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ルミナスの軌跡  作者: 久遠 睦


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26/29

第26章 二千の椅子

1

 東名阪の小規模公演が終わってから、事務所の壁に貼られた予定表の色が変わった。

 二月までは、青と緑の帯が短く並んでいた。レッスン、取材、移動、公演。一つ一つが数時間で終わる仕事だった。三月に入ると、その上へ、長い灰色の帯が重なり始める。会場仮押さえ。舞台図面。音響プラン。警備計画。興行中止保険。三人が直接触れることのない、けれど三人がステージに立つために必要な、地味な帯だった。

 ホールツアーまで、半年ある。

 半年という時間は、外から見れば余裕に見える。実際に紙へ書き出すと、余裕はどこにもなかった。二千人規模のホールは、押さえた日から逆算して動くしかない。搬入は前日の朝七時。撤収は当日深夜。その二日間のために、十か月前から会場と話をする。

 私は三都市の担当者と、月に二度ずつ電話をした。大阪の会場は、搬入口の高さが低く、機材車の一台が入らないことが分かった。名古屋は客席の傾斜が急で、前方の安全動線を作り直す必要があった。東京は、そもそも押さえるのに一番苦労した。

「土曜日は無理です。日曜なら」

 東京の会場担当者は、三度目の電話でようやくそう言った。

「日曜で押さえます」

「終演後の撤収が翌朝までかかりますが」

「構いません」

 受話器を置いて、私は日程表の最後の枠を埋めた。九月の第二日曜日。大阪、名古屋と回って、最後に東京。三つの印が、西から東へ一本の線でつながった。

 その線を見つめていると、事務机の向こうから大類社長が覗き込んできた。

「東京だけ日曜か」

「土曜が押さえられませんでした」

「日曜は帰りが早いぞ。終演を三十分早めろ」

「終演時間は動かしません。その代わり、退場を五分短縮する動線を組みます」

「五分で何が変わる」

「二千人が五分早く駅に着きます」

 社長は何か言いかけて、やめた。四年前なら、この人は「そんな細かいことは客が勝手にやる」と言っただろう。今は言わない。言わないだけで、まだ納得はしていない顔だった。

2

 三人の半年は、私の半年とは違う形をしていた。

 週に四日、ダンススタジオへ通う。残りの二日は歌のレッスン。一日は完全な休養日として空けた。この休養日を守らせるために、私は三度、高橋と言い合った。

「土曜に一本、雑誌の撮影が入れられる」

「休養日です」

「二時間だけだ」

「移動を入れれば半日です」

「半日なら休養日と呼べるだろう」

「呼べません」

 最終的に、撮影は平日の夕方へ動いた。

 スタジオでは、ERI先生が新しい課題を出していた。三人が横一列に並び、それぞれ二メートル離れて立つ。そのまま、いつもの振付を通す。

「近い」

 一曲目の途中で、ERI先生が止めた。

「二メートル空けてます」

 ハルカが答える。

「距離の話じゃない。身体の使い方が、まだ地下のままなの」

 ERI先生は、スタジオの端まで歩いていった。

「そこから、私に届く動きをやってみて」

 三人が同じ振付をもう一度通す。ハルカの腕が、さっきより大きく伸びた。ユイの視線が上を向く。リナの回転が、明らかに一回転ぶん深くなった。

「今の」

「はい」

「疲れる?」

「疲れます」

「その疲れる方を、九十分続けられる身体にする。それが半年でやること」

 三人が頷いた。私は壁際でその様子を見ていた。二千人のホールで、最後列までの距離は約四十メートルある。小さなライブハウスの十倍以上だ。声も、表情も、そのままでは届かない。

 届かせるために身体を作り替えるという作業を、三人はこれから半年かけて行う。私にできるのは、その半年のあいだ、三人が壊れないように予定表を組むことだけだった。

 レッスンの帰り、リナが自動販売機の前で足首を回していた。

「痛む?」

「痛くはないです。ただ、着地の音が変わりました」

「音」

「前より重くなった。踏む力が増えたからだと思います」

 私はその場でトレーナーへ連絡を入れた。翌週から、リナの整体を月二回から週一回へ増やした。費用は年間で三十万円ほど増える。決裁の欄に、私は自分の判子を押した。大類社長には、金額だけを事後で伝えた。

