第25章 東京、声が壁を越える夜
1
二月の第三土曜日。東京は、朝から冷たい雨に包まれていた。窓を打つ雨粒は細かく、街全体を薄い灰色に染めている。天気予報では午後には止むと言っていたが、空を覆う雲に切れ目は見えなかった。
私は午前六時に事務所へ入り、最終確認を始めた。今日行われるのは、東名阪ツアー最後の小規模公演だった。会場は、以前、三人とともに視察したライブハウス。収容人数は二百八十人で、三都市の小規模公演では最も大きい。
入場者は全員、LUMINA HOMEの会員から抽選で選ばれている。そのうち二十四席は、LUMINAの単独公演を一度も見たことがない人のために用意した。
応援してきた期間による優先順位はつけなかった。地下時代から何年も応援してくれた人も、テレビ出演をきっかけにLUMINAを知った人も、同じ条件で抽選に参加した。
当然、すべての人が納得したわけではない。落選通知が届いた直後、LUMINA HOMEには多くのメッセージが寄せられた。残念だけれど、次の機会を待ちます。
当選した方、三人の歌を受け取ってきてください。初めての方にも楽しんでほしいです。そんな温かな言葉がある一方で、長く応援してきた人を優先しない方針への批判も届いた。
何年もライブへ通った自分と、昨日入会した人が同じ扱いなのは納得できない。初参加枠を作るなら、古参枠も作るべきだ。小さな会場で公演を行うこと自体が、一部の人だけを特別扱いしている。
三人は、そのすべてに目を通した。誰か一人の意見を、全体の声だと決めつけなかった。そして、方針を変えないことを四人で確認した。応援してきた時間の長さを軽く扱うつもりはない。
だが、その長さをチケットの優先順位に変えれば、これからLUMINAを知る人が入りにくい場所になる。小規模公演に当選した人だけを、特別なファンとも呼ばない。
会場に来られない人へは、公演後、LUMINA HOMEを通じて三人の言葉を届ける。批判を消すためではない。すべての人を同じように満足させることはできないと理解した上で、何を大切にするかを選んだ。
私は、会場周辺の警備配置を確認した。
開場時間の一時間以上前から集まることは禁止。入場番号によって集合時間を分ける。入り待ち、出待ちは禁止。終演後は三つの区分に分け、時間差で退場してもらう。
会場内での撮影と録音も認めない。スマートフォンは電源を切る必要まではないが、鞄やポケットから出さないよう事前に伝えている。守られない場合は、スタッフから声をかける。
ただし、最初からファンを疑うような監視にはしたくなかった。ルールを守ってもらう理由も、三人の言葉で説明した。今日の時間は、記録するためではなく、同じ場所で互いの顔を見るために作りました。
映像や写真を残さない代わりに、目の前にいる三人の歌を、そのまま受け取ってください。事務所のデスクに、入場者名簿と緊急連絡先を並べる。
医療スタッフ。警備責任者。ライブハウスの支配人。音響担当者。
ネクストウェーブの現場担当者。榊原。高橋。必要な連絡先は、すべて登録されている。
それでも、胸の奥には落ち着かないものが残っていた。三人が小規模な歌の場へ立つのは、初めてではない。三十人、五十人、七十人と、少しずつ人数を増やしてきた。
だが、今日はツアーと名前のついた公演だ。無料の招待ではなく、観客はチケットを購入している。お金を払って見に来た人の前で、三人は歌う。
途中で止まる可能性があることは伝えている。それでも、観客の期待がなくなるわけではない。私の業務用スマートフォンが震えた。高橋からだった。
『起きているか』
『事務所です』
すぐに電話がかかってくる。
「どうしましたか」
『それはこちらの台詞だ。公演は夕方だろう。なぜ、もう事務所にいる』
「最終確認があります」
『確認事項は、昨夜すべて共有された』
「当日の朝に変化がないかを確認しています」
『変化はあったか』
「今のところありません」
『なら、帰って寝ろ』
「もう起きています」
『睡眠時間は』
「四時間半です」
電話の向こうで、高橋が長く息を吐いた。
『青木君』
「はい」
『君自身が焦っている時は、決定しないのではなかったか』
「何も決定していません。確認しているだけです」
『言い方を変えても、やっていることは同じだ』
私はデスクに並んだ資料を見た。客席図。入退場の導線。曲順。
緊急時の対応。何度も確認したものばかりだった。
「眠れなかったんです」
正直に答えた。
『何が心配だ』
「小さい会場だからこそ、何か起きた時に逃げ場がありません。客席とステージの距離も近い。ユイが誰かのスマートフォンを見つけたら、テレビの時より直接的に恐怖を感じる可能性があります」
『スタッフが確認する』
「分かっています」
『医療スタッフもいる』
「はい」
『三人も、自分たちの状態を言葉にできる』
「それも分かっています」
『分かっていても怖いか』
「はい」
認めると、少し肩から力が抜けた。
『午前中は休め』
高橋が言った。
『会場入りは予定どおり午後一時。君が先に来る必要はない』
