも、少し迷ってから頷いた。
「私も、ちゃんと元気だって伝えたいです」
リナは黙っていた。
「リナは?」
私が尋ねると、彼女は予定表を見た。
「青木さんは、どう思ってるんですか」
「無理に受ける必要はないと思っているわ」
そう答えた自分の声が、どこか不自然に聞こえた。
「でも、受けた方がいいとも思ってる?」
リナの視線は鋭かった。私は一瞬、言葉に詰まった。
「ファンに直接言葉を届ける機会としては、意味があると思う」
「じゃあ、やります」
「私の考えに合わせなくていいのよ」
「合わせてない。ハルカとユイがやりたいなら、私も出る」
配信も、予定に加わった。さらに二日後、ネクストウェーブの宣伝部から、復帰後の宣伝素材として三人のコメント動画を撮影したいという依頼が届いた。一人三十秒。
スタジオレッスンの前に撮れば、移動は増えない。それも予定に加えた。復帰ライブだけだったはずの予定表には、少しずつ色の違う帯が増えていった。
一つ一つを見れば、短い仕事だった。二時間の撮影。二十分の配信。一人三十秒のコメント動画。
どれも、三人を大きく疲れさせるものには見えなかった。私はすべての仕事に休憩時間を入れ、移動を減らし、スタッフにも事情を説明した。無理な予定ではない。
そう判断した。いや、そう信じたかった。活動を止めている間に下がった数字を、少しでも早く戻したかった。三人が世間から忘れられる前に、再び光の中へ戻したかった。
私はその焦りを、「三人の未来を守るため」という言葉で覆い隠した。
3
雑誌の撮影当日、ユイは朝から口数が少なかった。都内の白い撮影スタジオには、大きな背景紙と何台もの照明が用意されていた。衣装ラックには、三人分の服が色別に並べられている。
撮影スタッフは、こちらの事情を理解し、必要以上に話しかけないよう配慮してくれた。カメラマンも、穏やかな雰囲気の人だった。
「今日は急がず、ゆっくり進めましょう。嫌なことがあれば、すぐに言ってくださいね」
その言葉に、ユイは小さく頭を下げた。最初の撮影は、三人が並んで椅子に座る構図だった。シャッター音が鳴る。ユイの肩がわずかに揺れた。
もう一度、シャッター音。ユイは笑顔を作った。モニター越しに確認すると、その笑顔は一見、完璧だった。口角の角度も、視線の位置も、指先の置き方も問題ない。
けれど、私は知っていた。あれは、ユイが苦しい時ほど見せる笑顔だ。
「一度、休憩しましょう」
撮影開始から、まだ十分しか経っていなかった。カメラマンはすぐに手を止めた。ユイを控室へ連れていき、水を渡す。
「大丈夫?」
「はい」
「本当に?」
「ちょっと、音にびっくりしただけです」
「今日はここでやめてもいいのよ」
「やめたくないです」
ユイは強く首を振った。
「カメラマンさんも、スタッフさんも、みんな優しくしてくれてる。ここでやめたら、次も怖くなる気がするから」
「やめても、逃げることにはならないわ」
「でも、やりたいです」
その目には、確かな意志があった。私は、止めるべきか迷った。本人が続けたいと言っている。呼吸は乱れていない。手の震えも、少しずつ収まっている。
「分かった。ただし、次は五分だけ。少しでも苦しくなったら、私が止める」
「はい」
撮影を再開した。ユイは一枚ごとに表情を取り戻していった。ハルカが隣で冗談を言い、リナがわざとおかしなポーズをする。ユイの笑顔が、作られたものから自然なものへ変わっていく。撮影が終わった時、スタッフから拍手が起きた。
「お疲れさまでした」
カメラマンが、モニターに映った一枚を見せた。三人が自然に肩を寄せ、同じ方向を見て笑っている。
「すごくいい写真です」
ユイは画面を見つめ、目に涙を浮かべた。
「私、ちゃんと笑えてる」
「うん」
ハルカが肩を抱く。
「いつものユイだよ」
その姿を見て、私は撮影を受けた判断が正しかったと思った。怖いものから遠ざけるだけでは、前へ進めない。安全な環境を整えれば、ユイは自分の力で乗り越えられる。
その成功体験が、私の判断を鈍らせた。撮影の翌日、レッスン時間を二時間から二時間半に延ばした。三人から異論は出なかった。
「今日は本番の曲順で、一度通してみましょう」
予定している曲は五曲。MCを含めても、四十五分ほどで終わる。一曲目は、地下時代から歌い続けてきた曲。二曲目は、三人の転機となった『都会の真夏の夜』。
