第22章 もう一度、同じ街へ
1
全国放送への初出演を終えた翌朝、私は午前九時に目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む光は、もう十分に明るかった。いつもなら、何か大きな仕事があった翌日は、夜明け前から数字を確認していた。
番組放送中の検索数。公式サイトへの流入。楽曲の再生数。ファンクラブへの入会者数。
SNSで使われている言葉。好意的な反応と否定的な反応の割合。動画のどの部分が切り取られ、どの層へ届いているか。以前の私なら、三人が眠っている間にすべてを一覧へまとめ、次の戦略まで考えていただろう。
だが、今朝は業務用のスマートフォンを手に取らなかった。高橋から、緊急対応が必要な問題は起きていないと報告を受けている。それなら、数字は逃げない。
私はベッドから起き、顔を洗った。台所へ行き、朝食を作る。パンを焼き、卵を一つ茹でる。コーヒーだけで済ませず、椅子に座って食べた。
自分が休むことも、四人で作った約束の一つだった。
午前十時を過ぎた頃、三人のグループメッセージが動いた。最初に送ってきたのはユイだった。
『起きました』
続いて、ハルカ。
『私も今起きました。身体が重いです』
最後に、リナ。
『起きてるけど、ベッドから出たくない』
私は少し考え、返信した。
『今日はレッスンも打ち合わせもありません。食事を取って、身体を休めてください』
すぐにユイから届く。
『青木さんは数字、見ましたか』
『まだ見ていません』
数秒間、返信がなかった。
やがてハルカから届く。
『本当に青木さんですか』
『本人です』
『誰かにスマホを奪われてませんか』
『奪われていません』
リナからも届く。
『高橋さんに見るなと言われた?』
『自分で決めました』
しばらくして、三人から拍手の絵文字が並んだ。私が数字を見ないことが、これほど驚かれるとは思わなかった。もっとも、三人が驚くのも無理はない。
数字を確認することは、私にとって呼吸に近かった。確認しなければ、何か大切なものを見落とすような気がした。
だが、数字を見ることそのものが問題なのではない。数字を見た瞬間、自分一人で次の行動を決め、三人をそこへ向かわせようとすることが問題だった。
午後一時。四人でテレビ出演の映像を確認することになった。三人のアパートへ集まり、テーブルの上にノートパソコンを置く。その前に、近所で買ってきた弁当を食べた。
「今から自分たちのテレビを見ると思うと、味がしません」
ユイが言った。
「食べ終わるまで再生しないから、ゆっくり食べて」
「でも、早く見たい気持ちもあります」
「さっきは見たくないって言ってたじゃん」
リナが指摘する。
「見たくないけど、見ないのも怖いの」
「分かる」
ハルカも頷いた。三人は落ち着かない様子だったが、弁当をほぼ食べ切った。食後、私は確認の方法を説明した。
「最初は一度、止めずに最後まで見る。その後、見直したい部分があれば、三人から言って。私から改善点を伝えるのは、最後に一つずつだけにする」
「一つだけ?」
リナが尋ねる。
「気になるところ、もっとあると思います」
「初出演の翌日に、すべて直そうとしない。一人一つで十分よ」
「青木さん自身は、何個見つけても言わないんですか」
「言わないわ」
リナは半信半疑の表情だった。私は番組の公式配信を開いた。再生ボタンへ指を置く。
「準備はいい?」
三人が頷く。映像が始まった。司会者の紹介。三人が画面に映る。
最初の挨拶が、わずかにずれている。ユイが顔を覆った。
「もう駄目」
「まだ五秒です」
私は映像を止めなかった。ハルカの答え。ユイの沈黙。画面越しに見る三秒は、やはり長かった。
ユイの表情が強張り、ハルカが隣から見守り、リナも身体をわずかにユイへ向ける。そして、ユイが自分の言葉を話し始める。
「こんな顔してたんだ」
ユイが呟いた。
「もっと、ひどい顔だと思ってました」
「少し怖そうには見える」
リナが言う。
「でも、逃げてるようには見えない」
リナの短い言葉。曲紹介。照明が変わる。
『真夏のミッドナイト・ブルー』が始まった。
三人とも、自分の姿より、隣にいる二人を見ていた。ハルカは、ユイの目線が遅れたところで小さく息を呑む。リナは、三人の手が揃わなかった瞬間に眉を寄せた。
