第30章 三千の席が待つ朝
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三千人でやると三人が決めた週の終わり、私たちはスターライトエージェンシーの会議室に集まった。窓の外では、午後から降り始めた雨がビルの壁を細く伝っていた。九月に大阪へ向かう途中で見た雨とは違い、十二月の東京の雨は街の音を遠ざけ、部屋の中だけを切り離しているように感じられた。
テーブルの中央には、高橋が持ってきた分厚い資料が四冊並んでいる。表紙には、会場名と日付が記されていた。
『東京セントラルホール LUMINA単独公演企画書』
客席数、三千十二席。
公演日は七週間後。あの会議室で聞いた「三千人」という数字が、初めて具体的な形を持って目の前へ置かれた。
「先週の話のとおりになった」
高橋が資料の一ページ目を開く。
「予定されていた海外アーティストの公演が延期になって、日程が一日だけ空いた。仮押さえは四十八時間。昨日の午後、僕のところへ連絡が来た」
「押さえたんですね」
「押さえた。取ると決めたのは君だと、主催には伝えてある」
私は資料の日付をもう一度見た。七週間後。あの会議室で、空きが出たら私が判断すると言った。その通りにしただけだ。それでも、実際に日付が紙に印刷されると、重さが違った。
「七週間で準備する規模ではありません」
私はすぐに言った。
「通常なら、少なくとも三か月。新曲を入れるなら、さらに必要です」
「その通り」
「舞台図面は?」
「三ページ目。基本はエンドステージ。花道は使わない。客席を潰さず、三千十二席をすべて販売対象にする」
「照明と音響は会館の常設を基礎にして、持ち込みを最小限にする?」
「予算上はそうなる」
「最小限で三人を最後列まで見せるのは難しいです」
「だから映像を入れる。左右に一面ずつ。正面の大型スクリーンは曲間だけ使う」
私はページをめくった。会場費、舞台設営費、照明、音響、警備、救護、映像収録、運搬、人件費。数字はどれも、ライブハウス公演とは桁が違う。
「損益分岐は、二千五百八十席」
「物販を保守的に見積もって、それくらい」
「八割五分以上です」
「怖い?」
「怖くない人間には任せられません」
高橋は口元だけで笑った。向かい側に座る三人は、私たちのやり取りを黙って聞いていた。ユイは客席図を何度も見返し、ハルカは制作スケジュールに指を置き、リナは収支表の数字を追っている。
「ファンクラブ先行は、どうしますか」
ハルカが尋ねた。
「二千四百席をLUMINA HOMEへ。残りを一般販売と関係者席へ回す案だ」
高橋が答える。
「全席をファンクラブにしないんですか」
「初めて見る人が入れる入口を残す。家は、鍵をかけるためにあるんじゃない」
ユイが小さく頷いた。大阪公演後も、LUMINA HOMEの会員数は増え続けていた。今朝の時点で八千九百二十六人。全員が東京へ来られるわけではない。複数公演へ通う人もいれば、遠方から応援だけを続ける人もいる。それでも、三千席へ挑むための土台は、確かに生まれていた。
「新曲の制作欄があります」
リナが資料を指さした。
「公演までに間に合わせるつもりですか」
「間に合わせるんじゃない。完成させる」
高橋の答えに、リナの眉がわずかに上がる。
「言葉を変えただけに聞こえます」
「君は手厳しいな」
「七週間しかないのに、耳触りのいいことを言うからです」
「曲の骨格はすでにある。作曲家には、テレビ出演が決まった頃から依頼していた」
私は高橋を見た。
「聞いていません」
「発注しただけだ。採用を決めたわけじゃない」
「費用は?」
「ネクストウェーブの開発予算」
「採用した場合の原盤権は?」
「共同保有。条件は資料の後ろ」
私が契約条件を確認している間に、高橋は三人へ向き直った。
「新曲が間に合わなければ、既存曲だけでやる。それで公演の価値が下がるとは思っていない。ただ、三千人の前へ初めて立つ日に、今のLUMINAだから歌える曲が一つあれば、景色は変わる」
「どんな曲ですか」
ユイが尋ねる。
「まだ名前はない。デモを聞いてから決めてほしい」
「振付は?」
リナの問いに、高橋は少し間を置いた。
「ERI先生に頼みたい」
リナの表情が止まった。以前、楽屋を訪れたERI先生は、リナの成長を認めたあと、「次はもっと驚かせなさい」と言い残していた。その約束が、思っていたより早く形になろうとしている。
「先生は、受けてくれるんですか」
「仮でスケジュールを空けてもらっている。受けるかどうかは、三人の曲を聞いてから決めるそうだ」
「先生らしい」
リナが呟いた。高橋は資料を閉じた。
「条件は全部出した。時間は短い。費用は大きい。売り切れる保証もない。新曲が完成する保証もない。やるなら、今日から七週間、生活の中心はこの公演になる」
私は三人を順番に見た。
「大阪で、やりたいとは聞いた。でも、今日は正式な返事になる。勢いで答えないで」
「勢いじゃないです」
ハルカが言った。
「大阪から帰る車の中でも、昨日の休みの間も考えました。三千人の前に立つのは怖いです。でも、小さい会場で受け取ったものを、小さい会場の中だけに置いておきたくない」