三曲目は、ユイが片手でも踊れる振付を考えた楽曲。そこから短いMCを挟み、最後に『真夏のミッドナイト・ブルー』を披露する。一度目の通しは、問題なく終わった。
ユイは最後まで歌い切った。ハルカの声も安定している。リナの動きには、休養前と変わらない鋭さが戻っていた。
「もう一度、いけます」
リナが言った。時計を見る。予定の終了時刻まで、あと三十分あった。本来なら、ストレッチをして終える時間だった。
だが、一度目の通しでは、曲間の移動にわずかな遅れがあった。MC後の立ち位置も、三人の間隔が少し狭い。小さな会場だからこそ、動きの乱れは目立つ。
「では、曲間だけ確認しましょう」
私は言った。だが、曲間を確認すると、今度は一曲目の終わりから通した方が効率がいいと思った。一曲目から三曲目までを続けた。三曲目を終えた時、ユイが膝に手をついた。
「大丈夫?」
ハルカが近づく。
「大丈夫。ちょっと疲れただけ」
私は音源を止めた。
「今日はここまで」
「最後の曲も確認しなくていいですか」
ユイが尋ねた。
「明日にしましょう」
そう答えながら、私は鏡に映る三人を見た。
本番まで、あと三日。明日はコメント動画の撮影があり、レッスンに使える時間は短い。
本番前日は会場での音響確認に加え、夜には生配信が入っている。全曲を通せるのは、実質、今日が最後だった。
「ただ、最後の曲の入りだけ、一度確認してもいい?」
口にした瞬間、ハルカが私を見た。
「青木さん、今日はここまでじゃないんですか」
「入りだけよ。二分もかからない」
「ユイ、疲れてます」
「分かっているわ。だから、踊らなくていい。立ち位置と音のきっかけだけ確認しましょう」
ハルカは納得していない様子だった。
「私は大丈夫です」
ユイが言った。その言葉に、私は救われたような気がした。
「では、入りだけ確認しましょう」
音源を流す。イントロが鳴り、三人が立ち位置へ移動する。ユイの動きが、ほんの少し遅れた。
「もう一度」
私は音源を戻した。二度目。今度はハルカがユイに合わせたため、全体が遅れた。
「ハルカ、自分のタイミングで動いて。ユイ、半拍早く」
「はい」
三度目。位置は揃った。そこで終えればよかった。だが、サビへ入る直前の振付まで確認したくなった。
「このまま、サビ前まで」
曲が続く。三人が踊り始める。ユイの左手が、わずかに震えていた。私は鏡越しに気づいていた。
それでも、あと一分もかからないと思った。ここまで確認すれば、本番への不安が減る。最後までできたという感覚が、ユイの自信になる。そう考えた。
サビの直前、音が大きく跳ね上がる。その瞬間、ユイの動きが止まった。両目が見開かれ、胸元を押さえる。
「ユイ?」
ハルカが振り返る。ユイは息を吸おうとした。
だが、喉が空気を拒むように、短い音だけが漏れた。
「音を止めて!」
ハルカの声が響いた。私はすぐに再生を止めた。スタジオに、突然の静寂が落ちる。ユイはその場にしゃがみ込んだ。
「ユイ、ゆっくり吐いて」
私は駆け寄ろうとした。しかし、ハルカが私とユイの間に入った。
「来ないでください」
その声に、足が止まった。ハルカはユイの前に膝をつき、両手を握った。
「ユイ、私を見て。大丈夫。ここはスタジオだよ。カメラもないし、知らない人もいない」
リナが音響機器の電源を落とし、天井の照明を少し暗くした。
「呼吸を戻そう。吸うことより、吐くことだけ考えて」
二人は落ち着いていた。以前のように、どうしていいか分からず叫ぶことはなかった。ユイの状態を見ながら、必要な言葉だけをかけている。私は数歩離れた場所に立ち尽くした。
近づく資格がないような気がした。
数分後、ユイの呼吸は少しずつ整った。過呼吸の発作に至る前に、自分の呼吸を取り戻すことができた。リナが壁際から水を持ってくる。ユイは震える手でペットボトルを受け取り、少しずつ水を飲んだ。
「ごめんなさい」
か細い声で呟く。
「謝らなくていい」
ハルカが言った。
「でも、もう少しだったのに」
「もう少しなんて、どうでもいいよ」
ユイの目から涙がこぼれた。
「できると思ったの。雑誌の撮影もできたから、もう大丈夫だって。なのに、また……」
「戻ったわけじゃない」
リナがユイの隣に座った。
「怖くなることがあるだけ。前より早く止められたし、自分で呼吸を戻せた。何も無駄になってない」
私は三人へ近づこうとした。
「ユイ、ごめんなさい。私が――」
「青木さん」