「しかし」
『現場担当者から、準備が完了したら連絡させる。君が今から会場へ行っても、スタッフの仕事を増やすだけだ』
言い方は厳しいが、そのとおりだった。私が早く入れば、スタッフは説明や案内に時間を取られる。念のためと言いながら、現場の流れを乱す可能性がある。
「分かりました」
『三人への連絡も、集合確認だけにしろ。体調を何度も聞くな』
「そこまで分かっています」
『念のためだ』
「高橋さんは、何時に来るのですか」
『開演前には入る』
「パーカーですか」
『なぜ、服装を確認する』
「スーツでは目立つので」
『以前の視察と同じ格好で行く』
「分かりました」
『君も、いかにもマネージャーという顔で客席を歩き回るなよ』
「顔は変えられません」
『表情の話だ』
電話が切れた。私は資料をまとめ、事務所を出た。自宅へ戻っても眠れる気はしなかった。
それでも、ベッドへ横になった。目を閉じる。雨の音が聞こえる。今日の会場には、二百八十人が来る。
だが、二百八十という数字が来るわけではない。一人ずつ、違う生活を持つ人が来る。三人を何年も見てきた人。テレビで初めて知った人。
ライブそのものが初めての人。一人で来る人。友人と来る人。遠方から来る人。
それぞれが今日という日のために時間を空け、チケット代と交通費を払い、冷たい雨の中を会場へ向かう。大きな数として見れば、失敗できないという恐怖になる。
一人ずつを思い浮かべると、顔を見て歌う場所を作りたいという、最初の目的を思い出せた。私は、ほんの一時間だけ眠った。目覚めた時、雨音は少し弱くなっていた。
2
午後一時。ハイエースで会場へ到着すると、地下へ続く階段の入口には、すでに警備スタッフが立っていた。観客の姿はない。事前の案内どおり、早く集まる人はいなかった。
現場責任者から、準備完了の報告を受ける。会場内へ入ると、スタッフが最終確認を進めていた。二百八十人分の立ち位置が、床の小さな印で区切られている。
前方だけに人が密集しないよう、通常より少し広く間隔を取った。後方には、体調が悪くなった人が休める椅子も用意している。壁際には、初めてライブへ来る人でも不安にならないよう、会場のルールと公演の流れを記した紙が掲示されていた。
本日の公演は約七十分を予定しています。途中で休憩を設けます。体調が悪くなった場合は、近くのスタッフへお声がけください。コールや振付を知らなくても、問題ありません。
静かに聞くことも、声を出すことも、それぞれの楽しみ方です。撮影、録音はできません。応援してきた期間にかかわらず、互いを尊重してお過ごしください。
最後の一文は、三人が加えたものだった。控室へ入ると、ハルカ、ユイ、リナがすでに私服から衣装へ着替えていた。今日の衣装は、テレビ出演時のような豪華なものではない。
それぞれの形は違うが、白と青を基調にした軽い衣装だった。近い距離で見ても過剰に飾られて見えず、動きやすさを優先している。
「早かったですね」
ハルカが言う。
「予定どおりです」
「もっと早く来ると思ってました」
「高橋さんに止められました」
「高橋さん、よく分かってる」
リナが言う。
「体調は?」
反射的に尋ねかけ、言い方を変えた。
「今の色は?」
榊原から教わったカードは、ツアーでも使うことになっていた。緑は、続けられる。黄色は、不安や疲れがあり、確認が必要。赤は、中止またはその場を離れる。
最初に渡された三色には緑がなかったが、三人の提案で加えた。大丈夫という曖昧な言葉ではなく、今どの状態にいるのかを共有するためだった。
ハルカは緑。リナも緑。ユイは少し迷い、黄色を出した。
「何が必要?」
私は理由ではなく、必要なことを尋ねた。
「客席を、誰もいないうちに見たいです」
「分かった」
開場前の客席へ、四人で出た。ステージに上がらず、入口から会場内を歩く。ユイは最前列の位置へ立ち、ステージを見上げた。
「本当に近い」
手を伸ばせば、ステージの端に届きそうだった。
「ここに人が立つんですよね」
「そうよ」
「知ってる人もいるかな」
「抽選名簿には、以前から来てくれている人もいた。でも、私から名前は伝えない。ステージから自分で見つけて」
ユイは、一番後ろまで歩いた。そこからでも、ステージ上の表情ははっきり見える。
「隠れるところがないですね」
「怖い?」
「少し」
「黄色のまま?」
ユイはカードを見た。
「まだ黄色です。でも、歌いたいです」
「分かった。変わったら教えて」
ステージへ上がり、音合わせを始める。一曲目の途中、ユイが音響スタッフへ手を上げた。
「すみません。私の声、少しだけ大きくできますか」
以前なら、音の調整は私かリナが求めていただろう。ユイ自身が、自分の声の聞こえ方を伝えた。音響スタッフがイヤーモニターの音量を上げる。
「どうですか」
ユイが短いフレーズを歌う。
「もう少しだけ、ハルカの声もください」
調整後、三人の声がきれいに重なった。一曲目を最後まで通す。私は時計を見た。予定では、あと二曲確認する時間がある。