ユイも続いた。
「最後列の人まで、一人にしないライブを作りたいです」
リナは資料の表紙へ手を置いた。
「私は、やります。ERI先生に、今の私たちを見てもらいたい。三千人の空間で、自分の踊りがどこまで届くか確かめたい」
三人の視線が私へ集まった。私は収支表をもう一度見た。空席が増えれば赤字になる。準備が遅れれば、三人の身体へ負担が集中する。新曲に時間を使いすぎれば、既存曲の精度が落ちる。人を増やせば費用が増え、減らせば安全が損なわれる。
やらない理由なら、いくつでも挙げられた。それでも、大阪で見た青と白の光を思い出した。二千人の声は、会場の扉が閉じたあとも街へ流れ、ファンクラブの数字を動かした。あの熱がどこまで届くのかを、私も見たいと思っていた。
「一つ、条件があります」
高橋が顎を引く。
「言って」
「準備不足を精神論で埋めないこと。間に合わないものは削る。身体に異常が出たら休ませる。三千席を売るために、三人を壊すような宣伝はしない」
「同意する」
「もう一つ。最終判断は現場の私に持たせてください。演出を止める権限も含めて」
「分かった」
「即答ですね」
「青木さんがそこを譲らないのは知ってる」
高橋が右手を差し出した。
「やる?」
私はその手を見たあと、握り返した。
「やります」
三千十二席のホール公演が、正式に動き始めた。
2
三日後、私たちは東京セントラルホールを訪れた。客席へ入った瞬間、ユイが足を止めた。
「広い……」
ステージ上には何もない。客席の照明だけが点き、一階席から二階席まで、赤い椅子が規則正しく並んでいた。最前列から最後列までの距離は、これまで立ったどのライブハウスよりも長い。天井は高く、声を出せば、何度も形を変えて戻ってきそうだった。
「三千人って、数字で見るのと違う」
ハルカが客席を見上げる。
「ここが全部埋まるんですよね」
「埋めるの」
リナが答えたが、その声にも普段の鋭さはなかった。会館スタッフの案内で、私たちはステージへ上がった。床には、舞台の中心を示す小さな印がある。リナがそこへ立ち、最上階の最後列を見た。
「顔が見えない」
「客席が暗くなれば、もっと見えない」
私は答えた。
「でも、向こうからは三人が見える。表情はスクリーンで補えるけれど、身体の線と立ち姿はごまかせない」
ユイがステージの端まで歩く。
「ここまで行っていいんですか」
「袖幕より内側。床に蓄光テープを貼る。暗転中は絶対に越えないで」
「大阪のステージが、この半分くらい?」
「半分もない」
ハルカが中央から端まで歩数を数えた。
「二十八歩」
「普段の振付なら、移動だけで曲が終わる」
リナがステージを見回す。
「三人が離れたら、ばらばらに見える。でも、近いままだと小さく見える」
「それをERI先生がどう作るかだね」
ユイの声には期待と不安が混じっていた。客席後方から、高橋が手を振った。
「一度、最後列へ来て」
私たちは客席の通路を上がった。ステージが一段ずつ遠ざかる。二階席の最後列へ着くと、中央に立つ会館スタッフが人形のように小さく見えた。
「ここからでも、三人だと分かる形が必要になる」
高橋が言う。
「照明が輪郭を作る。振付が関係性を作る。映像は表情を運ぶ。でも、最後に届くのは歌だ」
ハルカは手すりに手を置き、空のステージを見つめた。
「声、届くかな」
「試してみる?」
高橋が会館スタッフへ合図を送る。ステージ上のマイクが一本だけ生きた。ハルカは一人で長い通路を下り、舞台へ戻った。中央に立ち、何度か息を整える。
伴奏はない。彼女は『帰る場所の灯り』の最初の一節を、アカペラで歌った。声が高い天井へ昇り、広い客席を渡ってくる。ライブハウスで聞いた時のような圧力はない。代わりに、一つの声が空間の隅々へほどけていくような響きがあった。
最後列まで、言葉は届いた。ユイが手すりを強く握る。
「聞こえる」
リナは返事をせず、ステージのハルカを見ていた。歌い終えたハルカへ、私たちは拍手を送った。五人分にも満たない拍手は広い客席へ散ったが、ハルカは笑った。
会場確認を終えたあと、三人はロビーの採寸へ向かった。私は客席に残り、高橋と並んで座った。
「どう思う?」
高橋が尋ねる。
「広いです」
「それは見れば分かる」
「広さを弱点にしない演出が必要です。無理に豪華に見せると、予算の薄さが出る。三人と客席の距離を正面から扱うべきです」
「具体的には?」
「曲ごとに距離を変える。全員で中央に集まる曲、左右へ広がる曲、一人だけを広い空間に残す曲。どの席から見ても、三人の関係が分かる構図にする」
「ERI先生と同じことを言う」
「もう話したんですか」
「昨日、図面を送った。『広いことを隠す演出なら受けない』って返事が来た」
「先生らしい」
「リナと同じ言い方だね」
高橋は空席を見渡した。
「チケットが売れなかったら、この赤い椅子がそのまま見える」
「分かっています」
「ファンクラブ先行の申込数は読めない。大阪まで遠征した熱心な会員と、映像だけ見ている会員は、同じ一人でも動き方が違う」
「だから、売れる前提では作りません。二千人でも成立する客席の照明案を用意します」
