第31章 三千の声が開いた扉
1
午前六時、東京セントラルホールの搬入口は、すでに一日の熱を抱え始めていた。黒いケースを積んだ台車が床を鳴らし、舞台スタッフが短い声を交わしながら行き来している。開け放たれた扉から朝の冷たい空気が入り込み、機材の金属と淹れたてのコーヒーの匂いが混ざっていた。
私たちがハイエースを降りると、舞台監督が腕時計を見て頷いた。
「おはようございます。定刻です」
「おはようございます。本日はよろしくお願いします」
私が頭を下げると、後ろに並んだ三人も声を揃えた。
「よろしくお願いします!」
昨日まで何度も通った通路なのに、空気が違っていた。扉の一枚、床に貼られた矢印、壁際に並ぶ消火器まで、すべてが今日のための位置に見える。昨日は準備する場所だった。今日は三千十二人を迎える場所になる。
楽屋へ入ると、衣装ラックには三人分の衣装が順番どおりに並び、鏡の前には名前の入った水筒と軽食が置かれていた。壁には最新版の進行表。開演は十八時。終演予定は二十時二十分。
私はバッグを置く前に、進行表の版数を確認した。
「第十四版。昨日の最終稿と同じ」
「青木さん、会場に入って最初に見るの、そこなんですね」
ユイが言う。
「違っていたら困るでしょう」
「今日は一回だけ確認するって、昨日言ってませんでした?」
「一回目よ」
「あと何回あります?」
「必要なだけ」
リナが衣装バッグをラックの横へ置く。
「高橋さんに怒られますよ」
「どうして高橋さんが出てくるの」
「昨日、二人で最後列に座って何か話してたから」
「必要な確認をしただけ」
「七分間?」
見られていたらしい。ハルカが笑いながら、三人分の朝食をテーブルへ広げた。
「まず食べましょう。青木さんも」
「私はあとで」
「四人で食べるって決めました」
「いつ?」
「今」
三対一では勝てなかった。おにぎりと味噌汁、果物、卵。消化に負担がかからず、塩分と糖分を取れるものを選んである。ユイは眠そうな目のまま味噌汁を飲み、リナは食べながら今日の曲順を頭の中で追っていた。ハルカだけが、時々箸を止めて三人の顔を見ている。
「どうしたの」
私が尋ねる。
「いるなと思って」
「朝から全員いるか確認したでしょう」
「そういうことじゃなくて」
ハルカはおにぎりを持ったまま笑った。
「七週間ずっと、この日のことを考えてたから。本当に朝が来て、四人でここにいるのが、まだ不思議です」
ユイが半分閉じていた目を開く。
「私も。夢だったらどうしよう」
「夢なら、もう少し眠らせてほしい」
リナの言葉に笑いが起きた。六時四十分、私は三人を楽屋へ残し、会場内の最終確認へ向かった。ロビーでは物販スタッフが商品を並べている。ツアータオル、Tシャツ、ペンライト、三人のアクリルスタンド、新曲の歌詞を印刷したポストカード。LUMINA HOMEの案内カウンターには、入会用の二次元コードを掲示したパネルが置かれていた。
「在庫数、昨日の報告と一致しています」
物販責任者がタブレットを見せる。
「購入制限は?」
「ペンライト二本、アクリルスタンドは各種二点まで。売り切れ情報は公式アカウントと場内モニターへ同時反映します」
「列が歩道へ出たら、会館前の広場で折り返してください。近隣店舗の入口を塞がないよう、警備員を二名追加しています」
「了解です」
客席へ入る。三千十二の椅子は、まだ空だった。左右のスクリーンにはLUMINAのロゴが表示され、ステージ中央には青と白の照明が薄く落ちている。音響スタッフが低い周波数から順番に音を出し、会場の響きを確認していた。
舞台袖では、進行担当がキューシートを読み合わせている。
「アンコール明け、三人が定位置へ入ったら、照明は暖色の全体明かり。MCへ移行」
聞き慣れた確認が続く。私は映像卓へ回った。
「本編映像、曲間映像、歌詞字幕、すべて昨日のデータと同じですね」
「はい。チェックサムも一致しています」
映像責任者が答えた。卓の端に、見慣れない小型の再生機が一台置かれていた。
「これは?」
「予備系統です。高橋プロデューサーから、万一に備えて追加するよう指示がありました」
「昨日はありませんでした」
「今朝、持ち込まれました。通常系統に障害が起きた場合だけ使います」
私は配線を確認した。主系統とは独立し、スクリーンへ直接映像を送れる構成になっている。電源も別だった。
「内容は?」
「カラーバーとロゴの予備データです」
「再生確認を」
担当者が操作すると、スクリーンにカラーバーが映り、続いてLUMINAのロゴが出た。異常はない。
「使用する時は、必ず私と舞台監督へ連絡してください」
「承知しました」
客席後方へ戻る途中、高橋が扉から入ってきた。黒いジャケットに、いつもより細いネクタイを締めている。顔には出していないが、歩く速度が少しだけ速かった。
「おはよう」
「おはようございます。予備映像系統を追加したんですね」
「うん。三千人の公演で、スクリーンが二枚とも落ちたら困るから」
「昨日までに言ってください」
「間に合ったんだからいいだろ」
「よくありません。新しい機材は新しい事故要因です」
「再生確認は?」
「しました」
「なら大丈夫」
「次からは先に報告してください」
「分かった」
返事が妙に素直だった。
「何か隠していますか」
高橋の足が一瞬止まる。
「どうして?」
「素直だから」
「僕が素直だと疑われるのか」
「普段の行いです」
高橋は笑い、ステージへ視線を向けた。
「隠してないよ。少なくとも、今日の公演を危険にすることは何も」
「その言い方が気になります」
「青木さん」
「はい」
「今日は、三人を見ていて」
「言われなくても見ています」
「そうじゃなくて、仕事の対象としてだけじゃなく」
私は何も答えなかった。高橋はそれ以上言わず、音響卓へ挨拶に向かった。
午前七時三十分、三人がステージへ入った。客席の照明は半分だけ点いている。空席ばかりのホールは、音を吸い込むものがないため、昨日より響きが硬かった。
「おはようございます!」
ユイが誰もいない客席へ声を投げる。返事はない。
「今は寂しい」
「あと十時間で埋まる」
リナが中央の赤い印へ立つ。
「十時間後には、静かにしてほしくても声が聞こえるよ」
ハルカがマイクを握った。サウンドチェックが始まる。
2
