第26章 二千の椅子
1
東名阪の小規模公演が終わってから、事務所の壁に貼られた予定表の色が変わった。
二月までは、青と緑の帯が短く並んでいた。レッスン、取材、移動、公演。一つ一つが数時間で終わる仕事だった。三月に入ると、その上へ、長い灰色の帯が重なり始める。会場仮押さえ。舞台図面。音響プラン。警備計画。興行中止保険。三人が直接触れることのない、けれど三人がステージに立つために必要な、地味な帯だった。
ホールツアーまで、半年ある。
半年という時間は、外から見れば余裕に見える。実際に紙へ書き出すと、余裕はどこにもなかった。二千人規模のホールは、押さえた日から逆算して動くしかない。搬入は前日の朝七時。撤収は当日深夜。その二日間のために、十か月前から会場と話をする。
私は三都市の担当者と、月に二度ずつ電話をした。大阪の会場は、搬入口の高さが低く、機材車の一台が入らないことが分かった。名古屋は客席の傾斜が急で、前方の安全動線を作り直す必要があった。東京は、そもそも押さえるのに一番苦労した。
「土曜日は無理です。日曜なら」
東京の会場担当者は、三度目の電話でようやくそう言った。
「日曜で押さえます」
「終演後の撤収が翌朝までかかりますが」
「構いません」
受話器を置いて、私は日程表の最後の枠を埋めた。九月の第二日曜日。大阪、名古屋と回って、最後に東京。三つの印が、西から東へ一本の線でつながった。
その線を見つめていると、事務机の向こうから大類社長が覗き込んできた。
「東京だけ日曜か」
「土曜が押さえられませんでした」
「日曜は帰りが早いぞ。終演を三十分早めろ」
「終演時間は動かしません。その代わり、退場を五分短縮する動線を組みます」
「五分で何が変わる」
「二千人が五分早く駅に着きます」
社長は何か言いかけて、やめた。四年前なら、この人は「そんな細かいことは客が勝手にやる」と言っただろう。今は言わない。言わないだけで、まだ納得はしていない顔だった。
2
三人の半年は、私の半年とは違う形をしていた。
週に四日、ダンススタジオへ通う。残りの二日は歌のレッスン。一日は完全な休養日として空けた。この休養日を守らせるために、私は三度、高橋と言い合った。
「土曜に一本、雑誌の撮影が入れられる」
「休養日です」
「二時間だけだ」
「移動を入れれば半日です」
「半日なら休養日と呼べるだろう」
「呼べません」
最終的に、撮影は平日の夕方へ動いた。
スタジオでは、ERI先生が新しい課題を出していた。三人が横一列に並び、それぞれ二メートル離れて立つ。そのまま、いつもの振付を通す。
「近い」
一曲目の途中で、ERI先生が止めた。
「二メートル空けてます」
ハルカが答える。
「距離の話じゃない。身体の使い方が、まだ地下のままなの」
ERI先生は、スタジオの端まで歩いていった。
「そこから、私に届く動きをやってみて」
三人が同じ振付をもう一度通す。ハルカの腕が、さっきより大きく伸びた。ユイの視線が上を向く。リナの回転が、明らかに一回転ぶん深くなった。
「今の」
「はい」
「疲れる?」
「疲れます」
「その疲れる方を、九十分続けられる身体にする。それが半年でやること」
三人が頷いた。私は壁際でその様子を見ていた。二千人のホールで、最後列までの距離は約四十メートルある。小さなライブハウスの十倍以上だ。声も、表情も、そのままでは届かない。
届かせるために身体を作り替えるという作業を、三人はこれから半年かけて行う。私にできるのは、その半年のあいだ、三人が壊れないように予定表を組むことだけだった。
レッスンの帰り、リナが自動販売機の前で足首を回していた。
「痛む?」
「痛くはないです。ただ、着地の音が変わりました」
「音」
「前より重くなった。踏む力が増えたからだと思います」
私はその場でトレーナーへ連絡を入れた。翌週から、リナの整体を月二回から週一回へ増やした。費用は年間で三十万円ほど増える。決裁の欄に、私は自分の判子を押した。大類社長には、金額だけを事後で伝えた。
「増えたな」
「増やしました」
「理由は」
「着地の音が変わったからです」