「売れない時の準備をしながら、売り切る?」
「それが仕事です」
「君は、本当に怖がりだな」
「高橋さんは怖くないんですか」
彼はすぐには答えなかった。
「怖いよ」
空席へ向けた声は、思っていたより小さかった。
「提案した人間は、怖くない顔をするのが仕事だと思ってた。でも、君には通じない」
「最初から通じていません」
「知ってる」
高橋は背もたれへ深く身を預けた。
「三千席を埋められなかった時、責任を負うのは僕だ。埋めたとして、三人が今までと違うものになってしまったら、それも僕の責任だと思ってる」
「三人が変わることは止められません」
「分かってる」
「守るべきなのは、変わらないことではなく、自分たちで変わる方向を選べることです」
高橋がこちらを見た。
「青木さんも変わったな」
「褒めても予算は通しません」
「そこは変わってない」
ロビーからユイの笑い声が聞こえた。空席ばかりのホールに、その声だけが遠く響いた。
3
新曲のデモを聞いたのは、会場確認の翌日だった。ネクストウェーブの小さな試聴室に、作曲家と編曲家、高橋、私、三人が集まった。照明を落とし、スピーカーから最初の音が流れる。
静かなピアノ。そこへ、心拍のような低い音が重なる。前半は抑えられている。夜明け前の部屋で、まだ誰にも聞かれない声を確かめるような旋律だった。サビへ入る直前、すべての音が一度消える。
次の瞬間、弦とドラムが一気に広がった。高く跳ね上がるのではなく、前へ進み続ける旋律。三人の声が順番に重なり、最後は一つの長い音へ集まる構成だった。
仮歌には意味のない音が入っている。それでも、どこで誰が歌うのか、自然に見えるような曲だった。再生が終わっても、誰もすぐに話さなかった。
「もう一度、聞いていいですか」
ハルカが言う。二回目は、全員が手元の譜面を見ながら聞いた。ユイはサビで小さく指を動かし、リナは間奏の秒数を数えている。ハルカは目を閉じたまま、言葉のない旋律を追っていた。
「どう?」
作曲家が尋ねる。
「好きです」
最初に答えたのはユイだった。
「明るい曲じゃないのに、最後は朝になる感じがします」
「私は、間奏をもう四小節ほしい」
リナが言う。
「踊るため?」
「三人が離れる時間が必要です。サビで集まるなら、その前に距離が見えた方がいい」
編曲家が譜面へ書き込む。
「ハルカは?」
高橋に尋ねられ、ハルカは譜面から顔を上げた。
「歌詞を書かせてもらえませんか」
私は彼女を見た。
「全部?」
「はい」
「七週間しかない」
「分かってます」
「既存曲のリハーサルもある。テレビ収録も一本残ってる。書く時間を増やせば、寝る時間が減る」
「寝る時間は減らしません」
「どうやって?」
「移動中と、朝の一時間を使います。三日で一稿を書きます」
ハルカの声は落ち着いていた。
「この曲を聞いた時、大阪から帰る車を思い出しました。雨のあとの道と、四人の声。誰かと一緒に朝を迎えることを、ちゃんと書きたい」
高橋が作詞家へ視線を送った。今回のために呼ばれていた作詞家は、少し考えてから頷く。
「ハルカさんが一稿を書く。私が構成と音数を整える。言葉を変える時は、必ず相談する。それでどうでしょう」
「お願いします」
私はスケジュール帳を開いた。
「三日後の正午までに一稿。その日の夕方に作詞打ち合わせ。仮歌録音は五日後。遅れた場合は、プロへ引き渡す」
「はい」
「徹夜は禁止。朝、私が確認します」
「そこまでします?」
「するわ」
ハルカが苦笑した。
三日後の朝六時五十分、ハルカから歌詞が届いた。題名は『同じ朝を迎えるまで』。夜の途中で別れた足音。窓に映る一人の顔。
遠くで呼んでいる声。強さを装うことで失った言葉を、一つずつ拾い直しながら朝へ向かう歌だった。大阪での出来事をそのまま書いたわけではない。けれど、三人と私には、どの夜から生まれた言葉なのか分かった。
最後の一行だけ、予定されていた音数を二つ超えていた。
『帰る場所ではなく 共に帰る人になろう』
作詞家は、その一行を削らなかった。
「音を変えましょう」
打ち合わせでそう言った。
「言葉を曲へ合わせることはできます。でも、この曲は、その言葉へ向かって進んでいる」
編曲家が最後のメロディをわずかに伸ばした。題名も、そのまま採用された。レコーディングは二日間に分けた。初日はハルカから始まった。
彼女は自分で書いた言葉だからこそ、最初は意味を込めすぎた。一語ごとに感情を乗せ、息を震わせ、すべてを伝えようとした。その結果、曲が前へ進まなくなった。
ブースの外で、高橋がトークバックのボタンを押す。
「ハルカ。一度、歌詞を手放して」
『自分で書いたのに?』
「自分で書いたから。言葉はもう曲の中にある。全部を説明しなくていい」
ハルカは譜面台の紙を見た。
「青木さんは、どう思いますか」
突然振られ、私はマイクへ近づいた。
「最初の一節だけ、誰か一人へ歌って」
『誰に?』
「決めなくていい。返事を待っている相手へ」
ハルカは目を閉じた。次のテイクで、歌声から余計な力が抜けた。ユイは逆だった。明るく歌おうとする癖が、曲の前半で浮いた。笑顔を想像すると声の輪郭が上がり、夜の中に一人だけ昼が差し込んでしまう。
