第32章 四方にひらく光――武道館前夜
1
東京セントラルホール公演の翌朝、私は午前六時四十分に目を覚ました。眠りは深かった。目を開けた瞬間、自分がどこにいるのか分からなかった。白い天井、厚いカーテン、枕元の小さな時計。数秒遅れて、ホテルの部屋だと思い出す。
耳の奥には、まだ三千人の歓声が残っていた。ベッドの上で身体を起こす。左手首の青と白の糸は切れていない。昨夜、三人と一緒にテーブルに置いたスマートフォンを取りに、リビング付きの部屋へ向かった。
扉を開けると、ソファにリナが座っていた。部屋着のまま、両手で温かいお茶のカップを包んでいる。テーブルの中央には、四台のスマートフォンが昨夜と同じ向きで伏せられていた。
「早いわね」
「青木さんも」
「眠れた?」
「眠れました。起きたら、最初に武道館のことを思い出しました」
リナは窓の外へ目を向けた。
「夢じゃなかった」
「ええ」
「昨日までは、武道館って、遠くにある名前でした。目標って言えば格好がつくから口にしてた部分もあったと思います」
「今は?」
「怖いです」
昨日から、リナは恐怖を隠さなくなっていた。
「三千人の会場で、あれだけ広かった。武道館は、その何倍もある」
「客席の作りも違う」
「聞きました。三百六十度なんですよね」
私はリナを見た。
「誰から?」
「高橋さんが、発表のあとに少し。詳しいことは青木さんから聞いてって」
「あの人は」
思わずため息が出る。武道館の正式資料は今日の正午までに届くはずだった。私はまだ、日程と会場が決まっていることしか知らない。
「三百六十度って、どう踊るんですか」
「まず、資料を見てから」
「正面がない」
「そうね」
「ずっと誰かに背中を向けることになります」
「だから、全方向を正面にする方法を考える」
リナはカップの中を見た。
「ERI先生、喜びそう」
「間違いなく」
寝室の扉が開き、ユイが髪を乱したまま出てきた。
「おはようございます……」
「おはよう」
「何時ですか」
「六時五十分」
「まだ寝ていい?」
「朝食は八時」
「じゃあ、あと一時間」
ソファへ倒れ込もうとしたユイの目に、テーブルのスマートフォンが入った。
「見ていいですか」
「七時までって約束だったでしょう」
「あと十分」
「待ちなさい」
「昨日の映像、消えてないかな」
「消えないって言ったでしょう」
ユイは未練を残しながら、リナの隣へ座った。
「武道館、夢じゃなかった?」
「同じこと聞いた」
リナが答える。
「だって、起きたら不安になった」
「現実よ」
私が言うと、ユイは両頬を押さえた。
「どうしよう」
「まず顔を洗って」
「そうじゃなくて」
「顔を洗ってから考えて」
七時ちょうどにハルカが起きてきた。四人でテーブルを囲み、スマートフォンを表へ返す。一斉に画面が光った。通知の数は、昨夜よりさらに増えていた。
公式アカウントのフォロワーは一晩で数万人増え、新曲『同じ朝を迎えるまで』の映像は、複数の投稿を合わせて数百万回再生されている。武道館発表の公式映像には、ファンだけでなく、音楽関係者、タレント、ダンサーからも祝福が寄せられていた。
「本当に、消えてない」
ユイが呟く。
「むしろ増えてる」
ハルカは祝福の言葉を読みながら、何度も目元を押さえた。リナは数字より、投稿された映像を見ていた。二階席後方から撮影された新曲。中央へ向かう三人。最後の一歩を踏み出す自分。
「私、遅く見える」
「待ってるからでしょ」
ユイが答える。
「遅いのに、置いていかれて見えない」
リナは同じ場面をもう一度再生した。
「二人が待ってるから」
朝食が届くまで、私たちは昨夜の公演について話した。良かった場面だけではない。ユイのイヤーモニターが外れたこと。ハルカがアンコールで声を詰まらせたこと。リナが新曲の最初に客席の正解を探しかけたこと。私が暗転を事故だと判断し、客電を点ける直前までいったこと。
「あの発表、止まるところだったんですか」
ハルカが驚く。
「現場責任者の進行表にない完全暗転よ。止めるのが普通です」
「高橋さんとは?」
「昨夜話した。私に伏せたことは、高橋さんの判断だった。安全に必要なスタッフだけには共有していたけれど、私は外されていた」
「怒ってます?」
ユイが恐る恐る尋ねる。
「怒ってる」
三人が黙った。
「武道館を用意してくれたことには感謝している。でも、別の話よ。驚かせるために安全管理の線を越えてはいけない」
リナが頷いた。
「私たち、青木さんも知ってると思ってました」
「ハルカが袖を見た時、答えられなかった」
「あの時、青木さんも同じ顔してた」
ハルカが言う。
「驚いて、泣きそうで、でも怒ってた」
「そんなに分かりやすかった?」
「私たちには」
四人の間に、小さな沈黙が落ちた。
「武道館、やりたい?」
私は三人へ尋ねた。発表されたからといって、気持ちを確認しないまま進めることはできない。
「やりたいです」
ハルカが答える。
「怖いけど、昨日の三千人と、その先にいた人たちへ、もっと大きな場所で歌いたい」
「私も」
ユイが続く。
「昨日、最後列の人まで一人ずつ見るって決めたら、三千人が数字じゃなくなりました。武道館でも、一人ずつ見たい」
リナは少し時間を置いた。
「やります」
「理由は?」
「昨日まで、武道館は自分がどこまで通用するか試す場所だと思ってました。でも今は、三人でどこまで空間を作れるか確かめたい。背中を向けても、繋がっていられるか」
私は三人の答えを聞き、頷いた。
「正式資料を見て、もう一度決める。それまでは、発表されたから断れないとは考えないで」
「断る可能性、あるんですか」
ユイが目を丸くする。
「条件に三人を守れない部分があれば、変えさせる。変えられなければ断る」
「武道館でも?」
「武道館だからよ」
ハルカはしばらく私を見たあと、深く頷いた。
「四人で決めましょう」
「ええ」
午前十一時五十八分、高橋から資料が届いた。全百八十六ページ。表紙の中央に記された文字を見た瞬間、昨夜のスクリーンが蘇った。
『LUMINA 日本武道館単独公演 実施計画書』
公演日は、十二週間後だった。
2
武道館へ向けた最初の会議は、翌々日の午前九時に始まった。出席者は、高橋、私、大類社長、ネクストウェーブの制作責任者、舞台監督、照明、音響、映像、警備、特殊効果、衣装、広報。会議室の長いテーブルが資料とノートパソコンで埋まった。
正面のモニターに、武道館の平面図が表示される。中央に円形ステージ。そこから東西南北へ短い花道が伸びている。客席は、舞台を三百六十度囲む。
販売可能席は一万一千二百八十六席。
「エンドステージではなく、センターステージを選んだ理由から説明します」
高橋が立ち上がった。
「LUMINAは、客席との距離を縮めながら大きくなってきた。武道館で一方向だけを正面にすると、最も遠い席との距離が長くなる。中央に置けば、どの席からも物理的な距離を抑えられる」
「物理的な距離は縮まっても、演出の難度は上がります」
私は言った。
「三人しかいない。誰かが一方向を向けば、残り三方向には背中が見える。映像スクリーンも、四面必要になる」
「だから、正面を作らない」
「言葉では簡単です」
「簡単だとは言ってない」
高橋は次の図面を表示した。円形ステージの外周に沿って、四つの小型スクリーンが吊られる。中央上空には照明とスピーカーのリング。ステージ床には回転機構を入れず、三人自身が方向を変える。
「回転ステージは使わないんですか」
舞台監督が尋ねる。
「使わない。機構のトラブル、段差、騒音が増える。三人が自分の足で方向を選ぶ」
リナが聞けば喜びそうな答えだった。
「花道は四本。長さは同じ?」
「東西が十二メートル、南北が九メートル」
「左右ではなく、方角で管理することになります」
「そうなる」
「暗転中に方角を失う可能性がある。床の蓄光表示を色分けしてください。北は青、南は白、東は黄、西は赤。スタッフ用のキューシートも統一します」
舞台監督が書き込む。