ユイは、クレーンカメラを見上げて声が途切れた場面で、膝の上の手を強く握った。だが、誰も映像を止めようとは言わなかった。ハルカがユイの歌を支える。
リナが立ち位置を変える。ユイが次の呼吸を取り戻す。三人の声が、最後のサビで重なる。照明が白へ変わり、楽曲が終わった。
画面の中の三人が頭を下げる。映像が次の場面へ移ったところで、私は再生を止めた。部屋に静けさが残った。
「どうだった?」
私は尋ねた。すぐに答えは返ってこなかった。ユイは膝の上に置いた両手を見つめている。ハルカは画面を閉じたノートパソコンへ視線を向けたまま動かない。
リナは腕を組み、何かを考えていた。
「私、歌えてなかった」
ユイが最初に言った。
「一音だけね」
「一音でも、全国に流れました」
「そうね」
私は否定しなかった。
「でも、二人が入ってくれた」
ユイはハルカとリナを見る。
「練習してたことじゃないのに」
「入った方がいいと思ったから」
ハルカが答える。
「ユイが戻ってくるまで、つなげようと思った」
「私も、位置を変えた」
リナが言う。
「本当は左に残る振付だった。でも、ユイの横が空いてるように見えたから」
「二人とも、怖くなかったの?」
「怖かったよ」
ハルカが小さく笑った。
「私まで歌えなくなったらどうしようって思った。でも、考えてる時間はなかった」
リナが画面を指した。
「ここ、もう一度見たい」
私は言われた場所まで映像を戻した。ユイの手が遅れ、リナとハルカが合わせた場面。三人で見直す。映像の中では、誰かが間違えたようには見えなかった。
わずかな時間差が、むしろ三人の手が順番に光を渡しているようにも見える。
「予定より、こっちの方がきれいかも」
リナが呟いた。
「練習では、三人同時だったよね」
「うん。でも、順番に伸ばして、最後に揃える振付にもできる」
リナの目に、すぐ新しい動きを考え始める光が浮かぶ。
「今日は直さないわよ」
私は先に言った。
「分かってます」
返事はしたが、リナの指先はすでに膝の上で動いていた。
「リナの改善点は、何?」
私は尋ねた。
「肩に力が入ってる。ERI先生にも言われた。特に最初のサビ。テレビ用に小さく動こうとして、逆に上半身が固くなってる」
「ハルカは?」
「ユイを気にしすぎて、最初の歌詞が少し弱いです。心配するのはやめられないけど、自分の歌まで小さくしないようにしたい」
「ユイは?」
ユイは少し考えた。
「赤いランプを探さない」
「探さない?」
「見失った時、どこって思った瞬間に、歌が分からなくなりました。最初から、見る場所を一つだけにした方がいいと思います」
三人とも、自分の改善点を一つ選んだ。私は最後に、自分から伝えることを決めた。
「三人へ共通して一つだけ。昨日のように予定から外れた時、元へ戻そうと急がないで。三人で変わったなら、それがその瞬間の正解になることもある」
「間違いを、そのままにするってことですか」
ハルカが尋ねる。
「間違いを隠そうとして、もっと大きく崩れないようにするということ。昨日の三人は、元の振付へ戻ろうとせず、今できる形へ変えた。それで歌が続いた」
三人は映像の最後の場面をもう一度見た。
「失敗したのに、終わらなかった」
ユイが言う。
「失敗したから、二人が近くに来てくれた」
「失敗しないのが一番だけどね」
リナが答える。
「でも、失敗した時に終わらない方法は分かった」
ハルカがユイの肩に手を置いた。ユイは少し笑った。
「もう一回、最初から見てもいいですか」
「今日は、一度だけという話では?」
「最初は、自分の失敗しか見られなかったから。今度は、三人を見たいです」
私は頷き、再び映像を最初へ戻した。二度目は、誰も顔を覆わなかった。ユイの沈黙も、歌の空白も、そのまま見た。三人が互いを見つけ、支え、最後まで立った姿を見た。
映像が終わった時、ユイが静かに言った。
「昨日の私たち、嫌いじゃないです」
ハルカが頷く。
「私も」
リナは少し迷ってから答えた。
「次は、もっとよくできる」
それは、今の三人が言える最大限の肯定だった。
2
