第23章 大阪、始まりの距離
1
東京の街並みが高速道路の左右から消え、視界が開けるにつれ、空は次第に灰色へ変わった。フロントガラスに小さな水滴が一つ落ち、続いて二つ、三つと増えていく。
「雨だ」
ハルカが呟いた。ワイパーを一度動かす。細い雨筋が左右へ払われ、その向こうに鈍い色の道路が伸びていた。
「大阪へ行く時って、雨が多くないですか」
ユイが窓へ顔を寄せる。
「前に行った時も、降ってませんでした?」
その言葉のあと、車内から笑い声が消えた。私はハンドルを握ったまま、バックミラーへ目をやった。ユイも、自分が何を思い出させたのか気づいたらしい。唇を少し開いたまま、隣のリナを見ている。
リナは雨に濡れる窓を見つめていた。
「降ってたよ」
やがて、静かに言った。
「でも、私はこの車には乗ってなかった」
ワイパーの音だけが規則正しく続いた。あの頃の私たちは、今よりずっと小さかった。客席が半分も埋まらないライブハウスを回り、物販売上からガソリン代と高速代を引けば、手元に残る金はほとんどなかった。大阪公演では機材トラブルが起き、リハーサルの時間が削られ、本番でも音響の返しが安定しなかった。三人は最後まで立ったが、終演後の楽屋には、悔しさの行き場を失った沈黙が溜まっていた。
最初に口を開いたのはリナだった。
『今日の出来で、よく頑張ったなんて言いたくない』
汗の乾いていない顔で、彼女はそう言った。
『返しが聞こえなかったのは全員同じ。お客さんが少なかったのも、音響が悪かったのも言い訳にはできない。私たち自身が弱かった』
間違った言葉ではなかった。だが、疲れ切った三人に受け止める余裕はなかった。
『今、それ言わなきゃ駄目?』
ハルカが声を荒らげた。
『みんな悔しいに決まってるでしょ。ユイなんて、本番中にイヤーモニターが外れても最後まで笑ってたんだよ』
『笑っていれば合格なの?』
『そんなこと言ってない!』
『じゃあ、何。慰め合って、次も同じことを繰り返すの?』
ユイが二人の間に入ろうとした。けれど、そのユイへ向かって、リナは最も鋭い言葉を放ってしまった。
『泣けば誰かが守ってくれると思わないで』
楽屋の空気が凍った。ユイの目に浮かんだ涙を見て、リナ自身も傷ついた顔をした。それでも、一度抜いた刃を戻すことができなかった。
『仲良しでいたいだけなら、私はいらない』
バッグを掴み、楽屋を出ていった。私は追いかけた。裏口を出たところで腕を掴み、車へ戻るよう言った。
『全員で帰るわよ。話は東京に着いてからでいい』
『青木さんは、いつもそれです』
雨の中で振り返ったリナの顔を、今でも覚えている。
『次で話す。あとで考える。数字が出たら決める。でも、今苦しいのは、今なんです』
言い返せなかった。当時の私は、感情の衝突を解くことより、翌日の経費や次の出演枠を守ることを優先していた。時間を置けば冷静になれる。東京まで戻れば話せる。そう考えることで、目の前の痛みから逃げた。
あの夜、私が一瞬黙った隙に、リナの腕は私の手からすり抜けていった。そのまま新大阪駅へ向かい、残っていた金で新幹線の切符を買い、一人で東京へ帰った。
ハルカとユイは、私の運転するハイエースで戻った。雨は大阪を出ても止まず、助手席は最後まで空いたままだった。ユイは後部座席で声を殺して泣き、ハルカは何度もリナへ電話をかけた。呼び出し音が途切れるたび、暗くなった画面を握りしめていた。
リナから連絡が来たのは、新幹線が新横浜を過ぎた頃だった。
『帰っています』
たったそれだけだった。安全を確認できた安堵より、四人で帰れなかった事実の方が重かった。
「私、新幹線の窓から雨を見てた」
後部座席で、リナが言った。
「速すぎて、外の景色はほとんど見えなかった。窓に自分の顔だけ映ってた」
ユイは何も挟まずに聞いている。
「最初は腹が立ってた。誰も本気で分かってくれないって。私だけが、また倉庫に戻るのを怖がってる気がしてた。みんなが優しくすればするほど、その優しさに甘えたら終わるって思ってた」
リナは両手を膝の上で組んだ。
「でも京都を過ぎた辺りで、だんだん怖くなった。東京に着いたら、もう三人はいないかもしれないって。私がいない方が楽だって気づくかもしれないって」
「そんなこと、思うわけない」
ハルカが助手席から振り返った。
「今なら分かる」
リナは小さく頷いた。
「あの時は分からなかった。捨てられるのが怖くて、自分から先に離れた。追いかけてほしかったのかもしれない。でも、追いかけられても戻るって言えなかった」
ユイが指先でスマートフォンの画面を消した。
「私、あの夜、リナちゃんの席をずっと見てた」
「うん」
「腹が立ってたし、悲しかった。あんな言い方しなくてもいいのにって。でも、東京に着くまでに、怒っててもいいから戻ってきてほしいって、そればっかり考えてた」
「ごめん」
「今は、もう怒ってないよ」
ユイは少し考えてから付け加えた。
「忘れてもないけど」
「それでいい」
リナの口元がわずかに緩んだ。ハルカは前へ向き直り、流れていく道路を見た。