ハルカが立ち上がった。その目に浮かんでいたのは、心配ではなかった。怒りだった。
「さっき、終わりって言いましたよね」
「言ったわ」
「今日はここまでって、青木さんが言いましたよね」
「……ええ」
「なのに、どうして続けたんですか」
「本番までに確認できる時間が、今日しかなかったから」
答えた瞬間、自分が何を言っているのか分かった。
本番。予定。確認。また私は、目の前の三人よりも、予定表の空白を見ていた。
「ユイが疲れてるって、分かってましたよね」
ハルカの声が震えた。
「分かっていたわ」
「手が震えてたのも見えてましたよね」
「見えていた」
「じゃあ、どうして止めなかったんですか!」
ハルカの声が、鏡張りのスタジオに反響した。ユイが驚いたように顔を上げる。
「ハルカ、もういいよ」
「よくない」
ハルカはユイを見ず、私をまっすぐに見ていた。
「青木さん、私たちを守るって言いましたよね。無理だと思ったら、本番でも止めるって。誰か一人でも難しいと言ったら、待つって」
「言ったわ」
「全部、嘘だったんですか」
「嘘ではない」
「だったら、今のは何ですか」
言葉が見つからなかった。私は善意で続けた。
本番で失敗しないため。ユイに自信を持たせるため。三人が再びファンの前で笑えるようにするため。
だが、どれだけ理由を並べても、私はユイの震えを見ながら音を止めなかった。
「一分だけなら大丈夫だと思った」
口にすると、それはあまりにも弱い言い訳だった。
「その一分を決めるのは、青木さんなんですか」
ハルカの目から涙が落ちた。
「青木さんが大丈夫だと思ったら、ユイが怖がってても続けるんですか」
「違う」
「同じです!」
ハルカは拳を強く握った。
「雑誌の撮影も、配信も、コメント動画も。最初はライブだけだったのに、少しずつ増えました。全部、私たちに聞いてくれた。でも、青木さんが受けてほしいの、分かってた」
胸を突かれた。
「私は、断ってもいいと言ったわ」
「言葉では」
ハルカは涙を拭わなかった。
「でも、青木さんが予定の意味を説明する時、受けた方がいい理由ばかり話してました。今を逃したら次がない。ファンに元気な姿を見せられる。女性の人にも知ってもらえる。私たちが断ったら、青木さんを困らせるように感じました」
「困るとは言っていない」
「言われなくても分かります」
ハルカの声が低くなった。
「青木さん、私たちに選ばせているように見せて、自分が欲しい答えを言わせてたんじゃないですか」
その言葉は、どんな批判よりも深く刺さった。私は四人で決めているつもりだった。仕事の内容を説明し、三人の意思を確認した。以前のように、何も知らせず決定したわけではない。
だが、三人が私の期待を読み取ることを、私は知っていた。私に心配をかけたくない。私の努力を無駄にしたくない。三人は、そう考える。
その気持ちを理解しながら、私は中立を装っていた。
「ハルカ、青木さんを責めないで」
ユイが立ち上がろうとした。足元がふらつき、リナが腕を支える。
「私ができるって言ったから」
「ユイは、できるって言うよ」
ハルカは振り返った。
「ずっとそうだったでしょ。怖くても、苦しくても、迷惑をかけたくないから大丈夫って言う。だから、私たちが見ないといけないんじゃないの?」
ユイは唇を噛んだ。
「青木さんも、それを分かってたはずです」
ハルカが再び私を見る。
「分かってたのに、どうして」
その先を言葉にできず、ハルカは顔を覆った。私は何も答えられなかった。守ると約束した。一緒に迷うと決めた。それなのに、少し順調に進み始めただけで、私は再び自分の計算を信じた。
一つ一つは短い仕事だから。本人たちも同意したから。休憩時間を確保したから。安全策を用意したから。
私は、間違っていない理由を積み上げた。その下で、三人の本当の疲労が見えなくなっていた。
「ごめんなさい」
ようやく声を絞り出した。
「今は聞きたくないです」
ハルカの言葉に、息が止まった。
「謝ったら、またすぐ次の予定を考えるんでしょう」
「ハルカ」
「今日は、三人で帰ります」
私は止められなかった。ハルカとリナが、ユイの荷物をまとめる。ユイは何度も私を振り返った。何か言いたそうにしていたが、最後には小さく頭を下げ、二人に支えられながらスタジオを出ていった。
ドアが閉まる。私は一人、鏡張りの部屋に残された。床には、三人の立ち位置を示す色の違うテープが貼られている。中央にハルカ。