だが、ユイのカードは黄色のままだ。
「次は、どうする?」
三人へ尋ねる。
「二曲目の入りだけ確認したいです」
リナが答える。
「ユイは?」
「入りだけなら」
「ハルカは?」
「私も大丈夫です」
二曲目の最初だけを確認し、音合わせを終えた。予定時間より十五分早い。以前なら、空いた十五分を別の確認に使った。今は、控室へ戻って休む。
観客の入場が始まるまで、あと一時間。三人は、それぞれの場所で過ごした。ハルカは歌詞を見ず、目を閉じて呼吸を整える。リナは軽く身体を伸ばした後、床へ座って水を飲んだ。
ユイはLUMINA HOMEへ届いた手紙を一通だけ開いた。
「今日、来られない人からです」
「何て?」
ハルカが尋ねる。
「抽選に外れたけど、同じ時間に家で曲を聴きますって。会場にいる人と、三人の歌を分け合う気持ちでいるって」
ユイは便箋を胸元へ置いた。
「会場にいる二百八十人だけに歌うんじゃないんですね」
「顔が見えるのは、二百八十人」
リナが答える。
「でも、その向こうにも聞こうとしてる人がいる」
ハルカが小さく頷いた。
「だから、目の前の人に届けよう。きっと、その人たちが外にいる人へ持って帰ってくれる」
撮影も録音もない。映像は残らない。
それでも、歌を受け取った人の中には残る。誰かが言葉にし、誰かが思い出し、また別の誰かへ渡していく。数字には表れにくい伝わり方だった。
「青木さん」
ユイがカードを差し出した。黄色から緑へ変わっていた。
「行けそうです」
「分かった」
私はカードを受け取らなかった。ユイ自身が持つ。その色を決めるのは、私ではないからだ。
3
開場時間になった。観客は、整理番号の区分ごとに階段を下りてきた。私は会場後方の壁際に立ち、入場する人たちの様子を見ていた。目立たないよう、黒いニットとパンツを着ている。
首からスタッフ証を下げているため、私を知るファンにはすぐ分かるだろう。それでも、現場全体を監視するように歩き回ることはしなかった。最初に入ってきたのは、三十代ほどの女性だった。
受付で入場確認を済ませ、客席の中央へ向かう。両手には何も持っていない。後ろから入ってきた若い女性が、戸惑った様子で周囲を見回していた。
会場の雰囲気に慣れていないことが分かる。最初の女性が声をかけた。
「初めてですか」
若い女性が頷く。
「はい。ライブ自体、ほとんど初めてで」
「どこにいても大丈夫ですよ。前が怖かったら、少し後ろでも見えます」
「声を出さないと、浮きますか」
「全然。私も最初は、ずっと黙って見てました」
「コールも分からなくて」
「分からなくて大丈夫です。聞いてるだけでも楽しいですよ」
二人は並んで、客席中央の位置へ移動した。別の場所では、男性二人が話していた。一人は、地下時代からLUMINAのライブへ通っていた人だった。何度も客席で見た顔だ。
もう一人は、テレビ出演をきっかけにLUMINAを知ったという。
「この曲のサビって、声を出すところありますか」
「ありますけど、今日は三人の声を聞いてからでいいと思います。最初から合わせようとしなくても」
古くからのファンが、知識を見せつけるのではなく、初めての人が入りやすい言葉を選んでいる。壁際では、二十代ほどの女性が鞄から予備のペンライトを取り出していた。
近くにいた親子へ声をかける。
「もしよかったら、一本使いますか」
母親が遠慮する。
「いいんですか」
「予備で持ってきたので。色は青と白にできます」
隣にいた中学生くらいの女の子が、嬉しそうに受け取った。
「ありがとうございます」
「終わった後に、ここで返してもらえれば大丈夫です」
三人が望んでいた光景だった。古い人が新しい人へ、正しさを教えるのではない。楽しむための小さな手がかりを渡している。ファン同士の会話が、会場のあちこちで生まれていた。
もちろん、全員が誰かと話しているわけではない。一人で静かに開演を待つ人もいる。後方の壁際には、手紙に書かれていたとおり、いつも物販には来ず、ライブだけを見ていた男性が立っていた。
地下時代から何度も見た人だった。今日も、ペンライトもグッズも持っていない。腕を組まず、スマートフォンも見ず、ただステージを見つめている。
リナは、彼を見つけるだろうか。
開演五分前。高橋が会場へ入ってきた。前回と同じ、濃い色のニット姿だった。
「遅くなった」
「間に合っています」
「問題は」
「ありません。ユイは音合わせ前まで黄色でしたが、今は緑です」
「客席は?」
「落ち着いています」
高橋は、周囲を見回した。ペンライトを貸している女性。コールを尋ねる初参加のファン。一人で静かに待つ人。
「想像していたより、騒がしくないな」
「小規模公演の意図を理解してくださっている方が多いようです」
「古いファンと新しいファンで、分かれてはいないのか」
「完全に分かれていないとは言えません。話さずにいる人もいます。ただ、目立つ対立はありません」
高橋は、先ほどペンライトを借りた少女を見た。
「運営が用意したものか」
「いいえ。ファンの方が貸したものです」
