第28章 声の値段
1
私は通路に立ったまま、スマートフォンをコートのポケットへ戻した。画面はまだ、佐藤弁護士の名前を表示したまま暗くなっていくところだった。
撤収の音が、搬入口の方から絶え間なく聞こえてくる。台車の車輪、金属の擦れる音、スタッフ同士の短い指示。私はその音を背に、楽屋へ続く廊下を歩いた。
楽屋では、三人がすでに私服に着替えていた。ハルカは椅子に座ったまま動かず、ユイは鏡の前で髪をまとめ直している。リナは壁にもたれて、目を閉じていた。
「送りの車、来てます」
スタッフの一人が、扉から顔を覗かせて言った。
「あと五分だけ」
ハルカが答える。誰も急がなかった。今日という日を、あと五分だけ長く保ちたいという気持ちが、部屋の空気にそのまま残っていた。
私は三人を先に車へ乗せ、自分は最後まで会場に残った。舞台監督と、照明と、音響と、それぞれの責任者に頭を下げて回る。数字ではなく、言葉で伝えるべきことが、まだ残っていた。
「今日で最後ですね」
舞台監督が言った。
「三か月、お世話になりました」
「また呼んでくれます?」
「必ず」
短いやり取りだった。それでよかった。長く話す時間は、もう互いに残っていない。
物販の責任者にも声をかけた。三日間、六千枚のツアータオルと、それ以上の数のグッズを捌いた女性だった。
「在庫、思ったより残りましたか」
「いえ、初日で読みを外して、二日目からは足りないくらいでした。嬉しい悲鳴です」
「発注、無理を言ってすみませんでした」
「いえ。青木さんの読みのおかげで、ロスはほとんど出ていません」
彼女は疲れた顔のまま、少しだけ笑った。それだけで、三日間の細かい修正が報われた気がした。
搬入口の外で、大類社長が缶コーヒーを片手に立っていた。もう一本は、まだ開けられないまま机に置いてきたことを思い出した。
「青木、今日のぶんの精算、明日でいいか」
「はい。数字は揃っています」
「揃ってるのか、もう」
「移動中に計算しました」
社長は笑って、缶を軽く掲げた。
「相変わらずだな、お前は」
その言葉に、今日は言い返す気力が残っていなかった。私はただ頷いて、車の方へ歩いた。
深夜、事務所の最寄り駅で降りたとき、あたりにはもう誰もいなかった。改札を出て、静かな夜道を歩く。鞄の中で、スマートフォンが一度だけ震えた。今度は、佐藤ではなかった。三宅さんからの、短いメッセージだった。
『お疲れさまでした。三日間、本当にありがとうございました』
私は歩きながら、その一文にだけ『ありがとうございました』と返した。佐藤からのメールには、まだ触れなかった。
部屋に着いて、コートを脱ぐ。鞄からスマートフォンを出し、テーブルの上に、画面を伏せたまま置いた。
半年前なら、こんな時間に届いたメールでも、すぐに開いていた。今日は、開く気力がどこにも見つからなかった。
シャワーも浴びずに、私はソファに座り込んだ。三か月分の疲労が、身体の奥から一気に溢れてきた。目を閉じると、二千二十人分の歓声が、まだ耳の奥に残っていた。
その夜、私は佐藤のメールを開かなかった。
2
翌日は、誰も予定を入れない日だった。
三人には、事前にそう伝えてあった。ハルカ、ユイ、リナ。三か月間、休みらしい休みを取っていない。私は事務所に一人で出た。誰もいないオフィスは、いつもより広く感じられた。
机の上には、三都市ぶんの精算資料が積まれている。会場費、人件費、物販の原価、交通費、宿泊費。私はそれを一枚ずつ、電卓を叩きながら確認していった。
六千四十六人。合計動員数。三公演とも完売。物販の売上は、想定の一・三倍。
数字を追っている間だけは、何も考えずに済んだ。
昼過ぎ、大類社長が顔を出した。手には、また缶コーヒーが二本あった。
「今日もいたのか」
「精算が残っています」
「休めって言ったの、お前だろう」
「私は含まれていません」
社長は呆れたように笑って、缶の一本を机に置いた。今日は、ちゃんと受け取った。
「これ、去年までのうちの規模から考えると、ちょっとおかしな数字だぞ」
社長が、資料の合計欄を指して言った。
