第24章 名古屋、受け継がれる光
1
名古屋へ到着した日の夕方、私たちは会場へ向かわず、先にホテルへ入った。以前の遠征では、宿泊費を抑えるために三人が同じ部屋を使うこともあった。
私は車内で仮眠を取り、大類は会場近くの安い宿を直前に探していた。今回は、一人ずつ部屋を用意している。ハルカ、ユイ、リナ、私。同じ階に四つの部屋を取り、廊下の奥にはネクストウェーブの現場担当者が泊まることになっていた。
「本当に一人ずつなんですね」
ユイが、自分のカードキーを見つめた。
「大阪を出る前にも説明したでしょう」
「分かってたけど、ホテルへ来ると、ちょっと寂しいです」
「一人で休むための部屋よ。食事は四人で取ります」
「夜、眠れなかったら誰かの部屋へ行ってもいいですか」
「相手の許可を取れば。ただし、日付が変わる前には自分の部屋へ戻って」
「修学旅行みたいに見回りへ来るんですか」
「必要なら行きます」
「青木さんが一番寝ない気がする」
リナが言った。
「私は寝ます」
「本当に?」
「努力します」
三人が顔を見合わせた。
「努力じゃなくて、約束してください」
ハルカが言う。自分が以前、同じ言い方をしたことを思い出した。部屋の割り当てを終えて廊下へ出ると、奥の部屋の前に女性が立っていた。三十代の半ばだろうか。会場から直行してきたらしく、片手にファイル、もう片手に折り畳んだ会場図を持っている。
「スターライトの青木さんですね。ネクストウェーブの三宅です。中部エリアのプロモーション担当をしています」
「お世話になります」
「明日の会場、動線を先に見てきました。搬入口から楽屋までが遠いので、雨だと濡れます。傘を三本、こちらで用意しておきました」
私は、その三本という数字に一瞬だけ引っかかった。
「四本お願いできますか」
「四本?」
「私の分も要ります」
三宅さんは笑って、手帳に書き込んだ。
「失礼しました。四本ですね」
悪い人ではないと、その三十秒で分かった。現場を先に見て、雨を想定して、傘の本数まで手配する人間が悪い人であるはずがない。
「それと、佐藤から言付かっています」
廊下の空気が、少しだけ変わった。
「本社の法務の佐藤ですが、ご存じですよね」
「ええ」
「包括契約の、メンバー三名への最低生活保障の特約が、来年の夏で二年の期限を迎えます。更新の要否について、年内に一度お話ししたいと」
「……分かりました」
「あ、心配なさらないでください。更新しない理由がありません。今の売上なら、保障額を下回ることはまずないので」
三宅さんは、本当にそう思って言っていた。
「保障がなくなっても、実際の報酬のほうがずっと上ですから。むしろ、事務所さんとしては固定費が消えて楽になります」
固定費が消える。つまり、営業利益が増える。
「三宅さん」
「はい」
「その話は、メンバーには」
「まだしていません。マネージャーさんを通すのが筋ですから」
「ありがとうございます。私から伝えます」
三宅さんは頷いて、明日の集合時間を確認し、自分の部屋へ入っていった。誰もいない廊下に、私は立っていた。伝えます、と言った。伝えるつもりだった。三日後には言おうと思った。名古屋が終わったら。東京が終わったら。ホールツアーが終わったら。
この夜から、私は締切を先送りする人間になった。かつて、三人に締切を与えすぎて壊しかけた人間が、自分の締切だけは、いくらでも動かせるようになっていた。
三人へ休めと伝えながら、自分だけは仕事を続けようとしていた時、ハルカから「ちゃんと休んでください」と言われた。
「分かりました。日付が変わる前に寝ます」
「業務用スマホは?」
ユイが尋ねる。
「緊急連絡があるので、電源は切れません」
「ベッドの横に置かない」
リナが言う。
「机の上へ置きます」
「メールを開かない」
「緊急のもの以外は」
「青木さんの緊急は、範囲が広すぎます」
「では、現場担当者から電話があった場合だけ確認します」
ようやく三人が納得した。部屋へ荷物を置いた後、ホテル内の小さなレストランへ集まった。高橋は、まだ東京にいた。
翌日の午後、新幹線で名古屋へ入る予定になっている。大類は、別の仕事があるため東京公演から合流することになっていた。そのため、夕食は四人だけだった。
「何を食べますか」
メニューを開き、ユイが尋ねる。
「名古屋らしいものがいいです」
「明日が本番だから、胃に負担の大きいものは避けて」
私が言うと、ユイが不満そうな顔をした。
「味噌カツ、食べたいです」