「三人のイヤーモニターは?」
音響責任者が図面を拡大した。
「センターステージは無線が不安定になりやすい。アンテナを四方向に分散し、予備回線を二系統。客席の反響も一方向ではないため、リハーサル時間を通常より長く取ります」
「避難導線」
私は警備責任者へ向く。
「ステージが中央にあると、アリーナ席が四分割されます。救護搬送路を一本にしないで」
「東西に二本確保します。アリーナ各区画に救護スタッフを置きます」
「退場は?」
「スタンド席をブロックごとに分け、アリーナは最後。全退場まで最大四十五分を見込みます」
会議は昼を過ぎても終わらなかった。予算は、三千人ホールの数倍だった。円形ステージ、吊り下げ式の四面映像、照明リング、無線機器、警備員、救護、運搬、会場使用料。売り切っても、演出を増やしすぎれば利益は残らない。
「炎を入れたい」
高橋が、特殊効果のページを開いた。私は図面から顔を上げた。
「どこへ」
「『夜明けの向こう』の間奏と、『まだ名前のない光』の最後。今までのLUMINAにはなかった一瞬を作る」
円形ステージの外周に、八つの赤い印が表示された。特殊効果の責任者が説明する。
「炎柱は最大二・五メートル。ただし八台を同時には上げません。東西南北を二台ずつ分け、曲に合わせて二方向、次に反対側の二方向。最後だけ八台です。噴射は一秒未満。出演者の立ち位置から三・五メートル、客席最前列からは規定以上の距離を取ります」
「衣装は?」
「該当曲は防炎処理した生地に替えます。ヘアスプレーも可燃性のものは使わない。消防への申請、会場立ち会い、消火器と専任スタッフの配置まで含めた見積もりです」
私は赤い印と三人の動線を重ねた。
「三・五メートルでは足りません。三人は歌いながら動く。振りを間違えなくても、汗で床が滑ることがある。安全域を四メートルに広げてください。赤い床表示から靴一足分でも入った場合は、現場判断で噴射を止める。誰の許可も待たない」
「それだと花道への移動が四拍遅れます」
舞台監督が言う。
「振り付けを変えます。炎に三人を合わせるのではなく、三人が安全に立てる場所へ炎を合わせてください」
高橋は図面を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「分かった。炎は残す。動線を優先して配置を変える」
「残す前提で話していません」
「でも、全部削れとは言わなかった」
「安全が成立するなら使います。成立しなければ当日でも止めます」
「その判断は青木さんに任せる」
派手さのためだけではない。暗い時間を越えてきた三人の背後から、本物の熱が立ち上がる。その一秒が歌の意味を押し広げるなら、使う理由はあった。
「銀テープは?」
制作責任者が次の図面を出した。センターステージを囲む十二基のテープキャノン。噴射口は客席の上ではなく、ステージ外周から斜め上へ向けられている。
「アンコール最後の曲で、青と銀の二色を四方向へ飛ばします。北だけ、アリーナだけに偏らないよう、風圧と角度を変えた三種類を使う。スタンド前方まで届く長尺、アリーナへ落ちる中尺、ステージ上空に残る短尺です」
「二階席の後方までは届かない」
「そこは照明リングから細い紙テープを落とします。噴射と同じ瞬間に四面スクリーンへ光の円を出す。どの席にも、何かが届く形にします」
テープには、小さく『同じ円の中で』と印字される。
「目や口に入らない素材。回収導線も決めてください。終演後の清掃時間と処分費まで予算へ入れる」
「持ち帰れるものと、回収するものを色で分けます」
「発射音は?」
「通常より低圧の機材を使います。音響と同じキューを受けますが、誤発射防止の鍵は特殊効果責任者が管理します」
高橋が頷いた。
「照明は、炎の赤に負けない青と白を作る。炎が消えた直後、客席全体へリングを回す」
「低音を重ねすぎないでください。武道館は反響が長い。炎もテープも、一瞬で十分です。歌が埋もれたら意味がない」
演出の議論が一段落すると、今度は物販の資料が配られた。表紙には『日本武道館公演 商品計画・収支試算』とある。定番のTシャツとタオルに加え、今回は品ぞろえを増やす。
北、東、南、西を四つの色で配したマフラータオル。円形ステージを線画にした黒と白のTシャツ。四方向の色へ切り替えられるペンライト。メンバー別のアクリルスタンド。三人の練習風景と短い言葉を収めた小冊子。円環をかたどったキーホルダー。過去のライブ写真から選んだランダムフォトカード。ファンクラブ会員向けには、会員証を入れられる記念ホルダーも用意する。
「増やしすぎると、売れ残りが出ます」
私は商品ごとの原価表をめくった。
「Tシャツはサイズごとの在庫が読みにくい。事前受注を増やして、当日分は三千人ホールの販売比率を基準にする。アクリルスタンドとフォトカードも、人気差を見込んで数を偏らせないでください。三人組なのに、誰かだけ余っている棚を作りたくない」
「セット販売を入れれば、差は抑えられます」
「単品でも買えるようにする。セットの方だけ特典を増やしすぎない」
高橋が収支表をスクリーンへ映した。一万一千二百八十六席をすべて販売した場合のチケット収入。そこから会場使用料、舞台設営、照明、音響、映像、警備、救護、特殊効果、運搬、人件費、権利処理費、広告費を引く。炎とテープ、四面スクリーン、通常より長い設営時間が、制作費を大きく押し上げていた。
「満席でも、物販が三千人ホールと同じ購入率なら利益は薄い」
高橋が言った。
「薄い、では決裁できません」
私は保守的な数字へ計算を戻した。
「物販購入率を五十五パーセント、客単価を過去実績より一割低く置く。チケットは九十パーセント販売で計算。追加機材と当日残業を予備費に入れても、ここで黒字になる線を作ってください」
「演出を減らす?」
「先に無駄を減らします。設営日のトラック便をまとめる。装飾は一度しか使えない造作を避ける。Tシャツは事前受注、冊子は会場分を抑えて後日受注を残す。売れたように見せるための過剰在庫はいりません」
「販売窓口を増やすと人件費が上がる」
「列が長すぎれば、開演前に買えない。買う意思のある人を逃す方が大きい。屋外窓口と場内窓口を分け、事前受取列を別にする。会計時間まで含めて試算してください」
高橋が数字を打ち直す。保守案、標準案、完売案。三つの列が並んだ。標準案では、炎と銀テープを残し、スタッフの賃金を削らず、次の活動資金まで確保できる。完売案でも利益だけを膨らませず、三人の休養日とスタッフへの追加手当を先に積んだ。
「これなら、しっかり残る」
高橋が言った。
「残った額だけで成功を決めないでください」
「分かってる。でも、赤字を感動で隠す公演にはしない」
「ええ。次へ進める利益を残します」
武道館に立つことは、夢を買うことではない。舞台を支える人へ正しく払い、三人の身体を守り、その先の活動を続ける。そのすべてを成立させて初めて、夢は仕事になる。
私と高橋は、何度も意見をぶつけた。以前なら、高橋が結論を先に持ち込み、私は現場へ落とすために交渉していた。今回は違った。すべての資料が最初から共有されている。
予備映像系統のデータ一覧まで、付属資料に入っていた。休憩中、高橋が紙コップのコーヒーを二つ持って私の隣へ来た。
「今回は、隠してない」
「当然です」
「百八十六ページ、全部渡した」
「不足があります」
「どこ?」
「出演者の休憩計画。会場図と演出ばかりで、三人が座る時間が決まっていない」
「演出が固まってからでいいと思った」
「逆です。休憩時間を先に確保して、残りへ演出を入れる」
「厳しいな」
「武道館だからです」
昨夜、三人へ言った言葉を繰り返す。高橋はコーヒーを一口飲んだ。
「暗転の件、まだ怒ってる?」
「怒っています」
「即答だね」
「でも、仕事はします」
「それは分かってる」
「高橋さん」
「何?」
「私が怒っているのは、秘密にされたことだけではありません。驚きが成功したことで、やり方まで正しかったことにされるのが嫌なんです」