「私も悪かった。リーダーなのに、止めることしか考えてなかった。リナが言ったことの中に、聞かなきゃいけない部分があったのに、全部否定された気がして、言い返した」
「ハルカは間違ってなかった。私は伝え方を選ばなかったから」
「正しいか間違ってるかだけで決めなくていいんじゃない」
ハルカはそう言ってから、こちらを見た。
「青木さんも」
「ええ」
私は速度を落とし、前のトラックとの距離を広げた。
「私は、話を先送りにした。経費表とスケジュールを整えることならできたけれど、四人の間にできた亀裂を直視するのが怖かった。管理することと、向き合うことを取り違えていた」
「今は?」
リナが尋ねた。
「怖くても向き合う。誰かが怒っているなら、怒りが消えるまで待つんじゃなく、何に傷ついたのか聞く。私自身が間違えた時も、正しさで押し切らない」
リナはしばらく黙っていた。
「私は今でも、怖くなると正論を先に言います」
「知ってる」
ユイがすぐに答えた。
「でも最近、正論のあとに本音も言うようになったよね」
「努力はしてる」
「今日は何が怖い?」
ユイに尋ねられ、リナは窓から目を離した。
「大阪が満員になるのが怖い」
「満員なのに?」
「前とは違う場所だって分かってしまうから。もう戻れないって感じる」
ハルカが笑った。
「戻らなくていいよ」
「そうじゃなくて。戻らないためには、進み続けなきゃいけない」
「だったら、三人で進めばいい」
「四人よ」
私は言った。バックミラーの中で、三人の目がこちらへ向いた。
「今回は四人で大阪へ入る。公演が終わったら、四人で帰る。途中で喧嘩をしても、誰も一人にはしない」
ユイが右手を差し出した。
「約束」
リナがその手に自分の手を重ねる。助手席からハルカも腕を伸ばした。私はハンドルから手を離せないまま、左手の小指だけを少し持ち上げた。
「運転中だから、私はこれで」
「弱い」
リナが言った。
「効力は同じよ」
雨は滋賀に入る頃には弱くなっていた。雲の切れ間から差した細い光が、濡れた路面に長く伸びる。三人は再びセットリストの確認を始めた。けれど、さっきまで空いていた場所が一つ埋まったように、車内の空気は少しだけ温かくなっていた。
2
大阪のライブハウスは、以前に出演した会場から歩いて十分ほどの場所にあった。収容人数は百二十人。三都市の小規模公演では最も小さいが、それだけにステージから最後列までの距離が近い。天井には無数の照明が低く吊られ、壁には長年の音が染み込んでいた。
搬入口へ到着すると、すでに十数人のファンが建物の向かい側で待っていた。迷惑にならないよう一列に並び、私たちの車が入ると、声を上げる代わりに胸の前でペンライトを小さく振った。
青と白。雨上がりの街角で、その光だけが静かに揺れていた。
「遠くから来てくれた人もいる」
ユイが小声で言う。
「顔、覚えてるの?」
「覚えてるよ。前の対バンにも来てくれてた人がいる」
リナも窓越しに外を見た。
「あの青い帽子の人、前の大阪にもいた」
ハルカが驚いた顔をする。
「あの時の?」
「うん。最前列の端で、ずっと手拍子してた」
当時の客席は、数えられるほどしか埋まっていなかった。ステージから見える顔が少ないからこそ、一人一人が記憶に残ったのだろう。車を降りると、ファンたちは一斉に頭を下げた。
「おかえり」
誰かが言った。大きな声ではなかった。けれど、その一言は、濡れたアスファルトを越えて私たちのところまで届いた。リナが足を止める。
「ただいま」
彼女が返すと、列の中から拍手が起きた。スタッフに促され、私たちは搬入口へ入った。扉が閉じても、外の拍手はしばらく聞こえていた。会場内では、地元スタッフが設営を進めていた。物販台にはツアー限定のタオルとアクリルスタンド、LUMINA HOMEの入会案内が並ぶ。初日のために用意した案内カードは、想定より多めに刷ってある。残りは名古屋と東京へ持っていく。
私は楽屋へ荷物を置くと、ステージ袖で進行表を確認した。そこへ高橋から電話が入った。
『大阪、着いた?』
「今、会場に入りました」
『客席は?』
「百二十、完売です。当日券の問い合わせが四十七件。消防法上、追加はできません」
『最初に来た時は?』
「有料入場が三十二人でした」
電話の向こうで、高橋が短く息を吐いた。
『数字だけ見れば、別のグループみたいだな』
「数字が変わっても、三人は同じです」
『本当に?』
「同じであろうとはしています。ただ、同じではいられません」
『珍しい言い方をするね』
私は客席へ視線を向けた。スタッフが床へ立ち位置のテープを貼り、最後列の柵を確認している。
「さっき、前回の大阪の話をしました。リナが一人で新幹線に乗って帰った夜のことです」
『そんなことがあったのか』
「私が止められなかった」
『今は止められる?』
「止めるだけでは駄目だと分かりました」
高橋はすぐには答えなかった。
『青木さん。現場を守る人間は、事故を起こさないことばかり考える。でも、人は予定表どおりには壊れないし、予定表どおりには立ち直らない』