「増えたな」

「増やしました」

「理由は」

「着地の音が変わったからです」

 社長は書類をしばらく見て、それから何も言わずに引き出しへしまった。

 三人の身体が変わっていくのを、私は数字で見ていた。

 トレーナーが毎月出す測定表がある。持久力、可動域、左右差。四月の数値と七月の数値を並べると、三人ともはっきり上がっていた。特にユイの持久力は、九十分の公演を通しても最後まで落ちない水準に届いている。

 ただし、その表には出ないものもあった。

 六月のある夜、レッスンが終わってスタジオを出ると、ハルカが一人で壁に手をついていた。

「どうしたの」

「なんでもないです」

「なんでもない人は、壁に手をつきません」

 ハルカは少し笑って、それから正直に言った。

「高い音が、前より出しにくくなってて」

 私はその場でスケジュールを開いた。

「明日、耳鼻科へ行きます」

「そんな大げさな」

「大げさにします。声帯は、痛くなってからでは遅い」

 翌日の診断は、軽度の炎症だった。二週間、大きな声を出さないこと。それだけの指示で済んだ。

 問題は、その二週間をどう使うかだった。ダンスのレッスンは続けられる。歌えないだけだ。ハルカは、歌わないレッスンに三日で耐えられなくなった。

「見てるだけって、こんなにきついんですね」

「三日で言うことじゃないわ」

「ユイとリナが上手くなっていくのが分かるんです。私だけ止まってる」

 私はその言葉を、そのままERI先生へ伝えた。

「歌えないなら、聞かせればいい」

 ERI先生の答えは短かった。

 翌日から、ハルカはスタジオの後方に座り、二人の歌を聞いて、気づいたことをノートへ書いた。二週間で、そのノートは半分埋まった。

『ユイ、二番のサビで息継ぎの位置が毎回違う』

『リナ、低音のとき顎が下がる。音は合ってるけど、客席から見ると自信がなさそうに見える』

 声が戻った日、ハルカはそのノートを二人に渡した。

「これ、書いてたの?」

 ユイがページをめくる。

「暇だったから」

「暇じゃなかったでしょ」

 リナが言った。

「暇だった」

「嘘」

 三人が笑った。私は少し離れたところで、そのやり取りを見ていた。

 止まっている期間に何を得るか。それは、私が一度も三人に教えられなかったことだった。あの夏、ユイが休んでいた二か月、私は焦りながら予定表を眺めていただけだった。

 七月の測定表で、ハルカの数値は下がっていなかった。むしろ、二週間前より上がっていた。

3

 六月、三人は空のホールに立った。

 大阪の会場を、リハーサル用に半日だけ借りた。客席には誰もいない。二千十四の椅子が、赤い布を張ったまま、傾斜に沿って上へ広がっている。

「うわ」

 ユイが、ステージの中央で立ち止まった。

「思ってたのと違います」

「どう違うの」

「広いっていうより、遠いです」

 ハルカが最後列まで歩いていき、そこから手を振った。ステージのリナが振り返す。

「見える?」

 ハルカが叫ぶ。

「見えるけど、顔は分からない」

 リナが答えた。二人のあいだに、四十メートルの空気がある。声はかろうじて届き、表情は届かない。

 私は音響のスタッフと一緒に、返しの調整を見ていた。小さな会場では、自分の声が壁に当たってすぐ返ってくる。二千人のホールでは、その反射が遅れて戻る。三人は、その遅れに引きずられて、少しずつテンポを落とし始めた。