「そうか」
その短い返事に、わずかな驚きが含まれていた。会場が暗くなる。観客の話し声が止まった。ステージの照明は、青一色。
豪華な映像も、派手な登場演出もない。暗闇の中を、三人が歩いてくる。客席から拍手が起こった。大きな歓声を出さないよう求めてはいない。
それでも観客は、最初の瞬間だけ、三人を驚かせないように待っているようだった。ハルカが中央へ立つ。ユイが右。リナが左。
三人の表情が、後方からでもはっきり見えた。
「こんばんは。LUMINAです」
ハルカの声。二百八十人から、応える声が上がる。
「こんばんは!」
ユイの肩がわずかに揺れた。だが、怖さからではなかった。驚きと、喜びが混じった表情だった。
「近いですね」
ユイが言う。客席から笑いが起こる。
「皆さんの顔が、本当に全部見えます」
最前列から、「見てるよ」と声が上がった。ユイが笑った。
「私たちも見てます」
その言葉の後、一曲目が始まった。地下時代から歌ってきた曲。テレビでは披露しなかった、静かな始まりの歌だった。ハルカの声が、狭い空間を満たす。
音響設備は、テレビ局にもホールにも及ばない。壁から返る音には、少し硬さがある。
それでも、三人の息遣いまで聞こえた。ユイは、客席を見ていた。赤いランプを探す必要はない。どこを見ても、人の顔がある。
泣いている人。笑っている人。目を閉じて聞いている人。借りたペンライトを両手で握る少女。
静かに後方から見守る男性。一曲目の最後、三人の声が重なる。音が止まった。一瞬の静寂の後、拍手が起こる。
「ありがとうございます」
ハルカが言う。すぐに二曲目へ入らず、三人は客席を見た。
「今日、LUMINAの単独ライブへ初めて来た方はいますか」
ユイが尋ねる。客席のあちこちで、手が上がった。初参加枠の二十四人だけではない。通常抽選で当選した人の中にも、初めての人がいた。
予想以上の数だった。
「こんなにいる」
ユイが驚く。リナがマイクを持つ。
「初めての方、分からないコールがあっても、無理に合わせなくて大丈夫です。振付も、見てるだけでいい」
少し間を置き、続ける。
「前から来てくれている方も、今日は誰がどれだけ知っているかを比べる場所にしないでください。今ここにいる全員で、一つのライブを作りたいです」
客席から拍手が起こった。後方にいる古参ファンの男性が、一度だけ強く頷いた。二曲目は『都会の真夏の夜』だった。イントロが流れた瞬間、空気が変わった。
この曲を長く知るファンから、最初のコールが上がる。初参加の人たちは、少し遅れて周囲を見る。
だが、誰も強制しない。サビに入る頃、前方だけでなく、後方からも声が重なり始めた。借りたペンライトを持つ少女が、隣の女性の動きを見ながら、ゆっくり腕を上げる。
最初は小さかった。二度目には、音に合わせて振れていた。母親も、隣で手拍子をする。ユイが、その二人を見つけた。
笑顔が大きくなる。笑わなければならないからではない。目の前で、初めての人が歌の中へ入ってきたことが嬉しいのだ。リナは、会場の横幅ぎりぎりまで動いた。
広くはない。それでも、テレビ用に抑えていた動きから解放され、全身で踊っている。最後のターンで、客席との距離が近いことを思い出したのか、一歩だけ動きを小さくした。
それすら、音の中に自然に溶けた。ハルカは、前方だけではなく、後ろまで声を届けていた。天井の低い会場では、声を大きく出しすぎると反響が潰れる。
強さを抑えるのではなく、言葉の輪郭を残す歌い方へ変えている。一曲ごとに、三人はこの場所の音をつかんでいった。三曲目を終え、最初の休憩へ入る。
ステージ上に椅子が運ばれる。三人が座ることに、客席から不満の声は出なかった。
「少し、お水を飲ませてください」
ハルカが言う。観客も、それぞれ水分を取る。ユイが、緑のカードを膝の上に置いた。客席からも見える。
「このカード、何か分かりますか」
何人かが頷く。LUMINA HOMEで、三人が説明していた。
「緑は、今、続けられるという意味です。黄色は、少し休みたい。赤は、今日はここまで」
ユイがカードを見つめる。
「前は、大丈夫って言うことしかできませんでした。でも、大丈夫って言っても、本当は怖い時がありました」
会場が静かになる。
「今は、色で伝えています。今日は、今のところ緑です」
拍手が起こった。ユイは少し照れたように笑う。
「でも、途中で黄色になるかもしれません。その時は、少し待ってください」
客席から、いくつもの声が届いた。
「待つよ」
「ゆっくりでいいよ」
「一緒に休もう」
ユイの目に涙が浮かぶ。
「ありがとうございます」
隣で、ハルカも目元を拭った。リナは客席を見つめ、マイクを握った。
「私たち、休むことを見せるのが怖かったです。プロなのにって言われると思ってました」
後方にいる一人の女性が、首を振る。
「でも、休んでも歌は終わらないって、少しずつ分かりました」
リナは、左右の二人を見る。
「今日も三人で、最後まで行けるところまで行きます」