「分かっています」
『分かってる人の声じゃないな』
苦笑する気配がした。
『今日は、数字より顔を見た方がいい。君は数字を見なくても、もう十分に計算できる』
「高橋さんに言われると、皮肉に聞こえます」
『半分は皮肉だよ。残り半分は忠告』
「覚えておきます」
『終演後にもう一度連絡する。話したいことがある』
「新しい仕事ですか」
『まずは今日を終わらせて』
通話が切れた。楽屋へ戻ると、三人は床に座り、ファンから届いた手紙を読んでいた。大阪の有志がまとめた厚いファイルには、各地の会員から寄せられたメッセージが一枚ずつ綴じられている。
「青木さん、見てください」
ユイが一枚の紙を差し出した。
『ライブハウスへ行けない日も、LUMINA HOMEを開くと、同じ家に帰ってきたような気持ちになります』
地方に住む高校生からの手紙だった。
「発足した時、ファンクラブって、チケットを先に買える場所だと思ってた」
ハルカが言う。
「私も」
リナがファイルを閉じた。
「でも、この人たちは、来られない日にも私たちのことを考えてる」
「だから今日、会場の外にも光があるんだね」
ユイは、搬入口で見た青と白を思い出しているようだった。私は三人へ本番までの予定を伝えた。
「十五時からサウンドチェック。十六時半に一度食事。開場後は楽屋から出ない。終演後の特典会は予定どおり行うけれど、時間を超えそうなら私が止める」
「一人十五秒でしたよね」
「十五秒。握手は禁止。会話とお見送りだけ」
「短い」
ユイが頬を膨らませる。
「百二十人全員と話したら、それでも一時間を超えるわ」
「分かってます」
「喉も体力も残して。明日は東京へ戻るまでが仕事です」
リナが私を見る。
「四人で?」
「四人で」
今度は私も迷わず答えた。
3
サウンドチェックが始まると、会場は急に狭くなった。ハルカの声が壁に当たり、低い天井から返ってくる。ユイがステージ端まで出れば、最前列との距離は手を伸ばせば届きそうなほど近い。リナのターンが鋭すぎると、髪の先が後方のマイクスタンドをかすめた。
「東京や名古屋と同じ幅で動かないで」
リナが二人へ声をかける。
「二番のサビ、ユイは半歩内側。ハルカは後ろへ下がらない。壁に近すぎる」
「了解」
ハルカが立ち位置を確かめる。大きな会場では、空間を埋めるために動きを広げる。小さな会場では、熱を逃がさないために動きを削る。どちらが簡単ということではない。観客との距離が近いほど、わずかな迷いや呼吸の乱れまで見えてしまう。
三人は一曲目のイントロから、すべての動線を組み直した。照明も予定を変更した。大きく見せるための派手なレーザーは使わず、三人の表情が最後列から見える明るさを優先する。曲間の暗転を短くし、客席との呼吸を切らない。
私は音響卓と舞台袖を何度も往復した。
「青木さん」
客席中央で音を確認していると、ハルカがステージから呼んだ。
「最後のMC、少し長くしてもいいですか」
「何を話すの?」
「前に大阪へ来た時のこと」
リナがハルカを見た。
「どこまで?」
「喧嘩の中身までは言わない。うまくいかなくて、帰り道も別々になったこと。今日は同じ場所に戻ってこられたこと」
「私はいい」
リナは即答した。
「ユイは?」
「私も。きれいにしすぎなければ」
ユイの言葉に、ハルカが頷く。
「青木さんは?」
「三人が話したいなら止めない。ただし、誰か一人の失敗にしないこと。あの夜は、全員に言えなかった言葉があった」
「分かりました」
リハーサルを終える頃、開場を待つ列は建物の角を曲がるまで伸びていた。地元スタッフから報告が入る。整理番号順の入場確認は順調。転売の疑いがあるチケットは二件あったが、本人確認で入場を止めた。ファンクラブ会員証をスマートフォンで表示している人が多く、受付の横に置いた入会案内も開場前から減っているという。
私はLUMINA HOMEの管理画面を開いた。会員数は七千五百八十二人。テレビ出演の直後に大きく伸びたあと、ここ数週間はゆるやかな増え方に落ち着いていた。ツアーが始まれば、この線がどう動くのかはまだ分からない。
以前の私は、その増加率をすぐ表へ移し、広告施策と地域別の転換率を計算しただろう。今日は画面を閉じた。高橋の忠告に従ったわけではない。
扉の向こうから聞こえる声が、数字より先に届いたからだ。
「LUMINA!」
「大阪へおかえり!」
まだ開演前なのに、客席から自然にコールが始まっていた。楽屋では、三人が鏡の前に並んでいた。ハルカがリナのイヤリングを直し、リナがユイの衣装の背中に絡んだ髪を払う。ユイは二人の手首へ、青と白の細い糸を結んだ。
「何、それ」
私が尋ねる。
「名古屋でファンの子にもらったミサンガです。切れるまで願いが続くんだって」
「本番中にほどけない?」
「衣装さんに確認済みです」
「ならいいわ」
ユイが私の方へ来て、残った一本を差し出した。
「青木さんも」
「私は袖で目立つから」
「袖の中なら見えないです」