「笑わなくていい」
ハルカがブースの外から言った。
『でも、私のパート、少し希望があるよね』
「希望って、笑ってる時だけじゃないよ」
ユイはヘッドホンへ手を当てた。
「じゃあ、どんな時?」
「泣いたあとに、もう一回立とうとする時」
ユイはしばらく黙り、歌い直した。声の奥に、かすかな息の揺れが残った。それが、きれいに整えたテイクよりも強く聞こえた。リナは音程もリズムも正確だった。
正確すぎた。
「もう一回」
高橋が言う。
『どこが悪いですか』
「悪くない。だから、もう一回」
『理由になってません』
「正しく歌うことへ逃げてる」
ブースの中で、リナの表情が硬くなった。
『逃げてません』
「じゃあ、最後の一行を、誰の顔も浮かべずに歌える?」
リナは答えなかった。高橋は続けた。
「浮かぶなら、その人に届くのが怖いんだ」
『決めつけないでください』
「決めつけてない。聞いてる」
空気が張り詰めた。私は止めるべきか迷った。以前なら、録音時間を優先して休憩を入れていただろう。
だが、リナはヘッドホンを外さなかった。
『もう一回、ください』
伴奏が流れる。最後の一行で、リナの声がほんの少し掠れた。技術的には、前のテイクの方が整っていた。高橋は録音を止めた。
「今のを使う」
リナは何も言わず、ブースのガラス越しにこちらを見た。その視線の先が高橋なのか、私なのか、隣にいる二人なのかは分からなかった。
ただ、彼女はもう一度だけ、最後の一行を小さく口にした。
4
ERI先生との初回リハーサルは、都内の大型スタジオで行われた。ホールの舞台と同じ幅を取るため、床には白いテープが長く引かれている。端から端まで二十八歩。中央には赤、左右には青の印が置かれた。
開始時刻の三十分前、三人はすでにストレッチを終えていた。ERI先生は予定より五分早く現れた。黒いトレーニングウェアに、細い銀縁の眼鏡。挨拶を交わすより先に、床のテープを一周し、天井の高さと鏡の位置を確かめる。
「曲、流して」
スタッフが『同じ朝を迎えるまで』の仮ミックスを再生した。ERI先生はスタジオの中央に立ったまま、一度も身体を動かさずに聞いた。曲が終わる。
「もう一回」
二回目は、目を閉じていた。三回目、ようやく三人を見た。
「この曲、誰の曲?」
「私たちの曲です」
ハルカが答える。
「聞こえのいい答えはいらない。誰が始めて、誰が壊して、誰が終わらせるの」
三人は顔を見合わせた。リナが一歩前へ出る。
「始めるのはハルカ。壊すのは私。終わらせるのはユイ」
「理由は?」
「ハルカの声が道を作る。私がその道から一度離れる。ユイが二つを繋ぐ」
ERI先生はリナを見た。
「半分正解」
「残り半分は?」
「踊ってから教える」
初日の振付は、最初の四十秒だけで三時間かかった。ハルカは中央から動かない。ユイは下手から上手へ、客席に背を向けたまま歩く。リナは最も遠い位置に立ち、二人を見ない。
音が増えるごとに、三人の距離だけが変わっていく。派手なターンも跳躍もない。腕を伸ばす角度、顔を上げる速さ、足を止める位置。そのわずかな差で、広い舞台に三人の関係を描く振付だった。
「リナ、速い」
ERI先生の声が飛ぶ。
「音には合ってます」
「音に合って、二人から外れてる」
「遅らせるんですか」
「待つの」
リナの眉が動いた。
「踊りで待つって、どういう意味ですか」
「自分で考えなさい」
曲が最初へ戻される。リナは同じ動きを繰り返した。今度は一拍遅らせたが、ERI先生は止めた。
「違う。遅い」
「さっきは速いって」
「時間の話をしてない」
スタジオに緊張が走る。ERI先生はリナの位置まで歩き、彼女の肩へ手を置いた。
「あなたは、次の動きが分かると、すぐにそこへ行く。身体も心も。自分が先に着けば、置いていかれないと思ってる」
リナの目が揺れた。
「この振付で必要なのは、二人が来ると信じて、その場にいること。動かずに待つ方が、あなたには難しい」
音が流れる。リナは遠い位置に立つ。ハルカが中央で歌い始め、ユイが背を向けて歩く。次の動きへ入りたくなる瞬間、リナの右足がわずかに浮いた。
だが、下ろした。ハルカの声が届くまで待つ。ユイが振り返るまで待つ。二人の視線が自分へ向いた瞬間、リナは初めて腕を伸ばした。
「今の」
ERI先生が言った。
「忘れないで」
リナは息を吐き、頷いた。ユイにも課題があった。
「あなたは客席へ届けようとしすぎ」
「届けたら駄目なんですか」
「駄目じゃない。でも、三千人全員に同時に笑うと、誰も見ていない顔になる」
ユイは困ったように笑った。
「じゃあ、どこを見ればいいですか」
「一人」
「三千人いるのに?」
「一瞬に一人。次の瞬間に、また一人。最後列まで順番に渡しなさい」
ERI先生は客席に見立てた鏡の前へ立ち、ユイの目線を細かく指定した。中央の低い位置。上手の中段。下手の二階席。
最後列。ユイの顔が動くたび、視線の先に見えない観客が現れる。
「笑顔を広げるんじゃない。視線を運ぶの」
「はい」
ハルカは、歌と移動の両立に苦しんだ。広い舞台では、これまでより長い距離を歩きながら歌わなければならない。息が乱れ、ロングトーンの最後が細くなる。