右にユイ。左にリナ。鏡の中には、誰もいないステージを見つめる私だけがいた。
4
スタジオを出たのは、外が暗くなってからだった。三人へ連絡することはできなかった。何を書いても、言い訳になる気がした。謝罪の言葉を並べても、自分の罪悪感を軽くするために三人を利用することになる。
事務所へ戻ると、大類がデスクで電話をしていた。私の顔を見るなり、相手に断りを入れて通話を切る。
「どうした。死人みたいな顔して」
「ライブを中止します」
「は?」
「生配信も、コメント動画も中止。すべて白紙に戻してください」
「待て待て。何があった」
「ユイの状態が悪化しました」
正確には、悪化させた。私が。大類は椅子から立ち上がった。
「また倒れたのか?」
「倒れてはいません。呼吸が乱れましたが、ハルカとリナが落ち着かせました」
「病院は?」
「現時点では必要ないと思います。ただ、明日、医師に相談します」
大類は私の表情を見つめ、何かを察したようだった。
「お前、何をした」
私はデスクの上に置かれた予定表を見た。小さなライブだけだった紙に、色とりどりの予定が並んでいる。雑誌撮影。コメント動画。
生配信。追加レッスン。音響確認。どの予定にも、休憩時間を示す空白を入れていた。
完璧に配慮された予定表に見える。だが、そこには三人の恐怖も、緊張も、私に断れない気持ちも書かれていない。
「やめると言った後も、レッスンを続けました」
私は答えた。
「ユイが疲れているのは分かっていました。手が震えているのも見えていた。それでも、本番前に確認できるのは今日しかないと思って、音を止めなかった」
大類はしばらく黙っていた。
「それで、ハルカに怒られたのか」
「はい」
「当然だな」
あまりにも迷いのない言葉だった。私は顔を上げた。
「少しは慰めようと思わないんですか」
「慰めて何になる。お前が悪いんだろ」
大類は再び椅子に座り、予定表を引き寄せた。
「俺は細かいことは分からん。でも、これだけは分かる。お前、一度休ませるって決めたのに、もうこんなに予定を入れてるじゃないか」
「すべて三人に相談しました」
「お前に聞かれたら、あいつらはやるって言うだろ」
ハルカと同じことを言われた。
「それくらい、分かってただろ」
「分かっていたつもりでした」
「つもりじゃ駄目だったんだな」
私は椅子に座った。身体から、すべての力が抜けていく。
「高橋さんへ連絡します」
「今からか?」
「中止に伴う調整が必要です」
「俺から話そうか」
「私の判断で増やした予定です。私が説明します」
高橋へ電話をかける。数回の呼び出し音の後、低い声が応答した。
『高橋だ』
「青木です。夜分に申し訳ございません」
『何かあったか』
彼は、私の声を聞いただけで異変を察したようだった。
「予定していた小規模ライブを中止します。生配信とコメント動画も、すべて取りやめたいと思います」
『理由は』
「本日のリハーサル中、ユイの呼吸が乱れました」
『過呼吸か』
「発作に至る前に落ち着きました。ですが、活動を再開できる状態ではないと判断しました」
電話の向こうで、紙を置く音がした。
『本日のリハーサルは、二時間の予定だったはずだ』
高橋は予定を把握していた。
「二時間半に延長しました」
『誰の判断で』
「私です」
『なぜ延ばした』
「本番に向け、曲順どおりに確認する必要があると考えました」
『延期していた雑誌撮影を受けたとも聞いている』
「はい」
『生配信も、君が加えたのか』
「三人と話し合って決めました」
『その答えに、自信があるか』
私は唇を噛んだ。
「ありません」
『何が起きた』
高橋の声に怒りはなかった。だからこそ、すべてを隠さず話さなければならないと思った。小さなライブだけで再開するはずだったこと。雑誌撮影の機会を失いたくなかったこと。
ファンに元気な姿を見せる必要があると考えたこと。一つ一つの負担は小さいと判断し、予定を追加したこと。三人に相談しているつもりだったこと。
ユイの手の震えを見ながら、あと一分だけなら大丈夫だと思い、音を止めなかったこと。ハルカに、選ばせているように見せて自分の望む答えを言わせていたのではないかと指摘されたこと。
話し終えるまで、高橋は一度も口を挟まなかった。
『青木君』
「はい」
『君は、何を恐れていた』
質問の意味は分かっていた。それでも、すぐには答えられなかった。