高橋はしばらく黙った。
「成功すれば許される。それを続けると、いつか大きな事故になる」
「うん」
「武道館では、驚かせる必要があることも、先に共有してください」
「驚かせる必要があること、という言い方は変だけど、分かった」
「返事は?」
「約束する。演出データも進行も、全部共有する」
「お願いします」
会議へ戻ると、高橋は最初に出演者の休憩計画を議題へ加えた。十二週間の準備が始まった。
3
三百六十度ステージの原寸を再現できるスタジオは限られていた。私たちは郊外の倉庫型スタジオを三週間押さえ、床へ直径十八メートルの円を描いた。東西南北へ伸びる花道も、武道館と同じ長さでテープを引く。
最初にその円へ入った三人は、しばらく中央で立ち尽くした。
「鏡がない」
ユイが言った。
「本番にもない」
ERI先生が答える。
「どっちが前ですか」
「全部」
「全部って」
「北を向けば南には背中が見える。東を向けば西には横顔が見える。それを失敗だと思わないこと」
リナが円の外周を歩く。
「三人が別々の方向を向けば、どこかには顔が見える」
「でも、三人が揃って見えない」
ハルカが言う。
「揃える瞬間と、分ける瞬間を作る」
ERI先生は三人を中央へ集めた。
「まず、一曲目。今までの振付を全部忘れて」
既存曲『夜明け前の境界線』は、正面のある振付だった。三人が客席へ向かって三角形を作り、サビで横一列に並ぶ。三百六十度では、その横一列が、南北の客席からは一本の線に重なって見える。
「ハルカ、北。ユイ、東。リナ、西」
三人が別方向を向く。
「南は?」
ユイが尋ねる。
「最初の八カウントは背中を見る」
「置いていかれませんか」
「背中にも表情はある。肩、首、指先で歌いなさい」
音が流れる。三人は互いの顔が見えない状態で踊った。最初のターンで、ユイが方向を間違えた。北へ行くはずが西へ入り、リナとぶつかりそうになる。
「止めて」
ERI先生の声。
「ごめんなさい」
「謝る前に、どこで分からなくなった?」
「回ったあと、正面を探しました」
「正面はない」
「分かってるんですけど、身体が」
「身体は、今まで何千回も鏡へ正面を合わせてきた。十二週間で癖を変える」
床には方角ごとの色が貼られた。北は青。南は白。東は黄。
西は赤。三人は曲ごとに、自分がどの色から始まり、どの色へ終わるかを覚えた。
しかし、色だけを見れば視線が下がる。
「床を見ない」
ERI先生が言う。
「でも、位置が」
ハルカが息を切らす。
「二人を見て」
「二人も動いてます」
「だから見るの。テープは最後の確認。最初の基準は、三人の距離」
円形ステージでは、誰か一人のずれが全体の方向を変える。リナが速ければ、三角形が回りすぎる。ユイが客席へ寄りすぎれば、残る二人の距離が開く。
ハルカが歌を守ろうと中央へ残れば、反対側の客席が遠くなる。これまで以上に、三人は互いを見なければならなかった。新曲『同じ朝を迎えるまで』も作り直した。
三千人ホールでは、三人が最も遠く離れたあと、中央へ向かって一方向に走った。武道館では、三人が円周上の三方向へ離れ、中央へ戻る。
「最後に誰が戻る?」
ERI先生が尋ねる。
「私です」
リナが答える。
「同じでいいの?」
リナは考えた。
「毎回変える?」
「理由は?」
「この曲で待つのは、私だけじゃないから」
ERI先生の目が少し細くなる。
「続けて」
「三千人ホールでは、私が二人を信じる振付でした。でも、武道館では客席も全方向にいる。誰か一人が待つ形より、三人が交代で待った方が、曲の意味が広がる」
「ハルカとユイは?」
「やりたい」
ハルカが答えた。
「私も」
ユイが続く。最初のサビはリナが最後に戻る。二度目はユイ。最後はハルカ。
待つ者と、帰る者が入れ替わる振付になった。練習は一日六時間を超えないようにした。
それでも、三百六十度の負担は大きかった。方向転換が増え、移動距離も伸びる。観客へ背を向けないよう意識しすぎると首と腰へ力が入る。イヤーモニターから聞こえるクリックと、自分たちの足音、客席の反応を同時に処理しなければならない。
四日目、ユイが花道の端で足を止めた。
「怖い」
床のテープの外側は、実際には客席へ一段下がる位置だった。スタジオは平面だが、本番の高さを想像すると足がすくむ。
「端まで行かなくていい」
私が言う。
「でも、武道館ではここまで」
「客席へ近づくことと、危険な場所へ行くことは違う。端から一メートル内側を限界にする」
「一番前の人、遠くならない?」
「一メートルで気持ちは遠くならない」
私は舞台図面へ赤い線を加えた。立入禁止の余白。高橋はその変更を見て、何も反対しなかった。
「もっと近づけと言わないんですね」
「約束したから」
「何を?」
「全部共有する。安全の判断は君に任せる」
「覚えていたんですね」
「僕を何だと思ってる?」
「忘れたふりが上手い人」
「厳しいな」
高橋は赤い線を見た。
「一メートル下げた分、照明で花道を長く見せる。客席側のライトを一列増やせるか確認する」
私たちは少しずつ、同じ図面の上で仕事をするようになった。
4
武道館発表後、三人の予定は急激に増えた。音楽番組、朝の情報番組、ラジオ、雑誌、ウェブ取材。新曲の映像が広がったことで、これまでアイドルを扱わなかった媒体からも依頼が来た。
すべてを受けることはできない。私は広報担当と一緒に、出演の目的を一つずつ確認した。新曲を生歌で届けられる番組。三人の言葉を切り取らず、長く話せる取材。
武道館の宣伝だけでなく、これまでの活動を扱う企画。同じ質問に同じ答えを繰り返すだけの出演は減らした。最初のテレビ出演は、ゴールデンタイムの生放送音楽番組だった。
リハーサルスタジオからテレビ局へ移動し、楽屋で二時間待つ。出演時間は六分。披露するのは『同じ朝を迎えるまで』の短縮版だった。
「武道館が決まって、今の気持ちは?」
司会者との事前打ち合わせで尋ねられる。
「嬉しいです」
ハルカが答える。
「でも、決まったことと、立てることは同じじゃないと思っています。準備して、当日、来てくれる人へ届けて、初めて武道館へ立ったと言える」
「真面目だね」
司会者が笑う。ユイは少し考えてから言った。
「私は、まだ会場の真ん中に立つ自分を想像できません。だから今は、一日ずつ想像できる範囲を増やしています」
「リナさんは?」
「正面がないステージなので、毎日方向を間違えてます」
スタッフから笑いが起きる。
「本番、大丈夫?」
「大丈夫にします」
生放送では、そのやり取りがほぼそのまま使われた。歌唱が始まる。テレビ局のステージは狭く、正面がある。武道館用の振付を練習し続けた三人は、一瞬だけ戸惑った。
ユイが北を探すように視線を動かし、リナが半歩だけ円を描こうとする。だが、ハルカが二人へ目を向けた。三人の身体が、すぐ正面へ戻る。放送後、SNSには「生歌が強い」「振付の意味がテレビでも伝わった」という言葉が並んだ。
番組の廊下で、高橋が待っていた。
「今、一瞬迷った?」
「見てたんですか」
ユイが驚く。
「北を探した顔をした」
「やっぱり分かりました?」
「武道館の練習をしすぎると、通常ステージの感覚が鈍る」
私はスケジュールを見直した。
「週に一度、正面ステージの確認日を入れます。テレビ出演も、今後は舞台形状を事前に共有してください」
「仕事が増えた」
リナが呟く。
「出演を一本減らす」
「え?」
「増えた分、何かを減らす。時間は増えないから」
高橋が頷く。
「明後日の情報番組を僕から断る」
「スポンサーとの関係は?」
「別企画へ振り替える」
「お願いします」
三人は、私と高橋を交互に見た。
「二人、前より話が早くなりました?」
ハルカが尋ねる。
「資料が全部出ているから」
「怒ってる効果?」
ユイが言う。
「余計なことを言わない」
取材では、過去の話を求められることが増えた。誰もいないライブハウス。倉庫のアルバイト。一人で新幹線へ乗った大阪の夜。