「今回のツアーだけで、去年一年分の売上に近い」
「はい」
「お前、嬉しくないのか、その顔」
「嬉しいです」
「そう見えないぞ」
私は答えなかった。社長は、それ以上は聞かずに、缶を開けて飲んだ。
午後三時、事務所の固定電話が鳴った。ネクストウェーブの三宅さんからだった。
「青木さん、お疲れのところすみません。佐藤から、確認のメールをお送りしたと思うんですが」
「届いています」
「よかった。急ぎではないので、お手すきの時で大丈夫です。ただ、年内に返信いただけると助かるという話でした」
「分かりました」
電話を切ったあと、私はしばらく、テーブルの上のスマートフォンを見ていた。
開けば、何が書いてあるかは、だいたい分かっている。ツアー中に来ていた放送・配信の許諾申請。それをまとめて確認したいと、三宅さんは半年前にも言っていた。
分かっているのに、指が動かなかった。
その日も、私は開かなかった。代わりに、精算資料の残りをすべて片付けた。九時を過ぎて、事務所を出た。
3
メールを開いたのは、三日後の夜だった。
理由は、特にない。ただ、その日だけは、机の上の未読の数字を見ても、目を逸らす気力がなかった。それだけだった。
件名は変わらず、「ツアー楽曲の使用許諾について」。
本文は、佐藤らしい、無駄のない文章だった。
拝啓。東名阪ホールツアーご成功、お慶び申し上げます。ツアー期間中、各媒体より頂戴しておりました放送・配信に関する許諾申請につき、以下のとおりまとめてご報告いたします。ご確認のうえ、ご返信賜れますと幸いです。
その下に、箇条書きが四つ並んでいた。
一。音楽情報番組『サウンドナウ』年末特別編、『帰る場所の灯り』東京公演映像の五分枠使用。放送使用料、一律三十万円。
二。大手配信プラットフォーム、アーティスト特集企画、ツアーダイジェスト映像三十秒の常時配信使用。使用料、月額五万円、契約期間十二か月。
三。公式動画チャンネル、ホールツアーダイジェスト映像の制作・公開。『まだ名前のない光』アカペラ部分を含む。原盤使用料は発生せず、プロモーション扱い。
四。ラジオ番組『ミッドナイト・チューンズ』、スタジオライブ音源の一部オンエア。楽曲は『モノクローム・シティ』。
四つ目の項目だけ、注釈がついていた。
※本楽曲は原盤権を貴社が留保しているため、弊社独占的利用許諾権の範囲内での確認となります。念のため、貴社の直接のご承諾も別途頂戴できますと幸いです。
私はその一文を、二度読んだ。
他の三曲は、原盤も、決定権も、すでにネクストウェーブのものだ。私が確認しているのは、形式上の同意にすぎない。四つ目だけが違う。あの一曲だけは、まだ私たちのものだった。
深夜のスタジオで、ハルカがぽつりと言った言葉を思い出した。この曲、私たちが最初に本気で人前で歌った曲なんです。だから、たとえ売れなくなっても、いつか歳をとっても、この曲だけは自分の声で歌い続けたい。あの夜、私はその願いを守るために、原盤権の百パーセント譲渡を撥ねつけた。ラジオの三分間は、あの願いの、いちばん小さな続きだった。
メールの最後に、もう一段落あった。
なお、上記使用料および今後発生が見込まれる放送・配信関連収入につきましては、貴社の当該年度営業利益に算入されます。参考までにお伝えいたします。
その一文を読んだとき、部屋の温度が一段下がったような気がした。
参考までに、と佐藤は書いた。だが、この一文が参考で終わるはずがないことを、私は誰よりも知っていた。二年前の夏、六本木の会議室で、私自身が書かせた条項だ。過去三年の平均営業利益の三倍。あの数式の分母に、今、三十万円と、月額五万円が、静かに積み上がっていく。
四曲の許諾料は、合わせても、まだ大きな額ではない。けれど、これは最初の一枚だった。ホールツアーが完売した今、こうした申請は、これから確実に増えていく。増えるたびに、この一文が繰り返される。
私は椅子の背にもたれて、しばらく天井を見ていた。