リハーサルは一曲目から順番には行わなかった。まず、最も機材の切り替えが多い曲。次に、移動距離が長い曲。そのあと、新曲『同じ朝を迎えるまで』。三人の身体が疲れていない状態と、疲労が溜まった状態の両方で確認する。
ハルカの第一声がホールを渡る。客席が空のため、声は壁に当たって少し遅れて戻ってくる。ライブハウスでは感じなかった時間差に、ハルカが一度イヤーモニターを押さえた。
「返りが気になる?」
音響担当がトークバックで尋ねる。
「少し。でも、イヤーモニターの音は大丈夫です」
「客席が入れば吸われる。今の響きへ合わせすぎないで」
「分かりました」
リナは舞台の端から端まで移動し、床の感触を確かめた。昨日と同じテープ、同じ靴。それでも、本番当日の床は違うと彼女は言う。
「湿度が少し高い」
「滑る?」
ERI先生が客席中央から尋ねた。
「滑るほどじゃないです。でも、昨日より止まりにくい」
「ターンを一度」
リナが回る。軸は崩れない。
「そのままでいい。止めようとして力を入れないで」
「はい」
ERI先生は客席の複数の位置へ移動しながら、三人の形を確認した。最前列、中央、二階席、最後列。どこから見ても、三人が離れた理由と、集まる意味が伝わるかを見ている。
新曲のイントロが流れる。ハルカが中央に立つ。ユイが背を向けて歩く。リナは遠い位置で待つ。
空席ばかりのホールに、靴音と呼吸が響いた。サビで三人が中央へ集まり、互いの背中へ手を置く。その小さな形が、大きな舞台の中心で浮かび上がった。
「止めて」
ERI先生の声が飛ぶ。三人の表情が硬くなる。
「リナ、最後の三歩」
「速かったですか」
「違う。今、客席を見た」
「確認しただけです」
「二人を信じる場面で、客席の正解を探さない」
リナが中央へ戻る。
「ユイ。背中に触れる手が弱い」
「衣装を引っ張らないように」
「衣装じゃなく、ハルカに触って」
「はい」
「ハルカ。二人が来る前に安心した顔をしない。まだ来てない」
「はい」
もう一度、頭から。三人は同じ動きを繰り返した。今度はリナが客席を見ない。ユイの手が、ハルカの背中へしっかり触れる。
ハルカは二人が来るまで、夜の中にいる。三人が揃った瞬間だけ、表情が変わった。
「今の」
ERI先生が言う。
「本番で再現しようとしないで。今の気持ちだけ覚えて」
リナが頷いた。次に、撮影可能区間の確認へ入った。今回、観客が撮影できるのは新曲一曲だけだった。スマートフォンと小型カメラに限り、頭より高く掲げない。フラッシュは禁止。周囲の観客の顔が映り込んだ映像を投稿する際は配慮する。望遠レンズを使う専用席は設けず、全席から同じ条件で撮影できるようにした。
撮影可能を知らせる文字が左右のスクリーンへ表示される。
『この曲は撮影できます』
『#LUMINA同じ朝』
『あなたが見た光を、まだ知らない誰かへ』
ユイがスクリーンを見上げた。
「本当に、全部撮っていいんですね」
「この曲だけ」
私は答えた。
「撮られることを意識しすぎないで。カメラではなく、その後ろの人を見る」
「でも、変な顔が残ったらどうしよう」
「変な顔をしなければいい」
リナが言う。
「無理。絶対、歌ってる時に一回は変な顔する」
「感情が動いた顔なら、変じゃない」
ハルカの言葉に、ユイが少し安心したように笑った。高橋が客席からマイクを取った。
「この一曲を撮影可能にした理由を、もう一度確認しておく」
三人が彼を見る。
「きれいな宣材映像を増やすためじゃない。席によって、見える景色が違うからだ。最前列の映像、最後列の映像、ユイを見ていた人、リナを見ていた人、ハルカの声を追っていた人。同じ曲が、三千通りの記録になる」
「上手く撮れなくても?」
ユイが尋ねる。
「手が震えていても、途中で泣いて画面が下を向いても、それがその人の見たライブだ」
「SNSで広めてもらうのに、上手く撮れなくていいんですか」
「上手い映像は公式が出せる。でも、好きになった瞬間は、公式には作れない」
ハルカは客席を見渡した。
「まだ私たちを知らない人へ、ここにいる人の気持ちごと届けばいいんですね」
「そう」
私は撮影案内の表示時間を確認した。
「曲前のMCで、ハルカからルールを説明して。撮影したくない人もいるから、撮らなくても置いていかれない言い方にして」
「分かりました」
「撮影開始はスクリーン表示後。終了は曲が終わり、表示が消えるまで。次のMCからは撮影禁止へ戻ります」
三人が頷く。通しリハーサルは午前十一時に終了した。大きな事故はなかった。新曲の最後で、ユイの立ち位置が十センチずれた。アンコール一曲目のイントロで、ハルカのイヤーモニター切り替えが半秒遅れた。リナの靴紐が一度緩んだ。
どれも修正できる。私は舞台監督と変更点を確認し、最新版のキューシートへ反映した。
「アンコール明けは、三人がセンターへ出てから全体明かり。変更なしですね」
「変更なしです」
舞台監督が答える。その少し後ろで、高橋が映像責任者と話していた。声は聞こえない。私が視線を向けると、高橋は会話を終え、何事もなかったようにこちらへ歩いてきた。
「順調?」
「今のところは」
「昼から外の列が増える。ロビーのスタッフ、足りてる?」
「警備を追加しています」
「新曲の撮影ルール、公式でもう一度出す」
「投稿前に私へ見せてください」
「了解」
また素直だった。私は不審に思いながらも、次の確認へ向かった。
3
正午を過ぎる頃、会場の外には長い列ができていた。物販開始は十三時。それより一時間以上前から、青と白のタオルを持った人たちが広場を埋め始めている。
私は屋外カメラの映像をロビーのモニターで確認した。列は広場の外周に沿って二度折り返し、最後尾は会場の裏手近くまで伸びていた。警備員が一定の間隔で立ち、通行人のための道を確保している。
年齢も服装もばらばらだった。ツアーTシャツを着た人。仕事帰りに来るため、スーツ姿で先に物販へ並ぶ人。母親と手を繋いだ少女。大阪公演で見かけた青い帽子の男性。車椅子の利用者へ日陰の待機場所を案内するスタッフ。LUMINA HOMEの会員画面を見せ合いながら笑う学生たち。
「こんなにいるんだ」
後ろからユイの声がした。
「楽屋にいてと言ったでしょう」
「飲み物を取りに来ただけです」
モニターから目を離せないまま答える。
「あの子、私のアクリルスタンド持ってる」
「前に発売したものね」
「二つも」
「保存用と持ち歩く用かもしれない」
リナまで来ていた。
「二人とも、楽屋へ戻って」