ユイの写真流出と炎上。三人は、話す範囲を自分たちで決めた。
「喧嘩の詳しい言葉は、私たちだけのものにしたい」
リナがある雑誌の記者へ伝えた。
「でも、離れたことは隠しません。今の私たちは、喧嘩をしない三人ではなく、離れそうになった時に話せる三人だから」
記者はそれ以上踏み込まなかった。別の取材では、ハルカが「武道館の次」を尋ねられた。
「もっと大きな会場ですか。海外ですか」
「今は答えられません」
「決まっていない?」
「決めていません。武道館を次のための通過点にしたくないからです」
その言葉を聞いた時、高橋は何も言わなかった。取材が終わったあと、廊下でハルカへ声をかけた。
「いい答えだった」
「高橋さんが、三千人ホールの時に言ったからです。今日を通過点にしたくなかったって」
「覚えてたんだ」
「はい」
高橋は少し照れたように視線を外した。
5
LUMINA HOMEでは、武道館へ向けた三つの企画を始めた。一つ目は『四方の手紙』。東西南北の四方向に分かれる客席へ、会員が「武道館で届けたい一言」を送る。寄せられた言葉は、会場ロビーの四面スクリーンへ表示する。
二つ目は『ただいまの声』。会場へ来られない会員から、十秒以内の音声を募集する。開演前のロビーで、世界各地から届いた「行ってらっしゃい」を小さな音量で流す。
三つ目は、週に一度更新する写真日記『円の途中』。完成した姿だけではなく、三百六十度ステージに戸惑う三人の稽古を、スタッフが一枚の写真と短い文章で伝える。動画は使わない。曲順も衣装も演出も伏せたまま、汗で濡れた床、方角を書き込んだノート、三人が履きつぶした練習靴だけを見せる。
「失敗してるところも映すんですか」
ユイが不安そうに尋ねる。
「失敗した顔を見世物にはしない。何に困って、どう直したかは、自分たちの言葉で残す」
私が答える。
「完璧な準備だけ見せるより、同じ時間を歩いてもらいたい」
ハルカは賛成した。
「武道館当日だけ急に会うんじゃなくて、そこまでの十二週間も一緒にいたいです」
初回の写真には、床へ引かれた円の中央で、三人が別々の方向を指している姿を選んだ。ユイが東と西を取り違え、リナが「太陽が昇る方」と説明する。
「スタジオの中で太陽見えない」
「地図を覚えて」
「北を向いた時、右が東?」
「そう」
「じゃあ南を向いたら?」
「左」
「動くの?」
「方角は動かない」
投稿の下には、会員からの言葉が次々に並んだ。
『ユイちゃんが武道館で迷子になりませんように』
『床に大きく東西南北を書いて』
『リナ先生の地理講座』
次の更新では、ERI先生の言葉を載せた。
「三百六十度では、全員に同じ瞬間を見せることはできません。だから、不公平をなくそうとしすぎない。ある席からしか見えない表情がある。その人だけの一瞬を作る」
その下に、ハルカの言葉が続いた。
「見えなかったものを悔しがるんじゃなくて、自分が見たものを持ち帰ってほしいです。隣の人と違っても、それが武道館の一日になると思います」
LUMINA HOMEには「自分の席から見える三人を楽しみにする」という投稿が増えた。チケットのファンクラブ先行には、販売席数を大きく上回る申込があった。
抽選結果の日、喜びと落胆が同時に広がった。一般販売の日。
午前十時、販売ページが開いた。九十秒後、残席表示が消えた。その二十秒後、全席完売の連絡が入った。一万一千二百八十六席。
すべての行き先が決まった。
「完売を喜ぶ投稿だけにしないで」
私は広報担当へ伝えた。
「落選した人もいる。数字を誇る言葉より先に、申し込んでくれた全員への感謝を出してください」
「ライブ配信の問い合わせも来ています」
「今回は行いません」
その結論は、高橋との会議で決めていた。三百六十度の中央に立つ三人を、どこか一方向から選んで映し続ければ、別の三方向で起きていることが消える。カメラを増やして切り替え続ければ、今度は客席で自分の方向を待つ時間が失われる。
会場の四面スクリーンには、遠い席へ表情を届けるための映像を出す。記録用のカメラも置く。しかし、その映像を同時に外へ送ることはしない。
高橋との予算会議は、夜まで続いた。
「売上だけ見れば、配信チケットを出した方が増える」
高橋が収支表を指した。
「でも配信設備と回線、追加カメラ、編集人員、権利処理費も増えます」
「それでも黒字にはできる」
「できるでしょう。でも今回は、武道館の円の中でしか生まれない時間を守る。何でも商品にすればいいわけではありません」
「落選した人に、何も届けない?」
「何も、ではありません。『四方の手紙』と『ただいまの声』で、一緒に当日を作ってもらう。終演後には三人の言葉を届ける。ただし、ライブそのものの生配信はしない」
高橋は椅子の背へ身体を預けた。
「青木さんが、会場だけの価値を優先するとは思わなかった」
「会場へ来られない人を軽く考えているわけではありません」
「分かってる。全部を同じ形で渡すことが、平等とは限らない」
「その代わり、一曲だけスマートフォン撮影を許可します」
「三千人ホールと同じ?」
「ええ。『同じ朝を迎えるまで』。客席の一万通りの視点を、その場にいる人の手で残してもらう」
撮影できるのは、その一曲だけ。使用できるのはスマートフォンのみ。フラッシュ、三脚、自撮り棒、望遠機材は禁止。端末を頭より高く掲げない。通路へ出ない。周囲の顔を意図的に映さない。そして、撮影中であってもライブ配信は認めない。
曲の前に四面スクリーンで規則を表示し、ハルカが自分の言葉でも伝える。
「投稿は?」
「許可します。終演を待たなくてもいい。ただし、生中継する行為は禁止だと明記してください」
「一万台の画面が一斉に上がったら、後ろの席が見えなくなる」
「だから高さを決める。警備員にも止め方を統一してもらいます。命令口調ではなく、肩の高さまで下げてもらう」
「守らない人がいたら?」
「その人の撮影を止める。必要なら曲の途中でも、全員の撮影を中止する判断を私が持ちます」
高橋が笑った。
「炎も撮影も、止める権限ばかり増えていく」
「止められる人がいるから、実施できるんです」
「それ、青木さんらしい」
「褒めていますか」
「全部」
翌日、撮影可能曲の案内を出すと、SNSには喜びと驚きが広がった。
『自分の席から見た武道館を残せる』
『南側からの景色も見たい』
『撮るか、目で見るか、今から迷う』
一方で、撮影による視界の妨げを心配する声もあった。私は広報と警備に、同じ規則を繰り返し発信させた。チケット画面、会場案内、ファンクラブ、物販列の掲示。知らなかったという人を減らすことが、当日の衝突を減らす。
その夜、会議室を出る時、高橋が私へ言った。
「君がファンクラブを家にした理由、少し分かった」
「最初は、高橋さんより収益を考えていました」
「今は?」
「収益がなければ家を維持できない。でも、維持する理由は人です」
「青木さん、本当に変わった」
「高橋さんも」
「どこが?」
「負けた議論を認めるようになった」
「今のは褒めてないね」
「半分は」
「残り半分は?」
「感謝です」
高橋は何も言わず、先にエレベーターへ乗った。
6
忙しさは、少しずつ身体へ現れた。武道館まで五週間。ハルカの声に、朝だけ薄い掠れが出た。ユイはテレビ収録の待ち時間に眠り込むようになった。
リナの右足首には、軽い炎症が見つかった。医師は三日間のダンス中止を指示した。
「三日も?」
診察室を出たリナは、最初にそう言った。
「三日で済んだの」
私は答える。
「ここで止めなければ、三週間になる」
「振付がまだ」
「座って確認できる」
「身体でやらないと」
「駄目」
「一曲だけ」
「駄目」
リナは黙った。
「怒っていい。でも踊らせない」
「青木さんに怒ってるんじゃないです」
「自分の身体に?」
「はい」
「身体は敵じゃない。止まれと教えてくれてる」
リナは右足首のサポーターを見た。
「昔なら、隠してたと思います」
「今は?」