「止めて」

 舞台監督の声が飛ぶ。

「三人とも、返しに合わせて歌ってる。合わせるのは、返しじゃなくてクリックです」

「はい」

「もう一度、頭から」

 その日、三人は同じ曲を十一回歌った。十一回目の終わりに、ハルカが客席へ向かって言った。

「今、少しだけ分かりました」

「何が」

 私が尋ねる。

「壁が遠いから、返ってこないんじゃなくて、返ってくるまで待てばいいんですね」

 ERI先生が、初めてその日笑った。

「そう。急がない人だけが、大きい場所で歌える」

 帰りの車の中で、三人は珍しく静かだった。ユイが窓の外を見ながら、独り言のように言った。

「あの椅子、全部埋まるのかな」

 誰も答えなかった。私も答えなかった。答えを持っていなかったからだ。

4

 チケットの先行受付が始まったのは、七月の第一金曜日だった。

 午後八時、LUMINA HOMEの会員向け先行を開く。事務所には私と高橋、広報の担当者が残った。三人には自宅で待つように伝えてある。

「見なくていいと言っても、見るだろうな」

 高橋がモニターを見ながら言った。

「見ます」

「止めないのか」

「止めても見るので、正確な数字を三十分ごとに送ります」

 開始十分後、大阪の申込が千件を超えた。二十分で千五百。一時間で二千を超え、そこから伸びが緩やかになった。

「二千十四席に対して、有効申込二千三百八十」

 広報担当が読み上げる。

「倍率一・一八」

「落選が出ます」

「三百六十六人」

 私はその数字を書き留めた。三百六十六人。半年前、大阪の小さな会場に入れたのは百二十人だった。今日、入れない人がその三倍いる。

 名古屋は千九百四十件。二千十二席にわずかに届かない。先行で埋まらないのは三都市で名古屋だけだった。東京は三千二百件を超え、倍率が一・六を示した。

「東京が一番厳しいな」

「一般販売分を減らします」

「減らすのか」

「増やします。減らすのは、招待枠です」

 高橋が顔を上げた。

「関係各社の招待を減らすと、あとで面倒になる」

「面倒になります。それでも、四十席を一般へ回します」

「理由を聞いていいか」

「東京は、三人が最後に立つ街です。招待で座る人より、抽選に落ちた人の方が、その席を必要としています」

 高橋はしばらく黙り、それから端末を閉じた。

「先方への説明は僕がやる」

「私が行きます」

「君が行くと、正論で殴ることになる。僕なら曖昧に断れる」

 その言い方に、私は何も返せなかった。

 午後十一時、三人へ最終の数字を送った。三分後、ユイから返信が来た。

『大阪、落ちる人がいるんですね』

『三百六十六人です』

『その人たちに、何かできますか』

 私はしばらく画面を見ていた。以前の私なら、できることはないと答えていた。落選は仕組みであって、感情の問題ではない。

『考えます。明日、四人で』

 送信してから、自分がその返事を打つのに十秒かかったことに気づいた。

 翌日の午後、四人で会議室に集まった。ホワイトボードには、私が朝のうちに書いた数字が並んでいる。大阪、二千三百八十件の申込に対し、二千十四席。落選、三百六十六人。

「昨日の質問に、答えを持ってきていません」

 私は先にそう言った。

「代わりに、できないことから並べます。席は増やせません。当日券も作れません。同じ会場でもう一公演やることも、日程上できません」

「じゃあ、何もできないんですか」

 ユイの声には、責める調子はなかった。ただ、確かめたがっていた。

「席に関しては、何もできません」

「席に関しては」

「はい」

 ハルカが、その言い方に気づいた顔をした。

「席じゃないところなら、あるってことですか」

 私はホワイトボードの下の方に、一行だけ書き足した。

『落選した人に、当日の何かを渡せるか』

「たとえば、当日の記録映像を後日配信する。これは高橋さんが以前から言っています。ただ、三人は小規模公演の記録を断りました。同じ理由で断るなら、それでいいです」

 三人が顔を見合わせた。

「あの時は、宣伝のために撮るのが嫌でした」

 ハルカが言う。

「今回は、来られなかった人のために撮るなら、違うと思います」

「私も」

 ユイが続けた。リナだけが、少し考えてから口を開いた。

「でも、映像で見た人が、自分は本物を見ていないって思わないですか」

 その言葉に、部屋が静かになった。

「思うかもしれません」

 私は答えた。

「映像は、会場の体験の代わりにはなりません。それは、はっきり書いた方がいい。代わりではなく、別のものとして渡す」

「別のもの」

「はい。たとえば、会場では見えない角度から撮る。客席側からではなく、袖から。三人が出ていく直前の顔と、戻ってきた直後の顔を入れる」

 ユイが目を丸くした。

「それ、会場の人も見られないやつですね」

「見られません」

「じゃあ、来た人が悔しがりませんか」

「悔しがるかもしれません。だから、会場に来た人には、映像に入っていないものを渡します」

 私は二行目を書いた。

『会場:その日の音。映像:その日の裏側』

「どちらか一方では足りない、という形にします。両方見た人が一番得をする形にはしません。それをやると、必ずお金の話になります」

 高橋がいたら、それは機会損失だと言うだろう。実際、二つを組み合わせた商品を作れば、単価は上がる。

「青木さん」

 リナが言った。

「今の、高橋さんに反対されませんか」

「されます」

「勝てますか」

「勝つ話ではありません。私が説明して、高橋さんが納得しなければ、通りません」

「じゃあ、練習しましょう」

 リナは真顔だった。

「練習?」

「私たちが高橋さん役をやります。反対してみます」

 三人は本当にそれをやった。ユイが「収益はどうするんですか」と言い、ハルカが「配信の価格をもっと上げられます」と言い、リナが「両方買った人に特典をつけない理由は」と聞いた。