社長は書類をしばらく見て、それから何も言わずに引き出しへしまった。
三人の身体が変わっていくのを、私は数字で見ていた。
トレーナーが毎月出す測定表がある。持久力、可動域、左右差。四月の数値と七月の数値を並べると、三人ともはっきり上がっていた。特にユイの持久力は、九十分の公演を通しても最後まで落ちない水準に届いている。
ただし、その表には出ないものもあった。
六月のある夜、レッスンが終わってスタジオを出ると、ハルカが一人で壁に手をついていた。
「どうしたの」
「なんでもないです」
「なんでもない人は、壁に手をつきません」
ハルカは少し笑って、それから正直に言った。
「高い音が、前より出しにくくなってて」
私はその場でスケジュールを開いた。
「明日、耳鼻科へ行きます」
「そんな大げさな」
「大げさにします。声帯は、痛くなってからでは遅い」
翌日の診断は、軽度の炎症だった。二週間、大きな声を出さないこと。それだけの指示で済んだ。
問題は、その二週間をどう使うかだった。ダンスのレッスンは続けられる。歌えないだけだ。ハルカは、歌わないレッスンに三日で耐えられなくなった。
「見てるだけって、こんなにきついんですね」
「三日で言うことじゃないわ」
「ユイとリナが上手くなっていくのが分かるんです。私だけ止まってる」
私はその言葉を、そのままERI先生へ伝えた。
「歌えないなら、聞かせればいい」
ERI先生の答えは短かった。
翌日から、ハルカはスタジオの後方に座り、二人の歌を聞いて、気づいたことをノートへ書いた。二週間で、そのノートは半分埋まった。
『ユイ、二番のサビで息継ぎの位置が毎回違う』
『リナ、低音のとき顎が下がる。音は合ってるけど、客席から見ると自信がなさそうに見える』
声が戻った日、ハルカはそのノートを二人に渡した。
「これ、書いてたの?」
ユイがページをめくる。
「暇だったから」
「暇じゃなかったでしょ」
リナが言った。
「暇だった」
「嘘」
三人が笑った。私は少し離れたところで、そのやり取りを見ていた。
止まっている期間に何を得るか。それは、私が一度も三人に教えられなかったことだった。あの夏、ユイが休んでいた二か月、私は焦りながら予定表を眺めていただけだった。
七月の測定表で、ハルカの数値は下がっていなかった。むしろ、二週間前より上がっていた。
3
六月、三人は空のホールに立った。
大阪の会場を、リハーサル用に半日だけ借りた。客席には誰もいない。二千十四の椅子が、赤い布を張ったまま、傾斜に沿って上へ広がっている。
「うわ」
ユイが、ステージの中央で立ち止まった。
「思ってたのと違います」
「どう違うの」
「広いっていうより、遠いです」
ハルカが最後列まで歩いていき、そこから手を振った。ステージのリナが振り返す。
「見える?」
ハルカが叫ぶ。
「見えるけど、顔は分からない」
リナが答えた。二人のあいだに、四十メートルの空気がある。声はかろうじて届き、表情は届かない。
私は音響のスタッフと一緒に、返しの調整を見ていた。小さな会場では、自分の声が壁に当たってすぐ返ってくる。二千人のホールでは、その反射が遅れて戻る。三人は、その遅れに引きずられて、少しずつテンポを落とし始めた。
「止めて」
舞台監督の声が飛ぶ。
「三人とも、返しに合わせて歌ってる。合わせるのは、返しじゃなくてクリックです」
「はい」
「もう一度、頭から」
その日、三人は同じ曲を十一回歌った。十一回目の終わりに、ハルカが客席へ向かって言った。
「今、少しだけ分かりました」
「何が」
私が尋ねる。
「壁が遠いから、返ってこないんじゃなくて、返ってくるまで待てばいいんですね」
ERI先生が、初めてその日笑った。
「そう。急がない人だけが、大きい場所で歌える」
帰りの車の中で、三人は珍しく静かだった。ユイが窓の外を見ながら、独り言のように言った。
「あの椅子、全部埋まるのかな」
誰も答えなかった。私も答えなかった。答えを持っていなかったからだ。
4
チケットの先行受付が始まったのは、七月の第一金曜日だった。
午後八時、LUMINA HOMEの会員向け先行を開く。事務所には私と高橋、広報の担当者が残った。三人には自宅で待つように伝えてある。
