第27章 西から東へ
1
大阪から名古屋への移動は、二時間に満たない。
半年前、同じ道をハイエースで走った時は、四時間かかった。今回は新幹線だった。三人は指定席の窓側に並び、私は通路を挟んだ隣に座っている。座席の背にもたれると、車体の振動が背骨へまっすぐ伝わってきた。
「速いですね」
ユイが窓の外を見ながら言った。
「前は、サービスエリアで二回止まりました」
「あの時のメロンパン、また食べたい」
「今日は駅弁です」
リナが自分の弁当を開けながら答える。三人は同じ弁当を買っていた。私だけがサンドイッチだった。
「青木さん、それだけですか」
「昼に食べます」
「今が昼です」
時計を見ると、確かに十二時を回っていた。ハルカが自分の弁当から、卵焼きを一つ私の膝の上の紙皿へ置いた。
「一つでは足りません」
「二つ目は、名古屋に着いてから」
断る理由が思いつかず、私は卵焼きを食べた。甘い味だった。
窓の外を、田畑と工場が交互に流れていく。半年前は、この景色を見ながらセットリストの順番を考えていた。今日は、名古屋の会場図面を膝の上に広げている。二千十二席。客席の傾斜が急で、前方三列に安全動線を追加した。その線が、図面の上に赤いペンで引かれている。
ふと顔を上げると、ユイが眠っていた。ハルカはイヤホンで音源を確認し、リナは足首のサポーターの位置を直している。
三人とも、半年前より静かだった。緊張しているのではない。慣れた、という言葉が近い。慣れることは強さでもあり、少しだけ怖いことでもある。
2
名古屋の会場入りは、公演前日の午後だった。
搬入口の前で、三宅さんが待っていた。今回は自分のエリアなので、朝から現場にいるという。
「青木さん、傾斜の件、消防と最終確認が取れました」
「前方三列の動線は」
「確保しました。ただ、一つご相談が」
三宅さんは手元の資料を開いた。
「終演後の物販列が、建物の外へ出ます。今日の予報だと、夜に雨が来ます」
「屋根のある場所は」
「地下駐車場の一角を借りられます。ただ、そこまでの誘導に、スタッフがあと六人必要です」
「手配できますか」
「今日中に、六人分の見積もりを出します」
私は頷いた。半年前、この街の百八十人の会場で、雨に濡れながら帰る人を見送ったことを思い出した。あの時、傘を持っていない人が何人かいた。私は何もできなかった。
「三宅さん」
「はい」
「六人ではなく、八人でお願いできますか」
「増やすんですか」
「地下駐車場は、初めて来る人には分かりにくい場所です」
三宅さんは少しだけ驚いた顔をして、それから手帳へ書き込んだ。
「八人ですね。手配します」
3
名古屋公演の当日は、朝から雲が低かった。
開場の一時間前、私はロビーの隅に立って、外の列を見ていた。二千十二人が、番号ごとに区切られて並んでいる。半年前の百八十人は、会場前の歩道に一列で収まった。今日は、建物を半周している。
その中に、探している顔があった。
美咲さんは、列の中ほどにいた。半年前と同じ古いタオルを肩にかけている。隣には、あの日と同じ友人がいた。そして、もう一人。三十代くらいの、初めて見る女性が並んでいた。
私は近づかなかった。声もかけなかった。
名古屋公演は、一曲目から客席の反応が早かった。
半年前、この街の百八十人は、最初の数十秒だけ三人を驚かせないように待った。今日の二千人は待たなかった。イントロが鳴った瞬間から、声が上がっている。
「東京と違いますね」
舞台袖で、三宅さんが小声で言った。
「どう違いますか」
「せっかちです。名古屋の客は、いいと思ったらすぐ出します」
それは、この街で四年前に誰にも見つけてもらえなかったグループへの評価としては、皮肉な言葉だった。あの日、この街の客席は静かだった。悪意があったわけではない。ただ、知らないグループに出す声を、誰も持っていなかっただけだ。
三曲目、ユイが客席へ問いかけた。
「今日、名古屋の人、どれくらいいますか」
多くの手が上がる。
「じゃあ、名古屋じゃないところから来た人」
こちらも、思ったより多い手が上がった。岐阜、三重、静岡。ユイが指を差すたび、その方向から声が返ってくる。
「遠いですね」
「近いです」
客席のどこかから、はっきりした声が返ってきた。二千人の中で、その一言だけが通った。
「近いって言われました」
ユイが笑う。
「じゃあ、次はもっと遠くからも来てもらえるように、もっと大きい声で歌います」
中盤、『帰る場所の灯り』の前に、ハルカが少しだけ間を置いた。
「この曲、半年前にもここで歌いました」
拍手。
「あの時、百八十人でした。私、正直に言うと、あの日のこと、数字では覚えてないんです」
客席が静かになる。