「昼ならともかく、今夜はやめておいた方がいい」
「少しだけなら?」
「明日の公演後にしましょう」
「公演後だと、もう遅いですよね」
「翌日の昼に大阪へ移動する前なら食べられるわ」
「大阪へ行ったら、大阪のものを食べたいです」
「全部食べようとしないで」
ハルカが笑う。
「ツアーの目的が変わってるよ」
結局、ユイは鶏肉と野菜の入った温かいうどんを選んだ。ハルカは焼き魚。リナは湯豆腐。私は野菜の煮物とご飯にした。
食事が運ばれてくるまで、誰も翌日の曲順を確認しなかった。移動中に読んだ手紙の話をした。あの対バンライブでLUMINAを見つけ、今まで画面の向こうから応援してくれていた女性。
名前は、美咲と書かれていた。名字はなかった。明日の公演へ参加すると記されている。
だが、顔は分からない。
「名札をつけてもらうわけにはいかないですよね」
ユイが言う。
「美咲さんだけを探す公演ではないから」
ハルカが答えた。
「でも、会いたい」
「きっと客席のどこかにいるよ」
リナが言う。
「分からなくても、その人へ届くように歌えばいい」
料理が運ばれてきた。温かい湯気が、四人の間に立ち上る。
「大阪で見た顔、覚えてる?」
ハルカが尋ねた。
「覚えてる」
ユイは箸を置き、指を折りながら言った。
「ペンライトを貸してくれた人。借りた女の子とお母さん。後ろにいた男の人。最初はコールが分からなくて、途中から声を出してくれた人」
「私は、最前列でずっと泣いてた人」
リナが続ける。
「泣きながら、最後まで振付を一緒にやってた」
「私は、声を出さずに、目を閉じて聞いてくれてた女性」
ハルカが言った。
「歌が終わるたびに、すごくゆっくり拍手してくれた」
三人の中には、大阪で出会った人たちの顔が残っていた。
「その人たちを思い出しながら、名古屋で別の顔を見つける」
ハルカが言う。
「全部覚えるのは無理かもしれないけど」
「一人でもいい」
ユイが答えた。
「一人を覚えて、その人を東京まで連れていく」
私は三人の話を聞きながら、食事を取った。会場の規模。チケットの販売数。来場率。
それらも重要な情報だった。だが三人は今、人数ではなく、顔を増やそうとしている。大阪で百二十。名古屋で百八十。
東京で二百八十。合計五百八十人。数字としてまとめれば、それだけだ。
けれど、その五百の中に、一人ずつ異なる人がいる。三人は、そのことを身体で確かめながら街をつないでいた。食事を終えると、明日の予定を確認した。
会場入りは午後一時。音合わせは二時。
開場は五時。
開演は六時。
公演時間は七十分。終演後に特典会は行わない。代わりに、出口で名古屋公演だけの小さなカードをスタッフから手渡す。表には、三人が名古屋のために選んだ言葉。
裏には、LUMINA HOMEへ音声が公開される時刻が書かれていた。
「明日の音声、終わってから録るんですよね」
ユイが確認する。
「三人が話せる状態なら。難しければ、翌朝にする」
「大阪の時みたいに、その日の気持ちを残したいです」
「今から決めなくていいわ。終わった時の色で判断しましょう」
三人が頷く。部屋へ戻る前、私はもう一度だけ確認した。
「今夜は、曲の練習をしない。歌詞を見直すのも、振付を確認するのも明日の音合わせまでしない」
リナが視線を逸らした。
「リナ」
「見るだけなら」
「見ない」
「一回だけ」
「駄目です」
「大阪で少し変えたところが」
「身体が覚えている。今日は身体を休めて」
リナは不満そうだったが、最後には頷いた。
「分かりました」
「全員、午後十一時までに部屋へ戻ること」
「青木さんもですよ」
ユイが言う。
「分かっています」
四人でエレベーターへ乗る。同じ階で降り、それぞれの部屋へ向かう。
「おやすみなさい」
ハルカが言う。
「おやすみ」
ユイとリナも続く。私は自分の部屋へ入り、机の上に業務用スマートフォンを置いた。すぐにメールを開きたくなった。会場準備の進捗。
大阪公演後の反応。名古屋公演の来場確認。知りたいことはいくらでもある。
だが、緊急の着信はない。
私は着替え、ベッドへ入った。窓の外には、名古屋の夜景が広がっていた。この光のどこかに、明日会場へ来る人たちがいる。美咲という女性も、今、同じ街で明日を待っている。
私はスマートフォンへ手を伸ばさず、目を閉じた。
2
翌朝、ホテルのレストランへ行くと、三人はすでに朝食を取っていた。
「早いですね」
私が言うと、ユイが笑った。
「青木さんが寝てるか、確認しに行こうと思ってました」
「部屋へ来なくて正解です」