 私は三十分かけて、そのすべてに答えた。答えられなかったのは一つだけだった。

「配信を見た人が、次に会場へ来る動機は何ですか」

 リナの質問だった。

「……その日の音は、その日にしかないからです」

「それ、来たことのない人には分からないと思います」

 正しかった。私はホワイトボードの前で、しばらく黙った。

「じゃあ、その理由を作るところからです」

 ユイが言った。

「作る?」

「配信の最後に、次の会場の話をします。私たちが言えば、たぶん一番早いです」

 三人が同時に頷いた。

 その日の会議は、二時間を超えた。終わったあと、私は自分がほとんど話していなかったことに気づいた。四年前、同じ会議室で、私は一人で喋り続けていた。三人はパイプ椅子に座って、私の結論を待っていた。

5

 九月の第一土曜日。大阪へ入ったのは、公演の前々日だった。

 半年前、この街へ来た時は、ハイエース一台で四人と機材を運んだ。今回は機材車が三台、スタッフを乗せたバンが二台、三人と私は新幹線で移動した。大類社長は前日から現地に入り、地元の主催会社と挨拶を回っている。

 駅を出ると、蒸し暑い空気が首筋にまとわりついた。

「大阪、暑いですね」

 ユイが襟元を持ち上げる。

「前に来た時は雨だった」

 リナが言った。

「二月だったから」

「あの日の雨、まだ覚えてます」

 三人が同じ方向を見た。半年前、細かい雨の中を、この街へ入ってきた。あの時、リナは車の窓を見つめながら「私はこの車には乗ってなかった」と言った。

 今日は晴れている。

 会場へ向かうタクシーの窓から、街の景色が流れていく。半年前より、青と白のものが目についた。駅前の書店の前で、ツアーTシャツを着た二人組が待ち合わせをしている。まだ二日前だった。

「あの人たち、明後日の人ですよね」

 ユイが窓へ顔を寄せた。

「たぶんね」

「もう来てるんですか」

「大阪の人かもしれない」

「じゃあ、今日ここにいるのは当たり前ですね」

 ユイは少し照れたように笑った。当たり前のことに驚けるうちは、まだ大丈夫だと私は思った。

 会場入りすると、搬入口の前で三宅さんが待っていた。ネクストウェーブの中部エリア担当だが、今回は関西の応援に入っている。

「青木さん、お久しぶりです。搬入口の件、解決しました」

「入らなかった機材車は」

「隣のビルの荷捌き場を借りました。台車で三十メートル運ぶことになりますが、雨は当たりません」

「助かります」

「あと、佐藤から言付かっています」

 私は足を止めた。

「ツアー中の楽曲の放送・配信使用について、まとめて確認したいと。ツアーが終わってからでいいそうです」

「分かりました」

 三宅さんは会釈をして、機材の列の方へ戻っていった。私はその背中を見送りながら、鞄の中のスマートフォンを一度も取り出さなかった。

6

 公演当日、午前六時に会場へ入った。

 小さなライブハウスとは、動く人数が違う。舞台、音響、照明、映像、警備、救護、物販、運営。名札の色が七種類ある。私はそのすべてと朝の確認をした。

 午前十時、三人が会場入りする。楽屋は三人で一つ。前回の百二十人の会場では、そもそも楽屋と呼べる部屋がなく、通路にパイプ椅子を並べていた。今日は鏡があり、シャワーがあり、簡易ベッドがある。