「覚えてるのは、前から三列目に、古いタオルを持ってた人がいたことです」
私は、袖のモニターでその瞬間を見ていた。客席のどこかで、動きがあったような気がした。気のせいかもしれない。
「今日は、どこにいるか分かりません。でも、あの日タオルを持ってた人が、今日この中にいるとしたら」
ハルカは、そこで言葉を選ぶように止まった。
「三年待ってくれて、半年前に会えて、今日また来てくれたことになります。合計で三年半です」
拍手が起きた。長い拍手だった。
「私たちが四年やってきた時間と、ほとんど同じです」
その一行で、客席の空気が変わった。ユイが横から続けた。
「待つ時間って、待ってる人の側にもあるんだって、私、最近やっと分かりました」
曲が始まる。二千人の声が、サビで加わった。半年前の百八十人と、揺れる速さは同じだった。
開演後、後半のMCで、ハルカがそのことに触れた。
「半年前、この街の百八十人の会場で歌いました」
拍手が起きる。
「その時、手紙をくださった方がいます。三年間、待っていてくれた人でした」
客席が静かになる。
「今日、その人がどこにいるか、私には見えません。二千人いるので」
少し笑いが起きた。
「でも、今日ここに、初めて来た人が何人いるかは聞けます。初めての人、手を挙げてもらえますか」
客席のあちこちで、手が上がった。半年前の会場では、その割合を目で数えることができた。今日は数えられない。ただ、上がった手が客席全体に散らばっていることだけが分かった。
「たくさんいます」
ユイが言った。
「その人たちを、誰が連れてきたんですか」
答えは返ってこない。返ってくるはずのない質問だった。
「連れてきてくれた人がいます。私たちじゃなくて、隣に座ってる人が」
リナが続けた。
「三年前、私たちを見つけてくれた人が、今日、誰かを連れてきてくれた。私たちが名古屋でやったことは、それだけです」
拍手が起きた。私はロビーのモニターでその様子を見ていた。列の中ほどにいた三人組が、今、どのあたりの席にいるのかは分からない。分からないまま、拍手の中に混ざっている。
それでいい、と思った。数えられなくなることは、失うことと同じではない。
4
終演後、私はロビーで一つの報告を受けた。
二階席の後方で、公演中に体調を崩した女性がいたという。救護室で休み、終演前には回復して、自分の足で帰っていった。
「お名前は」
「伺いましたが、大丈夫ですとだけ」
スタッフはそう言ってから、付け加えた。
「ただ、一つだけ言い残されました。『三年前から見てます。今日は最後まで見られました』と」
私は、その言葉を手帳に書き留めなかった。書き留める必要がなかった。
終演後、雨が降り出した。
物販列は、予定どおり地下駐車場へ誘導された。増やした二人ぶんのスタッフが、外の通路の角に立って、傘を差しかけている。私はロビーの窓からその様子を見ていた。
「増やして正解でしたね」
三宅さんが隣へ来た。
「二人分の人件費で、何人が濡れずに済みましたか」
「数えていません。数えられません」
「そうですよね」
彼女は少し笑った。
「青木さんって、数字の人だって聞いてたんですけど」
「数字の人です」
「今日は違いました」
「今日も数字を見ています。ただ、数えられないものがあることも、最近は分かるようになりました」
三宅さんは何も言わず、窓の外を見ていた。地下へ続くスロープを、傘の下で列が動いていく。
楽屋へ戻ると、三人はまだ衣装のままだった。
「雨、大丈夫でしたか」
ハルカが最初に聞いた。
「地下へ入ってもらいました。濡れていません」
「よかった」
その一言で、三人の肩から力が抜けたのが分かった。
「次、東京ですね」
ユイが言う。
「一週間後です」
「ツアーの最後」
「そうです」
「終わっちゃう」
ユイは、自分で言ってから、少し困ったような顔をした。
「終わるのが嫌なの?」
私が尋ねる。
「嫌っていうか。……三つの街を回るのが、思ってたより楽しくて」
「また回ればいい」
リナが言った。
「回れるかな」
「回る」
リナの答えは短かった。短いのに、迷いがなかった。
5
東京公演の週は、朝から雨も降らず、風もない、静かな一週間だった。
私は毎日、事務所と会場を往復した。搬入は前日の朝七時。二千二十席。日曜日の公演で、終演は午後八時三十分。撤収は翌朝五時まで。会場との契約書に、そのすべての時刻が書き込まれている。
東京公演の三日前、私は一人で会場の下見に行った。
誰もいないホールの、二階席のいちばん上まで階段を上る。息が上がった。ここまで上がってくる人が、日曜日には二千二十人のうち何百人かいる。その人たちが、この高さから何を見るのかを、一度自分の目で確かめておきたかった。