断る理由がなくなった。左手首を差し出すと、ユイが糸を結ぶ。強すぎず、緩すぎない力だった。
「願いは?」
「口にしたら叶わないんでしょう」
「それは誕生日のろうそくです。これは言っても大丈夫」
私は三人を見た。
「全員で帰ること」
リナが息を漏らすように笑った。
「もっと大きい願いにすればいいのに」
「今日の私には、これが一番大きい」
開演五分前を告げる声が廊下に響いた。三人が立ち上がる。ハルカが右手を出した。その上へユイ、リナ、最後に私が手を重ねる。
「東京、名古屋、大阪。最後まで、私たちの音を届けよう」
「はい」
「絶対に」
「行こう」
四人の手が離れる。ステージへ向かう三人の背中を見送りながら、私は左手首の青と白を一度だけ握った。
4
暗転した会場に、息を呑む気配が広がった。一曲目は『夜明け前の境界線』。低いベース音が鳴った瞬間、百二十本のペンライトが一斉に上がった。青と白の光が、天井の低い空間を隙間なく満たす。
ハルカの第一声は、叫びに近いほど強かった。狭い会場では、音は観客の身体に直接ぶつかる。歌声が壁を震わせ、手拍子が床を揺らし、ファンのコールが三人の声へ重なる。空調はすぐに追いつかなくなり、二曲目を終える頃には、ステージも客席も同じ熱気の中にいた。
「大阪、ただいま!」
ハルカが叫ぶ。
「おかえり!」
返ってきた声は、人数以上の厚みを持っていた。ユイが客席を見渡し、最前列の一人を指さす。
「東京にも名古屋にもいたよね!」
指された女性が、口元を押さえて泣いた。その隣では、今日初めて来たらしい若い男性が、周囲の動きを見ながら懸命にペンライトを振っている。後方には親子連れがいた。母親の肩に抱かれた少女が、ユイの振付を小さな手で真似していた。
私は舞台袖で、客席の表情を見た。古くから支えてきた人たちだけではない。テレビで見た人、短い映像から興味を持った人、友人に連れられてきた人。その全員が、曲を重ねるたびに同じ熱の中へ入っていく。
三曲目の『透明な反撃』では、リナのダンスが空気を切り裂いた。ステージの幅は広くない。彼女は大きな移動を抑え、身体の角度と速度だけで空間を変えた。腕を振り下ろすたび、客席のペンライトが同じ軌道を描く。
間奏でリナが一瞬止まる。汗が顎から落ちた。次の拍で踏み込むと、床が鳴った。観客の歓声が爆発する。
あの頃、彼女の踊りを見ていたのは三十二人だった。そのうち何人が、今日ここにいるのかは分からない。けれど、あの時届かなかった壁の向こうまで、今のリナの呼吸は確かに届いていた。
前半を終えたMCで、ユイが客席へ問いかけた。
「今日、LUMINAのライブが初めての人!」
会場の三分の一ほどが手を上げた。
「すごい! 初めまして! 怖くないですからね!」
「ユイが一番怖い」
リナが横から言う。
「なんで?」
「開演前、たこ焼き八個食べたあとに、まだ食べられるって言ってた」
「大阪だから!」
客席から笑いが起きる。ハルカが続けた。
「じゃあ、前から私たちを知ってくれてる人!」
残りのペンライトが上がった。
「ずっと支えてくれて、本当にありがとう。初めての人も、前からの人も、今日ここにいる間は同じです。遠慮しないで、一緒に声を出してください!」
次の曲が始まる。初参加の観客も、隣を見ながら声を上げた。古参のファンは前へ出すぎず、後ろへ振りを伝えている。誰かが輪の中心を独占するのではなく、熱を分け渡していた。
その光景に、私はファンクラブ発足時の話し合いを思い出した。囲い込む場所にはしない。古いファンが偉くなる場所にも、新しいファンが遠慮する場所にもしない。
LUMINA HOMEという名前に込めた意味が、今、客席で形になっていた。中盤、ハルカのイヤーモニターに一瞬ノイズが入った。彼女の眉がわずかに動く。
私は音響スタッフへ合図を送った。予備回線へ切り替えるまで、二秒。その間にリナが半歩前へ出て、ハルカのパートへ薄く声を重ねた。ユイも振付の向きを変え、三人が自然に寄る形を作る。
ハルカの音が戻る。客席のほとんどは、トラブルに気づかなかっただろう。以前なら、リナは終演後に原因を問い詰めていたかもしれない。今の彼女は、まず隣の声を支えた。失敗を許したのではない。失敗が起きた瞬間に、誰かを一人にしなかった。
ハルカが歌いながらリナを見る。ほんの一瞬、二人が頷き合った。後半に入ると、会場の熱はさらに上がった。タオルが回り、床が揺れ、天井から細かな埃が照明に浮かぶ。ユイは最前列だけでなく最後列へ何度も手を伸ばした。リナはカメラではなく、一人一人の目を見るように踊った。ハルカの歌声は、疲労でわずかに掠れながらも、その掠れさえ感情へ変えていた。
本編最後の曲が終わる。三人が深く頭を下げ、ステージを降りた。暗い袖へ入った瞬間、ユイが膝に手をついた。
「暑い……でも、すごい」
ハルカも息を切らしている。
「声が、ずっと近い」
リナはタオルで汗を拭きながら、客席の音へ耳を澄ませた。
「まだ終わってない」
会場からアンコールが起こっていた。最初はばらばらだった声が、次第に一つへ揃っていく。