午後三時、高橋が事務所へ到着した。東名阪ツアーについて話す前に、五人で食事をすることになっていた。ユイが車内で言い出した規則を、高橋は本当に守った。
会議室のテーブルには、大類が手配した弁当が六つ並んでいた。
「六つ?」
高橋が数を見て尋ねる。
「私も参加するに決まってるでしょう」
大類が答える。
「社長の俺を外して、ツアーの話なんかできるか」
「車では、五人で話すと聞いていたが」
「会社の最高責任者を忘れるな」
結局、六人で食事をすることになった。高橋は焼き魚弁当を選んだ。ユイは、それを見て少し驚いた。
「高橋さん、もっと高そうなものを食べると思ってました」
「会議前の食事に、値段は関係ない」
「フランス料理とか」
「この時間からフランス料理を食べていたら、話が始まる前に夜になる」
「高橋さんも、お味噌汁飲むんですね」
「私を何だと思っている」
「レコード会社の偉い人」
「偉い人間も味噌汁は飲む」
ハルカが笑い、大類も加わる。張りつめた会議になると思っていたが、食事の間は穏やかな時間が流れた。私は高橋が食べる速さを見て、少し意外に思った。
私と同じくらい早い。以前なら気づかなかったかもしれない。
「高橋さん」
「何だ」
「食べるのが早すぎます」
高橋の箸が止まる。
「君に言われたくはない」
「最近は、ゆっくり食べています」
「それは進歩だな」
「高橋さんも、もう少し時間をかけてください」
「私は君たちの約束には入っていない」
「仕事の話をする人には適用されます」
ユイが言う。高橋は、三人と私を順番に見た。
「面倒な規則を作ったものだ」
そう言いながらも、味噌汁の椀をゆっくり置いた。食事を終え、弁当の容器を片づける。六つのカップに飲み物を用意し、ようやく仕事の話が始まった。
高橋が大型モニターへ資料を映す。
「昨日のテレビ出演について、簡単に報告する」
画面には、放送前後の検索数と楽曲再生数の変化が表示された。LUMINAの検索数は、歌唱直後から急激に増加している。公式サイトへのアクセス。
楽曲配信ページへの移動。LUMINA HOMEへの新規入会。すべてが、これまでにない数字を示していた。
「すごい……」
ユイが呟く。
「これ、全部、昨日の放送を見た人ですか」
「すべてが初めて知った人とは限らない。以前から知っていたが、昨日初めて検索した人もいる。ただ、テレビ出演の影響であることは間違いない」
「歌が止まったのに」
「それを問題視する反応は、ごく一部だ」
高橋が画面を切り替える。好意的な言葉が多く使われている。三人の歌。支え合う姿。
LUMINA HOME。初出演。もう一度見たい。
『真夏のミッドナイト・ブルー』
その中に、ユイの三秒の沈黙へ触れたものもあった。緊張している姿が伝わった。自分の言葉で話そうとしていたのがよかった。急かさず待った司会者も素敵だった。
三人の空気が温かかった。
「失敗したと思った部分が、悪い反応だけを生むわけではないんですね」
ハルカが言った。
「視聴者は、技術的な完成度だけを見ているわけではない」
高橋が答える。
「ただし、毎回同じことが許されると思わない方がいい。初出演の緊張は一度しか使えない。次に出る時は、前回より成長した姿を求められる」
「分かっています」
リナが答えた。高橋は、次の資料へ移った。日本地図。東京、名古屋、大阪に印がついている。
「昨日も話したとおり、次はテレビの向こうにいた人たちへ、直接会いに行く」
画面に、会場名が二段に分かれて表示された。上段は、大阪、名古屋、東京の小さなライブハウス。下段には、同じ三都市の、二千人規模のホールが並んでいる。
「二段構えにする」
高橋が言った。
「まず小規模公演で三都市を回る。二月だ。それから半年かけて準備して、同じ三都市を、今度は二千人のホールで回る。夏の終わりから秋にかけて」
「順番は」
「どちらも同じだ。大阪、名古屋、東京」
私は地図を見た。西から東へ、線が一本引かれている。
「東京を最後にする理由は」
「一番遠くまで行った三人が、最後に帰ってくる場所だからだ」
いずれの会場も交通の便がよく、音響設備が整っている。現在は十一月。小規模公演までの準備期間は約三ヶ月、ホールまでは約十ヶ月ある。