「ユイが、再びステージに立てなくなることです」
『それだけか』
「LUMINAが忘れられることです」
ようやく口にした。
「活動を止めている間に、別のグループが次々に出てきました。再生数の増加も鈍っています。雑誌の表紙は別のアーティストに決まりました。音楽番組の新人特集にも、LUMINAの名前はありませんでした」
『だから、急いで戻そうとした』
「はい」
『三人のために?』
「そう思っていました」
『今は』
私は目の前の予定表を見つめた。
「自分が怖かっただけなのかもしれません」
積み上げてきたものが、崩れるのが怖かった。地下の小さなライブハウスから、ようやくZeppまでたどり着いた。何度も頭を下げ、何度も数字を示し、契約を勝ち取り、巨大な資本と交渉した。
そのすべてが失われれば、私は何者でもなくなる。三人を守るためと言いながら、私はLUMINAの成功によって、自分自身の価値を証明しようとしていたのではないか。
「三人が休んでいる間、何もできない自分が怖かったんです」
声が震えた。
「動いていないと、追い越される。機会を逃す。誰かに居場所を奪われる。そう思っていました」
『だから、彼女たちの回復まで、自分の予定に合わせようとした』
「……はい」
認めた瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。高橋は長く息を吐いた。
『私は君に、止まることも戦略だと言った』
「はい」
『君は理解したような顔をして、何も理解していなかった』
「そのとおりです」
『厳しい言い方をするが、今回の件について、君を擁護するつもりはない』
「分かっています」
『ユイが続けると言っても、止めるのが君の役割だった。ハルカやリナが仕事を受けると言っても、その言葉の裏にあるものを確認するべきだった。君は彼女たちの性格を、誰よりも知っていたはずだ』
「はい」
『知らなかったのではない。知っていて、見ないことを選んだ』
その言葉から逃げることはできなかった。私はユイの手の震えを見ていた。ハルカの不満そうな表情にも気づいていた。リナが「青木さんはどう思っているのか」と尋ねた時、自分の本心を隠した。
すべて、見えていた。見えていて、予定を優先した。
「申し訳ありません」
『私に謝っても意味はない』
「はい」
『中止の調整はこちらで引き受ける。生配信は体調上の理由で延期。コメント動画は企画自体を一度凍結する。ライブハウスにも、こちらから補償について連絡を入れる』
「ありがとうございます」
『礼もいらない。今の君がするべきことは一つだ』
三人に謝ること。
そう言われると思った。だが、高橋の言葉は違った。
『今夜は、連絡するな』
「しかし」
『謝罪は、相手が聞く準備をする前に押しつけるものではない。特に、君は言葉がうまい。契約も、企画も、数字も、相手が断りにくい形で説明できる。今、三人の前へ行けば、君は謝りながら、許す理由まで用意してしまう』
返す言葉がなかった。
『まず、自分が何を間違えたのかを整理しろ。二度と繰り返さないために、何を変えるのか考えろ。反省しています、もうしませんでは、誰も安心できない』
「分かりました」
『それから、もう一つ』
「はい」
『君は、LUMINAにとって必要な人間だ』
予想外の言葉に、顔を上げた。
『だが、必要であることと、絶対に正しいことは違う。君がその二つを混同すれば、周囲は誰も君を止められなくなる』
「……はい」
『ハルカが止めてくれてよかったな』
胸の奥に、その言葉が沈んだ。
ハルカは、私を拒絶したのではない。私が間違った方向へ進んでいたから、止めた。怖かったはずだ。地下時代から、三人は私の判断に従ってきた。契約も、演出も、宣伝も、私に任せてきた。
その私に向かって、来ないでくださいと告げた。あれは裏切りではない。信頼を失いかけたからこそ、最後に残った力で示した抵抗だった。
「本当に、そう思います」
『明日の午後、必要なら私も同席する』
「いえ」
私は首を振った。高橋には見えていないと分かっていても。
「まずは、私一人で向き合います。高橋さんがいれば、三人が本音を言いにくくなるかもしれません」
『分かった。必要になったら呼べ』
「ありがとうございます」
通話が終わった。私は予定表を手に取った。色分けされた帯を、一つずつ見つめる。三人を輝かせるために作った予定。