「青木さんも見てるじゃないですか」
「私は仕事」
「私たちも、来てくれる人を見るのは仕事です」
リナの理屈は、こういう時だけ強い。ハルカも加わり、四人でモニターを見た。物販開始の案内が出ると、列がゆっくり動き始めた。最初の客がツアータオルとペンライトを受け取り、商品を胸に抱えて記念撮影用のパネルへ向かう。
画面の中の笑顔を見ていると、三千という数字が、また一人ずつの顔へ戻っていく。
「あの人たち、朝から待ってくれてたんだ」
ハルカが呟いた。
「だから、休む」
私が言うと、三人がこちらを見る。
「今から一時間、横になって。待っている人の数を背負ったまま本番へ出たら、身体が固まる」
「眠れるかな」
「目を閉じるだけでいい」
「青木さんは?」
ユイに尋ねられ、私はモニターを消した。
「三十分休む」
「本当に?」
「本当」
楽屋へ戻り、照明を落とした。三人はソファと簡易ベッドへ分かれて横になる。私は隣の小部屋に椅子を並べ、携帯電話を手の届かない場所へ置いた。
目を閉じても、頭の中では確認事項が動き続けた。
開場列。物販在庫。撮影ルール。救護室。
映像予備系統。最後の一つで、目を開けた。高橋の「隠していない」という言葉が引っかかっていた。予備再生機は正常だった。独立系統を増やすこと自体も合理的だ。けれど、今日の高橋は何度も映像卓へ足を運んでいる。
私は携帯電話を取り、高橋へ短いメッセージを送った。
『予備系統、本当にロゴだけですか』
返事はすぐに来た。
『今は休んで』
質問への答えになっていない。
『高橋さん』
『安全上の問題はない。約束する』
私は画面を見つめた。現場責任者へ内容を伏せたまま、安全だけを保証する。普段の私なら認めない。電話をかけようとした時、隣の部屋からユイの寝息が聞こえた。
今ここで高橋と揉めれば、三人へ空気が伝わる。私は通話ボタンを押さず、別の文を送った。
『本番に影響する内容なら、終演後に説明してもらいます』
『分かった』
携帯電話を伏せた。休憩は二十分しか残っていなかった。今度こそ目を閉じる。廊下の向こうでは、商品を受け取ったファンの笑い声が小さく響いていた。
午後三時、物販の一部に完売が出た。アクリルスタンドのユイが最初に売り切れ、五分後にリナ、さらに七分後にハルカが続いた。ペンライトも残り三百本を切り、購入制限を一人一本へ変更した。
物販責任者から報告を受けたユイは、少し複雑な顔をした。
「私が最初だった」
「勝ち負けじゃない」
リナが言う。
「分かってるけど」
「全員売り切れたんだから同じ」
「リナちゃん、二番で悔しい?」
「全然」
「今、ちょっと早口だった」
「本番前に余計な体力使わないで」
私が止めると、ハルカが笑った。緊張は消えていない。
それでも、三人は普段どおり話せている。
午後四時半、開場。客席へ人が入り始めた。最初は点だった青と白の光が、時間とともに面へ変わる。一階席が埋まり、二階席へ光が増え、最後列まで人影が並ぶ。
楽屋のモニターに映る光景を見て、三人は黙っていた。
「三千人」
ユイがようやく言った。
「一人ずつ見る」
リナが答える。
「一曲ずつ歌う」
ハルカが続けた。私は三人の背中へ手を置いた。
「準備を始めましょう」
4
午後五時五十分。
開演十分前。客席の歓声が、楽屋の床まで震わせていた。三人は新衣装を身につけ、鏡の前に並んでいる。ハルカの深い青、ユイの白、リナの二色。その背中は、七週間前より大きく見えた。
ERI先生が最後の確認に入る。
「今日は、私の振付を踊らなくていい」
三人が振り返る。
「どういう意味ですか」
リナが尋ねた。
「振付は、もう身体に入ってる。正しく見せようとしないで。客席の音を聞いて、その日の距離で踊りなさい」
「はい」
「転ばない。怪我をしない。終わったらちゃんと帰る」
ユイが笑う。
「青木さんと同じこと言ってる」
「大事だから」
ERI先生は三人の顔を順番に見た。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
舞台袖へ移動する。暗転した客席から、LUMINAを呼ぶ声が上がっていた。
「ハルカ!」
「ユイ!」
「リナ!」
「LUMINA!」
三人の名前が、何度も重なる。私はヘッドセットをつけ、各部署へ最終確認を送った。
「舞台、準備よし」
『舞台、よし』
「音響」
『よし』
「照明」
『よし』
「映像」
『よし』
「救護、客席、入場口」
短い返事が続く。高橋は舞台袖の少し後ろに立っていた。私と目が合う。
「始めます」
「お願いします」
いつもの会話だった。ただ、高橋の右手は強く握られていた。
「緊張しています?」
「してるよ」
「珍しく素直ですね」
「今日は、もう疑わないで」
「終演後に聞きます」
「分かってる」
開演時刻。私はキューを出した。
「客電、落とします。オープニング映像、スタート」
三千人の歓声が爆発した。スクリーンに、これまでのLUMINAの歩みを刻んだ短い映像が流れる。誰もいないライブハウス。三人で配ったチラシ。古いハイエース。テレビ局の廊下。東京、名古屋、大阪の客席。
最後に、今日の空の映像が映る。
『同じ朝を迎えた』
文字が消える。一曲目『夜明け前の境界線』のイントロが鳴った。三人が光の中へ飛び出す。青と白のペンライトが、一階から二階まで一斉に上がった。
昨日まで空だった三千十二席が、声と光で満たされる。ハルカの歌声は、リハーサルより強かった。客席が音を吸うことで、余計な反響が消えている。言葉がまっすぐ最後列まで飛ぶ。
ユイは最前列だけを見なかった。中央、上手、下手、二階席。一瞬に一人ずつ、ERI先生に教えられたとおり視線を運ぶ。彼女が手を伸ばすたび、その先の客席から声が返った。
リナは広い舞台を急がなかった。端へ移動しても、中央にいる二人の呼吸を待つ。自分一人で空間を埋めようとせず、三人の距離で舞台を広げていた。
私は袖のモニターと実際の舞台を交互に見た。カメラ一はハルカ。カメラ三はユイ。カメラ四はリナ。
左右のスクリーンへ映る表情は大きい。だが、観客はスクリーンだけを見ていなかった。目の前の小さな三人と、映像の中の顔を行き来しながら、一つのステージを受け取っている。
四曲目を終え、最初のMCへ入る。
「東京セントラルホール!」
ハルカが叫ぶ。
「LUMINAです!」