「二月は、土曜日に大阪、翌週金曜日に名古屋、その翌週土曜日に東京。移動と休養を考慮し、都市の間は一週間空ける」
高橋は収支の試算を示した。会場費。舞台制作費。照明と音響。
スタッフの人件費。移動費。宿泊費。グッズ製作費。
チケットが七割売れれば、損益分岐点を越える。テレビ出演後の反響と、LUMINA HOMEの会員数を考えれば、十分に現実的な規模だった。
「これが、東名阪ツアーの基本案だ」
大類が身を乗り出す。
「二千人が三つ! 全部埋まったら六千人ですよ!」
「そっちは十ヶ月先の話です」
私が言うと、社長は不服そうにこちらを見た。
「夢を見るくらいいいだろう」
「見るのは自由です。ただ、その前に百二十人の会場があります」
「ついにLUMINAも、三都市でホールツアーか」
大類は興奮を隠せない様子だった。ハルカは資料を見つめている。ユイは、会場の写真を一枚ずつ確認していた。リナは、地図に表示された三つの印を見ていた。
「どう思う?」
私は三人へ尋ねた。
「大きいですね」
ユイが答える。
「テレビのスタジオより、ずっと多い」
「テレビは、画面の向こうに何人いるか見えなかった。今回は客席に全員いる」
「怖いです」
ユイは正直に言った。
「でも、行きたい気持ちもあります」
ハルカが資料の名古屋と大阪を指した。
「以前、私たちが行った時は、もっと小さいライブハウスでした」
地下時代、三人はハイエースで何度も遠征した。名古屋では、出演者の多い対バンライブに参加した。与えられた時間は二十分。客席にLUMINAを知る人は、ほとんどいなかった。
大阪では、駅から離れた小さなライブハウスに出演した。物販で売れたチェキ券より、往復の高速代の方が高かった。帰りの車内で、大類が何度も電卓を叩いていたことを覚えている。
「同じ街へ、今度はこの会場で戻るんですね」
ハルカの声には、感慨と不安が混じっていた。
「そうだ」
高橋が答える。
「今のLUMINAなら、勝負できる」
リナが、資料から顔を上げた。
「各都市、一公演だけですか」
「そうだ」
「小さいライブハウスでは、やらないんですか」
高橋の眉が動いた。
「なぜ、今さら小さい場所へ戻る必要がある」
「戻るんじゃなくて、会いに行きたいです」
リナは地図を見た。
「前に名古屋へ行った時、客席に五人くらいしか私たちを見てる人がいなかった。その人たちが、今も応援してくれてるかは分からない。でも、その街で少しずつ知ってくれた人がいたから、今があります」
「大きな会場でも会える」
「遠いです」
「客席との距離が?」
「距離もある。でも、それだけじゃない」
リナは言葉を探した。
「ホールでは、私たちは完成したライブを見せると思います。照明も、衣装も、演出も作る。でも、小さい場所では、一人ずつの顔を見ながら歌える」
ハルカも頷いた。
「私も、各都市で一度は小さい場所に立ちたいです」
「今の動員数で百人規模のライブを行えば、チケットの倍率が高くなる」
高橋が言う。
「入れなかったファンから、不公平だという声も出る。会場周辺に人が集まれば、安全上の問題も起きる」
「それは分かります」
ハルカは答えた。
「でも、会場を大きくするだけが、今の私たちに必要なことではないと思うんです」
ユイは、少し迷ってから口を開いた。
「小さい場所なら、まだテレビで私たちを知ったばかりの人も、近くで見られるかもしれない」
高橋がユイを見る。
「倍率が高くなれば、むしろ入れない」
「じゃあ、ファンクラブの中で、まだライブに来たことがない人の枠を作るのは駄目ですか」
「初参加枠か」
「はい。ずっと応援してくれた人を大切にしたいです。でも、初めての人が入れない場所にもしたくない」
リナが続ける。
「古参だから優先、新規だから優先と完全に分ける必要はないと思う。ただ、一部だけでも、初めての人が来られる枠を作りたい」
「複雑な抽選になる」
「できないことですか」
ユイが尋ねる。高橋はすぐには答えなかった。デジタル事業部の担当者がいれば、システム上の可否を確認しただろう。今、この場で断定はできない。
「不可能ではないだろう。だが、運営費は増える」
「必要な費用なら、試算してください」
私は言った。高橋の視線が、私へ移る。
「君も、小規模公演に賛成なのか」