その一つ一つが、今は私の焦りの形に見えた。私は新しい紙を取り出した。最初に、大きく一行を書いた。本人の同意だけで、体調上の安全が保証されたと判断しない。次に書く。
仕事を提案する際は、受ける利点だけでなく、断った場合にも不利益がないことを明確に伝える。さらに続ける。マネージャー以外の第三者が、メンバーの状態を確認する。
予定を一つ増やす場合は、元の予定を一つ減らす。レッスンの終了時刻を延長しない。手の震え、呼吸の変化、返答の遅れが見られた場合は、その場で中止する。
三人のうち一人でも反対した場合は、理由を求めず見送る。そして最後に書いた。私自身が焦っている時は、決定しない。文字を書き終えた時、夜は深くなっていた。
私はその紙を何度も読み返した。これは謝罪文ではない。失った信頼を取り戻すための、最低限の出発点だった。
5
翌日の午後、私は三人のアパートを訪れた。玄関の前に立ち、呼び鈴を押すまでに時間がかかった。ドアの向こうに、人の気配がある。
それでも、すぐには開かなかった。もう一度押すことはしなかった。帰るべきかと考え始めた頃、ドアがわずかに開いた。リナが顔を覗かせる。
「何ですか」
その声には、これまでにない距離があった。
「話をしたい。でも、今は会いたくないなら帰るわ」
リナは私を見つめた。以前の私なら、必要な話だからと中へ入っただろう。今は、返事を待った。
やがてリナがドアを開けた。
「入って」
部屋には、ハルカとユイがいた。ユイは布団に座り、膝へ毛布をかけている。ハルカはその隣にいたが、私とは目を合わせなかった。私は入口に近い場所へ正座した。いつものようにテーブルの中央へ座ることはできなかった。
「体調は」
尋ねかけて、口を閉じた。今は、私が質問する時間ではない。
「昨日のことを謝りに来ました」
ハルカの肩がわずかに動いた。
「レッスンを止めると言いながら続けたこと。ユイの手の震えに気づきながら、あと少しなら大丈夫だと判断したこと。ライブ以外の予定を少しずつ増やしたこと。三人に相談する形を取りながら、私が望む答えを言わせるような説明をしたこと」
私は一つずつ、言葉にした。
「すべて、私の間違いです。本当に申し訳ありませんでした」
深く頭を下げた。誰も何も言わなかった。畳の目が、近くに見える。以前なら、この沈黙に耐えられなかっただろう。
顔を上げ、事情を説明し、理解を求めたはずだ。だが、私は頭を下げたまま待った。
「青木さん」
ユイの声がした。顔を上げる。
「私も、悪かったです。できないのに、できるって言ったから」
「ユイは悪くない」
「でも」
「できると言ったあなたを、止めるのが私の仕事だった」
「私、雑誌の撮影ができたから、本当にもう大丈夫だと思ったんです」
「それも間違いではないわ。あの日、撮影できたことは本当だから。でも、一度できたから、次もできるとは限らない。私は、それを忘れた」
ユイは毛布を強く握った。
「昨日、帰ってから、またステージが怖くなりました」
胸が締めつけられた。
「音が大きくなった時、あの写真を見た時と同じ感じがしたんです。みんなが私を見ているような気がして。ライブハウスに行ったら、本当にそうなるんじゃないかって」
「ライブは中止にしたわ」
ユイが顔を上げた。
「配信も、コメント動画も、全部止めた。再開の日程も決めない」
「また、全部止まるんですか」
「そうよ」
「私のせいで」
「私の判断のせいで」
言い切った。
「ユイのせいにはしない。今回、活動を止める原因を作ったのは私よ」
「でも、青木さんだけが悪いわけじゃ」
「悪いの」
ハルカが初めて口を開いた。静かな声だった。
「今回は、青木さんが悪いです」
「ハルカ」
ユイが心配そうに見る。
「ユイ、かばわなくていい」
ハルカは私を見た。目は赤く腫れていた。昨日、どれほど泣いたのだろう。
「私、青木さんなら分かってくれると思ってました」
「ごめんなさい」
「私たちが大丈夫って言っても、本当は大丈夫じゃない時があるって。一番分かってくれてると思ってた」
「ええ」
「だから、昨日はすごく怖かった」
ハルカの声が震え始める。
「ユイの手が震えてるのに、青木さんが音を止めなかった時、誰を信じたらいいのか分からなくなりました。青木さんが続けるなら、私が止めなきゃって。でも、青木さんに逆らったら、LUMINAが終わるかもしれないとも思った」