「広い」

 ユイが部屋の真ん中でくるりと回った。

「前は、着替える時に廊下へ出てました」

「あれは、あれで楽しかったけど」

 ハルカが荷物を置く。

「戻りたい?」

 リナが尋ねた。

「戻りたくない。でも、忘れたくない」

 リハーサルは十一時から二時間。三人はステージの端から端まで歩き、それぞれの立ち位置から客席を確認した。

「最後列、あそこですよね」

 ユイが二階席の一番上を指す。

「そう」

「あそこの人に、どうやって届けますか」

「届けようとしないで」

 ERI先生が答えた。

「え」

「あそこへ届けようとすると、声が大きくなるだけ。あなたが見るのは、五列目の一人。その一人へ歌えば、二階席の人は『あの子は誰かに歌ってる』と分かる」

「見えない人にも分かるんですか」

「分かる。歌ってる相手がいる人と、誰にも歌ってない人は、遠くからの方がよく見える」

 三人が黙って頷いた。

 午後五時、開場。

 二千十四の椅子が、少しずつ埋まっていく。私は二階席の後方から、その様子を見ていた。青と白のペンライトが、階段状の客席に散らばり、やがて隙間がなくなっていく。

 半年前、この街の百二十人を、私は一人ずつ見ることができた。今日は無理だった。

 それでも、目が慣れてくると、いくつかの点が見えてきた。最前列で、開演前から泣いている人。二階の端で、母親らしい人と並んで座っている高校生。中央あたりで、隣の人と初めて挨拶をしているらしい二人。

 数字ではない、と私は思った。数えられないだけだ。

7

 午後六時、客電が落ちた。

 二千人の声が、一つの塊になって天井へ上がる。百二十人の時とは、音の質が違った。あの時は一人ずつの声が聞き分けられた。今日は、聞き分けられない代わりに、床が震えている。

 一曲目は『夜明け前の境界線』。

 ハルカが最初の一節を歌い出した瞬間、私は違いに気づいた。声を張っていない。むしろ、小さな会場の時より抑えている。それなのに、二千人の空間の隅々まで、言葉の輪郭が届いていた。

 半年、そのために使ったのだ。

 ユイは、ステージの前方まで出て、五列目あたりの一点を見て歌った。視線が動かない。動かないから、その方向にいる何十人もが、自分に歌われていると感じる。リナは、大きくなったステージを一度も持て余さなかった。回転の一つずつが、前より深く、遅く、確実になっている。

 二曲目、三曲目と、客席の温度が上がっていく。

 四曲目は『透明な反撃』だった。リナのソロダンスが入る曲だ。イントロで照明が赤へ変わると、二千人の視線が一点へ集まるのが、後方からでも分かった。

 リナは、ステージの中央から動かなかった。

 小さな会場では、彼女は端から端まで走った。壁が近いから、走らなければ空間が余る。今日は違った。中央に立ったまま、腕と上体と視線だけで、四十メートル先まで届く動きをしている。

 最後のターンで、客席から声が上がった。悲鳴に近い、短い声だった。

 私は隣に立っていた舞台監督の顔を見た。彼はモニターから目を離さずに、小さく頷いた。

「あの子、化けましたね」

「半年です」

「半年でこうはならない。四年でしょう」

 その言い方が、妙に胸に残った。

 中盤のMCで、ユイがマイクを持った。

「今日、開場のときに客席を見てたんです」

 少しざわめきが起きる。

「袖の隙間から。怒られるかと思ったけど、青木さんは見なかったことにしてくれました」

 私は後方で、思わず天井を見上げた。

「そしたら、二階のいちばん上のあたりに、一人で座ってる人がいて。開演の一時間前から座ってました」

 客席が静かになる。

「その人がどこにいるか、今はもう分かりません。二千人いるので、見つけられません」

 ユイは、そこで一度息を吸った。

「でも、いることは知ってます。だから今日は、見つけられないまま歌います」

 拍手が起きた。ハルカが横から付け足した。

「ユイ、それ、リハーサルで言ってた台詞と全然違います」

「変わりました」

「今変えたでしょう」

「今、変わったんです」

 笑いが広がる。その笑いの中で、私は自分の手が震えているのに気づいた。進行表を持つ指が、うまく止まらない。

 見つけられないまま歌う。

 四年前、七人の客席で、三人は全員の顔を覚えようとした。今日は覚えられない。覚えられないことを引き受けたうえで、それでも一人ずつがいると信じて歌う。

 それは、後退ではなかった。

 MCが終わり、次の曲へ移る前に、ハルカがもう一度マイクを持った。

「半年前、この街の百二十人の会場で歌いました」

 客席から拍手が起きる。

「あの日入れなかった人が、今日ここにいるかもしれません。今日も入れなかった人が、三百六十六人います」

 拍手が止んだ。

「その人たちのことを、私たちは知っています。名前は分かりません。でも、申し込んで、落ちて、それでも今日、どこかでこの時間を過ごしている人がいることは知っています」