「条件つきで賛成です」
「効率が悪いことは分かっているな」
「分かっています」
「同じ一日を使うなら、百人より二千人を入れた方がいい」
「売上だけを考えれば、そうです」
「テレビ出演で新しい関心が集まっている今、小規模会場へこだわる必要はない。大きな会場を成功させることが、次の仕事につながる」
高橋の主張は正しかった。大手レコード会社のプロデューサーとして、限られた期間と予算の中で、最大の成果を求めている。
「ただし、三人の状態を考えれば、小規模公演には別の意味があります」
私は資料を開いた。
「いきなり二千人規模の客席へ向き合うのではなく、まず各都市で百人ほどの観客と近い距離で歌う。その経験を挟むことで、三人がその街のファンの熱を直接感じられる」
「心理的な準備ということか」
「それだけではありません」
私はLUMINA HOMEへ届いた地域別のメッセージをまとめた資料を示した。名古屋から届いた言葉。大阪から届いた言葉。東京以外ではライブへ行けないという声。
遠征費のため、すべての公演へ参加することは難しいという学生。地方に住んでいるため、テレビや配信でしか見たことがないという人。
「ファンの数だけでなく、その街にどんな人が待っているかを、三人が知る機会になります」
「その情報は、大きな会場でも得られる」
「表情までは見えません」
私は答えた。
「小さな会場でしか見えないものがあります」
高橋は腕を組んだ。
「それを、事業としてどう評価する」
「数字に翻訳するのが、私の仕事です」
以前、高橋から言われた言葉を返した。高橋の口元が、わずかに動いた。
「では、翻訳してみろ」
「小規模公演は、単体の収益だけで評価しません。各都市のファンとの関係構築、初参加者の定着、LUMINA HOMEの継続率、次回公演への再来場意向を含めて測定します」
「結局、アンケートを取るのか」
「回答は任意にします。数字を集めるために、ライブの余韻を壊すようなことはしません」
「撮影して配信すれば、収益を補える」
リナの表情が変わった。
「撮影はしたくありません」
高橋がリナを見る。
「なぜだ」
「小さい会場では、カメラを意識せず歌いたいです。来てくれた人だけと、その時間を作りたい」
「記録用のカメラも?」
「私たちが、撮ってもいいと思えたら。でも、宣伝のために最初から入れるのは嫌です」
高橋は、私へ視線を移した。
「君は?」
「三人の意思を優先します」
「収益を補う方法が一つ消えるぞ」
「小規模公演を行う目的が、映像商品を作ることへ変わるなら、行う意味が薄れます」
高橋は長く息を吐いた。大類は、会話についていけず、三人と私、高橋の顔を順番に見ていた。
「小さい会場も、大きい会場もやるってことですよね」
大類が確認する。
「そういう案です」
「各都市、二公演?」
「同じ日どころか、同じ月にも行いません」
私は言った。
「二月に小規模公演を三都市。ホールはその半年後です。あいだの期間に、三人が二千人の空間を身体で覚える時間を作ります」
高橋が眉を寄せた。
「それでは、ツアー期間が長くなる」
「一日に二つの公演を詰め込むことはしません」
「会場費と宿泊費が増える」
「必要な費用です」
「大阪で小規模公演、一週間空けて名古屋、また一週間空けて東京。それだけで三週間だ。ホールを合わせれば、二つのツアーで二か月近く動くことになる」
「一度に詰め込まないための三週間です」
「そのたびにスタッフと機材を移動させるのか」
「ホール公演の機材と、小規模公演の機材を分けます。小規模公演は簡素な音響と照明だけで行う」
高橋と私の間に、昔の交渉のような緊張が生まれ始めていた。だが、以前とは違う。私一人が三人を守るために、高橋へ刃を向けているのではない。
三人も同じテーブルに座り、自分たちの考えを話している。
「高橋さん」
ハルカが口を開いた。
「私は、大きな会場にも立ちたいです」
高橋がハルカを見る。
「怖いけど、挑戦したい。テレビを見て知ってくれた人にも会いたいです」
「ならば、ホールだけでいいだろう」
「でも、大きな場所へ進むたびに、小さな場所を置いていきたくありません」
ハルカはゆっくりと言葉を選んだ。