胸の奥が激しく痛んだ。私は三人に、そんな恐怖を抱かせていた。
「それでも止めてくれて、ありがとう」
ハルカは驚いたように私を見た。
「高橋さんにも言われた。あなたが止めてくれてよかったと」
「高橋さんに話したんですか」
「全部話したわ。私の判断が間違っていたことも」
大手の前で、自分の失敗を認める。以前の私なら、何より避けたことだった。弱みを見せれば、主導権を失う。能力がないと判断されれば、三人の担当から外されるかもしれない。
その恐怖は今もある。それでも、失敗を隠して守れるものなどなかった。
「青木さん、外されるんですか」
ユイが不安そうに尋ねた。
「今のところ、その話は出ていないわ」
「今のところ?」
「私が今回のようなことを繰り返せば、外されるべきだと思う」
「嫌です」
ユイがすぐに言った。
「青木さんじゃない人なんて、嫌です」
「ユイ」
「怒ってるけど、嫌いになったわけじゃないです」
その言葉に、目の奥が熱くなった。だが、許されたと受け取ってはいけない。私は鞄から、昨夜作った紙を取り出した。
「同じことを繰り返さないために、今後の決め方を考えてきました」
テーブルの上に置く。三人は、書かれた項目へ目を通した。ハルカが最初の一行を読み上げる。
「本人がやると言っても、それだけで安全だと判断しない」
「医師やカウンセラー、トレーナーなど、私以外の人にも状態を確認してもらう。私一人の判断で進めない」
リナが次の項目を見る。
「予定を一つ増やす時は、元の予定を一つ減らす」
「短い仕事でも、精神的な負担は時間だけでは測れない。予定を足すだけにしない」
「レッスンの終了時刻を延長しない」
ハルカが言った。
「昨日のようなことは、二度としない。予定した時間が来たら、途中でも終わる」
「青木さんが焦っている時は、決めない」
リナが最後の一行を読んだ。
「どうやって、焦ってるって判断するんですか」
私は少し迷い、答えた。
「自分だけで決めたくなった時。今を逃したら次はないと考え始めた時。三人が断る理由より、受ける理由ばかり探している時」
リナは紙を見つめたまま、さらに尋ねた。
「その時は、誰が止めるんですか」
「三人に止めてほしい」
「また、ハルカが?」
「私たちが青木さんを止めるの、すごく勇気がいるんです」
ユイが言った。
「分かっている。だから、私以外の人間も入れる」
「高橋さん?」
「高橋さんだけではなく、現場のトレーナーや医師にも相談する。仕事を受けるかどうかを決める時には、私の提案に反対できる立場の人を必ず一人入れる」
ハルカは長い間、紙を見つめていた。
「これを守れば、もう同じことは起きませんか」
「絶対とは言えない」
私は正直に答えた。
「私がまた判断を間違えることはあると思う」
三人の表情が揺れた。
「でも、間違えた時に誰かが止められる仕組みを作る。間違いを隠さない。正しいふりをして押し通さない。それは約束できる」
完璧にはできない。以前なら、絶対に口にできなかった言葉だった。失敗しないことを約束する方が、三人を安心させられると思っていた。
だが、私は失敗する。高橋も、大類も、三人も失敗する。必要なのは、誰も失敗しない世界ではない。一人の失敗によって、すべてが壊れない関係だ。
ハルカが紙から顔を上げた。
「すぐには、前みたいに信じられないかもしれません」
「分かっているわ」
「青木さんが大丈夫って言っても、本当かなって思うかもしれない」
「それでいい」
「仕事の話をされると、また断れないかもしれない」
「しばらくは、私から仕事の提案をしない」
ハルカは唇を結び、何度か頷いた。
「でも、戻ってきてほしいです」
その声は小さかった。
「前みたいにじゃなくていい。何でも一人で決める青木さんじゃなくていいから」
私の目から、涙が落ちた。三人の前で泣くのは初めてだった。隠そうとしたが、間に合わなかった。ユイが目を丸くする。
「青木さん、泣いてる」
「見ないで」
「初めて見ました」
「見世物ではありません」
涙を拭おうとすると、ユイが毛布から手を伸ばし、テーブルの上のティッシュ箱を差し出した。
「どうぞ」
「ありがとう」
ハルカも泣いていた。リナは泣かなかった。
ただ、私をまっすぐ見つめていた。
「青木さん」
「何?」
「次にまた、私たちの気持ちを無視したら、本当に辞めます」