三千人が応える。ユイは会場の広さに圧倒されたように、口元へ手を当てた。
「本当に、最後まで人がいる……!」
笑いが起きる。
「当たり前」
リナが言う。
「完売したんだから」
「数字では知ってたけど、顔がある!」
「人だから」
「リナちゃん、今日も冷静です」
「冷静じゃない」
リナは客席を見渡した。
「今、足が震えてる」
その一言で、会場の空気が変わった。完璧に見えていたリナが、自分から恐怖を口にした。
「でも、一人で震えてないから大丈夫です」
ハルカとユイが、リナの両側へ寄る。客席から大きな拍手が送られた。
公演は進んだ。既存曲の振付は、広い舞台用に形を変えている。三人が左右へ大きく分かれ、スクリーンには別々の表情が映る。次の曲では中央へ集まり、ライブハウスのような近さを作る。
九曲目の途中、ユイのイヤーモニターが片方外れた。彼女は振付を止めず、次の移動で自然に戻した。ハルカが歌を薄く重ね、リナが立ち位置を半歩変える。
誰も一人にしない。それは言葉ではなく、三人の身体に入っていた。前半最後の曲が終わると、客席から長い拍手が続いた。三人は暗転の中で袖へ戻る。
「水」
私はボトルを渡す。
「あと二分。呼吸を整えて」
ユイは肩で息をしながら笑っていた。
「楽しい」
「今は話さない」
「でも、楽しい」
「聞こえたから、呼吸して」
リナは壁へ手をつき、ゆっくり息を吐く。ハルカは喉へスプレーを使い、次の曲の最初の音を小さく確認した。高橋が近づいてくる。
「前半、予定どおり」
「音響も映像も問題ありません」
「三人は?」
「見れば分かるでしょう」
「楽しんでる」
「はい」
私は認めた。高橋が少し笑う。
「青木さんも?」
「仕事中です」
「終わったら聞く」
後半開始の合図が出る。三人は再びステージへ向かった。
5
新曲『同じ朝を迎えるまで』は、本編の終盤に置かれていた。その前の曲が終わると、ハルカがマイクを両手で持ち、客席へ向き直った。
「次に歌うのは、今日、初めて皆さんへ届ける曲です」
会場が静かになる。
「この曲は、離れてしまった夜のことと、もう一度同じ朝へ向かうことを書きました。強くなりたいのに、強がることで一人になってしまう時があります。誰かに帰る場所を用意してもらうだけじゃなく、自分も誰かと一緒に帰る人になりたい。そんな気持ちを歌っています」
左右のスクリーンに、撮影可能の案内が出た。客席がざわめく。
「この一曲だけ、撮影していただけます」
歓声が上がる。
「でも、撮らなくても大丈夫です。目で見たい人は、そのまま見ていてください。カメラを向ける人も、向けない人も、同じ時間を一緒に過ごしてください」
ユイが続ける。
「撮ってくれた映像は、よかったら『#LUMINA同じ朝』で広めてください。まだ私たちを知らない人へ、今日ここで見た光を届けてもらえたら嬉しいです」
リナが客席のスマートフォンを見渡す。
「ただ、頭より高く上げないでください。後ろの人の朝が見えなくなるから」
笑いと拍手が起きた。客席のあちこちでスマートフォンが構えられる。無数の小さな画面に、三人の姿が映った。照明が落ちる。
静かなピアノが鳴った。ハルカが中央に立つ。最初の一節。返事を待つ相手へ向けるような、抑えた声だった。
ユイが背中を向け、ゆっくり歩く。笑ってはいない。
それでも、彼女の横顔には、泣いたあとに立ち上がろうとする光があった。リナは遠い位置で待つ。すぐに次へ行かない。客席の正解を探さない。
二人が来ることを信じ、その場に立ち続ける。曲が進むにつれ、スマートフォンを構えていた手が少しずつ下がった。撮影をやめたのではない。画面を見ず、その向こうの三人を直接見ようとしている。
間奏。ERI先生が増やした四小節で、三人は最も遠く離れる。広い舞台の三か所に、一人ずつ。青い照明がハルカを照らす。
白い照明がユイを照らす。二色の境目に、リナが立つ。誰も動かない。三千人も声を出さない。
静寂の中で、リナの右足が一度だけ床を踏んだ。次の拍。三人が中央へ向かう。ユイが最初に着く。
ハルカが続く。最後にリナ。三人の手が、互いの背中へ触れた。その瞬間、客席から息を呑む音が聞こえた。
派手な跳躍も、炎も、銀テープもない。小さな三人の形だけが、三千人の視線を集めた。最後の一行を、三人が歌う。
『帰る場所ではなく 共に帰る人になろう』
声が重なり、ホールの天井へ昇る。音が消えた。一秒。二秒。
それから、三千人の拍手が降り注いだ。スマートフォンを持つ手が震えている。泣きながら画面を下へ向けている人もいる。ユイがそれを見つけ、涙を堪えるように唇を結んだ。
撮影可能の表示が消える。
「ありがとうございます」
ハルカが深く頭を下げた。次のMCへ入る頃には、客席から撮影した映像がSNSへ上がり始めていた。最前列から撮った、三人の表情が見える映像。
二階席の最後列から撮った、三千本の光と小さな三人が一つに収まる映像。ユイの視線が自分へ向いた瞬間。リナが二人を待つ四小節。ハルカの最後の一行。
同じ曲の違う断片が、会場の外へ流れ出していく。私たちはまだ、その広がりを知らなかった。本編最後の曲が始まる。撮影を終えた客席は、再びペンライトを握った。
三千人の声が一つになり、三人の歌を押し上げる。ユイは笑った。リナの足は、もう震えていない。ハルカは最後列へ向かって手を伸ばした。
「今日は、本当にありがとうございました!」
三人が手を繋ぎ、深く頭を下げる。ステージを降りると、客席からすぐにアンコールが始まった。
「LUMINA!」
「LUMINA!」
声が床を揺らす。舞台袖で、三人はアンコール用のTシャツへ着替えた。衣装担当が髪を整え、汗を押さえ、マイクを交換する。
「あと一分」
舞台監督が告げる。ユイが私の腕を掴んだ。
「青木さん」
「何?」
「新曲、届きましたか」
「届いたわ」
「最後列まで?」
「最後列の人が、泣きながら撮っていた」
ユイは目を潤ませた。
「泣くのは終わってから」
リナがERI先生と同じことを言う。
「リナちゃんも泣きそう」
「汗」
「青木さんと同じ言い訳」
ハルカが二人の肩へ手を置く。
「最後まで行こう」
三人が頷いた。アンコール開始の合図。ステージへの扉が開く。
6
三人が舞台中央へ走り出た。三千人の歓声が、再び会場を満たす。本来なら、ここで暖色の全体明かりが点くはずだった。
だが、三人がセンターの印へ着いた瞬間、すべての照明が落ちた。完全な暗闇。歓声が、戸惑いのざわめきへ変わる。私の身体は、考えるより先に動いた。