喜ぶべきことだった。三人の歌が、放送に乗り、配信に乗り、多くの人に届く。それは、四年前、下北沢の地下で誰にも見つけてもらえなかった三人が、ずっと望んでいたことのはずだった。
ルミナス。光という名前を、四年前、私は一人で決めた。届かない場所にいる誰かに、それでも見えるように。そういう意味だったはずだ。名前をつけた本人が、光が届く範囲の広がりを、素直に喜べずにいる。その矛盾に、うまく折り合いがつかなかった。
それなのに、私の頭の中では、別の数字が動き続けていた。
届くことと、遠ざかることが、同じ出来事の中で同時に起きている。その事実に、私はまだ、名前をつけられずにいた。
もし今、この四件を全部断ったら。ふと、そんな考えが頭をよぎった。断れば、数字は増えない。増えなければ、あの条項の価格は、今のまま止まる。
馬鹿げた考えだと、すぐに打ち消した。三人が四年かけて掴んだ光を、値段のために閉じることなど、できるはずがなかった。それでも、その考えが一瞬でも浮かんだこと自体が、私には少し怖かった。
4
返信は、その夜のうちに書いた。
一から三までは、そのまま確認と了承の旨を書いた。四つ目には、少し長く書いた。『モノクローム・シティ』の使用については、スターライトエージェンシーとして直接承諾する、という一文と、貴社の丁寧な確認に感謝する、という一文を添えた。
送信ボタンを押す前に、私は画面をもう一度見た。
高橋に、この件を共有するべきかどうか。数秒だけ迷った。
金額としては小さい。放送使用料の合計は、四曲でも百万円に届かない。経営判断が必要な規模の話ではなかった。共有しない理由は、それだけで十分に立つ。
私はそう判断して、送信した。
翌朝、佐藤から短い返信が届いた。
『ご確認ありがとうございます。四番については承知いたしました。以後、同様の申請があった場合、御社への確認事項として別途まとめてご連絡いたします』
その一文の下に、もう一行だけ加えられていた。
『青木さん。今回は四件でしたが、この規模の申請は、今後、月単位で発生する可能性があります。心づもりだけ、しておいてください』
私は、その一文を何度か読み返した。忠告なのか、事務連絡なのか、判別がつかなかった。佐藤らしい、感情の乗らない文章だった。それでも、その一文の底に、何か個人的なものが微かに混じっている気がした。
念のため、電話をかけた。
「青木です。先ほどのメール、ありがとうございました」
「ええ」
「一つだけ伺います。今後の申請も、四番目のような、原盤の帰属が分かれる楽曲は増えますか」
「増えません。『モノクローム・シティ』は一曲だけです。他はすべて弊社原盤です」
「では、確認は形式上のものが増えていくということですね」
「そうです。ただ」
佐藤は、そこで一拍置いた。
「形式上のものでも、積み重なれば数字になります。数字は、いずれ、どこかで意味を持ちます」
「どういう意味ですか」
「今はまだ、お話しできる段階ではありません」
電話は、それで終わった。佐藤らしい終わり方だった。何も明かさず、何も隠していないという顔で切る。
受話器を置いてから、私は少しのあいだ、机の前で動けなかった。
積み重なれば数字になる。いずれ、意味を持つ。
その言葉が、二年前に自分の手で書いた条文の輪郭を、静かになぞっていくのが分かった。四千五百万という数字を、まだ誰にも言っていない。高橋にも、三人にも。
言うべきだろうか。何度目かの、同じ問いだった。答えは、今日も出なかった。
5
高橋から電話があったのは、その翌日だった。
「東名阪、お疲れさま。数字はもう見た」
「早いですね」
「三宅から回ってきた。六千四十六人、三公演とも完売。文句のつけようがない」
「三宅さんたちのおかげです」
「君のおかげでもある。二段構えでやると決めた時から、今日までずっと」
電話の向こうで、高橋が資料をめくる音がした。
「十月から、メディアの依頼が一気に増える。来週、一度まとめて相談したい」
「分かりました」
「振り分けの基準は、任せていいか」
「はい。拘束時間が読めないものから、優先的に断ります」
「相変わらず容赦ないな」