「LUMINA! LUMINA!」
床を通じて、足の裏へ響いた。
「行ける?」
私が尋ねる。
「もちろん」
ハルカが答えた。三人が再びステージへ出る。その瞬間、客席の色が変わった。前方から後方へ、青い光が波のように広がる。その中へ白い光が一列ずつ浮かび、やがて会場全体に大きな三本の光の道ができた。
三人の立ち位置へ向かって伸びる道だった。ユイが口元を押さえる。
「何、これ……」
ハルカは言葉を失い、リナは客席を見たまま動かなかった。後方のスクリーンに、一行の文字が映し出された。
『離れた夜も、帰る場所は同じ』
大阪のファン有志が、運営と相談して準備した企画だった。私は概要だけ聞いていたが、完成した光景までは知らされていなかった。青い光は、三人が歩いてきた夜。
白い光は、その先に見つけた場所。最前列のファンが声を上げた。
「おかえり!」
今度は百二十人全員が続いた。
「おかえり!」
ハルカの頬を涙が伝った。
「ただいま」
震える声で返す。ユイも泣きながら手を振った。
「ただいま!」
リナだけは、しばらくマイクを下ろしたままだった。客席の中に、あの頃から知っている顔を見つけたのだろう。青い帽子の男性が、何度も頷きながら白いペンライトを掲げている。
リナは一度、目を閉じた。
「前に大阪へ来た時」
マイクを持つ手が、わずかに震えていた。
「私は、みんなと一緒に帰れませんでした」
会場が静かになる。
「ライブがうまくいかなくて、悔しくて、怖くて。でも、怖いって言えなくて、きつい言葉をぶつけました。それから一人で新幹線に乗って帰りました」
ハルカとユイが、リナの両側へ立つ。
「窓に映る自分を見ながら、もう終わったかもしれないって思ってた。自分で離れたのに、置いていかれた気持ちになってた」
リナは息を吸った。
「今日、ここへ来る車の中で、あの夜の話をしました。忘れたふりをしないで、誰が何に傷ついたのか、やっと話せました」
客席のあちこちで、涙を拭う姿が見える。
「あの時の私は、強くなければ一人になると思ってました。でも違った。弱いって言えない時の方が、人は一人になります」
リナがハルカの手を握る。反対側では、ユイがリナの腕へ自分の腕を絡めた。
「今夜は、三人でステージを降ります。青木さんも一緒に、四人で帰ります」
舞台袖へ、客席の視線が集まった。私は思わず一歩下がったが、ユイがこちらへ手招きをしている。
「青木さん、見えてますからね!」
笑いと拍手が起こった。仕方なく、袖から片手だけを上げる。左手首の青と白の糸が、照明を受けた。
「最後の曲です」
ハルカが涙を拭き、前を向く。
「ここにいる人も、今日は来られなかった人も、私たちを待っていてくれるすべての人へ歌います。『帰る場所の灯り』」
静かなピアノが流れた。最初の一節をハルカが歌い、次をユイが受け取る。リナの低い声が重なり、三つの声が一つになる。客席は誰も叫ばなかった。
青と白の光だけが、ゆっくりと揺れている。最後の音が消えたあと、一秒ほどの完全な静寂があった。それから、壁が押し返してくるような拍手が起きた。
三人は手を繋ぎ、深く頭を下げた。
「ありがとうございました! LUMINAでした!」
扉が閉じても、拍手は鳴り止まなかった。
5
楽屋へ戻った三人は、しばらく誰も話さなかった。椅子に座る者もいない。狭い部屋の中央で、三人は肩を寄せたまま立っていた。汗と涙で化粧は崩れ、髪も乱れている。それでも、ステージに出る前より表情は澄んでいた。
「帰ってきた」
ユイが言った。
「まだ大阪よ」
リナが返す。
「そういう意味じゃない」
「分かってる」
ハルカが二人を抱き寄せた。
「おかえり」
「ただいま」
三人の声が重なる。私はテーブルに水とタオルを並べた。
「感傷に浸るのは水分を取ってから。十分後にお見送りです」
「青木さん、今くらい泣いてもいいじゃないですか」
ユイが言う。
「泣くと脱水が進む」
「そういうところです」
リナがボトルを一本取り、ユイへ渡した。
「でも、青木さんも泣いてた」
「泣いてない」
「袖の照明でも分かりました」
「汗よ」
「青木さん、踊ってないですよね」
ハルカまで加わり、三人が笑う。私は反論をやめた。お見送りでは、十五秒という時間が何度も伸びそうになった。前回の大阪にも来ていた青い帽子の男性は、リナの前で立ち止まり、言葉を探していた。
「ずっと……待ってました」
ようやく、それだけを口にした。リナは深く頭を下げた。
「待っていてくれて、ありがとうございます」
「あの時も、今日も、来てよかったです」
「次は、待たせません」
スタッフが終了を告げても、男性は何度も頭を下げながら出口へ向かった。初めて来たという女子高校生は、ユイの前で泣き出した。
「テレビで見て、学校で嫌なことがあった日に動画を見て……今日、一人で来ました」
「一人で来てくれたの?」
「はい。でも、中で隣の人が振りを教えてくれて、一人じゃなかったです」
ユイは柵越しに、胸の前で両手を握った。
「また帰ってきてね」
「はい」