「照明、状況報告!」
『照明卓、異常なし』
「舞台、三人を動かさないで! 客電スタンバイ!」
暗闇の中で、ハルカがユイとリナの手を掴んだのがモニターにわずかに見えた。
「映像、何が起きてる?」
返事がない。
「映像!」
『……予定どおりです』
「予定どおり?」
私のキューシートにはない。次の瞬間、正面スクリーンだけが白く光った。黒い画面に、細い青の線が一本現れる。線はゆっくり円を描き、その中心にLUMINAのロゴが浮かんだ。
三千人が静まる。短い映像が始まった。小さなライブハウス。路上でチラシを配る三人。
古いハイエース。初めて満員になった客席。テレビ出演。東名阪のライブハウス。
そして、今日の三千十二席。映像の最後に、白い建物の輪郭が現れた。八角形の屋根。その形を見た瞬間、客席の一部から悲鳴が上がった。
私は息を止めた。画面が暗くなる。一行目。
『LUMINA』
二行目。
『日本武道館』
三行目。
『単独ライブ決定』
文字が揃った瞬間、会場が揺れた。歓声というより、爆発だった。足元の床が震え、客席の光が激しく波打つ。泣き声、叫び声、三人の名前。三千人分の感情が一度に押し寄せ、音の塊になって天井へぶつかった。
ステージ中央の三人は、動かなかった。ハルカはスクリーンを見上げたまま、口を開いている。ユイは両手で口元を覆い、何度も首を横へ振った。
リナは、文字を確かめるように一歩だけ前へ出た。
「……武道館?」
マイクが、その小さな声を拾った。客席の歓声がさらに大きくなる。ハルカが舞台袖を見た。私を探している。
私は答えられなかった。知らなかった。三人と同じように、スクリーンの文字を見上げていた。隣を見る。
高橋が立っていた。彼だけが、画面ではなく三人を見ていた。
「高橋さん」
私の声は低くなった。
「あとで全部話す」
「今、説明してください」
「三人が待ってる」
ステージでは、ユイが泣きながらこちらを見ている。ハルカがマイクを握り直した。
「私たちも……今、初めて知りました」
客席から驚きの声が上がる。
「本当に、何も聞いてなくて……」
言葉が続かない。ユイがハルカへ抱きついた。
「どうしよう、ハルカ……武道館だって」
「うん」
「本当に?」
「画面に出てる」
リナはまだスクリーンを見ていた。強くあろうとする顔が、少しずつ崩れていく。
「私、ずっと……」
マイクを持つ手が震える。
「ずっと、世界で一番大きなステージに立ちたいって言ってきた。でも、武道館って聞いたら、何も言えない」
客席から「おめでとう」という声が飛ぶ。一人。また一人。
やがて三千人が同じ言葉を叫び始めた。
「おめでとう!」
「おめでとう!」
三人は中央で抱き合った。ハルカの肩へユイが顔を埋め、リナが二人の背中を強く抱く。スクリーンには『日本武道館 単独ライブ決定』の文字が残っている。
私はヘッドセットを握った。現場責任者へ伏せた演出。予定にない完全暗転。独立系統の映像。
朝から感じていた違和感が、すべて繋がった。怒りはあった。
だが、今は三人をステージへ戻さなければならない。
「舞台監督、次の進行は?」
『告知映像終了後、三十秒で暖色の全体明かり。アンコール一曲目へ入れます』
「三人の呼吸を見ます。音響、イントロは私のキューまで待って」
『了解』
スクリーンの文字が消えた。暖かな照明が、三人を照らす。泣き顔が、左右のスクリーンへ大きく映った。ハルカが何度か息を整える。
「今日、三千人の皆さんへ歌うことで精一杯でした。その先のことなんて、考える余裕がありませんでした」
客席は静かに聞いている。
「でも、皆さんが私たちを、次の場所へ連れていってくれました」
リナが首を振る。
「一緒に行くんだよ」
ハルカが彼女を見る。
「そうだね」
ユイが涙を拭き、客席へ向き直る。
「一緒に来てください。誰も置いていかないから」
大きな拍手が起きた。私は三人の呼吸を見た。まだ震えている。
だが、歌える。
「アンコール一曲目、スタンバイ」
各部署から返事が来る。三人が立ち位置へ着いた。ハルカが舞台袖を見る。私は頷いた。
「音響、スタート」
イントロが鳴る。アンコール一曲目は『透明な反撃』だった。涙で声が揺れている。振付も、いつもより少し乱れた。
それでも、三人の歌は強かった。完璧ではない。驚きも、恐怖も、喜びも、何一つ隠せていない。その生身の姿へ、三千人が声を重ねた。
二曲目ではユイが笑った。三曲目ではリナが客席の一人一人を見た。最後の『帰る場所の灯り』で、ハルカは歌詞の途中に何度も声を詰まらせた。そのたび、客席が代わりに歌った。
三人の声。三千人の声。境目が分からなくなる。最後の音が消える。
三人は手を繋ぎ、客席へ向かって深く頭を下げた。
「ありがとうございました!」
ハルカが叫ぶ。
「LUMINAでした!」
三人が舞台を降りる。扉が閉じた瞬間、ユイがその場へしゃがみ込んだ。
「武道館……」
もう一度口にした途端、声を上げて泣いた。
7
控室へ戻るまで、三人はまともに歩けなかった。ハルカはユイの肩を抱き、リナは二人の後ろから支えている。そのリナ自身も涙で前が見えていなかった。
楽屋の扉が閉じる。三人は中央で立ち止まり、もう一度抱き合った。
「本当に?」
ユイが何度も尋ねる。
「武道館、本当に決まったの?」
「画面に出たんだから、本当だと思う」
ハルカが答えるが、自分にも言い聞かせているようだった。
「夢じゃない?」
「夢なら、三人同じ夢を見てる」
リナの声も震えている。
「青木さん」
三人が私を見る。答えを求めている。
「私は知らなかった」
正直に言った。三人の目が大きくなる。
「青木さんも?」
「ええ。何も聞いていない」
「じゃあ、誰が」
扉が開く。高橋が入ってきた。三人が一斉に彼を見る。
「おめでとう」
高橋が言った。ユイは泣きながら彼へ駆け寄った。
「高橋さん! 本当なんですか!」
「本当だよ」
「いつ決まったんですか」
「正式に決まったのは三日前。会場の仮押さえと条件交渉は、三か月前から進めていた」
「三か月前?」
ハルカが驚く。
「ホールツアーが終わって、すぐですか」
「二千人の三公演を見た時点で、可能性があると思った。ただし、いくつか条件があった。ファンクラブの継続率、ホールツアーの完売、三千人公演の販売実績、今日までの制作体制。どれか一つでも届かなければ、白紙にする予定だった」