「歌を守るために動きを小さくする?」
ERI先生が尋ねる。
「いいえ」
「じゃあ、動きを守るために口を合わせる?」
「歌います」
「なら、身体を作り直して」
ハルカは翌日から、トレーナーと呼吸の練習を増やした。走りながら歌い、階段を上りながら音程を保ち、心拍が上がった状態で息を長く吐く。三人とも、今まで使ってきた技術だけでは足りなかった。
四日目、サビの振付へ入った。それまで離れていた三人が、中央へ向かって走る。ただし、同時には着かない。最初にユイ。
次にハルカ。最後にリナ。三人が揃った瞬間、腕を高く上げるのではなく、互いの背中へ手を置く。客席に見せる形ではなく、三人の間で確かめ合う形だった。
「小さく見えませんか」
私が尋ねると、ERI先生は鏡越しに答えた。
「小さくていいんです」
「三千人の会場です」
「だからです。大きい場所で大きいことをすれば、広さに負ける。三人にしかできない小さな動きを、三千人が見守る時間を作る」
私は何も言えなかった。ERI先生は曲を止め、三人を中央へ集めた。
「あなたたち、上手くなった」
突然の言葉に、三人が目を見開く。
「でも、上手いだけなら呼ばなかった。上手い子は他にもいる」
先生の視線が、リナへ向く。
「リナ。前に教えていた頃のあなたは、自分一人で全部の空間を取ろうとしてた。今は、二人がいることで空間が広くなってる」
「……はい」
「泣くのは終わってから」
「泣いてません」
「そう」
ERI先生の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「もう一回、頭から」
5
準備が本格化すると、一週間は曜日の区別を失った。
午前は歌と体力づくり。午後は振付。夜は既存曲の構成変更と衣装合わせ。空いた時間に取材、ラジオ、テレビ収録が入る。
私は一日の予定を十五分単位で組んだが、必ず三十分の空白を二か所作った。遅れを吸収するためではない。三人が何もしないための時間だった。
最初の数日は、三人ともその空白へ自主練習を入れようとした。
「休憩です」
「水を飲みながら振りだけ確認します」
リナが鏡の前に立つ。
「駄目」
「五分だけ」
「駄目」
「青木さん、前より厳しくなってません?」
「休むことに関してはね」
ユイはソファへ横になると、三分で眠った。ハルカは歌詞ノートを開いたまま目を閉じ、リナは最後まで抵抗したあと、床へ座って壁にもたれた。
十分後には、三人とも眠っていた。私は照明を一段落とし、廊下へ出た。ちょうど高橋から電話が入る。
『先行申込の途中経過、見た?』
「まだです」
『開始から二時間で、三千四百件を超えた』
「重複は?」
『同行者との重複を除いた一次集計で三千百。用意した二千四百席を超えてる』
胸の奥に、安堵と別の重さが同時に生まれた。
「落選が出ます」
『そうなる』
「追加席は?」
『機材配置を変えれば百二十席。ただし、左右の見切れが増える』
「売りません。見えない席を、熱量に甘えて出すべきではない」
『分かってる。確認しただけ』
「一般販売分も減らしません」
『それも同意する』
「高橋さん、今日は素直ですね」
『君に言われたくない』
廊下の小窓から、スタジオの中を見た。三人はまだ眠っている。
「申込が多いことは、今は本人たちへ伝えません」
『どうして?』
「安心すれば気が緩むから、ではありません。期待されている数を知ると、その分だけ背負おうとする。今は目の前の一曲に集中させたい」
『了解。完売したら?』
「その時は伝えます」
『青木さん』
「はい」
『三人、休めてる?』
以前の高橋なら、最初に進捗を聞いていた。
「今、全員寝ています」
『珍しい』
「寝かせました」
『もっと珍しい』
「私も学びます」
『大阪の帰りに何があったのか、少し分かった気がする』
「勝手に分からないでください」
『はいはい』
通話を切って数分後、休憩終了のタイマーが鳴った。三人は同時に目を覚ました。
「私、寝てました?」
ユイが尋ねる。
「寝てた」
「どれくらい?」
「二十七分」
「もったいない」
「必要な二十七分よ」
ハルカが大きく伸びをする。
「頭、すっきりした」
リナは黙って立ち上がり、鏡の前へ戻った。だが、今度はすぐに曲を流さず、ゆっくり呼吸を整えた。ファンクラブ先行の結果が出たのは、その三日後だった。
二千四百席に対し、有効申込は四千八百七十一件。一般販売分六百席も、発売開始から七分で予定枚数を終了した。三千席は完売した。報告を受けた時、三人は声を上げなかった。
ハルカは両手で口元を覆い、ユイは何度も画面を更新し、リナは「本当に?」と一度だけ聞いた。
「本当に」
私が答える。
「三千十二席、すべて行き先が決まった」
「三千人が来る」
ユイの声が震えた。
「来たかったのに、来られない人もいる」
ハルカが言う。
「だから配信を入れる」
私は新しい資料を三人へ渡した。
「LUMINA HOME会員向けに、定点ではなく正式な配信を行う。会場へ来られない人にも、同じ時間を届ける」
「最初から決めてたんですか」