座席に座ってステージを見ると、思っていたより遠かった。
人の背丈は、指先ほどの大きさになる。表情は分からない。誰がハルカで、誰がユイかも、衣装の色でしか判別できないだろう。
私はしばらくその席に座っていた。
四年前、下北沢の地下で、私は客席の一番後ろに立っていた。あの会場は狭かったから、後ろに立っても三人の汗が見えた。ユイの前髪が額に貼りつくのも、リナの指先が震えるのも、全部見えた。
ここでは見えない。
それでも、この席を買う人がいる。三千円か四千円を払って、指先ほどの三人を見に来る。
なぜだろうと、私は考えた。四年間、一度も考えたことのない問いだった。動員は数字であり、席は在庫であり、埋めるものだった。誰がなぜその席を選ぶのかを、私は考えたことがなかった。
階段を下りる途中で、答えのようなものが浮かんだ。
見えないのに来るのは、その場にいたいからだ。見るためではなく、同じ空気の中にいるために来る。
だとすれば、私が守るべきものは視界ではない。空気の方だった。
その日、事務所へ戻ってから、私は空調の設定と、開演前の場内BGMの音量を変更する指示を出した。誰にも説明しなかったので、舞台監督には不思議がられた。
水曜日、大類社長が事務所へ来た。手には缶コーヒーが二本あった。
「一本やる」
「ありがとうございます」
「東京は完売か」
「先週の一般販売で、七分で終了しました」
「七分」
社長は自分の缶を開け、しばらく黙って飲んでいた。
「なあ、青木」
「はい」
「四年前、下北沢の帰りに、俺がお前に何て言ったか覚えてるか」
「『来月の家賃が払えなかったら、この事務所は畳む』」
「よく覚えてるな」
「忘れられません」
社長は笑って、缶を机に置いた。
「畳まなくてよかった」
それだけ言って、社長は帰っていった。私は缶コーヒーを開けずに、そのまま机の隅へ置いた。
6
日曜日。
東京の会場は、三つの中で一番大きく、一番古かった。ロビーの床は磨り減り、階段の手すりには何十年ぶんかの手の跡が残っている。
午前中のリハーサルで、ハルカがステージから客席を見渡した。
「ここ、天井が高いですね」
「二十二メートルある」
舞台監督が答える。
「声、上に逃げますか」
「逃げる。でも、逃げた分が壁に当たって戻る。返ってくるまで、コンマ四秒」
「待てばいいんですね」
ハルカは、六月に大阪の空のホールで言ったことを、そのまま繰り返した。
午後五時、開場。
二千二十の席が埋まっていく。私は今日も、後方から見ていた。半年前、この街の二百八十人の会場では、入場する人を一人ずつ見送った。今日は無理だった。それでも、目が慣れると、いくつかの顔が浮かび上がる。
中央通路の近くに、青い帽子の男性がいた。地下時代から来てくれている人だった。二階の前方には、半年前の小規模公演で最前列にいた女性がいる。そして、その隣に、まったく知らない顔が並んでいた。
午後六時、客電が落ちる。
一曲目から、三人の身体は明らかに違っていた。大阪で覚えたことを名古屋で確かめ、名古屋で足りなかったものを東京へ持ってきている。声を張らない。動きを急がない。二千人の空気が返ってくるまで、待つ。
その一曲目の途中で、私は自分が数えるのをやめていることに気づいた。
いつもなら、曲ごとに客席の反応を記録している。立ち上がった人数、コールの揃い方、後方の温度。今日は、その手が動かなかった。
三人が、これまでで一番良かったからだ。
大阪では、二千人の空間に慣れることに力を使った。名古屋では、客席の速さに合わせた。東京では、そのどちらもしていない。三人は、ただ自分たちのやりたいようにやっていた。
五曲目、ユイが東側の花道の先まで走った。予定にない動きだった。舞台監督が無線で照明へ指示を出す。ワンテンポ遅れて、追いかけの光がユイを捉えた。
「予定外です」
私が言うと、舞台監督は口の端だけで笑った。
「ああいうのを止めると、二度とやらなくなりますよ」
ユイは花道の先で片膝をつき、最前列の誰かと目を合わせて、そのまま一節を歌った。二千人のうち、その一人だけに向けて歌っていることが、後方の私にも分かった。
七曲目、リナが振付を一つ飛ばした。
私は身体を固くした。三人の中で、リナが振りを間違えることはほとんどない。ハルカが横目でそれに気づき、次の四拍で自分の動きを合わせた。ユイが半拍遅れて追いつく。三人の形が、二小節後には元に戻っていた。
客席は気づいていない。気づいたのは、この半年を見てきた人間だけだった。
「今の」
舞台監督が言う。
「合わせましたね」
「合わせました」