「何時に寝ましたか」
「十一時半です」
「遅い」
リナが言う。
「予定表を見てたんですか」
「見ていません。本を読んでいました」
「本当?」
「本当です」
「何の本ですか」
題名を答えると、三人はようやく納得した。朝食後、それぞれの部屋で休み、昼前に軽い食事を取った。会場へ到着したのは、予定どおり午後一時だった。
名古屋公演の会場は、繁華街から少し離れた場所にあるライブハウスだった。地下へ続く狭い階段。黒い壁。何年分もの音が染み込んだような床。
収容人数は百八十人。大阪より少し広いが、ステージから後方の表情まで十分に見える距離だった。会場スタッフの一人が、三人の姿を見るなり笑顔を見せた。
「覚えてます?」
四十代くらいの男性だった。三人が顔を見合わせる。
「すみません」
ハルカが頭を下げた。
「どこかで、お会いしましたか」
「一年前。系列の会場で、皆さんが対バンへ出た時、音響をやってました」
「あの時の?」
リナが近づく。
「客席、ほとんどいなかった日ですか」
男性が苦笑した。
「正直に言いますね」
「覚えてます。私たちを見てる人、前に五人くらいしかいなかった」
「五人よりは、もう少しいたと思いますよ」
「六人?」
ユイが尋ねる。
「十人はいたんじゃないかな」
「どちらにしても少ないですね」
三人が笑う。男性は、当時のことをよく覚えていた。持ち時間は十五分。リハーサルはほとんどできず、前の出演者の機材トラブルで開始も遅れた。
それでも三人は、不満を見せず歌った。
「ハルカさんのマイク、途中で少し音が落ちたんです」
「ありました」
ハルカが思い出した。
「急に自分の声が聞こえなくなって」
「リナさんが、自分のマイクをハルカさんへ向けた。ユイさんも、すぐ横へ移動した」
三人が顔を見合わせた。
「昔から、同じことしてたんですね」
ユイが言う。
「誰かの声が出なかったら、二人が入る」
「その時は、咄嗟にやっただけだった」
リナが答える。
「テレビの時も、同じでしたよ」
音響スタッフが言った。
「放送、見ました。あの時の三人が、全国放送に出てるって、会場のみんなで見てました」
三人の表情が柔らかくなる。
「ありがとうございます」
ハルカが頭を下げた。
「また名古屋で音を作っていただけて、嬉しいです」
「こちらこそ。今日は、前よりちゃんとリハーサルできますから」
音合わせが始まった。大阪の会場と形が違うため、同じ音量では声が響きすぎた。低音が壁へ強く反射し、ユイの声が少し埋もれる。リナのイヤーモニターには、ハルカの声が大きく入りすぎていた。
三人は一つずつ、自分たちの言葉で伝えた。
「ユイの声を、客席側でもう少し前に出してください」
ハルカが言う。
「私のイヤーモニターは、ハルカを少し下げて、ユイを上げたいです」
リナが続ける。ユイは自分の声を確認し、音響スタッフへ尋ねた。
「私の声、後ろまで届いていますか」
スタッフが客席後方で聞き、調整する。私は口を挟まず、三人と現場スタッフが音を作る様子を見ていた。一曲目を通し、二曲目の入りを確認する。
三曲目へ進む前、私は三人の色を尋ねた。ハルカは緑。リナも緑。ユイは、黄色を出した。
「何が必要?」
「少し休んでから、最後の曲のサビだけ確認したいです」
「休憩は何分?」
「十分」
三人がステージを降りる。音響スタッフも、当然のこととして待ってくれた。十分後、ユイは緑へ戻った。最後のサビを一度だけ確認し、音合わせを終えた。
予定より五分早い。控室へ戻る途中、リナが小さく言った。
「前に来た時は、リハーサルで休みたいなんて言えなかった」
「時間がなかったから?」
ハルカが尋ねる。
「時間もなかった。でも、こんな新人が休みたいって言ったら、次は呼ばれないと思ってた」
ユイが頷く。
「私も。声が出にくくても、大丈夫ですって言ってた」
「今は?」
「怖いけど、言える」
ユイは緑のカードを見た。
「言っても、誰も怒らないって分かったから」
初めて遠征した時と同じ街。似たような地下の会場。
けれど、三人は同じ場所へ戻ったわけではない。自分たちの状態を伝え、自分たちで歌う環境を作れるようになっている。変わったのは、客席の人数だけではなかった。
3
開場時間が近づくと、会場前には番号ごとに観客が集まり始めた。大阪公演と同じように、集合時間を区分している。大阪で「案内が細かく分かりにくかった」という意見があったため、名古屋では表示を簡略化した。