「昨日、ユイに言われました。歩き方がおかしいって」
「ユイが気づいたのね」
「それで、三人で青木さんに言うって決めました」
「正しい判断よ」
「でも、悔しい」
「悔しがるのは止めない」
その三日間、振付リハーサルは構成確認へ切り替えた。リナは椅子に座り、ハルカとユイの位置を見た。自分が踊らないことで、二人の動きが以前よりよく見える。
「ハルカ、南へ向くのが遅い」
「今の?」
「二拍目。歌に集中すると、足が残る」
「ユイは東花道の戻りが内側すぎる。私とぶつかる」
「リナちゃん、先生になってる」
「踊れないから、見るしかない」
ERI先生は止めなかった。
「見るのもリハーサル」
三日後、医師の確認を受け、リナは段階的に踊りへ戻った。最初は半分の速度。次に七割。痛みが出ないことを確認してから、全速。
以前のリナなら、最初から全速で踊り、平気な顔をしただろう。今は、痛みがないかを尋ねられるたび、正直に答えた。私も、限界へ近づいていた。
会議、現場確認、契約、取材調整、警備、特殊効果、物販、ファンクラブ。自宅へ戻るのは深夜になり、朝は六時に起きる。ある夜、会議室で資料を読んでいると、文字が二重に見えた。
目を閉じ、数秒休む。
「青木さん」
高橋の声がした。
「起きています」
「寝てたとは言ってない」
「次の会議は?」
「中止」
「誰が決めたんですか」
「僕」
「権限はありません」
「ある。プロデューサーだから」
「現場責任者との会議を、勝手に」
「その現場責任者が、資料を逆さに読んでる」
手元を見る。本当に一冊だけ上下が逆だった。
「三十分休めば戻ります」
「今日は帰って」
「照明の最終案が」
「明日でも武道館は逃げない」
「高橋さんに言われたくない」
「だから言う。僕も昨日、青木さんに帰らされた」
確かに、前日の会議で高橋の顔色が悪く、私は二十一時に帰るよう命じていた。
「お互いに止めるって、四人で決めたんじゃないの」
「高橋さんは四人に入っていません」
「そこ、今言う?」
私はため息をつき、資料を閉じた。
「明日の九時、続きをします」
「十時」
「九時半」
「交渉成立」
高橋が私のバッグを持った。
「自分で持てます」
「知ってる」
「なら返してください」
「駐車場まで」
会議室を出る。エレベーターの中で、高橋が言った。
「武道館が終わったら、君はどうする?」
「終わってから考えます」
「ハルカと同じ答えだ」
「正しい答えです」
「少し前の君なら、半年先まで計画を作ってた」
「今も作っています。ただ、三人へ見せるのは武道館のあとです」
「どうして?」
「明日を次のための材料にしないため」
高橋は静かに頷いた。駐車場へ着くと、彼はバッグを返した。
「暗転の件」
「まだ怒っています」
「それは分かってる。謝るのは何度目?」
「回数で決まるものではありません」
「うん。でも、あれから全部共有してる」
「知っています」
「信頼、少し戻った?」
私はすぐには答えなかった。
「信頼は、戻るものではなく、作り直すものだと思います」
「今、作れてる?」
「少しずつ」
高橋は「そう」とだけ言った。
その夜、私は日付が変わる前に眠った。
7
武道館公演の十日前、最後のスタジオ通しが行われた。衣装、映像、照明の仮組み、カメラ、イヤーモニター。実際の舞台と同じ条件をできる限り再現する。
新衣装は、四方向で見え方が変わるよう作られていた。ハルカの衣装は、正面から見ると深い青。背面には細い白の線が走り、振り返ると夜が朝へ変わる。
ユイは白を基調に、四枚の軽い布が方向転換のたびに開く。リナの衣装は左右非対称ではなく、身体を一周する青と白の帯が入っていた。どこから見ても、色の境目が見える。
通しは、開演から終演まで二時間半。三人は一度も止まらなかった。方角の間違いは二回。接触しかけた場面が一回。
歌の入りが遅れた場面が一回。アンコール最後の曲で、ユイの足がもつれた。転ばずに立て直したが、通しを終えた瞬間、床へ座り込んだ。
「足、痛い?」
私が駆け寄る。
「痛くないです。力が抜けただけ」
医療スタッフが確認する。異常はなかった。
「最後まで持たない」
ユイが悔しそうに言う。
「持った。終わったあとに座った」
リナが隣へ座る。
「本番は客席の声がある。たぶん今日より動ける」
「その分、最初に使いすぎる」
ハルカが水を渡した。
「前半で上がりすぎないようにしよう」
ERI先生は通し映像を見ながら、曲間の動線を二か所変えた。
「西花道から中央へ戻る時、走らない。次の映像が十二秒ある。歩いて呼吸を戻す」
「間に合いますか」
リナが尋ねる。
「間に合う速度で歩く。走る必要はない」
「北の二曲目も、最後のターンを一つ減らす」
「見せ場です」
「見せ場より、アンコールまで立つこと」
削る判断が続いた。以前なら、三人は不安になっただろう。今は、削ることが弱くなることではないと分かっている。最終通しの翌日から、運動量を落とした。
歌は部分確認だけ。ダンスは七割。睡眠を八時間。取材はすべて終了し、テレビ出演も事前収録分だけになった。
LUMINA HOMEでは、三人が一日一通ずつ短いメッセージを送った。
『あと九日。今日は北と南を間違えませんでした。ユイ』
『あと六日。待つ振付は、待たせる振付でもあると気づきました。リナ』
『あと三日。喉を休めるため、今日はあまり話していません。でも、心の中ではずっと歌っています。ハルカ』
会員からは、体調を気遣う言葉が返ってきた。
『無理に毎日送らなくていい』
『当日、元気で会えれば十分』
『休むのも武道館の準備』
三人は、その言葉に従った。
8
武道館公演前日。
午後一時、私たちは北の丸公園へ入った。木々の向こうに、白い大きな屋根が見える。何度も写真で見た。図面も読んだ。
客席数も、搬入口の高さも、廊下の幅も知っている。それでも、実物は違った。車内から建物が見えた瞬間、三人は誰も話さなくなった。
「着いたわよ」
私が言っても、すぐには動かなかった。ハルカが深く息を吸う。
「行こう」
四人で車を降りる。搬入口では、巨大な機材ケースが次々に運び込まれていた。照明リングはすでに上空へ吊られ、円形ステージの床をスタッフが仕上げている。
客席へ入った瞬間、ユイが小さく声を漏らした。
「丸い」
当たり前の言葉だった。だが、他に言葉がなかった。すり鉢状の客席が、中央のステージを囲んでいる。上を見上げれば、天井から大きな旗が下がっていた。
正面がない。逃げる背面もない。どこを向いても客席。スタジオで描いた円より、はるかに広く感じられた。
「人が入ったら、全部埋まるんですよね」
ユイが尋ねる。
「一万一千二百八十六席」
私が答える。
「数字で言わないでください」
「あなたが聞いたの」
リナはステージ中央へ目を向けた。
「行っていいですか」
舞台監督が頷く。三人がアリーナ通路を歩き、短い階段から円形ステージへ上がる。中央に立つ。四方向を見た。
北。南。東。西。
スタジオでは色で覚えた方向が、実際の客席へ変わっている。
「広い」
ハルカが言う。
「でも、三千人ホールより客席が近く感じる」
リナが円の外周まで歩く。
「囲まれてるから」
ユイが反対側から答えた。ERI先生がステージへ上がった。
「景色を見るのは、ここまで」
三人が彼女を見る。
「リハーサルを始める。空席に慣れすぎないこと。明日は全部違う」
音響確認から入った。センターステージの音は、予想以上に複雑だった。北側のスピーカーから出た音が、南の壁へ当たって戻る。客席が空のため、反響が何重にも重なる。ハルカは自分の声が遅れて聞こえ、最初のロングトーンを短く切った。
「イヤーモニターだけを信じて」
音響責任者が伝える。
「外の音へ合わせない。明日は客席が吸うから、響きが変わる」
ユイは東花道で無線の瞬断を感じた。
「一瞬、音が消えました」
アンテナ位置を調整し、予備系統へ切り替える。再び同じ場所を歩き、今度は途切れない。リナは暗転中、南と西を間違えた。
「止めます」
私は客電を半分点けた。