「私たちは、何百人、何千人という数だけに会いに行くんじゃないと思います。その中にいる一人ずつに会いに行く。そのことを、忘れないためにも、小さい場所で歌いたいです」
ユイも続けた。
「この前、三十人の前で歌った時、途中で休んでも待ってもらえるって知りました。あの時間があったから、テレビにも出られたと思います」
「小規模公演を、精神的な支えにしたいということか」
「支えというより、確認したいです」
「何を?」
「私たちの歌が、ちゃんと人に届いていることです」
ユイは、自分の胸元へ手を置いた。
「テレビでは、何百万人が見ているって言われても、誰の顔も見えませんでした。終わった後に数字を見て、初めて届いたんだと分かりました。でも、小さい場所なら、歌っている時に分かります」
リナは最後に言った。
「ホールだけを回ったら、成功したツアーにはなるかもしれない。でも、今の私たちがやる意味は薄いと思います」
高橋は、三人の顔を一人ずつ見た。会議室に長い沈黙が流れた。
やがて、彼は資料の余白へ線を引き始めた。
「各都市、小規模一公演、ホール一公演」
大類が身を乗り出す。
「認めるんですか」
「まだ条件がある」
高橋は地図へ日程を書き込んだ。
「東京は別の日程とし、名古屋と大阪は一度の遠征で回る。名古屋の小規模公演、休養、名古屋ホール。翌日は大阪へ移動するだけにし、その翌日に小規模公演。さらに一日休み、最後に大阪ホール」
「休養日は、取れるんですね」
ユイが確認する。
「取る。ただし、休養日に取材や撮影は入れない」
私は尋ねた。高橋がこちらを見る。
「一つ増やすなら、一つ減らす、だったな」
「はい」
「ツアー期間中、ほかの仕事は原則として受けない。LUMINA HOMEの更新も、事前に用意したものを使うか、無理なら休止を知らせるだけにする」
「それなら賛成です」
「小規模公演の会場は、百五十人以下。入場はLUMINA HOME会員から抽選。全体の二割を、LUMINAの単独公演へ一度も来たことがない人の枠にする」
ユイの顔が明るくなる。
「初めての人も来られる」
「ただし、申告だけでは確認できない。チケット購入履歴と会員情報を照合できる範囲で行う。それ以上の厳密さは求めない」
「十分です」
「残り八割も、応援期間による優先はつけない。すべて抽選だ」
リナが頷いた。
「古参と新規を順位にしないためですね」
「そうだ」
「落選した人への配信は?」
大類が尋ねる。高橋が三人を見る。
「三人が望まないなら行わない」
リナは少し考えた。
「小規模公演は配信しない。その代わり、ホール公演は配信できませんか」
「有料配信なら可能だ」
「地方の会場へ来られない人にも、ホールのライブは見てほしいです」
ハルカが言う。
「小さな場所は、その日に来た人とだけ。大きな場所は、もっと遠くにいる人にも届ける。分けたらいいと思います」
高橋は企画書へ書き込んだ。
「その案で試算を作り直す」
六人での話し合いは、三時間近く続いた。すべてが決まったわけではない。会場の確保。チケット価格。
交通と宿泊。小規模公演のセットリスト。ホール公演の演出。医師や榊原との連携。
緊急時の移動手段。考えることは、いくらでもあった。
それでも、ツアーの形は見え始めていた。大きな場所だけを目指すのではない。小さなライブハウスで、一人ずつの顔を見る。その熱を胸に入れてから、ホールの大きなステージへ立つ。
同じ街で、二つの距離から歌う。それが、今のLUMINAが選んだ東名阪ツアーだった。
3
打ち合わせを終えた後、高橋だけが会議室に残った。三人は、明日のレッスンに備えて先に帰った。大類は、新しい収支表を作ると言いながら、途中で電話をかけに出ていった。
テーブルには、六人分の空になったカップと、書き込みだらけの地図が残っている。私は資料をまとめていた。
「青木君」
高橋が呼ぶ。
「はい」
「本当に、小規模公演が必要だと思っているのか」
「思っています」
「三人の希望を守るためだけではなく?」
私は手を止めた。
「高橋さんは、不要だと思いますか」
「事業効率だけを見れば不要だ。百人規模のライブに、今のLUMINAを出す理由はない」
「理由は、先ほどお話ししたとおりです」