四年前なら、リナはあの場で固まっていた。三年前なら、ハルカが無理に合わせて、二人とも崩れていた。今は、二小節で戻る。
中盤の『まだ名前のない光』で、照明がすべて落ちた。
二千二十本のペンライトだけが残る。ハルカがアカペラで歌い始めた。二千人が静まり返る。天井の高い古いホールで、マイクを通した一人の声が、コンマ四秒遅れて壁から返ってきた。
ユイが重なる。リナが下を支える。三人の声が揃ったところで、伴奏が入った。
その瞬間、二階席の後方から音が上がった。歓声ではない。息を吸う音が、二千人分まとまって聞こえた音だった。
私は統括の位置で、その音を聞いた。四年間で、初めて聞く種類の音だった。
『帰る場所の灯り』のイントロが鳴ると、客席の反応がまた変わった。歓声ではなく、息を呑む音だった。
ハルカが歌い出す。ユイが重ねる。リナが下を支える。サビで、客席が加わった。二千の声が、三人の声を押し上げる。
私は統括の位置に立ったまま、その音を身体で受けた。半年前、この街の二百八十人が同じことをした。あの時、私は「二百八十人しかいないとは思えない音だった」と手帳に書いた。
今日は、二千人が二千人ぶんの音を出していた。数が増えた分だけ、大きくなっただけだ。それなのに、なぜか同じ音に聞こえた。
本編の最後、ハルカがマイクを持った。
「これで、東名阪のホールツアーが終わります」
拍手。
「二月に、大阪、名古屋、東京の小さな会場を回りました。五百八十人でした」
客席が静かになる。
「今回は、三つの街で六千人を超えました。十倍です」
少し歓声が上がる。
「でも、十倍になったのは人数だけです」
ハルカはそこで一度、言葉を止めた。
「私たちがやっていることは、増えても減ってもいません。目の前の人に歌う。それだけです。二月に百二十人の前でやったことと、今日ここでやっていることは、同じです」
ユイが続けた。
「違うのは、私たちの方が少しだけ上手くなったことです」
笑いが起きる。
「本当です。半年、ずっと練習しました」
リナが最後に言った。
「次は、もっと遠くまで届く声にします」
その言葉が、天井の高い空間で、コンマ四秒かけて戻ってきた。
7
アンコールを終え、三人がステージから降りたのは午後八時三十二分だった。予定より二分遅い。
舞台袖で、三人は立ったまま動けなかった。ユイが最初に膝をつき、ハルカがその肩を支え、リナが二人の背中に手を置いた。
「終わった」
ユイが言う。
「終わったね」
ハルカが答える。
誰も泣かなかった。半年前の小規模公演のあとは、三人とも泣いていた。今日は泣かなかった。代わりに、しばらく誰も動かなかった。
私はその三人の後ろに立って、待っていた。声をかけるべき言葉が、一つも浮かばなかった。
やがて、リナが振り返った。
「青木さん」
「はい」
「まだ、袖にいるんですね」
「いると言いました」
「覚えてます」
リナは立ち上がり、私の方へ一歩近づいた。
「大阪の楽屋で、必要な場所にいますって言いました。今日も、そこにいました」
私は返事ができなかった。
楽屋へ戻る通路で、高橋が待っていた。数字の紙は持っていない。
「終わったね」
「はい」
「今日の三人、どうだった」
いつもなら課題を挙げる。返しの遅れ。二曲目の照明。物販列の折り返し。
「上手くなりました」
「それだけ?」
「それだけです」
高橋は笑った。
「二回目だな、それ」
「大阪でも言いました」
「覚えてる。だから二回目だと言った」
彼は通路の窓へ目をやった。外は完全に暗くなっている。
「青木さん」
「はい」
「東名阪、二段構えでやると言った時、僕は正直、半分は君の理想論だと思ってた」
「知っています」
「知ってたのか」
「顔に出ていました」
「僕は、そんなに顔に出るか」
「大類社長よりは出ません」
高橋がまた笑った。それから、真面目な顔に戻った。
「結果としては、二段でやってよかった。数字の話じゃない。三人の身体が、二千人の空間を怖がっていない。あれは、いきなりホールから始めていたら手に入らなかった」
「はい」
「君の判断だった。それは記録しておく」
「記録しなくていいです」
「僕がしたいんだ」
彼はそう言って、先に楽屋の方へ歩いていった。
私は通路に一人残り、窓の外を見た。撤収のトラックが、搬入口の前に何台も並んでいる。あの中の一台に、三人の衣装と、二千人ぶんのペンライトの残りと、六千枚のツアータオルの売れ残りが積まれていく。
半年前、私はハイエース一台で全部を運んでいた。
鞄の中で、スマートフォンが震えた。画面を見ると、佐藤弁護士からのメールだった。件名には「ツアー楽曲の使用許諾について」とだけ書かれている。
私はその通知を、開かずに画面を伏せた。