「床の表示が見えません」
リナが言う。スタジオでは見えていた蓄光テープが、実際の照明下では弱かった。
「色を増やすと客席から見えます」
舞台スタッフが言う。
「足元灯を追加。客席からは床面に隠れる角度で。四方向、明るさを揃えて」
「一時間ください」
「お願いします」
問題が見つかるたび、リハーサルは止まった。衣装の裾が床の継ぎ目へ引っかかる。北花道のカメラがユイの動線へ近すぎる。四面スクリーンの一つだけ、映像が三フレーム遅れる。
東側スタンドから、照明柱がリナの立ち位置と重なる。一つずつ直した。予定は四十分遅れた。高橋が時計を見る。
「全部の曲はできない」
「問題のある曲を優先します」
「オープニングと新曲、アンコール。残りは動線だけ」
「同意します」
以前なら、どちらが削るかで長く揉めていただろう。今は、同じ基準で判断できる。足元灯が追加される。暗転。
三人が動く。青、白、黄、赤の小さな光が、靴元だけを照らす。今度は間違えない。次は、特殊効果の確認だった。
客席へ消防担当者と会場責任者が入り、ステージ外周には消火器を持ったスタッフが立つ。三人は本番用の靴を履き、防炎処理を終えた衣装の上着だけを身につけた。
「最初は一台ずつ。音楽は流しません」
特殊効果責任者の声がイヤーモニターへ入る。
「北、一番。三、二、一」
炎が立った。低い破裂音と同時に、赤い柱が天井へ伸びる。分かっていても、ユイの肩が跳ねた。数メートル離れているのに、頬へ熱が届く。リナは一歩も動かなかったが、息を吸うタイミングを失った。ハルカは炎が消えたあとも、そこに赤い残像があるように目を細めた。
「熱い」
ユイが率直に言った。
「本番は音と照明が入る。今より驚く可能性があります」
私がステージへ上がる。
「三人とも、赤い線の内側へ」
靴の位置を確認する。ハルカは基準線から二十センチ余裕がある。ユイは三十五センチ。リナだけ、振り終わりの右足が線に近かった。
「リナ、最後の踏み込みを半歩小さくできる?」
「できます。でも歌いながらだと、戻るかもしれません」
できる、と言い切らなかった。私はERI先生を見る。
「直前の八拍から変えましょう」
ERI先生が床へしゃがみ、リナの足元を指した。
「踏み込むんじゃなく、上体を前へ送る。右足はここ。熱を受けて後ろへ引く動きに変える」
「炎から逃げるみたいに?」
「逃げていい。曲の感情にも合う」
動線を修正し、二度確認する。今度は音楽を流した。
『夜明けの向こう』の間奏。
東西の炎が交互に立ち、三人が円の中心で背中合わせになる。続いて北と南。最後の一拍で八本が同時に上がった。熱と光が、一瞬だけ三人を囲む。
炎が消える。青と白の照明リングが回り、空席のすべてを撫でた。歌は埋もれなかった。
むしろ、ハルカの声が熱の向こうから戻ってくるように聞こえた。
「どう?」
高橋が、客席から私へ尋ねる。
「二回目の南を〇・五秒遅らせて。ユイの息継ぎと発射音が重なる」
「残す?」
「残します」
高橋は片手を上げた。
「初めて、素直に通った」
「安全が成立したからです」
「分かってる」
銀テープは、本番用の十二基すべてを撃つわけにはいかなかった。軌道を確認するため、無地の試験用テープを北、東、南、西から一基ずつ飛ばした。
空気を切る音。青と銀の帯が、ステージ上空で大きく開く。北の長尺はスタンド前方へ届き、東の中尺はアリーナへゆっくり落ちた。南の短尺は円の上で光を受け、西の一本だけが風に押され、花道の中央へ偏った。
「西、角度を二度外へ。風向きの補正値も当日の空調で取り直す」
舞台監督が指示する。リナが床へ落ちた試験テープを一本拾った。
「本番は文字が入るんですよね」
「『同じ円の中で』」
私が答える。
「持って帰ってくれるかな」
「届いた人は、きっと」
「届かない席にも、同じ瞬間を届けます」
高橋が二階席を見上げた。
「照明とスクリーンと、三人の声で」
清掃スタッフがテープを回収する時間まで計った。四方向すべてを使用した場合、アンコール後の安全確認に八分、客席退場後の回収に四十五分。収支表へ入れた人件費と時間の範囲内だった。
『同じ朝を迎えるまで』のリハーサルに入る。
曲の前、四面スクリーンに撮影規則が表示された。
『この一曲のみ、スマートフォンで撮影できます』
『ライブ配信・フラッシュ・頭上での撮影は禁止です』
表示は十五秒。北、東、南、西のどの席からも読める文字の大きさを確かめる。警備スタッフは客席の各区画に立ち、端末を高く掲げる人へどう声をかけるかまで動きを合わせた。
ハルカが本番と同じ場所に立つ。
「ここからの一曲は、皆さんのスマートフォンで撮影できます。隣の人の大切な景色を隠さないよう、胸から肩の高さでお願いします。今いる場所から見える私たちを、皆さんの記憶と一緒に残してください」
言葉が長すぎないか。禁止事項だけに聞こえないか。四方向へ一度ずつ向きを変え、声の届き方も確認した。ハルカが北。
ユイが東。リナが西。南の客席には、三人の背中が見える。イントロが始まる。
背中でも、肩と指先が歌っていた。最初のサビでリナが最後に戻る。二度目はユイ。最後はハルカ。
三人が中央で互いの背中へ手を置く。四方向のスクリーンに、違う角度の三人が映る。北にはハルカの表情。東にはユイの涙。
西にはリナの横顔。南には三人の背中。同じ瞬間なのに、すべて違う。曲が終わる。
空席から拍手は返ってこない。代わりに、スタッフがそれぞれの持ち場で拍手をした。音響卓。照明卓。
映像。舞台袖。客席に散った拍手が、中央へ集まる。ERI先生がステージへ上がった。
「振付は大丈夫」
三人が息を呑む。
「明日は、客席を見て変えなさい。人がいる方向へ、身体が自然に引かれる。その力を止めない。ただし、位置は失わない」
「はい」
「正面を探さない」
「はい」
「三人を探す」
三人の声が揃った。
「はい」
最後に、オープニングの登場だけを確認した。三人は別々の方角から現れ、中央へ集まる。ハルカは北。ユイは東。
リナは西。南には、最初の数秒、誰もいない。そこへ三人が順番に視線を送る。四方向すべてが揃ったところで、一曲目が始まる。
「本番は、ここから」
舞台監督が言った。リハーサル終了は、午後九時二十分。三人はステージ中央に立ち、最後に一度だけ客席を見渡した。
「帰りましょう」
私は声をかけた。
「もう少し」
ユイが言う。
「五分だけ」
四人で円形ステージへ座った。客席の照明は作業用の明るさに戻っている。スタッフは撤収せず、明日の準備を続けていた。
「明日、ここに人がいる」
ハルカが言う。
「一万一千人」
リナが続ける。
「一人ずつ」
ユイが言った。私は三人の横顔を見た。誰も、武道館をゴールの顔で見ていなかった。かといって、その先を見ているわけでもない。
明日ここへ来る人たちと、同じ時間を過ごすことだけを考えていた。
「怖い?」
私が尋ねる。
「怖いです」
三人の声が重なる。
「青木さんは?」
「怖いわ」
「高橋さんは?」
いつの間にか近くへ来ていた高橋が、円の外から答えた。
「怖いよ」
ユイが笑う。
「全員怖い」
「だから、一人じゃない」
ハルカが言った。五分が過ぎる。私たちは立ち上がった。円形ステージを降りて、四人で客席の通路を歩いた。作業灯だけが点いた武道館は、明日ここへ一万一千人が入るとは思えないほど静かだった。
スタンド席の一階へ上がる階段の途中で、私は足を止めた。
「三人とも」
前を歩いていた三人が振り返る。高橋は少し離れた場所で、資料を抱えて立っていた。
「座ってもらえますか」
三人は顔を見合わせ、それから、すぐ横の座席へ腰を下ろした。ハルカ、ユイ、リナ。私はその一列前の座席の背に手を置いて、三人と向き合った。
「話していないことがあります」
ユイの肩が、わずかに動いた。
「今、ですか」
ハルカが尋ねる。
「明日にはできません。終わってからでも駄目です」
「なぜ」
「終わってからだと、選べなくなるからです」
私は、鞄から一枚の紙を出した。前の晩に自分で作った、簡単な表だ。