「見なくていいと言っても、見るだろうな」
高橋がモニターを見ながら言った。
「見ます」
「止めないのか」
「止めても見るので、正確な数字を三十分ごとに送ります」
開始十分後、大阪の申込が千件を超えた。二十分で千五百。一時間で二千を超え、そこから伸びが緩やかになった。
「二千十四席に対して、有効申込二千三百八十」
広報担当が読み上げる。
「倍率一・一八」
「落選が出ます」
「三百六十六人」
私はその数字を書き留めた。三百六十六人。半年前、大阪の小さな会場に入れたのは百二十人だった。今日、入れない人がその三倍いる。
名古屋は千九百四十件。二千十二席にわずかに届かない。先行で埋まらないのは三都市で名古屋だけだった。東京は三千二百件を超え、倍率が一・六を示した。
「東京が一番厳しいな」
「一般販売分を減らします」
「減らすのか」
「増やします。減らすのは、招待枠です」
高橋が顔を上げた。
「関係各社の招待を減らすと、あとで面倒になる」
「面倒になります。それでも、四十席を一般へ回します」
「理由を聞いていいか」
「東京は、三人が最後に立つ街です。招待で座る人より、抽選に落ちた人の方が、その席を必要としています」
高橋はしばらく黙り、それから端末を閉じた。
「先方への説明は僕がやる」
「私が行きます」
「君が行くと、正論で殴ることになる。僕なら曖昧に断れる」
その言い方に、私は何も返せなかった。
午後十一時、三人へ最終の数字を送った。三分後、ユイから返信が来た。
『大阪、落ちる人がいるんですね』
『三百六十六人です』
『その人たちに、何かできますか』
私はしばらく画面を見ていた。以前の私なら、できることはないと答えていた。落選は仕組みであって、感情の問題ではない。
『考えます。明日、四人で』
送信してから、自分がその返事を打つのに十秒かかったことに気づいた。
翌日の午後、四人で会議室に集まった。ホワイトボードには、私が朝のうちに書いた数字が並んでいる。大阪、二千三百八十件の申込に対し、二千十四席。落選、三百六十六人。
「昨日の質問に、答えを持ってきていません」
私は先にそう言った。
「代わりに、できないことから並べます。席は増やせません。当日券も作れません。同じ会場でもう一公演やることも、日程上できません」
「じゃあ、何もできないんですか」
ユイの声には、責める調子はなかった。ただ、確かめたがっていた。
「席に関しては、何もできません」
「席に関しては」
「はい」
ハルカが、その言い方に気づいた顔をした。
「席じゃないところなら、あるってことですか」
私はホワイトボードの下の方に、一行だけ書き足した。
『落選した人に、当日の何かを渡せるか』
「たとえば、当日の記録映像を後日配信する。これは高橋さんが以前から言っています。ただ、三人は小規模公演の記録を断りました。同じ理由で断るなら、それでいいです」
三人が顔を見合わせた。
「あの時は、宣伝のために撮るのが嫌でした」
ハルカが言う。
「今回は、来られなかった人のために撮るなら、違うと思います」
「私も」
ユイが続けた。リナだけが、少し考えてから口を開いた。
「でも、映像で見た人が、自分は本物を見ていないって思わないですか」
その言葉に、部屋が静かになった。
「思うかもしれません」
私は答えた。
「映像は、会場の体験の代わりにはなりません。それは、はっきり書いた方がいい。代わりではなく、別のものとして渡す」
「別のもの」
「はい。たとえば、会場では見えない角度から撮る。客席側からではなく、袖から。三人が出ていく直前の顔と、戻ってきた直後の顔を入れる」
ユイが目を丸くした。
「それ、会場の人も見られないやつですね」
「見られません」
「じゃあ、来た人が悔しがりませんか」
「悔しがるかもしれません。だから、会場に来た人には、映像に入っていないものを渡します」
私は二行目を書いた。
『会場:その日の音。映像:その日の裏側』
「どちらか一方では足りない、という形にします。両方見た人が一番得をする形にはしません。それをやると、必ずお金の話になります」