入場口の前には、三つの大きな色分け表示を置いた。案内メールにも同じ色を使っている。現場スタッフから、混乱はないと報告が届いた。私は会場後方へ移動し、入場する人たちを見た。
最初に気づいたのは、親子連れの多さだった。母親と高校生くらいの娘。父親と小学生の女の子。成人した娘と母親。
LUMINA HOMEへ届く名古屋からの手紙には、家族と参加すると書かれたものがいくつもあった。三人の音楽が、一人から別の一人へ渡っている。
二十代ほどの女性二人が入ってきた。一人は、使い込まれたLUMINAの初期タオルを持っている。もう一人は、現在販売されている青と白のペンライトを手にしていた。
「本当に近いね」
ペンライトを持つ女性が言う。
「前に見た時は、もっと小さかったよ」
「その時から応援してるんだよね」
「応援って言っても、名古屋に来た時に一度見ただけ。東京までは行けなかったし、物販にも行けなかった」
「でも、その時のこと、ずっと話してたじゃん」
「そうだったかな」
「私がLUMINAを知ったの、あなたが何度も動画を送ってきたからだよ」
初期タオルを持つ女性が、照れたように笑った。美咲かもしれない。そう思った。
だが、声をかけることはしなかった。名字も顔も知らない。同じような経験をした人が、ほかにいる可能性もある。何より、彼女は一人の観客としてここへ来ている。
特別に確認する必要はなかった。二人は、客席中央へ移動した。初期タオルを持つ女性が、友人へ簡単な振付を教えている。
「サビで、手をこうするの」
「間違えたら?」
「誰も見てないよ。ステージ見てるから」
「声は?」
「出したくなったら出せばいい」
大阪と同じだった。長く知る人が、正しさを押しつけるのではなく、初めての人が入れる余白を作っている。少し離れた場所では、高校生くらいの少女が母親へ説明していた。
「ユイちゃんが片手でも踊れる振付を作ったの。この曲」
「お母さんでもできる?」
「たぶん」
「たぶんって何」
親子で笑う。後方には、仕事帰りらしいスーツ姿の男性が一人で立っていた。ペンライトは持っていない。
開演までの間、目を閉じてイヤホンで何かを聞いていた。入口近くでは、五十代ほどの女性二人が、会員証の画面を見せ合っている。
「私、娘に入れてもらったの」
「私は息子から曲を教えてもらった」
世代も、LUMINAを知った経緯も違う。それでも同じ場所へ集まっている。高橋が会場へ入った。今日はスーツではなく、濃い灰色のジャケットと黒いシャツを着ている。
「パーカーではないんですね」
私が言う。
「仕事先から直接来た」
「十分目立ちます」
「暗くなれば見えない」
彼は客席を見回した。
「大阪より家族連れが多いな」
「LUMINA HOMEの地域別メッセージにも、その傾向がありました」
「親から子へではなく、子から親へ広がっているのか」
「両方です。三人の曲を娘から教えられたという方も、母親と一緒に聴いているという方もいました」
「ファンの熱が、個人の中だけで終わっていないということか」
「はい」
高橋は、初期タオルを持つ女性と、その友人を見た。
「あのタオルは、いつのものだ」
「メジャーデビュー前、最初に作ったものです」
「保存状態がいいな」
「大切にしてくださっていたのでしょう」
女性は友人へタオルを見せ、端に書かれた小さなロゴを説明している。一人が持ち続けていた記憶が、今日、別の一人へ渡されている。
「青木君」
高橋が言う。
「これも、数字にできない熱か」
「紹介経由の新規会員率としてなら、一部は確認できます」
「急に現実的だな」
「数字にできる部分まで否定するつもりはありません」
「だが、あの二人の会話までは入らない」
「はい」
私たちの資料に記録されるのは、会員数やチケット購入履歴までだ。一人の女性が友人へ何度も動画を送り、今日初めて同じ会場へ連れてきたことまでは分からない。
数字の増加には、その裏側にある小さな物語が隠れている。それを忘れなければ、数字は冷たいものではない。誰かから誰かへ光が渡った跡として見ることができる。
開演五分前。客席の照明が少し落ちる。私は控室へ向かい、三人へ知らせた。
「まもなくです」
ハルカは緑。リナも緑。ユイは黄色だった。
「何が必要?」
「手紙を、一度だけ読みたいです」
移動中に読んだ、美咲からの手紙だった。ハルカが封筒から便箋を取り出し、最後の部分だけを読む。今度は、名前を呼ぶために会いに行きます。
ユイが目を閉じた。リナは、自分の胸元へ手を置く。
「客席にいるかな」
ユイが言う。
「いるよ」