リナが涙を拭う。
「今日の成功が条件じゃなかったんですか」
「チケットが完売した時点で、主催と会場の最終承認へ進んだ。正式な契約が揃ったのが三日前」
「どうして、私たちに言わなかったんですか」
ハルカの声には、喜びだけではない戸惑いがあった。
「今日の三千人へ集中してほしかった。武道館を知れば、今日の公演が途中の場所に見えてしまうかもしれない。ここへ来てくれた三千人を、次のための通過点にしたくなかった」
三人は黙った。高橋は私へ向き直る。
「青木さんにも同じ理由で伏せた」
「私は出演者ではありません」
楽屋の温度が下がった。
「青木さん」
ハルカがこちらを見る。
「三人は少し休んで」
私は高橋へ目を向けたまま言った。
「高橋さん、外で話しましょう」
廊下へ出る。扉が閉じた瞬間、私は声を抑えた。
「現場責任者に知らせず、予定にない完全暗転と映像を入れた」
「安全対策は取った。三人がセンターマークへ静止してから暗転。舞台監督、照明責任者、映像責任者、音響責任者には共有していた。非常時はすぐ客電を戻せる状態だった」
「私以外には共有した?」
「必要な人間だけ」
「その必要な人間の中に、なぜ私がいないんですか」
高橋は黙った。
「私が反対すると思った?」
「演出そのものには反対しないと思った」
「なら、なぜ」
「君は、三人に隠せない」
「隠せます」
「仕事としては隠せる。でも、三人が不安になった時、君は嘘をつかない。武道館の準備を知った状態で今日を迎えれば、必ずどこかに出ると思った」
「それは、高橋さんの判断です」
「そうだ」
「私を信頼しなかった」
高橋は長く息を吐いた。
「信頼していないわけじゃない。むしろ、三人との関係を信じたから伏せた」
「言葉を整えないでください」
「……分かった」
彼は壁へ背を預けた。
「驚かせたかった。三人の本当の反応を、ファンと同じ瞬間に生みたかった。そのために、青木さんへも秘密にした。制作上の判断として、僕が決めた」
「危険です」
「分かってる」
「分かっているなら、二度としないでください。どれだけ大きな発表でも、暗転した瞬間、私は事故だと判断した。客電を点けていたら、演出は止まっていました」
「その可能性も想定していた。点いた場合は、客電下で映像を出す予定だった」
「そういう問題ではありません」
「うん」
高橋は言い訳をやめた。
「ごめん。現場責任者としての君を外した。それは僕が悪かった」
廊下の向こうから、撤収を始めるスタッフの声が聞こえる。
「武道館は、本当に決まっているんですね」
「決まっている。日程も会場も押さえた。資金計画、主催、放送、警備の一次案まで準備している」
「三か月、私に隠して?」
「青木さんの机に置いたら、毎晩三時まで資料を読むだろ」
「当たり前です」
「だから、今日までは読ませたくなかった」
「それも高橋さんの勝手な判断です」
「そうだね」
高橋は、壁から背を離した。それで話が終わると思った。
「じゃあ、僕からも一つ聞いていい」
「何でしょうか」
「佐藤さんから、この三か月で何回連絡が来た」
廊下の突き当たりで、撤収の台車が金属の音を立てた。
「……なぜ、それを」
「同じ会社の人間だからだよ。彼は僕に報告義務がある」
高橋は、責めるでも勝ち誇るでもない声で言った。
「六回だ。放送使用の許諾が二回、切り抜き投稿の権利者表記が二回、最低生活保障の更新確認が一回。それと」
彼はそこで一度、間を置いた。
「バイアウト条項に関する照会が一回。あなたのほうから照会している」
私は答えなかった。
「僕は、あなたが僕に話すのを待っていた。三か月」
「……」
「経営の問題だから話さない、と言ったよね。あの時点で、あなたはもう三か月抱えていた」
「話す必要のない段階でした」
「僕もそう思って、武道館を三か月伏せた」
言葉が、正面から返ってきた。
「同じだと言いたいんですか」
「同じじゃない。僕のほうが悪い。現場責任者を外したんだから。それは謝った」
高橋は、まっすぐこちらを見た。
「でも、あなたが今言った理由と、僕がさっき言った理由は、同じ形をしてる。まだ話す段階じゃない。話せば負担になる。自分が処理すればいい。——僕がその三つを並べた時、あなたは何と言った」
言葉を整えないでください、と私は言った。ついさっき、この廊下で。
「私は」
「うん」
「私は、三人のためだと思っていました」
「僕もそう思ってた」
それが、いちばん堪えた。高橋は責めなかった。責めれば、私はまだ戦えた。彼は、自分が三か月前に立っていた場所を指さして、そこに私がいると言っただけだった。
「青木さん。あなたが何を抱えてるか、僕は正確には知らない。佐藤さんは条項の名前しか教えてくれない」
「……」
「知りたいとも思わない。あなたが話すと決めるまでは」
「なぜ」
「あなたが僕にそうしなかったからだ」
彼は少し笑った。笑っていない目だった。
「僕は三か月、あなたを外した。あなたは三か月、僕を外した。差し引きゼロだと思う?」
「思いません」
「僕も思わない。ゼロじゃなくて、両方マイナスだ」
楽屋のほうから、三人の声が聞こえた。まだ泣いている。武道館という三文字を、何度も口に出している。
「一つだけ言わせて」
高橋が言った。
「武道館まで、あと十二週ある。僕は、あなたが話すのを待つ。それまで、僕からは何も聞かない」
「待つ、というのは」
「期限を切らないという意味だよ」
私は、その言い方を知っていた。エレベーターホールで、私がユイに言った言葉だ。
「ただし、これだけは覚えておいて」
高橋は廊下の先へ歩き出し、二歩進んで振り返った。
「三人に隠せない、と僕はさっき言った。あれは、あなたの欠点として言ったんじゃない。あなたのいちばんいいところとして言った」
「……」
「それが今、機能してない。三人はもう気づいてる」
楽屋の壁の向こうで、三人が名前を呼び合っている。三千人の声を浴びたばかりの三人が、次の場所の名前を覚えたばかりの三人が、あの扉の向こうにいる。
リナは東京の楽屋で、乗る前に言ってください、と私に言った。私はもう、とっくに乗っていた。私は目を閉じた。怒りは消えていない。
けれど、扉の向こうでは三人が泣いている。今夜、その喜びへ私の怒りを持ち込むべきではない。
「正式資料を、明日の正午までにください」
「休まないの?」
「読むのは明後日です」