高橋がいたら、それは機会損失だと言うだろう。実際、二つを組み合わせた商品を作れば、単価は上がる。
「青木さん」
リナが言った。
「今の、高橋さんに反対されませんか」
「されます」
「勝てますか」
「勝つ話ではありません。私が説明して、高橋さんが納得しなければ、通りません」
「じゃあ、練習しましょう」
リナは真顔だった。
「練習?」
「私たちが高橋さん役をやります。反対してみます」
三人は本当にそれをやった。ユイが「収益はどうするんですか」と言い、ハルカが「配信の価格をもっと上げられます」と言い、リナが「両方買った人に特典をつけない理由は」と聞いた。
私は三十分かけて、そのすべてに答えた。答えられなかったのは一つだけだった。
「配信を見た人が、次に会場へ来る動機は何ですか」
リナの質問だった。
「……その日の音は、その日にしかないからです」
「それ、来たことのない人には分からないと思います」
正しかった。私はホワイトボードの前で、しばらく黙った。
「じゃあ、その理由を作るところからです」
ユイが言った。
「作る?」
「配信の最後に、次の会場の話をします。私たちが言えば、たぶん一番早いです」
三人が同時に頷いた。
その日の会議は、二時間を超えた。終わったあと、私は自分がほとんど話していなかったことに気づいた。四年前、同じ会議室で、私は一人で喋り続けていた。三人はパイプ椅子に座って、私の結論を待っていた。
5
九月の第一土曜日。大阪へ入ったのは、公演の前々日だった。
半年前、この街へ来た時は、ハイエース一台で四人と機材を運んだ。今回は機材車が三台、スタッフを乗せたバンが二台、三人と私は新幹線で移動した。大類社長は前日から現地に入り、地元の主催会社と挨拶を回っている。
駅を出ると、蒸し暑い空気が首筋にまとわりついた。
「大阪、暑いですね」
ユイが襟元を持ち上げる。
「前に来た時は雨だった」
リナが言った。
「二月だったから」
「あの日の雨、まだ覚えてます」
三人が同じ方向を見た。半年前、細かい雨の中を、この街へ入ってきた。あの時、リナは車の窓を見つめながら「私はこの車には乗ってなかった」と言った。
今日は晴れている。
会場へ向かうタクシーの窓から、街の景色が流れていく。半年前より、青と白のものが目についた。駅前の書店の前で、ツアーTシャツを着た二人組が待ち合わせをしている。まだ二日前だった。
「あの人たち、明後日の人ですよね」
ユイが窓へ顔を寄せた。
「たぶんね」
「もう来てるんですか」
「大阪の人かもしれない」
「じゃあ、今日ここにいるのは当たり前ですね」
ユイは少し照れたように笑った。当たり前のことに驚けるうちは、まだ大丈夫だと私は思った。
会場入りすると、搬入口の前で三宅さんが待っていた。ネクストウェーブの中部エリア担当だが、今回は関西の応援に入っている。
「青木さん、お久しぶりです。搬入口の件、解決しました」
「入らなかった機材車は」
「隣のビルの荷捌き場を借りました。台車で三十メートル運ぶことになりますが、雨は当たりません」
「助かります」
「あと、佐藤から言付かっています」
私は足を止めた。
「ツアー中の楽曲の放送・配信使用について、まとめて確認したいと。ツアーが終わってからでいいそうです」
「分かりました」
三宅さんは会釈をして、機材の列の方へ戻っていった。私はその背中を見送りながら、鞄の中のスマートフォンを一度も取り出さなかった。
6
公演当日、午前六時に会場へ入った。
小さなライブハウスとは、動く人数が違う。舞台、音響、照明、映像、警備、救護、物販、運営。名札の色が七種類ある。私はそのすべてと朝の確認をした。
午前十時、三人が会場入りする。楽屋は三人で一つ。前回の百二十人の会場では、そもそも楽屋と呼べる部屋がなく、通路にパイプ椅子を並べていた。今日は鏡があり、シャワーがあり、簡易ベッドがある。
「広い」
ユイが部屋の真ん中でくるりと回った。
「前は、着替える時に廊下へ出てました」
「あれは、あれで楽しかったけど」
ハルカが荷物を置く。
「戻りたい?」
リナが尋ねた。
「戻りたくない。でも、忘れたくない」