ハルカの前には、母親と少女が立った。
「娘が毎日、『帰る場所の灯り』を歌うんです」
母親が言う。少女は恥ずかしそうに母親の後ろへ隠れている。
「一緒に歌ってくれてありがとう」
ハルカが目線を合わせるように腰を落とすと、少女は小さな声で答えた。
「大きくなったら、歌う人になる」
「待ってるね」
百二十人を見送る頃には、一時間以上が過ぎていた。最後の一人が出口を出ると、スタッフから拍手が起きた。三人はもう一度頭を下げ、楽屋へ戻った。
その時、物販担当のスタッフがタブレットを抱えて駆け込んできた。
「青木さん、LUMINA HOMEの数字、見ましたか」
「開演前に一度」
「今、更新してください」
管理画面を開く。表示された会員数は、八千二十八人。
開演前から四百四十六人増えていた。
「こんなに?」
ハルカが画面を覗き込む。
「今日の公演だけで?」
「大阪公演の感想が広がっています。曲名や演出の詳しい投稿は禁止ですが、『帰る場所ができた』『次は自分も行きたい』という言葉が多くて。会場に来られなかった人の入会が増えています」
スタッフが説明する間にも、数字が一つ増えた。八千二十九人。さらに一つ。八千三十人。
ユイが息を呑む。
「今、この瞬間にも、誰かが入ってくれてる」
「東名阪ツアーを発表した時は六千二百十一人でした」
私は画面を見ながら言った。
「大阪の一公演だけで、四百五十人近く増えたことになる」
「四百五十人」
ハルカがゆっくり繰り返す。
「今日の会場が、八個以上埋まる人数だ」
「人数だけで考えない方がいい」
リナが言った。
「八千人に、それぞれ生活がある。仕事が終わってから入った人も、親に相談して入った人も、何かを諦めて会費を払った人もいる」
「うん」
ユイが頷く。
「数字なのに、顔が見えるね」
私は画面を閉じなかった。増えていく数字の向こうに、今日の客席が重なって見えた。初めて声を出した人。あの頃から待っていた人。一人で来て、隣の誰かと振付を覚えた人。会場には来られなくても、同じ夜に入会ボタンを押した人。
ファンクラブを作る時、私は継続収益と動員予測を考えていた。それは必要なことだった。
だが、それだけではなかった。人が帰る場所を選ぶ時、そこには金額では測れない信頼がある。その信頼を、月額会費という数字だけに置き換えてはいけない。
「青木さん」
リナが私を見た。
「今日は数字、見ていいんですか」
「今日は顔と一緒に見る」
「高橋さんに何か言われた?」
「どうして分かるの」
「青木さんが自分から考え方を変える時は、大抵、高橋さんと話したあとだから」
私は左手首を見た。青と白の糸は、まだ切れていない。
6
会場を出たのは、日付が変わる少し前だった。雨は完全に上がっていた。搬入口の外にファンの姿はなく、濡れた道路だけが街灯を映している。スタッフが機材を積み終え、最後に私たちの荷物をハイエースへ入れた。
「ホテルまで、私が運転します」
キーを取り出すと、ハルカが助手席のドアを開けた。ユイとリナは後部座席へ乗り込む。昼と同じ席だった。
「全員いる?」
私が尋ねる。
「ハルカ、います」
「ユイ、います」
「リナ、います」
「青木、います」
四人分の声が揃う。エンジンをかけると、車内に低い振動が広がった。ホテルまでの道は、それほど遠くない。大阪の夜はまだ明るく、飲食店の看板と車のライトが、濡れた路面で混ざり合っていた。
ユイが管理画面を更新する。
「八千六十五人」
「さっきから三十七人増えた」
リナが言う。
「見すぎ。青木さんみたいになるよ」
「それ、悪口?」
私は前を向いたまま尋ねた。
「尊敬です」
「間が長かった」
ハルカが笑う。信号で車が止まった。横断歩道を、青と白のツアータオルを肩に掛けた二人組が渡っていく。こちらには気づかず、楽しそうに何かを話していた。一人が今日の振付を真似し、もう一人が笑っている。
ライブハウスの扉は、もう閉じている。それでも、そこで生まれた熱は消えていなかった。人から人へ渡り、街の中へ運ばれ、会場へ来られなかった誰かの画面まで届いている。百二十人の声が壁を越え、八千人の帰る場所を少しずつ広げていた。
「三千人の会場って、どれくらい広いんだろう」
ユイが呟く。
「今日の十倍以上」
リナが答える。
「数字じゃなくて」
「最後列の顔は、たぶん肉眼ではよく見えない」
ハルカが窓の外を見ながら言う。
「でも、声は聞こえると思う」
「こっちの声も届くかな」
「届かせるんだよ」
リナの言葉に、ユイが「そっか」と小さく答えた。私は信号が青へ変わるのを待った。
「大きな会場へ行くことが、遠くなることとは限らない」
三人がこちらを見る。
「今日、最後列にいた人まで同じ熱を感じられたのは、距離が近かったからだけじゃない。三人が前だけを見なかったからよ。次も同じ。見えにくいなら、見える方法を考える。声が届きにくいなら、届く形を作る」
「青木さん、もうやる気になってます?」
ユイが尋ねる。
「検討しているだけ」
「それ、やる時の顔です」
「資料を見てから」