「売れ行きを見てから判断する予定だった。今日、正式に決めた」
リナが資料を読む。
「カメラが六台。撮影動線が増える」
「振付の邪魔はさせない。明日のリハーサルからカメラ位置を床へ入れる」
「分かりました」
喜ぶ時間は、長く続かなかった。三千席が埋まったことで、空席への恐怖は消えた。代わりに、三千人の期待が具体的な重さを持った。
「青木さん」
その夜、事務所を出る前にハルカが私を呼び止めた。
「売り切れたのに、怖さが増えました」
「正常よ」
「こんなに待ってくれてる人がいるのに、私たちが期待より小さかったらどうしよう」
「期待より大きく見せようとしないで」
「でも」
「今日まで作ってきたものを、正確に渡す。それ以上のことをしようとすると、三人の輪郭が消える」
ハルカは廊下の床を見た。
「三千人を一度に背負わなくていい。一曲の中では、一つの言葉だけ。視線は一人ずつ。ERI先生もそう言ったでしょう」
「はい」
「私も同じ。三千人の安全を一度に考えたら動けなくなる。入場、客席、救護、退場。一つずつ分ける」
「青木さんも怖い?」
「ずっと怖い」
ハルカが少し笑った。
「安心しました」
「失礼ね」
「青木さんが怖くても進めるなら、私も進める気がしたから」
廊下の照明を消し、二人で事務所を出た。その二日後、高橋と収支の詰めを行った。東京セントラルホール、三千十二席。チケット、物販、配信、グッズの追加生産。数字が一行ずつ埋まっていく。
「販売見込み、標準案でいこう」
高橋がモニターを指す。
「保守案でお願いします」
「完売してるんだよ、もう」
「物販の話です」
「完売してる公演の物販を、なぜ保守で見る」
「在庫回転を優先したいからです」
「回転させたら売り切れる。売り切れたら機会損失だ。青木さんが一番嫌う言葉だろ」
その通りだった。二年前の私なら、同じことを言っていた。
「追加生産の納期は」
「間に合う」
「では、初回を保守、追加を厚めに」
「同じことだ。総量は変わらない」
変わらない。総量が同じなら、営業利益も同じだ。私は次の行へ逃げた。
「配信は今回、行いません」
「なぜ」
「会場へ来た三千人の体験を優先します」
「アーカイブだけでも残そう。地方のファンが見られない」
「LUMINA HOMEで写真と言葉を届けます」
「収益が三千万違う」
三千万。平均に乗れば五百万、三倍で千五百万。頭の中で、勝手に計算が走った。
「それでも、行いません」
「理由が弱い」
「弱くありません」
「弱いよ」
高橋がモニターから目を離し、こちらを見た。
「青木さん。この一か月、あなたは全部の項目で下を選んでる」
「安全側です」
「安全側の理由は、毎回違う。在庫、身体、体験、動線。理由が毎回違う時は、本当の理由が別にある」
会議室の空調の音だけが残った。
「僕はプロデューサーだ。数字を上げるのが仕事で、あなたが止めるのが仕事だ。それはいい。四年間そうしてきた。でも今のあなたは、止めてるんじゃない」
高橋はペンを置いた。
「隠してる」
私は、その一語を正面から受けた。受けたが、返せなかった。
「三人のことか」
「違います」
「事務所の資金繰りか」
「違います」
「じゃあ何だ」
「経営の問題です。私が処理します」
「僕は共同で仕事をしてる相手だ」
「ネクストウェーブとスターライトは別法人です」
言ってから、後悔した。この一年で、この人がそういう言い方をしなくなったことを、私は知っていた。高橋は、しばらく黙っていた。
「そうだね」
それだけ言って、彼はモニターの数字を保守案へ切り替えた。
「保守で組む。配信もなし。あなたの判断を通す」
「……ありがとうございます」
「礼はいらない。ただ」
彼は椅子の背へもたれた。
「一つだけ言っておく。僕は、あなたが理由を言わないことを尊重する。仕事の関係として、それが正しい。でも、尊重するというのは、信じるということとは違う」
「分かっています」
「分かってないと思う」
高橋は立ち上がり、鞄を取った。
「僕が一年前、あなたに何かを隠したとき、あなたは激怒した。あれは正しかった。だから覚えておいて。今のあなたを見て、僕が何を学ぶかを」
扉が閉まる。私は、誰もいない会議室のモニターを見ていた。保守案の数字が並んでいる。私が守りたかったものが、そこに一行ずつ並んでいる。
その日から高橋は、私に何も聞かなくなった。
6
公演一週間前、初めて衣装を着けて通し稽古を行った。新衣装は、青と白を基調にしていた。ハルカは深い青のロングジャケット。ユイは白を多く使った短い上着。リナは二色が鋭く交わる左右非対称のデザイン。三人が離れると別々の色に見え、中央へ集まると一つの模様になる。
「すごい」
ユイが鏡の前で一回転する。
「裾、踏まない?」
リナは自分の衣装より先に、ハルカのジャケットを確認した。
「ターンの時だけ少し怖い」
「二番の移動で右手に持てば大丈夫」
衣装担当がすぐに留め具を追加する。通し稽古では、三千人規模の公演を想定し、開演から終演までを一度も止めなかった。舞台袖には早替え用の衣装。床にはカメラの動線。曲間の映像は仮素材だが、秒数は本番と同じ。MCも時間を計り、予定を超えたら私が合図を出す。