「二年前の夏、メジャー契約の時に、私は原盤権の買い戻しオプションという条項を勝ち取りました。覚えていますか」
「覚えてます」
リナが答えた。
「青木さんが六本木で戦って、勝って帰ってきた日です」
「はい。私は勝ちました。条項はこうです。契約が満了したあと、直近三年の平均営業利益の三倍を払えば、原盤権を買い戻せる」
「営業利益って」
ユイが言う。
「事務所が一年で残した利益です」
「それを三倍」
「はい」
ハルカが、少し先を読んだ顔をした。
「その、営業利益が増えると」
「値段が上がります」
三人が黙った。
「あの頃、うちの営業利益はほぼゼロでした。だからあの条項は、実質タダで買い戻せる約束でした。私はそう理解して、誇っていました」
紙を三人のほうへ向ける。
「今は違います。テレビに出て、東名阪を回って、三千人ホールを完売させて、明日、一万一千人の前に立ちます。明日が成功するほど、皆さんの曲を取り戻す値段が上がります」
「今、いくらなんですか」
リナが尋ねた。
「一度だけ言います」
私は、その一文だけを声に出した。
「一年半前の秋に確認したときは、四千五百万でした。今の推移で武道館とツアーまで行くと、契約満了時には、二億四千万まで上がります」
誰も、すぐには何も言わなかった。
「二億」
ユイが繰り返す。
「四千万」
「うちの規模では、払えません」
「じゃあ」
ハルカの声が、少しかすれた。
「私たちの歌は、ずっとネクストウェーブのものになるんですか」
「原盤は、そうです。歌えなくなるわけではありません。ステージで歌うことも、皆さんの声で新しく録り直すこともできます。ただ、今日までに録った音源を、自分たちの意思で使うことはできなくなります」
「『モノクローム・シティ』も?」
リナが言った。メジャーデビューの日から、誰も口に出さなかった曲の名前だった。
「あれだけは違います。あの一曲の原盤は、今もうちが持っています。私が最後まで譲らなかったので」
「一曲だけ」
「一曲だけです」
沈黙が長く続いた。武道館の天井は高く、四人の声はどこにも反響せずに消えていった。
「青木さん」
ハルカが顔を上げた。
「いつから知っていたんですか」
いちばん聞かれたくない質問を、この子はいつも最初に聞く。
「全国放送の日です」
「……去年の」
「はい。一年半、黙っていました」
ユイが両手で口を押さえた。リナは動かなかった。
「理由を言います。言い訳になりますが、言います」
私は、紙を膝の上へ置いた。
「三人に、歌うたびに値段が上がることを考えながら歌ってほしくなかった。経営の問題は私の仕事で、皆さんの仕事ではないと思いました」
「それは」
リナが口を開いた。
「それは、高橋さんが武道館を隠した時の理由と同じです」
「はい。同じです」
認めた瞬間、胸の中で何かが軽くなり、同時に、ひどく重くなった。
「あの時、私は高橋さんに怒りました。信頼しなかったんですね、と言いました。私は今、その言葉をそのまま自分に言われる立場にいます」
高橋は、通路の少し離れた場所に立ったまま、こちらを見ていなかった。
「もう一つ、話さなければならないことがあります」
私は、ユイのほうを見た。
「ユイ」
「……はい」
「カウンセリングに、いつから行っていないの」
ユイの顔から、色が引いた。ハルカとリナが、同時にユイを見た。
「東京公演の、二週間くらい前から」
「なぜやめたの」
「やめたわけじゃなくて」
ユイの声が震えた。
「予定表を見たら、私だけ、他の二人にない予定が入ってて。移動も多くて、青木さんも高橋さんも忙しくて。私のために時間を取ってもらうのが、なんか」
「なんか?」
「私だけ、まだ終わってないみたいで」
私は、目を閉じた。終わりが決まってないのも、少し怖いです、とこの子は言った。廊下で。私の隣で。私はそれを聞いて、正しい返事をした。正しくて、何も聞いていない返事を。
「私は、それを知っていました」
ユイが顔を上げた。
「予定表から予約が消えているのを、名古屋へ行く車の中で見ました。それから武道館の前日の今日まで、何度も開いて、何度も閉じました」
「なんで、聞かなかったんですか」
ハルカが言った。責める声ではなかった。分からない、という声だった。
「聞けば、また私が決めてしまうと思ったからです」
自分の声が、他人のもののように聞こえた。
「あの夏、私は皆さんの回復に締切をつけて、壊しかけました。二度と先回りはしないと決めました。決めたことは正しかった。でも、私はそこから、聞くこともやめました」
リナが、ゆっくりと立ち上がった。
「青木さん」
「はい」
「私が大阪で言ったこと、覚えてますか」
「乗る前に言ってください」
「乗りましたね」
「乗りました。ずっと乗っていました」
リナは私の前まで来て、それから、私の左手首の糸に触れた。色の薄くなった青と白。
「もう降りてください」
私は、初めて三人の前で泣きそうになった。こらえた。まだ言い終わっていない。
「ここから先を、正直に言います」
紙をもう一度持ち上げ、そして、膝の上へ戻した。
「解決策がありません」
三人が私を見た。
「買い戻しの値段は、営業利益の三倍です。つまり、皆さんが売れるほど上がる。理屈の上では、下げる方法が一つだけあります。報酬を上げて、公演数を積まず、物販を煽らず、配信で稼がない。事務所の利益を、意図的に小さいまま置く」
「それ」
ユイが言った。
「それ、青木さんがずっと高橋さんと言い合ってたことじゃないですか」
「はい。だから、それを提案するつもりで、ここへ来ました」
通路のほうで、高橋が短く息を吐いたのが聞こえた。
「でも、言えませんでした」
「どうして」
リナが尋ねる。
「それは、皆さんを小さくすることだからです」
空の客席が、四人ぶんの声を吸い込んで消していく。
「ドームには行けません。海外も難しい。武道館が終わった翌週から、私たちは自分で自分にブレーキをかけ続けることになる。曲を取り戻すために、これからの三年を止める。——それを、私は皆さんに勧められませんでした」
誰も何も言わなかった。ハルカが、ゆっくりと立ち上がった。
「一つ聞いていいですか」
「はい」
「これ、同じ曲をもう一回録り直したら、どっちのものになるんですか」
私は、その質問の意味を理解するのに、たっぷり三秒かかった。
「……もう一回?」
「はい。今の私たちで、最初から録り直したら」
鞄から契約書の写しを引き出す。指が震えて、二度ページをめくり損ねた。第十五条。第十六条。第十七条。
ない。
再録音を制限する条項が、どこにも書かれていない。
「青木さん?」
「待って」
目次まで戻り、もう一度、頭から追った。原盤の帰属は書いてある。使用許諾も、独占期間も、地域も書いてある。けれど、アーティスト自身が同じ曲を録り直すことについては、一行もない。
当たり前だった。二年前の夏、あの会議室で、再録音の価値を考えた人間は一人もいなかった。誰も知らないグループが自分たちの曲を録り直したところで、聴く人がいないからだ。再録音は、有名でなければ何の意味も持たない。
だから、誰も塞がなかった。
「ハルカ」
「はい」
「今、あなたが答えを出しました」
「え」
「買い戻しは諦めます」
私は言った。声が、自分でも驚くほどはっきりしていた。
「二億四千万は払えません。三億でも払えない。あの条項は、私が二年前の夏に負けた場所です。取り返そうとするのをやめます」
「じゃあ、曲は」
「録り直します。契約が切れる三年後に、今日より大きくなった三人で、全部」
リナが目を見開いた。
「それ、意味あるんですか」
「大きさによります」
私は三人を順番に見た。
「無名のグループが録り直した音源に、価値はありません。でも、東京ドームに立つグループが『これが今の私たちの音です』と出したら、配信の再生は、そちらへ移ります。古い原盤は、向こうの倉庫に残るだけになる」
ユイが、口を半分開けたまま固まっている。
「つまり」