リハーサルは十一時から二時間。三人はステージの端から端まで歩き、それぞれの立ち位置から客席を確認した。
「最後列、あそこですよね」
ユイが二階席の一番上を指す。
「そう」
「あそこの人に、どうやって届けますか」
「届けようとしないで」
ERI先生が答えた。
「え」
「あそこへ届けようとすると、声が大きくなるだけ。あなたが見るのは、五列目の一人。その一人へ歌えば、二階席の人は『あの子は誰かに歌ってる』と分かる」
「見えない人にも分かるんですか」
「分かる。歌ってる相手がいる人と、誰にも歌ってない人は、遠くからの方がよく見える」
三人が黙って頷いた。
午後五時、開場。
二千十四の椅子が、少しずつ埋まっていく。私は二階席の後方から、その様子を見ていた。青と白のペンライトが、階段状の客席に散らばり、やがて隙間がなくなっていく。
半年前、この街の百二十人を、私は一人ずつ見ることができた。今日は無理だった。
それでも、目が慣れてくると、いくつかの点が見えてきた。最前列で、開演前から泣いている人。二階の端で、母親らしい人と並んで座っている高校生。中央あたりで、隣の人と初めて挨拶をしているらしい二人。
数字ではない、と私は思った。数えられないだけだ。
7
午後六時、客電が落ちた。
二千人の声が、一つの塊になって天井へ上がる。百二十人の時とは、音の質が違った。あの時は一人ずつの声が聞き分けられた。今日は、聞き分けられない代わりに、床が震えている。
一曲目は『夜明け前の境界線』。
ハルカが最初の一節を歌い出した瞬間、私は違いに気づいた。声を張っていない。むしろ、小さな会場の時より抑えている。それなのに、二千人の空間の隅々まで、言葉の輪郭が届いていた。
半年、そのために使ったのだ。
ユイは、ステージの前方まで出て、五列目あたりの一点を見て歌った。視線が動かない。動かないから、その方向にいる何十人もが、自分に歌われていると感じる。リナは、大きくなったステージを一度も持て余さなかった。回転の一つずつが、前より深く、遅く、確実になっている。
二曲目、三曲目と、客席の温度が上がっていく。
四曲目は『透明な反撃』だった。リナのソロダンスが入る曲だ。イントロで照明が赤へ変わると、二千人の視線が一点へ集まるのが、後方からでも分かった。
リナは、ステージの中央から動かなかった。
小さな会場では、彼女は端から端まで走った。壁が近いから、走らなければ空間が余る。今日は違った。中央に立ったまま、腕と上体と視線だけで、四十メートル先まで届く動きをしている。
最後のターンで、客席から声が上がった。悲鳴に近い、短い声だった。
私は隣に立っていた舞台監督の顔を見た。彼はモニターから目を離さずに、小さく頷いた。
「あの子、化けましたね」
「半年です」
「半年でこうはならない。四年でしょう」
その言い方が、妙に胸に残った。
中盤のMCで、ユイがマイクを持った。
「今日、開場のときに客席を見てたんです」
少しざわめきが起きる。
「袖の隙間から。怒られるかと思ったけど、青木さんは見なかったことにしてくれました」
私は後方で、思わず天井を見上げた。
「そしたら、二階のいちばん上のあたりに、一人で座ってる人がいて。開演の一時間前から座ってました」
客席が静かになる。
「その人がどこにいるか、今はもう分かりません。二千人いるので、見つけられません」
ユイは、そこで一度息を吸った。
「でも、いることは知ってます。だから今日は、見つけられないまま歌います」
拍手が起きた。ハルカが横から付け足した。
「ユイ、それ、リハーサルで言ってた台詞と全然違います」
「変わりました」
「今変えたでしょう」
「今、変わったんです」
笑いが広がる。その笑いの中で、私は自分の手が震えているのに気づいた。進行表を持つ指が、うまく止まらない。
見つけられないまま歌う。
四年前、七人の客席で、三人は全員の顔を覚えようとした。今日は覚えられない。覚えられないことを引き受けたうえで、それでも一人ずつがいると信じて歌う。
それは、後退ではなかった。
MCが終わり、次の曲へ移る前に、ハルカがもう一度マイクを持った。
「半年前、この街の百二十人の会場で歌いました」