「やる時の言い方です」
「ユイ」
「はい」
返事だけは素直だった。信号が青に変わる。車を走らせると、後部座席から小さな歌声が聞こえた。ユイが『帰る場所の灯り』を口ずさみ、ハルカが低く重ねる。少し遅れて、リナも加わった。
三つの声は、エンジン音に消えそうなほど小さい。それでも、私にははっきり聞こえた。ホテルの前へ着き、エンジンを止める。誰もすぐには降りなかった。
「着いたわよ」
「うん」
ハルカが返事をする。
「降りないの?」
「もう少しだけ」
ユイが言った。リナは窓の外を見ていた。雨粒の残ったガラスに、四人の顔が薄く映っている。
「前は、新幹線の窓に自分しか映ってなかった」
その声は穏やかだった。
「今日は、ちゃんと全員いる」
「明日もいるよ」
ユイが言う。
「東京に戻っても」
ハルカが続ける。
「三千人の前に立つことになっても」
リナは二人を見て、それから私を見た。
「青木さんも?」
「私はステージには立たない」
「そういう意味じゃないです」
「分かってる」
私は答えた。
「いるわ。袖でも、客席の後ろでも。必要な場所に」
リナが頷く。四人で車を降りた。ホテルの自動ドアへ向かう途中、ユイが振り返り、ハイエースを見た。
「明日も四人で帰るんですよね」
「何度確認するの」
「約束は、何度確認してもいいんです」
私は車のロックを確かめた。
「ええ。四人で帰る」
大阪の夜気は、雨上がりの匂いがした。前に来た夜と同じ匂いだった。
けれど、もう同じ夜ではなかった。誰かが先に歩き、誰かが遅れるたび、残りの者が足を緩めた。三人と私の影が、ホテルの灯りの下で重なり、また離れ、同じ方向へ伸びていく。
小さなライブハウスで受け取った百二十人の声。増え続ける八千人の帰る場所。三都市のうち、まだ一つを終えただけだった。
7
大きな荷物は別の機材車へ積んでいる。車内にあるのは、三人の着替えと飲み物、軽食、LUMINA HOMEへ届いた名古屋のファンからの手紙だけだった。
「本当に名古屋まで行くんですね」
ユイが窓の外を見ながら言った。
「発表した時から決まっていたでしょう」
私が答える。
「分かってます。でも、大阪公演が終わるまでは、まだ予定表の中の話みたいに感じてました」
「今は?」
「道路が、ちゃんと名古屋までつながってるんだなって」
「当たり前でしょ」
リナが言った。
「そういう意味じゃないよ」
ユイは、座席の上に置かれた手紙の束を見た。
「この先に、私たちを待ってる人がいるんだなって思ったの」
ハルカが一通の封筒を手に取る。差出人の住所は名古屋市内だった。
「公演前に読んでもいいのかな」
「三人が読みたいなら」
私はバックミラー越しに答えた。
「ただし、全部読まなくてもいい。今は移動の時間だから、眠りたければ眠って」
「一通だけ読もう」
ハルカが封を開けた。手紙を書いたのは、およそ一年前、LUMINAが名古屋の対バンライブへ出演した時に、偶然客席にいた女性だった。
その日は別のグループを目当てに来ていた。LUMINAの名前も、曲も知らなかった。
それでも、観客の少ない前方へ向かって、三人が汗だくで歌う姿が心に残った。終演後、物販へ行く勇気は出なかった。SNSを探してフォローしたものの、東京のライブへ遠征する余裕はなく、画面の向こうから応援することしかできなかった。
それでも、三人が再び名古屋へ来る日を待っていた。手紙の最後には、こう書かれていた。あの日、客席の端にいた私のことを、三人は覚えていないと思います。
それで構いません。私が三人を覚えています。あの日から今日まで、LUMINAの歌が、何度も私の日常に寄り添ってくれました。今度は、名前を呼ぶために会いに行きます。
ハルカが読み終えると、車内が静かになった。
「覚えてない」
ユイが、申し訳なさそうに言った。
「最初の名古屋遠征、どの会場だったかは覚えてる。でも、客席にいた人の顔までは……」
「覚えてなくてもいいって書いてある」
リナが言う。
「でも、今度は見つけたい」
「どうやって?」
「分からない。手紙を書いてくれた人ですかって、全員に聞くわけにもいかないし」
ハルカは便箋を丁寧に封筒へ戻した。
「見つけられなくても、その人が客席のどこかにいると思って歌おう」
「うん」
ユイが頷く。
「大阪で見た人の顔を、名古屋へ持っていく。名古屋では、また新しい顔を覚える」
「それを大阪まで持っていく」
リナが続けた。三つの街を、ただ順番に回るのではない。大阪で受け取った熱を名古屋へ運び、名古屋で受け取ったものを東京へつなぐ。
『LIGHTS ON THE ROAD』という名前に込めた意味が、車の中で初めて本当の形を持ったように感じられた。
「青木さん」
ハルカが運転席へ身を乗り出した。
「今回も、前に名古屋へ行った時と同じ道ですか」
「大きくは同じよ」
「覚えてます?」
「もちろん」
東京を出た時には、全員が緊張していた。ライブの持ち時間は短く、LUMINAを目当てに来る観客がいるかどうかも分からなかった。高速代とガソリン代を少しでも抑えるため、大類は何度も経路を確認していた。