高橋が少し驚いた顔をした。
「明日は休みます」
「そうして」
「それから、二度と現場へ無断で演出を追加しないと約束してください」
「約束する」
「予備系統と呼んでいた機材も、次からはすべて開示してください」
「分かった」
「三人には、私たちが揉めたことを隠しません。ただし、今夜は話さない」
「了解」
私は楽屋の扉へ手をかけた。
「高橋さん」
「何?」
「準備してくれたことには、感謝しています」
彼は何も言わなかった。
「でも、やり方は許していません」
「分かってる」
二人で楽屋へ戻る。三人はソファへ並び、まだ泣いていた。ERI先生も来ていた。リナの隣へ座り、黙って背中を撫でている。
「先生、知ってたんですか」
リナが尋ねる。
「知らない」
「先生も?」
「知ってたら、振付を倍にしてた」
ユイが泣きながら笑う。
「倍は無理です」
「武道館なら、今日のままじゃ足りない」
「今日くらい褒めてください」
「今日の新曲はよかった」
三人が同時にERI先生を見る。
「本当に?」
「一度しか言わない」
リナの目から、また涙が落ちた。
「ありがとうございます」
スタッフから、SNSの速報が届いた。私はタブレットを開く。新曲の撮影映像が、すでに大量に投稿されていた。
『#LUMINA同じ朝』
『#LUMINA三千の声』
『#LUMINA武道館』
三つの言葉が、同時に急上昇している。最も見られているのは、二階席後方から撮られた新曲の映像だった。小さな三人が広い舞台で離れ、中央へ集まる。その瞬間、三千本のペンライトが静かに揺れる。
投稿文は短かった。
『知らない曲なのに、最後の一行で泣いた』
再生回数は、十分ごとに桁を変えていた。別の映像では、ユイが二階席へ視線を送る瞬間が切り取られている。
『画面越しなのに、自分を見てもらった気がした』
リナが二人を待つ四小節には、ダンサーや振付師からの言葉が集まっていた。
『動かない時間で関係を見せる振付がすごい』
『広い舞台を埋めるのではなく、距離を見せている』
ハルカの歌へは、これまでLUMINAを知らなかった人たちから反応が届いていた。
『おすすめに流れてきた。生歌なのに言葉が全部聞こえる』
『アイドルのライブを見たことがないけど、この曲はフルで聞きたい』
武道館発表の映像も、公式投稿と同時に広がっていた。三人が本当に驚き、抱き合う姿。客席から上がる「おめでとう」の声。泣きながらアンコールを歌う姿。
単なる発表ではなく、三千人と三人が同じ瞬間に未来を知った映像として受け取られていた。
「評価指標が上がっています」
スタッフが別の画面を見せる。公式アカウントのフォロワー数。新曲の先行保存数。過去曲の再生数。
LUMINA HOMEの入会数。どれも、開演前とは違う角度で伸びていた。
だが、私は数字だけを読まなかった。投稿された映像の一つ一つに、撮影した席からしか見えない光景がある。三千人が、それぞれのLUMINAを外へ運んでいる。
「すごい」
ユイが画面をスクロールする。
「同じ曲なのに、全部違う」
「最後列の映像、舞台が小さい」
リナが言う。
「でも、光が全部入ってる」
ハルカが答えた。
「私たちが見られなかった客席まで見える」
高橋が三人へ向けて言う。
「今日、撮影を許可した意味はこれだよ。三人だけでは、三千通りの景色を持ち帰れない」
ユイは一つの動画を保存した。
「この人、途中で泣いてカメラが床向いてる」
「それでいいんでしょう」
私が言う。
「その人が見たライブだから」
高橋がこちらを見る。朝、彼が言っていた言葉だった。私はそれ以上何も言わず、タブレットを閉じた。
8
会場を出たのは、午後十一時を過ぎてからだった。撤収はまだ続いていたが、私たちの確認作業は終わった。忘れ物、衣装、マイク、個人物。すべての所在を確認し、明日の回収が必要なものだけリストに残した。
外へ出ると、昼間の物販列は跡形もない。広場には風が通り、街灯の下に数枚の紙吹雪が残っていた。スタッフが拾い切れなかった青い一片を、ユイがしゃがんで拾う。
「持って帰っていいですか」
「一枚だけなら」
「記念」
透明なスマートフォンケースへ挟む。ハイエースへ乗り込む前に、三人は会場を振り返った。
「朝、ここに来た時と違って見える」
ハルカが言う。
「建物は同じ」
リナが答える。
「私たちが違うんだよ」
ユイの声は、泣きすぎて少し掠れていた。私は車のキーを取り出した。その時、搬入口の脇に、大きな影が一つ立っているのに気づいた。街灯の届かない植え込みの陰で、その恰幅のいい体格に、私は見覚えがあった。
「先に乗ってて」
三人を車へ入れ、私は一人でそちらへ歩いた。
「クマさん」
男は、少し決まりが悪そうに頭を掻いた。首からカメラは下がっていない。手に持っているのは、二つ折りにされたチケットの半券だった。
「一階の、後ろから三列目だ」
「……抽選で?」
「一般で取った。三回外れて、四回目」
私は、その半券をしばらく見ていた。
「よかったです」
「よくねえよ。遠すぎて顔が見えねえ」
クマは吐き捨てるように言って、それから、言い直した。
「いや。……見えた」
しばらく、二人とも黙っていた。撤収のトラックが一台、私たちの横を通り過ぎていく。
「クマさん」
「なんだ」
「一昨年の夏、下北沢で、あなたに法務部の連名警告の話をしました」
「覚えてる。忘れるかよ」
「あれは、はったりです」
クマが顔を上げた。
「基本合意の段階で、ネクストウェーブの法務部はそこまで確約していませんでした。ブラックリスト登録も、当時は制度としてありませんでした。私は、口からでまかせを言いました」
街灯の下で、男の表情が読めなかった。
「……なんで今言う」
「一年以上、誰にも言っていなかったからです」
クマは、盛大に舌打ちをした。
「性格が悪いな、あんた」
「はい」
「あの夜、俺は本気でビビったんだぞ」
「効果はありました」
「そこを誇るな」
彼は半券を上着のポケットへ押し込んだ。
「まあ、いい。どうせ俺のやってたことも褒められた話じゃねえ」
そう言って背を向け、二歩進んでから、振り返らずに言った。
「武道館、取れるかな」
「一般で三回外れてください」
「殺す気か」
男は片手を上げて、暗い通りの向こうへ歩いていった。車へ戻ると、ユイが窓を開けて顔を出した。
「誰ですか、今の人」
「昔の、お客さんです」