 ユイが続けた。

「だから、今日は、ここにいない人の分まで、とは言いません」

 少し笑いが起きる。

「そういうの、無責任だと思うので。今日は、ここにいる皆さんに歌います。ここにいない人には、また別の日に、別の場所で会いに行きます」

 リナが最後に言った。

「次に会う場所を、必ず作ります」

 その言葉が終わらないうちに、客席のどこかで声が上がった。「待ってる」という声だった。一人の声だったのに、二千人の中で、はっきりと聞こえた。

 中盤、『帰る場所の灯り』で客席が歌い始めた。誰も指示していない。ハルカが一度だけ言葉を詰まらせ、そのまま歌い続けた。

 私は統括の位置から、客席全体を見ていた。二千の光が、同じ速さで揺れている。半年前の百二十本と、動きは同じだった。数が増えても、揺れる速さは変わらない。

 最後の曲を終え、三人が深く頭を下げた。

 照明が落ちる。アンコールの手拍子が、床を通して私の靴底まで伝わってきた。

8

 終演後、楽屋の扉が閉まってから、三人はしばらく誰も話さなかった。

 小さな会場の時と同じだった。違うのは、部屋が広く、三人が離れて座れることだった。ハルカは鏡の前、ユイはソファ、リナは壁際の床。三人のあいだに、それぞれ二メートルほどの距離がある。

「近くに来て」

 最初に口を開いたのはリナだった。

「え」

「離れてると、なんか変な感じがする」

 ハルカとユイが立ち上がり、リナの隣へ座った。三人が肩を寄せる。その姿は、通路にパイプ椅子を並べていた頃と、寸分違わなかった。

「二千人」

 ユイが言った。

「うん」

「顔、見えなかった」

「見えなかったね」

 ハルカが答える。

「でも、今日いちばん覚えてるのは、五列目の右から三番目の人です」

「なんで」

「ずっと泣いてて、でも一回も目を逸らさなかったから」

 リナが自分の膝を見た。

「私は、二階の一番上の人」

「見えたの?」

「顔は見えない。でも、ペンライト振ってるのが、他の人と半拍ずれてた。ずっとずれてた。それが逆に、その人だけって分かった」

 三人が笑った。

 扉が叩かれ、高橋が入ってきた。手には数字の紙がある。

「動員、二千十四。空席ゼロ」

「物販は」

「用意した分は、開演前に八割出た。終演後の追加販売で、Tシャツが完売」

「けが人と体調不良は」

「救護室の利用が四件。全員、水分補給で回復して帰った。搬送はゼロ」

 私は息を吐いた。数字を聞き終わってから、初めて椅子に座った。

「青木さん」

 高橋がこちらを見た。

「今日、どうだった」

 いつもなら、課題から話す。返しの遅れ。中盤の照明のずれ。物販列の折り返し位置。全部、頭の中に整理してある。

「よかったです」

 自分の口から先に出た言葉に、私自身が驚いていた。

「それだけ?」

「課題は明日の会議で話します。今日は、それだけです」

 高橋は少し笑って、紙を鞄へしまった。

「じゃあ、僕もそれだけにしておく」

 彼は三人の方を向いた。

「よかったよ」

「ありがとうございます」

 三人の声が揃った。

 すべての撤収を見届けて会場を出たのは、日付が変わる少し前だった。大阪の夜は、二月に来た時よりずっと暖かい。搬入口の外に、まだ数人のファンが残っていた。スタッフが声をかけると、素直に頭を下げて帰っていく。

 車へ乗り込む前、ユイが会場を振り返った。

「明後日は、名古屋ですね」

「一日休んで、明後日の朝に移動します」

「名古屋の人にも、待ってるって言ってもらえるかな」

 誰も答えなかった。答える必要のない質問だった。

 ハイエースではなく、大きなバンの後部座席で、三人は肩を並べて座っている。窓の外を、大阪の街灯が流れていく。何年か前、この街を出た夜、私の隣の助手席は空いたままだった。

 二月に来た時、その席は埋まっていた。今夜も埋まっている。それだけのことが、この街ではまだ特別だった。


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