前半は順調だった。六曲目、ハルカの衣装の留め具が外れた。彼女は歌いながら片手で押さえ、振付を続ける。ユイが立ち位置を半歩ずらし、客席側から見えにくい角度を作った。曲が終わると、袖へ入った三十秒で衣装担当が固定した。
九曲目、ユイが暗転中のテープを一つ見落とした。リナが肩へ触れ、正しい位置へ導く。十二曲目、リナの呼吸が乱れた。激しい曲のあとに『同じ朝を迎えるまで』が続く構成では、最初の静止が保てない。
通しを終えたあと、ERI先生が真っ先に進行表を手に取った。
「十一曲目と十二曲目の間、映像を十五秒伸ばして」
「全体が押します」
私は答えた。
「押さないように、前のMCを十五秒削る」
「どこを?」
ハルカが尋ねる。
「客席への煽りを一つ減らす。声を出させるより、三人が呼吸を戻す方が大事」
高橋も頷いた。
「賛成」
変更が進行表へ書き込まれる。私は全体の終了時刻を再計算した。
「これなら、予定内です」
「青木さん」
ERI先生が私を呼んだ。
「はい」
「本番でも、崩れたら止められますか」
「止めます」
「三千人が待っていても?」
「待ってもらいます」
「映像が回っていても?」
「同じです」
ERI先生は私の目を見て、それから一度だけ頷いた。
「なら、任せます」
その日の最後に、『同じ朝を迎えるまで』だけをもう一度踊った。照明は本番用の明るさに近づけ、スタジオの鏡を暗幕で隠した。三人は自分の姿を確認できない。
イントロが流れる。ハルカが中央に立つ。ユイが背を向けて歩く。リナは遠い位置で待つ。
自分の形が見えないからこそ、三人は互いの呼吸を聞いた。ハルカの靴音。ユイが衣装を翻す音。リナが息を吸う音。
三人の距離が少しずつ縮まる。サビでユイが中央へ着く。次にハルカ。リナは急がない。
二人が来ることを信じ、二人が待っていることを信じ、最後の一歩を踏み出す。三人の手が、互いの背中へ触れた。小さな形だった。
それでも、広いスタジオの空気が、その一点へ集まった。曲が終わる。ERI先生は、すぐには何も言わなかった。長い沈黙のあと、床へ置いていたペンを拾う。
「振付は、これで完成」
リナが息を呑んだ。
「もう直さないんですか」
「直すのは振付じゃない。ここから先は、毎日違う三人を、この形へ連れてきなさい」
「はい」
「本番で同じものを再現しようとしないで。三千人が入れば、空気も音も変わる。その日にしかない距離を使って」
ユイが頷く。ハルカは目元を拭った。
「まだ泣くのは早い」
ERI先生が言う。
「本番が終わってません」
「はい」
「それとリナ」
「はい」
「少しは驚いた」
リナの目から、今度こそ涙が落ちた。ERI先生は見なかったことにするように、スタッフへ片づけの指示を出した。
7
公演前日、会場で最終リハーサルを行った。空だったステージには、二枚の大型スクリーンと照明の柱が立ち、床には青と白の細い線が走っている。客席にはまだ誰もいない。けれど、三千十二席のすべてに、明日座る人の番号が割り当てられていた。
私は朝から、各部署の責任者と確認を続けた。入場口は四列。ファンクラブ先行、一般、招待、車椅子利用者で導線を分ける。救護室には看護師二名。客席の各階へAEDの位置を再周知。終演後は規制退場。物販列が避難経路を塞がないよう、ロビーの床へ待機線を引く。
ステージ以外にも、三千人分の準備がある。昼過ぎ、高橋が客席後方の音響卓へ来た。
「少し休んだ?」
「昼食は取りました」
「休んだか聞いた」
「十五分、座りました」
「それは仕事の一部?」
「進行表を確認していました」
「休んでないな」
高橋は私の手からファイルを取り上げた。
「返してください」
「十分だけ」
「確認が残っています」
「確認する人を育てたのは君だろ」
舞台袖を見ると、サブマネージャーがスタッフと導線を確認している。音響卓では担当者がキューシートを読み合わせ、救護責任者からも最終報告を受けていた。
私が手を離しても、現場は動いている。
「五分」
「十分」
「七分」
「交渉成立」
高橋と並んで、最後列へ座った。ステージでは、三人が新曲の立ち位置を確認している。声は出していない。広い舞台の上で、歩数だけを合わせていた。
「ここまで来たね」
高橋が言う。
「まだ来ていません。明日の退場が完了するまでです」
「そう言うと思った」
「高橋さんは、怖いですか」
「今朝からずっと」
「顔に出ていません」
「仕事だから」
「私は出ています?」
「いつもより、少し」
「どこに?」
「確認の回数が多い」
図星だった。
「同じ項目を三回見てる」
「見落としがあるかもしれない」
「青木さん」
高橋の声が低くなる。
「完璧にしようとするのは、見落とさないためだけじゃない。何か起きた時、自分を責める理由を減らしたいからだ」
「責任者が責任を負うのは当然です」
「全部を自分一人の責任にするのは違う」
私はステージを見た。大阪へ向かう車の中で、管理することと向き合うことを取り違えていたと話した。今も私は、不安を表へ書き出し、確認欄を埋めることで落ち着こうとしている。
「何か起きたら、君だけで対処しない」
高橋が続ける。