ハルカが答える。
「顔が分からなくても、いると思って歌おう」
「うん」
ユイは黄色のカードを見つめた。
「まだ黄色です。でも、行けます」
「行けるではなく、行きたい?」
私が確認する。
「行きたいです」
「分かった」
三人が控室を出る。ステージへ向かう通路の先から、百八十人の気配が伝わってくる。大阪より六十人多い。
だが、人数の違いより、街の違いを感じた。名古屋で待っていた人たちの声。あの日から途切れずに残っていた記憶。誰かから家族へ、友人へ渡された歌。
そのすべてが、扉の向こうにあった。
4
会場が暗くなった。客席から、すぐに声が上がる。大阪公演では、三人を驚かせないよう、最初は拍手だけで迎えた人が多かった。名古屋では違った。
三人の姿が見える前から、名前を呼ぶ声が重なっている。
「ハルカ!」
「ユイ!」
「リナ!」
一人の声が、別の場所から返される。三人の名前が、狭い会場を行き交う。控室からステージへ続く通路で、ユイの足が一瞬止まった。私は後ろから声をかけなかった。
ハルカがユイを見る。リナも振り返る。ユイは二人へ頷き、自分から一歩を踏み出した。三人がステージへ現れる。
歓声と拍手が、一気に大きくなった。近い。最前列だけではない。後方からも、三人の名前が届く。
ユイは胸元へ手を置き、客席を見た。
「ただいま、名古屋!」
ハルカが叫んだ。
「おかえり!」
客席の声が重なった。ユイの目から、すぐに涙がこぼれた。
「まだ、歌ってないのに」
笑いながら、目元を拭う。リナも、客席を見渡していた。
「前に来た時より、ずっと声が大きい」
「前は、私たちの名前を知ってる人が少なかったから」
ハルカが答える。客席から声が飛ぶ。
「知ってたよ!」
「待ってた!」
「会いたかった!」
三人が顔を見合わせる。
「私たちも、会いたかったです」
ユイが言った。一曲目のイントロが始まる。名古屋公演の最初に選んだのは、最初の遠征で出演した対バンライブでも歌った曲だった。当時の客席では、ほとんど反応がなかった。
曲を知る人も、振付を知る人も少なかった。今日は、イントロが流れただけで声が上がった。初期タオルを持つ女性が、胸の前で両手を組む。隣の友人が、彼女の動きを見ながらペンライトを上げる。
一曲目の歌い出し。ハルカの声が、会場を貫いた。音響スタッフが、三人の声を丁寧に支えている。あの日、途中で音が落ちた同じ人の手によって、今度は声が後方まで届けられる。
ユイは、客席中央にいる二人の女性を見つけた。初期タオル。隣にいる友人。どちらが美咲なのか、確信はない。
それでも、その方向へ笑顔を向けた。女性が口元を押さえ、涙を流す。その隣の友人が肩を抱く。ユイの声も、少し震えた。
リナが、歌いながらユイへ近づく。ハルカも、二人と呼吸を合わせる。震えは消えなかった。消さなくても、歌は続いた。
一曲目が終わる。客席から大きな拍手が起こる。
「この曲、最初に名古屋へ来た時も歌いました」
ハルカが言う。
「その時、私たちを知っていた方は、ほとんどいなかったと思います」
客席のあちこちから、「いたよ」と声が上がる。
「あの時のライブを見てくださった方、いますか」
いくつかの手が上がった。十人ほどだった。初期タオルを持つ女性も、ゆっくり手を上げている。三人が、その手を一つずつ見た。
「覚えていてくれて、ありがとうございます」
ハルカが頭を下げる。
「私たちは、皆さん一人ずつの顔を覚えられていないかもしれません。それが、本当に申し訳ないです」
客席から、「いいよ」と声が届く。ユイがマイクを持つ。
「でも、皆さんが私たちを覚えていてくれたから、今日ここへ戻ってくることができました」
初期タオルの女性が、何度も頷いている。リナは、初めて来た人にも尋ねた。
「今日、LUMINAのライブへ初めて来た方はいますか」
多くの手が上がった。大阪よりも、その割合は高かった。家族に連れられて来た人。友人から曲を教えられた人。
テレビで知った人。LUMINA HOMEに入ったばかりの人。
「前から知っている方、隣に初めての人がいたら、置いていかないでください」
リナが言う。
「初めての方、分からないことがあっても、気にしなくて大丈夫です。今日は、皆さんのやり方で歌を受け取ってください」
二曲目。
『都会の真夏の夜』
名古屋の客席は、大阪より声が大きかった。最初から、力強いコールが上がる。
しかし、ただ大きいだけではない。声を出す場所と、三人の歌を聞く場所が自然に分かれている。歌詞の大切な部分では静まり、サビでは一斉に声が重なる。