大きな拍手が起こる。休憩が終わり、後半の曲へ入った。一曲目よりも、会場の声は大きくなっていた。コールを知らなかった人も、簡単な部分だけ声を重ねる。
声を出さない人も、ペンライトや手拍子で音楽へ加わる。静かに聞く人を、誰も責めない。大きな声を出す人も、自分だけが目立とうとはしない。
二百八十人の観客は、それぞれ違う方法で同じ歌を受け取っていた。客席の熱が、少しずつ上がっていく。エアコンは動いているが、会場の温度は明らかに高くなっていた。
壁際に立つ私の手のひらにも、汗が滲んでいる。高橋が、客席を見ながら小さく言った。
「人数以上の音がするな」
「声の大きさだけではありません」
私は答えた。
「全員が、自分のいる場所からステージへ何かを返している」
「これが、君の言っていた熱か」
「はい」
「数字にできるか」
「完全には、できません」
「翻訳するのが君の仕事ではなかったのか」
「何でも数字にしなければ価値がない、という意味ではありません」
高橋が私を見る。
「言うようになったな」
「高橋さんに教えられました」
「私は、そこまで言っていない」
ステージでは、ユイが客席へ手を伸ばしていた。何人もの手が、その方向へ上がる。触れる距離ではない。
それでも、互いの存在を確かめるには十分な距離だった。
4
最後の曲を前に、ハルカが客席へ語りかけた。
「私たちは以前、東京の小さなライブハウスで、何度も歌ってきました」
会場が静かになる。
「お客さんより、出演者の方が多い日もありました。物販で一枚も売れなくて、帰りの車の中で何も話せなかったこともあります」
ユイが苦笑する。
「コンビニで、一番安い食べ物を探してました」
「キャベツだけの日もあった」
リナが言う。客席から笑い声が起こる。
「その頃、私たちは、大きな会場へ行けば何かが変わると思っていました」
ハルカが続けた。
「広いステージに立てば、もっと自信を持てる。たくさんの人に知られれば、不安はなくなる。そう思っていました」
ハルカは一度、客席を見渡した。
「でも、会場が大きくなっても、怖さはなくなりませんでした。テレビに出ても、自信がずっと続くわけではありませんでした。むしろ、見てくれる人が増えるほど、失うことが怖くなりました」
ユイがマイクを持つ。
「だから、ここへ戻ってきました」
一瞬、言葉を切る。
「昔の私たちに戻るためではありません。苦しかった頃を、きれいな思い出にするためでもありません」
ユイは最前列から後方まで、一人ずつを見るように視線を動かした。
「今の私たちが、今ここにいる皆さんの顔を見て歌うために来ました」
拍手が起こる。リナが続けた。
「今日来られなかった人もいます。抽選に外れた人も、遠くて来られなかった人もいる。だから、ここにいる人だけが特別だとは言いません」
客席の何人かが、静かに頷いた。
「でも、今日ここで生まれたものは、皆さんにしか持って帰れません」
リナは、少し笑った。
「映像も残りません。写真もありません。だから、覚えていてください。今日、三人がどんな顔で歌っていたか。隣にいた人が、どんなふうに声を出していたか。それを、会えなかった人にも伝えてください」
後方に立つ男性が、初めて両手を上げて拍手した。ユイが、その姿に気づいた。表情が止まる。
「リナちゃん」
ユイが小さく呼ぶ。リナが客席後方を見る。男性と目が合った。地下時代から、いつも後ろにいた人。
物販には来ず、声も出さず、それでも毎回見ていた人。リナの目が、大きく開いた。
「……来てくれてた」
マイクが、その呟きを拾った。男性は、何も言わなかった。
ただ、深く頷いた。リナの目から、涙が落ちた。
「ずっと、後ろにいましたよね」
男性が、もう一度頷く。リナは言葉を詰まらせた。いつもなら、涙を見せる前に顔を背けただろう。今日は、隠さなかった。
「私、昔、楽しんでもらえてるのか分かりませんでした」
男性が、客席から答えた。
「ずっと、楽しかったです」
大きな声ではなかった。それでも、狭い会場には十分届いた。リナは泣きながら笑った。
「ありがとうございます」
会場全体から拍手が起こる。古参だから特別な名前を呼んだのではない。長く応援してきたことを、ほかの人より上に置いたわけでもない。
ただ、同じ場所に何度もいてくれた一人の存在へ、ようやく言葉が届いた。ユイが、ペンライトを借りた少女を見る。
「初めて来てくれた方も、ありがとうございます」
少女は驚き、胸元でペンライトを握った。
「楽しいです!」
高い声が、会場に響く。
「また来たいです!」
ユイの笑顔が広がる。
「また会いましょう」
古くからいる人。今日初めて来た人。そのどちらも、同じ客席にいる。三人が大切にしたかった場所が、目の前にあった。
「最後の曲です」
ハルカが言う。客席から、惜しむ声が上がる。
「まだ歌っていたいです。でも、今日は、決めた時間で終わります」
ハルカは、自分の緑のカードを見せた。
「続けられる状態で終わって、また次の街へ行くために」