客席から拍手が起きる。
「あの日入れなかった人が、今日ここにいるかもしれません。今日も入れなかった人が、三百六十六人います」
拍手が止んだ。
「その人たちのことを、私たちは知っています。名前は分かりません。でも、申し込んで、落ちて、それでも今日、どこかでこの時間を過ごしている人がいることは知っています」
ユイが続けた。
「だから、今日は、ここにいない人の分まで、とは言いません」
少し笑いが起きる。
「そういうの、無責任だと思うので。今日は、ここにいる皆さんに歌います。ここにいない人には、また別の日に、別の場所で会いに行きます」
リナが最後に言った。
「次に会う場所を、必ず作ります」
その言葉が終わらないうちに、客席のどこかで声が上がった。「待ってる」という声だった。一人の声だったのに、二千人の中で、はっきりと聞こえた。
中盤、『帰る場所の灯り』で客席が歌い始めた。誰も指示していない。ハルカが一度だけ言葉を詰まらせ、そのまま歌い続けた。
私は統括の位置から、客席全体を見ていた。二千の光が、同じ速さで揺れている。半年前の百二十本と、動きは同じだった。数が増えても、揺れる速さは変わらない。
最後の曲を終え、三人が深く頭を下げた。
照明が落ちる。アンコールの手拍子が、床を通して私の靴底まで伝わってきた。
8
終演後、楽屋の扉が閉まってから、三人はしばらく誰も話さなかった。
小さな会場の時と同じだった。違うのは、部屋が広く、三人が離れて座れることだった。ハルカは鏡の前、ユイはソファ、リナは壁際の床。三人のあいだに、それぞれ二メートルほどの距離がある。
「近くに来て」
最初に口を開いたのはリナだった。
「え」
「離れてると、なんか変な感じがする」
ハルカとユイが立ち上がり、リナの隣へ座った。三人が肩を寄せる。その姿は、通路にパイプ椅子を並べていた頃と、寸分違わなかった。
「二千人」
ユイが言った。
「うん」
「顔、見えなかった」
「見えなかったね」
ハルカが答える。
「でも、今日いちばん覚えてるのは、五列目の右から三番目の人です」
「なんで」
「ずっと泣いてて、でも一回も目を逸らさなかったから」
リナが自分の膝を見た。
「私は、二階の一番上の人」
「見えたの?」
「顔は見えない。でも、ペンライト振ってるのが、他の人と半拍ずれてた。ずっとずれてた。それが逆に、その人だけって分かった」
三人が笑った。
扉が叩かれ、高橋が入ってきた。手には数字の紙がある。
「動員、二千十四。空席ゼロ」
「物販は」
「用意した分は、開演前に八割出た。終演後の追加販売で、Tシャツが完売」
「けが人と体調不良は」
「救護室の利用が四件。全員、水分補給で回復して帰った。搬送はゼロ」
私は息を吐いた。数字を聞き終わってから、初めて椅子に座った。
「青木さん」
高橋がこちらを見た。
「今日、どうだった」
いつもなら、課題から話す。返しの遅れ。中盤の照明のずれ。物販列の折り返し位置。全部、頭の中に整理してある。
「よかったです」
自分の口から先に出た言葉に、私自身が驚いていた。
「それだけ?」
「課題は明日の会議で話します。今日は、それだけです」
高橋は少し笑って、紙を鞄へしまった。
「じゃあ、僕もそれだけにしておく」
彼は三人の方を向いた。
「よかったよ」
「ありがとうございます」
三人の声が揃った。
すべての撤収を見届けて会場を出たのは、日付が変わる少し前だった。大阪の夜は、二月に来た時よりずっと暖かい。搬入口の外に、まだ数人のファンが残っていた。スタッフが声をかけると、素直に頭を下げて帰っていく。
車へ乗り込む前、ユイが会場を振り返った。
「明後日は、名古屋ですね」
「一日休んで、明後日の朝に移動します」
「名古屋の人にも、待ってるって言ってもらえるかな」
誰も答えなかった。答える必要のない質問だった。
ハイエースではなく、大きなバンの後部座席で、三人は肩を並べて座っている。窓の外を、大阪の街灯が流れていく。何年か前、この街を出た夜、私の隣の助手席は空いたままだった。
二月に来た時、その席は埋まっていた。今夜も埋まっている。それだけのことが、この街ではまだ特別だった。