古くからのファンが流れを作り、初めての人が少しずつ加わる。ペンライトを持っていなかった母親が、娘から一本借りる。スーツ姿の男性が、最初は腕を下ろして聞いていたが、二度目のサビでは小さく手を上げる。
五十代の女性二人も、隣の若いファンを見ながら簡単な振付を真似している。熱が、客席の一部から広がっていく。押しつけられるのではなく、受け取った人が、自分のタイミングで加わっていく。
ユイは、その変化を見ていた。声を出していなかった人が、初めて名前を呼ぶ。動かなかった人の手が、少し上がる。歌詞を知らなかった人が、隣の人の口元を見ながら、最後の言葉だけを重ねる。
一人の熱が、別の一人へ渡っている。三曲目。四曲目。
公演が進むにつれ、会場の温度は上がった。休憩へ入る前、ユイは黄色のカードを出した。
「少し、休みます」
客席から拍手が起こる。大阪公演の音声を聞いていた人は、その意味を理解している。初めての人へ、近くのファンが小さな声で説明していた。
「黄色は、休憩です」
「何かあったんですか」
「大丈夫って言い切らずに、少し待ってって伝えるためのカードです」
「そうなんですね」
説明を聞いた人が、ステージへ向かって拍手をする。ユイは椅子に座り、水を飲んだ。
「名古屋、熱いですね」
客席から笑い声が起こる。
「私たちが熱くしてる!」
「空調も少し弱いです」
リナが言う。さらに笑いが広がる。高橋が、会場後方から音響スタッフへ合図し、空調の設定が一段下げられた。私は、その様子を見ながらユイの呼吸を確認した。
速いが、乱れてはいない。ハルカとリナも、自分たちのカードを膝に置いている。全員、黄色。
「三人とも黄色になりました」
ハルカが客席へ見せる。
「皆さんも、水を飲んでください」
観客も、それぞれ飲み物を手にした。休憩が、ステージだけのものではなく、会場全体の時間になる。誰も先を急かさない。
数分後、リナが最初に緑へ変えた。ハルカも続く。ユイは、もう少しだけ黄色を持っていた。二人は待った。
観客も待った。
やがてユイがカードを裏返す。緑。
「もう一度、歌いたいです」
歓声が上がった。後半の曲が始まった。
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最後のMCで、ハルカは移動中に読んだ手紙のことを話した。名前は出さなかった。
「最初に名古屋へ来た時、別のグループを見るためにライブへ来て、偶然私たちを見つけてくださった方から、手紙をいただきました」
客席中央で、初期タオルを持つ女性の身体がわずかに動いた。隣の友人が、彼女を見る。
「その方は、物販へ来ることも、東京へ遠征することもできなかったそうです。それでも、私たちを覚えていてくださいました」
ハルカの声が少し震える。
「私たちは、その方のお顔を覚えていません。今日、どこにいらっしゃるのかも分かりません」
ユイが客席を見る。初期タオルを持つ女性と目が合った。女性は、泣きながら胸元へ手を置いた。名乗らない。
手を大きく上げることもしない。それでも、ユイには伝わったようだった。
「もしかして」
ユイが呟く。女性は、ほんの少し頷いた。その隣にいる友人が、背中を押すように肩へ触れた。女性が、震える手を上げた。
「美咲です」
大きな声ではなかった。それでも、会場は静かだったため、ステージまで届いた。ユイの目から涙があふれた。
「来てくれた」
美咲は、泣きながら頷いた。
「来ました」
「覚えてなくて、ごめんなさい」
「覚えてなくていいです」
手紙と同じ言葉だった。
「私が、覚えてたから」
会場のあちこちから、すすり泣く声が聞こえる。ハルカも涙を拭った。
「三年間、待っていてくださって、ありがとうございます」
美咲が首を振る。
「待ってただけじゃないです。曲を聞いてました。友達にも、ずっと話してました」
隣の女性が、照れたように手を上げる。
「今日は、初めて来ました」
ユイが笑う。
「連れてきてくれたんですね」
美咲は頷いた。
「私一人で覚えてるだけじゃなくて、誰かに知ってほしかったから」
その言葉が、会場全体へ広がった。一人の中に残っていた光が、三年かけて別の一人へ渡った。友人へ。家族へ。
同じ街に住む誰かへ。そして今日、百八十人が集まる場所まで届いた。
「ありがとうございます」
リナが言った。
「あの頃、私たちを見ていた人が少なくて、名古屋には届かなかったと思ってました」
美咲が首を振る。
「届いてました」