「僕もいる。舞台監督も、会館の人も、医療スタッフもいる。三人だって、守られるだけじゃない」
「分かっています」
「今度は、分かってる声だ」
「七分経ちました」
「逃げたな」
「戻ります」
ファイルを受け取り、立ち上がる。ステージへ向かう途中、高橋が背中へ声を投げた。
「青木さん」
振り返る。
「明日、楽しんで」
「努力します」
「そこは、はいでいい」
「……はい」
最終リハーサルは、大きな問題なく終わった。三人が客席へ降り、最後列からステージを見た。最初に会場へ来た日と同じ場所だった。
「あの時より、近く見える」
ユイが言う。
「スクリーンがあるから?」
ハルカが尋ねる。
「それもあるけど、どこに立つか分かってるから」
リナは無人のステージ中央を見つめた。
「明日は、ここから三人を見る人がいる」
「三千人の中の一人だね」
ユイが最後列の椅子へ触れる。
「この席の人にも、ちゃんと届くかな」
「届く」
ハルカが答えた。
「届かなかったら、届くまで歌う」
「予定時間は守って」
私が言うと、三人が笑った。会場を出る前に、ステージ中央で四人だけの円陣を組んだ。
「明日の集合は朝六時。睡眠は七時間以上。帰ったら湯船には長く入らない。スマートフォンは二十二時まで」
「円陣で注意事項を言う人、初めて見ました」
ユイが呆れる。
「大事なことよ」
「もっと、気合いが入る言葉ないですか」
私は三人を見た。七週間、ここへ来るために積み重ねた時間が、それぞれの顔に残っていた。疲労も、不安も、期待も、隠してはいない。
「明日、ここで会いましょう」
ハルカが笑う。
「それだけ?」
「今夜は、それで十分」
四人の手を重ねる。
「明日、ここで」
「はい」
「絶対に」
「遅刻しないでね」
最後にユイが言い、円陣が崩れた。
その夜、私は自宅へ戻ってから、進行表を一度だけ開いた。確認したい項目はいくつも浮かんだ。
だが、ファイルを閉じた。高橋の言葉を思い出し、スタッフから届いていた最終報告へ「確認しました」とだけ返信する。三人のグループメッセージには、ハルカから夕食の写真、ユイから入浴後の時計、リナからストレッチを終えたという短い報告が届いていた。
『全員、二十二時には寝ること』
そう送ると、三つの返事がほぼ同時に並んだ。
『はい』
『おやすみなさい!』
『青木さんも』
私はスマートフォンを伏せた。眠りは浅かった。何度か目を覚まし、そのたびに時計を確認した。夢の中では、三千席がすべて空いていた。次に目を閉じると、今度は三千人が一斉に私へ何かを尋ねていた。答えようとしても声が出なかった。
午前四時三十分、目覚ましが鳴る前に起きた。カーテンを開ける。東京の空は、まだ深い青の中にあった。雨は降っていない。
顔を洗い、用意していた黒いスーツへ着替える。机の上に置いた進行表、連絡網、予備の充電器、救急用品を一つずつバッグへ入れる。確認は一度だけ。
玄関を出る時、左手首へ目がいった。大阪でユイが結んだ青と白の糸は、まだ切れずに残っていた。
午前五時二十分、ハイエースで三人の住むアパートへ着いた。私が連絡するより先に、玄関のドアが開く。最初に出てきたのはリナだった。髪はまだ整えていないが、目は覚めている。続いてハルカ。最後にユイが大きなバッグを抱えて階段を下りてきた。
「おはようございます」
三人の声が重なる。
「眠れた?」
「六時間半」
リナが答える。
「私は七時間」
ハルカが言う。
「ユイは?」
「寝ました」
「何時間?」
「寝ました」
「車で寝なさい」
「はい」
荷物を積み、全員が乗り込む。助手席にはハルカ。後部座席にはユイとリナ。大阪へ向かった日と同じ席だった。
「全員いる?」
「ハルカ、います」
「ユイ、います」
「リナ、います」
「青木、います」
四人分の声を聞いて、エンジンをかける。街はまだ眠っていた。新聞配達のバイクが走り、コンビニエンスストアの白い灯りだけが道路を照らしている。東の空が、わずかに薄くなり始めていた。
ユイは宣言どおり、走り出して五分で眠った。リナは窓の外を見ている。
「怖い?」
ハルカが前を向いたまま尋ねた。
「怖い」
リナは素直に答えた。
「ハルカは?」
「怖い」
「青木さんは?」
「怖いわ」
三人の答えを聞いていたのか、眠っていたユイが目を閉じたまま言った。
「私も、怖いです」
車内に小さな笑いが起きた。
「全員怖いなら、大丈夫だね」
ユイが続ける。
「どういう理屈?」
リナが尋ねる。
「誰も一人で怖がってないから」
誰も反論しなかった。
午前五時五十八分、東京セントラルホールの搬入口へ着いた。空は明るくなり始めている。建物の中では、すでにスタッフが動いていた。搬入口の扉が開き、舞台監督がこちらへ手を上げる。
私はエンジンを止めた。
「着いたわよ」
三人が顔を上げる。昨日まで空だった三千十二席に、今日は人が入る。七週間かけて作った歌と振付が、初めて誰かの前へ渡される。ハルカがドアへ手をかけた。
リナが衣装バッグを持つ。ユイが両頬を軽く叩く。私も進行表を抱え、車を降りた。朝の冷たい空気が、四人の間を通り抜ける。
冷えていた空気が、少しずつ緩み始めていた。ライブの日の朝が来た。