サービスエリアでは、三人が一番安い食事を選んだ。帰りの車内は静かだった。ライブを失敗したわけではない。
しかし、名古屋まで来ても、ほとんど誰にも見つけてもらえなかった。自分たちの歌が、この街へ届く日は来るのだろうか。三人の横顔には、そんな不安が浮かんでいた。
「前に来た時、私、帰りの車で泣いたんですよね」
ユイが言った。
「声を出さないようにしてたけど、青木さんには気づかれてた?」
「気づいていたわ」
「何も言いませんでしたよね」
「何と言えばいいか、分からなかったから」
あの頃の私は、次の戦略を考えることでしか三人を支えられなかった。名古屋で反応がなければ、大阪で変える。短い映像を投稿する。フライヤーの文章を直す。
次はもっと目立つ衣装にする。方法を示すことが、励ますことだと思っていた。
「今なら、何て言いますか」
ユイが尋ねる。
「悔しかったね、と言うと思う」
「それだけ?」
「それだけでいい時もあると、今は知っているから」
ユイは、少し笑った。
「今度は、帰りに泣かないかな」
「泣くかもしれないわ」
「成功しても?」
「嬉しくても泣くでしょう」
「確かに」
三人が笑った。高速道路へ入る頃、東の空が少しずつ明るくなり始めた。車内の会話も、いつしか途切れた。ハルカは窓へ頭を預け、ユイは毛布にくるまり、リナは腕を組んだまま目を閉じている。
私は速度を一定に保ちながら、西へ続く道を走った。助手席に置いた業務用のスマートフォンが震えた。高橋からの着信だった。通話を車内スピーカーへつなぐ。
「おはようございます」
『もう出たのか』
「予定どおりです」
『三人は』
「眠っています」
後部座席から、リナの声が聞こえた。
「起きてます」
続いてハルカ。
「私も聞いてます」
ユイだけは、本当に眠っているようだった。
『大阪公演の最終報告が出た』
「緊急の問題は?」
『ない。来場者アンケートも、概ね好意的だ』
「概ねということは、何かありましたか」
『入場の集合時間が細かく、分かりにくかったという意見が数件。休憩時間に、後方では三人の声が聞き取りにくかったという指摘もある』
「名古屋では改善します」
『現場担当へ共有済みだ。集合時間の表示を簡略化し、休憩中も三人が話す場合は、マイク音量を調整する』
「ありがとうございます」
『青木君』
「はい」
『大阪の成功を、名古屋で再現しようとするな』
その言葉に、私は前方の道を見つめた。
「分かっています」
『大阪のファンと、名古屋のファンは違う。会場も、客席の空気も違う。大阪と同じ反応を求めれば、目の前のものを見失う』
「今の名古屋にいる人へ、今のLUMINAの歌を届けます」
『それならいい』
「高橋さんは、いつ来るのですか」
『名古屋公演の開演前には入る』
「新幹線ですか」
『当然だ』
「私たちは車です」
『機材と手紙を運ぶ必要があるのだろう』
「高橋さんも、道路で光をつないだらいかがですか」
『私は仕事をしながら移動する』
「逃げましたね」
リナが後部座席から言った。高橋が一瞬黙る。
『誰だ』
「リナです」
『聞いていたのか』
「最初から起きてるって言いました」
『名古屋で話そう』
通話が切れた。
「絶対、逃げましたね」
リナが言う。ハルカが笑った。ユイは、三人の声にも目を覚まさず眠っている。車は、大阪の街を離れていった。
ビルが減り、視界が少しずつ開ける。遠くの山には、冬の白い光が差していた。途中のサービスエリアで休憩を取った。三人が目を覚まし、温かい飲み物を買う。
以前は値段を見て一番安いものを選んでいた。今日は、それぞれが飲みたいものを選んだ。ハルカはコーヒー。リナは温かいお茶。
ユイはココア。私は、味噌汁を買った。
「青木さんだけ、朝ご飯みたい」
ユイが言う。
「身体が温まるから」
「一口ください」
「自分のココアがあるでしょう」
「甘いのを飲んだら、しょっぱいものが欲しくなりました」
結局、四人で少しずつ分けた。休憩を終え、再び車へ乗る。今度はユイも眠らず、名古屋から届いた手紙を読んだ。ライブへ初めて行く大学生。
仕事を休めず、会場には来られない会社員。母親と参加する高校生。最初の名古屋遠征で、対バンライブを見た人。東京まで何度も遠征していた人。
それぞれが、同じ街で三人を待っている。
午後、名古屋の街並みが見え始めた。高いビル。複雑に交差する道路。駅へ向かう車の流れ。
三人が窓の外を見る。
「帰ってきた、って言っていいのかな」
ユイが呟く。
「住んでいたわけではないけど」
ハルカが答える。
「でも、前にも来た街だから」
リナが、窓の向こうを見たまま言う。
「帰ってきたでいいと思う」
私はハンドルを握り、名古屋の中心へ車を進めた。大阪で受け取った百二十人分の熱は、三人の中にある。今度は、それを名古屋へ渡す。そして、この街から受け取った新しい光を、東京まで運ぶ。
「名古屋へ着きました」
私が告げると、三人が顔を上げた。
「ただいま、名古屋」