観客から拍手が起こる。最後の曲は、『真夏のミッドナイト・ブルー』だった。テレビ用の二分十五秒ではない。原曲どおりの四分二秒。
削られていた二番も、間奏もある。孤独から始まり、迷いを通り、最後に自分の足で朝へ向かう歌。ハルカの声が、静かな夜を作る。ユイが、そこへ光を入れる。
リナが、身体全体で夜を切り開く。間奏では、三人が会場いっぱいに動いた。狭いステージで、互いの肩が触れそうになる。
それでも、ぶつからない。何度も小さな場所で歌ってきた身体が、距離を覚えている。最後のサビ。二百八十人の声が重なる。
テレビの向こうにいる何百万人もの姿は見えなかった。今は、一人ずつの顔が見える。涙。笑顔。
声。光。三人は、その一つ一つを受け取っていた。最後の一音が終わる。
照明が白へ変わった。客席から、地鳴りのような拍手が起こる。二百八十人しかいないとは思えない音だった。三人は手をつなぎ、深く頭を下げた。
「ありがとうございました!」
顔を上げても、拍手は止まらない。アンコールを求める声が起こりかけた。
だが、前方にいたファンの一人が、周囲へ静かに首を振った。今日は、決めた時間で終わる。三人が自分たちで伝えた言葉を、観客も守ろうとしていた。
代わりに、自然と声が上がった。
「またね!」
別の場所からも続く。
「また会おう!」
「名古屋、行ってらっしゃい!」
「大阪まで届けて!」
三人は、何度も頷いた。ユイがマイクを持つ。
「行ってきます」
客席から声が返る。
「行ってらっしゃい!」
LUMINA HOMEで交わしてきた言葉だった。三人は、もう一度深く頭を下げた。そして、自分たちの足でステージを降りた。
5
控室へ戻ると、三人はすぐに椅子に座った。誰も倒れ込まなかった。呼吸は速いが、乱れてはいない。
「色は?」
私が尋ねる。ハルカは緑。リナも緑。ユイはカードを見つめ、少し考えてから黄色を出した。
「苦しい?」
「苦しいというより、いっぱいです」
「何が?」
理由を尋ねかけ、言い直した。
「今、何が必要?」
「静かな時間がほしいです。でも、三人と青木さんには、ここにいてほしい」
「分かった」
四人で控室に座った。誰も話さない。廊下の向こうから、観客が時間差で退場する気配が聞こえる。足音。
スタッフの案内。小さな話し声。一つ一つが遠ざかっていく。十分ほど経ち、ユイが黄色いカードを緑に変えた。
「もう話せます」
「無理に話さなくてもいいのよ」
「話したいです」
ユイは椅子の背もたれへ身体を預けた。
「みんなの顔、見えました」
「うん」
ハルカが答える。
「テレビより、緊張した。でも、怖くなった時に見る場所がありました」
「見る場所?」
「人の顔です」
ユイは目を閉じた。
「赤いランプは、見ても何を考えてるか分かりません。でも、今日は笑ってる人が見えた。泣いてる人も、声を出してない人も見えた」
「静かな人も、楽しんでたね」
リナが言う。
「私、あの人がずっと来てくれてたの、やっと分かった」
後方に立っていた男性のことだった。
「物販に来ないから、私たちには興味がないのかと思ってた。でも、本当に歌だけ聞きに来てくれてた」
「今まで、応援の形を狭く考えてたのかもしれない」
ハルカが言った。
「声を出す人。グッズを買う人。何度も特典会へ来る人。そういう人だけが、熱のあるファンじゃないんだね」
「今日初めて来た女の子も、最後にはペンライト振ってくれてた」
ユイが笑う。
「隣の人が貸してくれたんですよね」
「うん。ファンの人が、新しい人を中へ入れてくれた」
私は三人の言葉を聞きながら、会場後方で見た光景を思い出した。古参と新規。声を出す人と、静かに見る人。近くへ来る人と、遠くから支える人。
分けようとすれば、いくらでも線を引ける。だが、音楽が始まった時、その線は少しずつ薄くなった。
「青木さんは、どうでしたか」
ハルカが尋ねる。
「人数以上の熱を感じたわ」
「高橋さんも、同じこと言ってました」
「高橋さんは、少し違う言い方をしていたけれどね」
控室の扉がノックされた。高橋が入ってくる。
「聞こえていたぞ」
「立ち聞きですか」
「扉の外まで声が聞こえていた」
彼は三人の状態を確認するように顔を見た。
「問題は」
「今は、全員緑です」
私が答える。
「そうか」
高橋は壁際へ立った。
「公演は予定時刻どおり終了。退場も問題なく進んでいる。会場周辺の混乱もない」
「チケットを持っていない人が集まることは?」
「数人、入口付近まで来た者はいたが、スタッフの説明で離れた。出待ちも今のところない」
三人が安堵した。
「高橋さん」
リナが呼ぶ。
「何だ」
「小さい会場、どうでしたか」
「暑かった」
「感想、それだけですか」
「空調の設定を、次回は見直す必要がある」
「そういうことじゃなくて」
高橋は、わずかに口元を緩めた。
「二百八十人が、千人分の声を出していた」
リナの表情が明るくなる。
「人数以上の音がした。声を出していない人間も、同じくらい集中していた」
「小さい会場でしか見えないもの、ありましたか」
ハルカが尋ねる。
「認めよう」
高橋は答えた。