短い言葉だった。リナの頬を、涙が伝った。
「今、やっと分かりました」
最初の名古屋遠征の帰り道、三人はほとんど言葉を発しなかった。誰にも見つけてもらえなかった。遠くまで来ても、何も残せなかった。そう思っていた。
だが、届いていなかったわけではない。反応がすぐに返ってこなかっただけだった。物販の売上にも、SNSの数字にも表れない場所で、一人の中に歌が残っていた。
その人が別の人へ話し、今日まで光をつないでくれた。
「最後の曲を、その時から待っていてくれた方にも、今日初めて来てくれた方にも届けます」
ハルカが言う。最後の曲は、最初に名古屋へ来た頃にはまだ存在しなかった『真夏のミッドナイト・ブルー』だった。あの頃の三人が知らなかった歌。
メジャーデビュー。大きな会場。テレビ出演。炎上。
活動休止。失敗と再出発。そのすべてを通った今の三人だから歌える曲だった。イントロが流れる。
美咲は、古いタオルを胸元で握っている。隣の友人が、青と白のペンライトを振る。一人が持ち続けた過去と、今日初めて受け取った現在が、同じ場所に並んでいた。
ハルカが歌う。ユイが重なる。リナが踊る。大阪で受け取った熱も、三人の中にある。
名古屋で見つけた顔が、さらに加わっていく。美咲。その友人。ペンライトを持つ親子。
仕事帰りの男性。娘に連れられて来た母親。息子から曲を教えられた女性。声を出す人。
静かに泣く人。初めて振付を真似する人。三人は、その一人ずつへ歌を渡した。最後のサビ。
百八十人の声が、三人の歌へ重なる。誰か一人の大きな声ではない。会場にいる全員の異なる声が、一つの流れになっていた。最後の一音が終わる。
照明が白へ変わった。大きな拍手と歓声。三人は手をつなぎ、深く頭を下げた。
「名古屋、ありがとうございました!」
「また来て!」
客席から声が上がる。
「絶対、また来て!」
「待ってる!」
ハルカが顔を上げる。
「今度は、こんなに長く待たせません」
ユイも続ける。
「また、会いに来ます」
リナは、客席をまっすぐに見た。
「次は、今日ここにいる皆さんが、誰か一人を連れてきてください」
美咲と友人が、顔を見合わせて笑う。
「私たちも、次の歌を持ってきます」
客席から、さらに大きな歓声が上がった。三人がステージを降りる。最後まで、拍手は途切れなかった。
6
控室へ戻った三人は、しばらく何も話せなかった。ユイは椅子に座り、顔を両手で覆っている。ハルカは壁へ背を預け、天井を見上げていた。リナは、古いタオルを持つ美咲の姿を思い出すように、目を閉じている。
「色は?」
私が尋ねた。ハルカは黄色。ユイも黄色。リナも、少し迷ってから黄色を出した。
「全員、静かな時間が必要?」
三人が頷く。私は部屋の照明を少し落とし、扉の外へ「休憩中」の札を出した。高橋も、何も言わず壁際の椅子に座った。十分ほど、誰も話さなかった。
廊下の向こうでは、観客の退場が進んでいる。出口で、名古屋公演のカードが一人ずつ手渡されている。カードに書かれた言葉は、三人で選んだものだった。
今日、受け取った光を、次の誰かへ。
やがて、ユイが黄色を緑に変えた。
「話したいです」
ハルカとリナも、続いて緑へ変える。
「美咲さん、いた」
ユイが言った。
「本当に、来てくれてた」
「三年間、覚えててくれた」
ハルカの声が震える。
「私たち、届かなかったと思ってたのに」
リナは、しばらく黙っていた。
「数字にならないって、こういうことなんですね」
高橋が顔を上げる。
「何がだ」
「あの時、美咲さんが私たちを見たことは、何の数字にも残ってなかった」
「チケットの販売記録は、残っていたかもしれない」
「でも、その後も曲を聞いてくれてたことや、友達に何度も話してくれてたことは分からなかった」
「そうだな」
「それが今日、友達と一緒に来てくれた」
リナは高橋を見た。
「一人が二人になったって数字だけなら、小さい。でも、私にはすごく大きかったです」
高橋は、すぐには答えなかった。
「ビジネスでは、その一人が増えることを積み重ねる」
やがて静かに言った。
「一人が二人。二人が四人。すべてを把握できなくても、広がった結果は数字に表れる」
「じゃあ、数字も間違いじゃない?」
ユイが尋ねる。
「数字は結果の一部だ。間違いでも、すべてでもない」
高橋は続けた。
「今日の百八十人を見て、大阪より六十人増えたとだけ考えれば、美咲さんの三年間は見えない。だが、一人ずつの物語だけを見て、百八十人を安全に会場へ入れるための費用や人員を無視すれば、公演は続けられない」