嘘ではなかった。一年ぶりに、私は一つだけ荷物を下ろした。まだ、いちばん重いものが残っていた。
「今日は運転しません」
三人が驚いた顔をする。事務所が手配した運転手が、すでに運転席で待っていた。
「青木さんが運転しない」
ユイが言う。
「大事件」
リナまで続ける。
「全員疲れているから、安全を優先しただけです」
「青木さんも疲れてるって認めた」
ハルカが笑う。
「早く乗って」
四人で後部座席へ乗り込んだ。車が走り出す。誰もすぐには話さなかった。窓の外を、東京の夜景が流れていく。
三人はそれぞれのスマートフォンを持っているが、画面を見ていない。膝の上へ伏せ、暗い窓に映る四人の顔を見ていた。
「武道館」
ユイが呟く。
「まだ言う?」
リナが尋ねる。
「言うたびに、本当になる気がする」
「本当だよ」
「リナちゃんも言って」
「武道館」
「ハルカも」
「武道館」
「青木さん」
三人の目がこちらへ向く。
「日本武道館」
私が言うと、ユイが満足そうに頷いた。
「本当だ」
ホテルは会場から車で二十分ほどの場所に取ってあった。三人をすぐ休ませるため、それぞれの部屋と、短時間集まれる小さなリビング付きの部屋を一つ用意している。
到着すると、ホテルスタッフが温かいスープとおにぎり、果物を運んでくれた。
「打ち上げは?」
ユイが尋ねる。
「明日以降」
「ケーキとか」
「明日」
「たこ焼き」
「ここは東京です」
「東京にもあります」
「今夜は消化のいいものだけ」
文句を言いながらも、ユイはスープを一口飲み、「おいしい」と小さく言った。四人で低いテーブルを囲む。誰もテレビをつけなかった。窓の外には街の灯りが広がっている。数時間前まで三千人の声の中にいたのに、部屋にはスプーンが器へ触れる音しかない。
「今日、一番覚えてるところは?」
ハルカが尋ねた。
「一つに決めるの?」
ユイが困った顔をする。
「じゃあ、今最初に浮かんだところ」
リナが先に答えた。
「新曲の間奏」
「武道館じゃないんだ」
「あれは、まだ現実として処理できてない」
「間奏の何?」
「待てたこと」
リナは両手でスープの器を包んだ。
「リハーサルでは、何度も次へ行きたくなった。本番も、三千人に見られてると思ったら、早く動いて正解を見せたくなった。でも、二人が来るまで待てた」
ハルカが頷く。
「私、リナが来るって分かってた」
「私も」
ユイが言う。
「だから、先に着いても怖くなかった」
リナは目を伏せた。
「それが一番」
ユイは少し考えた。
「私は、二階席の女の子と目が合ったところ。たぶん私より年下で、泣きながらペンライト振ってた」
「三千人いたのに、分かったの?」
「一瞬だけ。でも、その一瞬は覚えてる」
ハルカは窓の外を見た。
「私は、『帰る場所の灯り』をみんなが歌ってくれたところ。声が出なくなった時、失敗したと思った。でも、客席が続けてくれた」
「失敗じゃない」
リナが言う。
「うん。今は分かる」
三人が私を見る。
「青木さんは?」
答えを考えた。
開演の瞬間。新曲の最後。武道館の文字。控室で泣く三人。
どれも浮かぶ。
「アンコールの暗転」
三人が意外そうな顔をした。
「そこ?」
「事故だと思った。三人を守らなければと思った。そのあと、画面を見て、何も知らない自分に腹が立った」
「高橋さんと、喧嘩したんですか」
ハルカが尋ねる。
「話し合いました」
「青木さんの『話し合った』は、たぶん喧嘩」
ユイが言う。
「現場責任者に伏せて演出を入れたことは、許していない。高橋さんも認めた。次からはしないと約束しました」
「でも、武道館は嬉しい?」
リナがまっすぐ尋ねる。
「嬉しいわ」
迷わず答えた。
「三人があの文字を見た瞬間、私も泣きそうになった」
「泣いてましたよ」
「暗かったでしょう」
「画面の光で見えました」
「汗ではないですよね」
「アンコール中に走ったから」
「青木さん、今日も認めない」
三人が笑う。笑い声はすぐに途切れた。疲労が限界に来ている。ユイはスプーンを持ったまま目を閉じそうになり、ハルカも何度も瞬きをしている。リナだけは起きていようとしていたが、背中がソファへ沈んでいた。
「解散。歯を磨いて、寝てください」
「SNS、もう少し見たい」
「明日も残っています」
「消えない?」
「消えない」
私は三人のスマートフォンを一度預かった。画面には、増え続ける通知が並んでいる。新曲の映像はさらに広がり、公式アカウントのフォロワー数も伸び続けていた。称賛だけではない。初めて知った、次は行きたい、曲を聞きたい。未来へ向かう言葉が増えている。
それでも、今夜は画面の光より眠りが必要だった。
「朝、返します」
「青木さんのも預けます」
ユイが手を差し出した。
「私は連絡が」
「緊急連絡はホテルの電話に来ます」
リナが言う。
「三人だけスマホなしは不公平」
「青木さんも休むって約束しました」
ハルカまで加わる。また三対一だった。私は自分のスマートフォンをテーブルに置いた。
「午前七時まで」
「はい」
四台の画面を伏せる。光が消えた。三人をそれぞれの部屋へ送り、最後に廊下で顔を合わせた。
「おやすみなさい」
ハルカが言う。
「おやすみ」
ユイはもう目を半分閉じている。リナが部屋へ入る前に振り返った。
「青木さん」
「何?」
「武道館も、四人で行きますよね」
「ええ」
「途中で喧嘩しても?」
「誰も一人で帰さない」
リナは安心したように頷いた。
「おやすみなさい」
扉が閉じる。
私も自分の部屋へ入った。カーテンを閉め、ベッドへ腰を下ろす。静かになった途端、耳の奥に三千人の歓声が戻ってきた。
『日本武道館 単独ライブ決定』
白い文字が、まぶたの裏に浮かぶ。考えるべきことは、すでにいくつもあった。会場の構造。客席の見え方。
予算。警備。三人の体力。高橋が用意した資料。
だが、それは明後日からでいい。今日は終わった。三千十二人を迎え、三人は歌い、踊り、誰も怪我をせず、同じ場所へ戻ってきた。それで十分だった。
照明を消し、枕へ頭を沈める。隣の部屋では、ユイがベッドへ入る前に眠りかけ、ハルカは衣装の写真を見返すこともなく目を閉じ、リナは青と白のミサンガへ一度触れてから布団をかぶった。
私も、左手首の糸を指で確かめた。切れていない。遠くで車の音がした。それもすぐに聞こえなくなった。
私たちは、三千人の声と新しい約束の余韻を胸に抱いたまま、長く深い眠りへ落ちていった。