「私の試算表には、今日の客席の表情を入れる欄がなかった」
「新しく作りますか」
ユイが笑う。
「表情を数値化するつもりはない」
「高橋さんも、変わりましたね」
「私は必要な情報を追加しただけだ」
私と同じような言い方だった。
「今の発言、覚えておきます」
私が言うと、高橋は少し嫌そうな顔をした。
「ただし」
いつもの厳しい表情へ戻る。
「小規模公演が成功したからといって、ホールも同じ方法で通用すると思うな。二千人の客席では、後方の顔までは見えない。今日の親密さを、そのまま再現しようとすれば、前方だけを見て歌うことになる」
「では、どうしたらいいですか」
ユイが尋ねる。
「今日見た一人の顔を、二千人の中に見つけるつもりで歌え」
高橋の答えに、三人が黙った。
「すべての顔を一度に見ることはできない。だが、一人へ届ける歌を、二千人が受け取ることはできる」
ハルカが、静かに頷いた。
「今日の人たちの顔を、覚えておきます」
「映像は残っていない」
「だから、覚えています」
リナが言った。
「後ろにいた人も、初めて来てくれた人も」
ユイも続ける。
「ペンライトを貸してくれた人と、借りた女の子も」
高橋は三人の顔を見た。
「なら、二日後のホールへ持っていけ」
今日の公演を終えれば、東名阪ツアーの小規模公演はすべて終わる。次に同じ三都市を回るのは、二千人のホールで、半年以上先だ。私は、すぐに次の確認へ移ろうとする思考を止めた。
今は、今日を受け取る時間だ。
「ホールの話は、明日にしましょう」
私が言う。
「今日は、LUMINA HOMEへ音声を届けて終わりにする」
「今から録るんですか」
ユイが尋ねる。
「三人が話せるなら。ただし、五分以内。難しければ、明日でもいい」
三人が顔を見合わせた。
「今、話したいです」
ハルカが言った。控室のテーブルへ、小さな録音機を置く。台本は作らなかった。三人が並ぶ。
録音を始める。
「LUMINA HOMEの皆さん、こんばんは。東名阪の小規模公演を、今日ですべて終えました」
ハルカが言う。
「今日、会場に来てくださった皆さん、本当にありがとうございました」
ユイが続けた。
「来られなかった皆さんにも、今の気持ちを届けたくて話しています」
リナは、少し間を置いた。
「二百八十人の会場でした。でも、皆さんの声や表情を見ていたら、その外にもたくさんの人がいることを思い出しました」
ハルカが続ける。
「今日の会場で、古くから応援してくださっている方が、初めて来た方へ声をかけている姿を見ました。ペンライトを貸している方もいました」
「ライブの楽しみ方を教えるというより、一緒に楽しめる場所を作ってくれていました」
ユイの声が少し震えた。
「私たちだけでは、今日の空気は作れなかったと思います」
リナが最後に言った。
「会場に来た人だけが特別なのではありません。今日会えなかった方にも、必ず会いに行きます。次は大阪、名古屋、東京のホールです。来られない方にも、LUMINA HOMEで言葉を届けます」
三人の声が重なる。
「行ってきます。また、ここへ帰ってきます」
録音を終えた。五分には届かなかった。三分ほどの短い音声だった。
それでも、今の気持ちは十分に入っていた。私はデータを運営スタッフへ送り、公開時間を確認した。
「青木さん」
ユイが言う。
「今日は、数字を見ますか」
チケット購入者の来場率。物販売上。LUMINA HOMEへの反応。次のホール公演への影響。
確認すべき数字はある。
「必要な業務報告だけ、私と高橋さんで確認します」
私は答えた。
「三人へは、明日まとめて伝える。今日は見なくていい」
「青木さんは、見ても大丈夫?」
その質問に、少し考えた。
「今は、一人で見ない方がいいと思う」
「では、私も一緒に確認しよう」
高橋が言った。
「高橋さんと?」
「不満か」
「いえ。助かります」
以前なら、助けが必要だと認めることに抵抗があった。今は、素直に答えられた。三人を先に帰し、私は高橋と最低限の報告を確認した。来場率は、ほぼ百パーセント。
物販の販売数も想定内。会場周辺の苦情なし。体調不良者が一人いたが、休憩スペースで回復し、公演を最後まで見ることができた。大きな問題はなかった。
「成功ですね」
私が言う。
「何を基準にしている」
高橋が尋ねた。
「公演を予定どおり終えた。三人も観客も、大きく体調を崩さなかった。会場周辺の混乱もない」
「売上は」
「黒字です」
「ファンの反応は」
「すぐには決めません。音声への言葉を、明日確認します」
高橋は資料を閉じた。
「君が成功を、売上だけで判断しなくなる日が来るとはな」
「売上も見ています」
「それでいい。見なくなる必要はない」
高橋は、空になった会場の扉を開けた。客席には、まだ人の熱が残っているようだった。床には何も落ちていない。借りられたペンライトも、持ち主へ返されている。
ステージの照明は消え、三本のマイクだけが残っていた。
「次は二千人だ」
高橋が言う。
「はい」
「今日の十倍」
「人数としては」