高橋が少し笑ったのが、電話越しに分かった。
用件は、それで一通り終わった。電話を切る前、高橋が少し声のトーンを落とした。
「他に、何かある?」
いつもの聞き方だった。事務的な確認のあとに、必ず一度だけ挟まれる。
私は受話器を握ったまま、佐藤とのやり取りを思い出した。三十万円。月額五万円。営業利益という三文字。話すなら、今だった。金額は小さい。今なら、ただの事務連絡として話せる。
「特にありません」
私はそう答えた。
「そう。じゃあ、また来週」
電話が切れた。私は受話器を戻し、しばらくその手を見ていた。嘘はついていない。今はまだ、話す必要のない段階だった。私はそう自分に言い聞かせたが、その言い聞かせ方に、以前よりわずかに慣れてきている自分にも気づいていた。
6
その週の終わり、三人を事務所に呼んだ。
用件は、来月からの取材スケジュールの説明だった。テレビ、ラジオ、雑誌。すでに何件かの依頼が入り始めていた。
「来週から、忙しくなります」
私はそう切り出した。
「ライブとは違う忙しさです。座って話すだけの仕事も、身体は使わなくても、思っている以上に疲れます」
「分かってます」
ハルカが頷く。
「休みは」
ユイが尋ねた。
「作ります。ただ、今回のツアーほど、まとまった休みは取れません」
「大丈夫です」
リナが短く言った。
「大丈夫、で片付けないでください」
「片付けてません。ただ、休みが少なくても、今は平気です」
私は少し黙ってから、頷いた。
「無理だと思ったら、すぐに言ってください」
「言います」
三人の声が揃った。
「それと、これから増える取材では、今回のツアーのことをよく聞かれると思います」
「話していいことは、全部話していいですか」
ハルカが尋ねた。
「話したくないことは、話さなくていいです。判断に迷ったら、私かスタッフに合図してください。無理に答えを作らなくていい」
「合図って、どうやるんですか」
ユイが尋ねる。
「目を見てくれれば分かります」
「本当に分かるんですか」
「大阪で分かりました」
その一言で、三人が少しだけ表情を緩めた。あの夜、リナが一人で新幹線に乗った日のことを、誰も口には出さなかったが、全員が思い出していた。
「もう一つだけ、聞いていいですか」
リナが言った。
「何ですか」
「今回のツアーで、何か問題はありましたか」
私は少し考えた。物販の在庫、動線の消防確認、雨の日の誘導。どれも、その場で処理して終わった問題だった。三人に背負わせる必要のあるものは、何一つなかった。
「ありません」
私はそう答えた。嘘ではなかった。ただ、問題という言葉の定義を、私は自分の都合のいいところで区切っていた。
打ち合わせが終わったあと、ユイが帰り際に立ち止まった。
「青木さん、今日、少し疲れてません?」
「そう見えますか」
「いつもより、声が低いです」
私は少し考えて、正直に答えた。
「精算の作業が長引いていました。それだけです」
嘘ではなかった。ただ、全部でもなかった。
ユイはそれ以上聞かず、「無理しないでくださいね」とだけ言って、二人のあとを追って出ていった。
誰もいなくなった事務所で、私は窓の外を見た。冬の気配はまだ遠く、九月の夜風だけが、開けた窓から入ってきた。
机の上には、佐藤とのやり取りを印刷した紙が一枚、置いたままになっている。三十万円。月額五万円。四つの箇条書き。その下に書かれた、営業利益という三文字。
私はその紙を、クリアファイルにしまった。捨てはしなかった。かといって、誰かに見せる予定もなかった。
左手首の糸に触れる。大阪で結んでから、まだ一度も切れていない。今日も、変わらずそこにあった。
この糸のように、切れないまま増えていくものが、もう一つあることに、私はまだ気づいていた。誰も、気づいていなかった。
窓を閉め、電気を消す。事務所を出る前に、私はもう一度だけ、机の上のクリアファイルを見た。
静かな一週間だった。この静けさが、もうすぐ終わることを、私はまだ知らなかったわけではない。ただ、知っていることと、備えられることは、いつも同じではなかった。