ハルカが、慎重に言葉を選んだ。
「大きくなればなるほど、私たちが強くなるってことですか」
「はい。今日までは逆でした。売れるほど値段が上がって、追いつけなくなった。今日から反対になります」
空の客席の、どこか高いところで、空調の音が変わった。
「三年後、契約が切れる時、向こうには二つしか選択肢がありません。妥当な条件で原盤を渡すか、私たちが録り直した新しい音に、自分たちの資産を追い越されるのを見ているか」
「脅すんですか」
リナが聞いた。
「脅しません。事実を並べるだけです。四年前、私は法務部の名前を借りて、はったりで人を黙らせたことがあります」
クマの、街灯の下の顔が浮かんだ。
「二度としません。今度は、はったりが要らないところまで行きます」
「どこまでですか」
ユイが尋ねた。
私は、誰もいない一万一千二百八十六の座席を見渡した。明日、ここが埋まる。埋まっても、まだ足りない。
「東京ドーム」
三人が、息を呑んだ。
「三年で行きます」
ハルカが笑った。泣きながら笑っていた。
「やっと言った」
「何を」
「青木さんが、行きたい場所を言ったのは初めてです」
ユイが立ち上がり、リナの手を取り、ハルカの手を取った。三人の手が、誰もいない客席の通路で重なる。
「一つだけ、条件をつけます」
私は言った。ここだけは、譲れなかった。
「三年は短いです。走り続けることになります。だから——途中で誰か一人でも、止まりたいと思ったら、その時点で止まります。原盤は諦めます」
「それだと、間に合わないですよね」
リナが言った。
「間に合いません」
「じゃあ、なんで」
「曲より、三人のほうが大事だからです」
三人が黙った。ユイが、真っ先に頷いた。
「はい」
ハルカが続ける。
「行きます。三年で」
「私も」
ユイが続ける。
「あと、私、カウンセリング、また行きます。自分で予約します」
「一緒に行こうか」
リナが言った。
「え」
「私も足首を診てもらってる。同じでしょう」
「同じじゃない」
「同じにする」
三人が笑った。私は、そこでようやく泣いた。四年間で初めて、三人の前で。通路の向こうから、高橋が歩いてきた。手には、いつのまにかスマートフォンがあった。
「大類社長、繋がった」
「今ですか」
「今しかないだろう」
彼は通話をスピーカーにして、座席の上へ置いた。
『おい、明日だぞ。何の用だ』
「社長」
私は言った。
「事務所の営業利益を、これから三年、最大化します」
『……は?』
「理由を説明します。長くなります」
沈黙のあと、大類社長の、あの低い声が返ってきた。
『ハイエースの中でお前が物販のバック率二パーセントで食い下がってきた時も、長かったな』
「はい」
『聞くよ。話せ』
私は話した。武道館の空の客席で、四人と、電話の向こうの一人と、少し離れて立つ一人に向けて、一年半ぶんの話をした。話し終えた時、時計は午後四時を回っていた。
『青木』
「はい」
『二年前の夏、俺はあの会議室でお前の袖を引っ張ったな。黙れって言った』
「言われました」
『あの時、お前が正しかった』
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
『やれ。全部やれ。俺が判子を押す』
「三年で東京ドームです。無茶を言っています」
『四年間、俺はお前に無茶しか言われてない』
電話の向こうで、大類社長が短く笑った。
『……ただし一つだけ条件だ』
「何でしょうか」
『明日、俺も客席に入れろ』
「一階席を確保します」
『二階でいい。全体が見える』
通話が切れた。
私は、武道館の空の客席を見上げた。明日ここが埋まる。埋まっても、まだ足りない。三年後に、この十倍の場所に立っていなければ、あの曲たちは倉庫から出てこない。
これまで私は、三人を守るために黙ってきたつもりだった。実際に守っていたのは、あの夏の自分の勝利のほうだった。負けた場所を握りしめたまま、そこから一歩も動けずにいたのは、三人ではなく私だった。
9
ホテルへ着いたのは、午後十時を過ぎていた。武道館から近い静かなホテルだった。三人の部屋と私の部屋、それから短い時間だけ集まるためのリビングを用意してある。
テーブルには、消化のいいスープとおにぎり、温かいお茶が並んでいた。
「三千人ホールの夜と同じ」
ユイが言う。
「たこ焼きがない」
「東京です」
「前も同じ会話した」
リナが笑う。四人で食事を取った。明日の話は、最初の十分、誰もしなかった。ハルカはスープを飲み、ユイはおにぎりを半分ずつゆっくり食べ、リナは足首を冷やしている。私はスタッフから届く最終報告を一度だけ確認した。
足元灯、設置完了。無線、四方向で再確認済み。映像遅延、修正。救護、警備、入場導線、物販、特殊効果、撮影可能曲の案内。
すべて、明日の朝に最終確認する。高橋から一通のメッセージが来た。
『明日の演出データ、最終版。追加も秘密もなし』
私は短く返した。
『確認しました』
少しして、もう一通。
『楽しんで』
その言葉には返事をしなかった。代わりに、スマートフォンを伏せた。
「青木さん、見ないんですか」
ハルカが尋ねる。
「今夜は、もう見ない」
「成長した」
リナが言う。
「誰のせいで成長したと思ってるの」
「私たち?」
「そうよ」
ユイが手を差し出した。
「じゃあ、四台」
前の公演と同じように、スマートフォンをテーブルの中央へ集める。四つの画面が伏せられた。
「明日、何が一番怖い?」
ハルカが尋ねた。ユイは少し考える。
「方角を間違えること」
「それは全員怖い」
リナが言う。
「じゃあ、一人を見落とすこと。広すぎて、見えてない方向ができるのが怖い」
「私は」
リナが足首の保冷剤を押さえた。
「途中で身体が動かなくなること。でも、動けないって言えずに続ける方がもっと怖い」
「明日は、痛みが出たら?」
私が確認する。
「すぐ言います」
「約束?」
「約束」
ハルカは両手を膝の上で組んだ。
「私は、最初の一声が出ないこと」
「出るよ」
ユイがすぐに言う。
「出なくても、待ってる」
リナが続ける。
「青木さんは?」
「何か見落としていること」
「高橋さんみたいな秘密?」
「今回はないと確認した」
「本当に?」
「データも進行も全部見た」
「じゃあ、大丈夫」
ユイは簡単に言った。
「どうして?」
「青木さんが見て、スタッフさんも見て、高橋さんも見た。それでも何か起きたら、その時みんなで何とかするしかないから」
私は答えられなかった。完璧に準備する。
それでも、何かは起きる。大切なのは、起きないと思い込むことではなく、起きた時に誰か一人へ背負わせないことだった。
「そうね」
私は言った。
「その時は、みんなで何とかする」
食事を終え、三人をそれぞれの部屋へ送った。廊下で、最後に手を重ねる。
「明日の集合、午前六時」
「はい」
「睡眠は?」
「七時間以上」
「朝食は?」
「ちゃんと食べる」
「痛みや異常は?」
「すぐ言う」
「方角を間違えたら?」
ユイが尋ねる。
「三人を探す」
リナが答えた。
「正面を探さない」
ハルカが続ける。
「三人を探す」
四人の手に力が入る。
「明日、武道館で」
「はい」
「行こう」
「おやすみなさい」
手を離す。三人の部屋の扉が、一つずつ閉じた。私は自分の部屋へ戻り、カーテンを少しだけ開けた。遠くに、北の丸公園の暗い木々が見える。
その向こうにある白い屋根は、ここからは見えなかった。見えなくても、そこにある。一万一千二百八十六の席。正面のない円形ステージ。
青と白の照明。四方向から届く声。明日、三人はその中心へ立つ。私は袖ではなく、アリーナ外周の統括卓に立つ。どの方向も見渡せる場所で、三人と客席と、すべてのスタッフを繋ぐ。
左手首の青と白の糸へ触れる。大阪から切れずに残っている。照明を消した。暗闇の中で、今日の空席を思い出す。
明日は、そこに一人ずつの顔がある。声がある。光がある。武道館前夜。
四人は、それぞれの部屋で同じ円の中心を思いながら、静かに目を閉じた。