ハルカとユイが驚いてリナを見る。その言葉は、私を脅すためのものではなかった。彼女自身が、自分を守るために決めた境界線だった。私は逃げずに受け止めた。
「分かった」
「契約とか、違約金とか関係なく」
「その時は、私が責任を持つ」
リナはしばらく私を見つめ、やがて小さく頷いた。
「なら、もう一度だけ信じます」
もう一度だけ。その言葉は、以前の無条件の信頼よりも、ずっと重かった。私は紙を三人の前へ置いたままにした。
「この内容は、三人で直して。私に都合がいい部分があれば消していい。足りないものがあれば加えてほしい」
「青木さんは持って帰らないんですか」
「これは、私が守るためだけの規則ではないから。四人で守るためのものよ」
窓の外から、夕方の光が差し込んでいた。畳の上に、四人の影が伸びている。私たちの間には、まだ距離があった。昨日までのように、何の迷いもなく笑い合うことはできない。
傷ついた信頼は、謝っただけでは戻らない。それでも、三人は私を部屋から追い出さなかった。同じテーブルを囲み、私の言葉を聞いてくれた。その事実だけで、今は十分だった。
しばらくして、ユイが紙の余白にペンを走らせた。
「何を書いたの?」
私が尋ねる。ユイは、少し照れたように紙を見せた。
『仕事の話をする前に、全員でご飯を食べる』
「これは必要?」
「必要です」
ユイは真剣だった。
「お腹が空いてる時って、悪いことばっかり考えるから」
「確かに」
ハルカが頷く。リナもペンを取り、別の一行を書き加えた。
『誰かが「怖い」と言った時、理由を説明させない』
私はその文字を見つめた。怖さに、合理的な理由を求めない。数字や根拠がなくても、怖いという感情をそのまま受け止める。それは、私に最も足りなかったことかもしれない。
ハルカもペンを取った。
『青木さんも、無理な時は無理と言う』
「私は大丈夫よ」
反射的に答え、三人の視線を受けた。
「……今のは撤回します」
ユイが、ほんの少し笑った。その笑顔に、以前の明るさがわずかに戻っていた。大きな歓声も、眩しい照明もない六畳間で、私たちは新しい約束を作った。
それは契約書のように法的な力を持つものではない。違反した時の罰則もない。
けれど、私がこれまで交わしてきたどんな書面よりも、重く感じられた。私は、三人を守る完璧な盾ではなかった。決して間違えない指揮官でもない。
焦れば視野を失い、自分の恐怖を正しさだと思い込み、守りたい人を傷つける。その事実を、もう隠すことはできない。けれど、完璧でないからこそ、誰かの声を聞く必要がある。
止めてもらう必要がある。一人で答えを出さず、何度でも話し合う必要がある。失敗によって崩れたものを、失敗を認めることで少しずつ積み直していく。
それが今の私にできる、唯一のことだった。
「今日は、仕事の話はここまでにしましょう」
私が言うと、ユイがお腹を押さえた。
「じゃあ、ご飯にしませんか」
「何かあるの?」
「冷蔵庫に、昨日のうどんが残ってます」
リナが立ち上がる。
「またうどん?」
ハルカが言う。
「文句があるなら、自分で作って」
「私、ネギ切るよ」
「それしかできないじゃん」
三人のやり取りに、小さな笑いが生まれた。私はその声を聞きながら、テーブルの上の紙をもう一度見た。余白には、四人の異なる筆跡が並んでいる。
真っ直ぐで力強いハルカの文字。丸みのあるユイの文字。細く鋭いリナの文字。そして、隙のない形に整えようとする私の文字。
四つの筆跡は、決して美しく揃ってはいなかった。それでも、一人で作った完璧な予定表より、ずっと確かな未来を示しているように見えた。失った信頼は、まだ戻っていない。
再びステージへ立つ日も、決まっていない。けれど私たちは、立ち止まった場所で、互いの声を聞き直すことを始めていた。今度こそ、歩く速さを誰か一人に決めさせないために。
四人のうち誰かが苦しい時には、その一人を置いていかないために。私は、湯気の立ち始めた鍋のそばへ移動した。ユイが四人分の器を並べる。ハルカが不揃いなネギを運んでくる。
リナが鍋をかき混ぜる。私は何か手伝おうとして、三人から同時に
「座っていてください」と言われた。
以前なら、自分で動いた方が早いと答えていただろう。今日は、素直に座った。完璧でなくても、夜は続いていく。失敗しても、そこで終わりではない。
窓の外では、夏の終わりを告げるような風が、古いアパートのカーテンを静かに揺らしていた。