「両方見る必要があるんですね」
ハルカが言う。
「そうだ」
高橋の答えに、私は小さく頷いた。以前の私は、数字だけを見ていた。今は、人の気持ちだけを守ろうとして、数字から離れすぎることがある。どちらか一方ではない。
続けるための数字。続けたいと思う理由になる、一人ずつの顔。その両方を見るのが、私たちの仕事だった。
「高橋さん」
私は呼びかけた。
「何だ」
「明日の昼食、味噌カツを食べる時間はありますか」
三人が一斉に私を見る。
「青木さん!」
ユイの表情が明るくなる。高橋は時計を確認した。
「大阪への出発を三十分遅らせれば可能だ」
「予定を変えてもいいんですか」
ハルカが尋ねる。
「休養と食事のためなら、調整できる」
「高橋さんも食べますか」
ユイが期待するように見る。
「私は午前中に東京へ戻る」
「逃げましたね」
リナが言う。
「仕事だ」
「新幹線で味噌カツ弁当、買えますよ」
「検討しておく」
高橋は、少しだけ笑った。三人も笑う。張りつめていた空気が、ようやく解けた。LUMINA HOMEへ届ける音声は、その場で録音することになった。
三人は控室のテーブルへ並んだ。私は録音機を置く。
「名古屋公演を終えました」
ハルカが話し始める。
「会場へ来てくださった皆さん、本当にありがとうございました。来られなかった皆さんにも、今の気持ちを届けます」
ユイが続ける。
「最初の名古屋遠征で私たちを見つけてくださった方と、今日会うことができました。私たちは、その方のお顔を覚えていませんでした。でも、その方は私たちを覚えていてくれました」
少し涙声になる。
「届いていないと思っていた歌が、誰かの中に残っていたことを知りました」
リナがマイクへ向かう。
「その方は、今日、友人を連れてきてくれました。一人が持っていた光が、別の一人へ渡っていました」
リナは言葉を切り、深く息を吸った。
「今日、会場へ来てくれた皆さんも、来られなかった皆さんも、もし私たちの歌を誰かに渡したいと思ったら、無理のない形で伝えてください。曲を一つ送るだけでも、好きだと話すだけでも構いません」
ハルカが最後に言った。
「私たちは、名古屋で受け取った光を、大阪へ持っていきます」
三人の声が重なる。
「名古屋、ただいま。そして、行ってきます」
録音を終えた。
翌日の昼。約束どおり、四人で味噌カツを食べた。ユイは最初の一口を食べると、満足そうに目を閉じた。
「これを食べないで大阪へ行くところでした」
「ライブより食事の方が楽しみだったように聞こえるわ」
「両方です」
「大阪では何を食べるつもり?」
リナが尋ねる。
「たこ焼きと、お好み焼きと」
「公演前に全部は食べないでね」
ハルカが笑う。昼食を終え、ハイエースへ荷物を積む。名古屋から届いた手紙の束に、公演後、新しい封筒が加わっていた。美咲からだった。
出口の手紙箱へ入れられていた。車へ乗る前、三人で開いた。今日、初めて名前を呼ぶことができました。あの日、私一人の中に残っていた光を、今日は友人と一緒に見ることができました。
次に会う時は、もう一人、連れていけるかもしれません。名古屋へ帰ってきてくれて、ありがとうございました。今度は、私たちが皆さんの帰りを待っています。
ユイが便箋を胸元へ抱いた。
「また来ないといけませんね」
「来よう」
ハルカが答える。
「絶対に」
リナも頷く。手紙を大切に封筒へ戻し、車へ乗り込む。ハイエースは名古屋の街を離れ、東京へ向かう高速道路へ入った。後部座席では、三人が美咲の手紙をもう一度読んでいた。
大阪で受け取った光。名古屋で受け継がれた光。それらは、目に見える荷物ではない。
それでも、車内には確かな重みがあった。
「東京では、誰に会えるかな」
ユイが窓の外を見ながら言った。
「行けば分かる」
リナが答える。
「大阪と名古屋と同じ反応を求めない」
ハルカが、高橋の言葉を思い出すように言った。
「東京にいる人へ、東京でしか歌えない歌を届ける」
私はバックミラー越しに三人を見た。
「そのとおりよ」
名古屋の街並みが、少しずつ遠ざかっていく。東へ続く道の先には、東名阪ツアー最後の街が待っている。東京。大阪とも、名古屋とも違う声と熱を持つ場所。
三人は、二つの街で覚えた顔を胸に、その先へ向かっていた。冬の午後の光が、ハイエースの窓から差し込む。美咲の手紙を持つユイの指先を照らし、ハルカの横顔を通り、リナの膝の上へ落ちる。
その手紙は、次の街でもきっと、誰かの手から手へ渡っていく。