「怖いか」
「怖いです」
私は答えた。
「でも、今日より十倍遠くなるとは思いません」
「なぜだ」
「今日見た顔を、持っていけるからです」
高橋は、誰もいない客席を見た。
「それを三人が忘れなければ、ホールでも届くだろう」
外へ出ると、雨は上がっていた。階段の上に、冬の夜空が広がっている。冷たい空気の中に、濡れた道路の匂いが残っていた。小さなライブハウスの扉が、私たちの後ろで閉じる。
今日の歌は、映像にも写真にも残っていない。それでも、二百八十人の中に残っている。そして、三人の中にも。
二日後、その熱は、もっと大きな場所へ運ばれる。
6
東名阪ツアーの小規模公演が、これですべて終わった。
撤収の音が、地下の狭い空間に反響している。台車の車輪。テープを剥がす音。スタッフの短いやり取り。三都市で三回、同じ音を聞いた。三回目の今日だけ、その音が少しだけ寂しく聞こえた。
私は客席の最後列に立ち、誰もいなくなった空間を見た。二百八十の立ち位置を示す床の印が、まだ薄く残っている。大阪は百二十、名古屋は百八十、東京は二百八十。三つ合わせて五百八十人。三か月かけて回って、五百八十人だった。
半年後、同じ三都市を、一晩に二千人ずつで回る。数字にすれば十倍以上の跳躍だが、順番は逆になる。大阪から始まって、名古屋を通り、この東京で終わる。
行きに置いてきたものを、帰りに拾いに行くようなツアーだった。
「青木さん」
ハルカが声をかけてきた。三人とも、もう着替えを終えている。
「終わりましたね」
「ええ」
「終わったのに、あんまり終わった気がしません」
「半年後に、また同じ街へ行くからでしょう」
「それもありますけど」
ハルカは、誰もいない客席を見渡した。
「今日会った人に、次はホールで会うんだなって思ったら、終わりじゃなくて、途中みたいで」
その言葉は、私が三か月かけてたどり着けなかった場所に、一足で届いていた。
楽屋の片づけが終わり、ハルカとユイが先に車へ向かった。リナだけが、鞄を肩にかけたまま動かなかった。
「青木さん」
「どうしたの。忘れ物?」
「聞いてもいいですか」
鏡の前の椅子に座ったまま、リナはこちらを見なかった。鏡越しに目が合う。
「何か、隠してますよね」
心臓が一度、はっきりと打った。
「何のこと」
「分かりません。何かは分からない。でも、隠してるのは分かります」
「思い過ごしよ」
「大阪の楽屋で、大類社長と電話してた時。名古屋のホテルの廊下で、ネクストウェーブの人と話してた時。今日の朝、車の中で予定表を開いて、すぐ閉じた時」
リナは、指を三本立てていた。数えていたのだ。
「全部、同じ顔をしてました」
「どんな顔」
「計算してる顔じゃなくて、計算を止めた顔です」
私は言葉を探した。探しているあいだ、リナはずっと待っていた。
「リナ」
「はい」
「あなたが心配するようなことは、何も起きていません」
それは嘘ではなかった。今日、何も起きてはいない。三年後に起きることを、今日の言葉で否定しただけだ。リナが、初めてこちらへ顔を向けた。
「私、大阪の夜に一人で新幹線に乗りました」
「……ええ」
「あの時、誰も私に何も聞かなかったわけじゃないんです。ハルカもユイも、何度も聞いてくれてた。私が答えなかっただけです」
彼女の右手が、鏡台の縁を掴んでいた。
「答えなかった理由は、迷惑をかけたくなかったからです。二人が困るから、言わないほうがいいと思った。それで、いちばん困らせました」
楽屋の外を、撤収の台車が通り過ぎていく音がした。
「青木さんが今やってるの、それと同じに見えます」
私は、何も答えられなかった。
「違うなら、違うって言ってください」
「……違うわ」
言った瞬間、自分の声が薄いのが分かった。リナにも分かったはずだった。彼女は少しのあいだ黙って、それから、鞄を肩へかけ直した。
「分かりました」
「リナ」
「怒ってないです。ただ」
扉の手前で立ち止まる。
「私が一人で新幹線に乗った時、青木さんは東京で待っててくれました。四人で話しますって送ってくれた」
あのメッセージを、この子はまだ消していない。
「今度は、私たちが待ってます。だから、乗る前に言ってください」
扉が閉じた。私は誰もいない楽屋に残った。鏡の中に、疲れた顔の女が一人いる。四年前より髪が短く、四年前より高い服を着て、四年前と同じことをしていた。
左手首の青と白の糸に触れる。大阪で結んだ糸だ。あの夜、リナが一人で乗った新幹線と、同じ街で結んだ糸だった。言えばよかった。今なら、まだ三人の前ではなく、リナ一人だ。この場で、四千五百万という数字と、契約書の空白の四文字と、三年後という期限を口に出せば、それで終わる話だった。
私は楽屋の電気を消して、車へ向かった。後部座席で、三人は今日のセットリストの紙を回し読みしていた。ユイが何かを言い、ハルカが笑い、リナも笑っていた。私はその笑い声を守っているつもりだった。守るということと、閉じ込めるということを間違えるな、と高橋に言われたのは、まだ半年も前のことではなかった。