「ファンの表情を見る。初参加者との関係を作る。心理的な準備にする」
「はい」
「それは、すべて事実だろう。だが、君自身の理由は別にあるのではないか」
高橋の視線から逃げられなかった。私は、椅子に座り直した。
「怖いんです」
「何が」
「三人が、大きな会場に慣れていくことが」
高橋が、わずかに眉を動かした。
「成功してほしくないという意味ではありません」
私は続けた。
「大きな場所へ行きたい。もっと多くの人に見つけてもらいたい。名前を言えば誰もが知っている、あの大きさの場所にも立たせたい。その気持ちはあります」
その場所の名前を、私は口に出さなかった。地下時代から何度も思い描いてきたのに、声にしてしまえば安っぽくなる気がした。
「ただ、客席が大きくなるほど、一人の顔が見えなくなります。数字は増える。売上も、再生数も、話題も増える。その中で、三人が誰に向かって歌っているのか分からなくなることが怖い」
「三人が変わることが怖いのか」
「私自身が変わることも怖いんです」
高橋は黙って聞いている。
「私には、数字を見る癖があります。千人より二千人。二千人より一万人。増えることが成功だと考えてしまう。大きな会場を埋めれば、次はもっと大きい場所を求める」
「事業としては正しい」
「でも、それだけになった時、また三人の状態を見失うかもしれません」
ユイの手が震えているのを見ながら、音を止めなかった日のことを思い出す。あと一分。
本番までに確認する必要がある。その正しさだけを信じ、目の前にいる人を見なかった。
「小さな会場へ立つことを、三人のためだけに求めているわけではありません。私自身が、一人ずつの顔を思い出すためにも必要なんです」
高橋は椅子の背もたれへ身体を預けた。
「大きな会場へ進むことに、罪悪感を持つ必要はない」
「分かっています」
「小さい場所に立つことが誠実で、大きい場所へ行くことが商業的だと分けるのも間違いだ」
「それも分かっています」
「本当に?」
高橋の問いは厳しかった。
「大きな会場へ立つためには、膨大な費用がかかる。多くの人間が働き、チケットを売り、協賛を集め、グッズを作る。そこには商業的な判断が必要だ。だが、だからといって、そこで生まれる音楽が不誠実になるわけではない」
「はい」
「小規模公演を、過去へ戻るための場所にするな」
高橋は地図の上に指を置いた。
「今の三人が、今のファンに会うための場所にしろ。地下時代の苦労を確認し、初心を忘れないためだけなら、客にとっては関係のない自己満足だ」
その言葉は、胸に刺さった。原点を忘れない。その表現は、美しく聞こえる。
だが、過去の苦労を何度も再現し、そこに自分たちの正しさを見いだすだけでは、今来てくれる人を見ていないことになる。
「成功した姿を見せに行くのでも、昔を懐かしみに行くのでもありません」
私は言った。
「今のLUMINAの歌を、今その街にいる人へ届けに行きます」
高橋が頷く。
「それならいい」
「高橋さんも、小規模公演へ来ますか」
「全都市には行けない」
「東京だけでも」
「会場の後ろに、私が立っていたら目立つだろう」
「スーツを変えればいいのでは?」
「私に何を着ろと」
「パーカーなど」
高橋は露骨に嫌そうな顔をした。
「検討しておく」
LUMINA HOMEへ入会した時と同じ答えだった。
「高橋さん」
「まだ何かあるのか」
「三人が意見を言うようになったことを、どう思いますか」
高橋は少し考えた。
「面倒になった」
「否定はしません」
「交渉相手が、君一人ではなくなったからな」
「以前の方がよかったですか」
「いや」
高橋は地図を折り畳んだ。
「アーティストが自分の仕事に責任を持つなら、意見を持つのは当然だ。こちらの提案にすべて従う人間は扱いやすい。だが、長くは残らない」
「使いやすい人間ほど、使い潰される?」
「そういうことだ」
高橋は立ち上がった。
「ただし、意見を言うなら、結果にも向き合ってもらう。小規模公演を入れたことでツアーが長くなり、身体的な負担が増える可能性もある。チケットの倍率が上がり、批判が出るかもしれない」
「それも、三人へ伝えます」
「よい面だけを説明するなよ」
「もう、同じ間違いはしません」
「間違いをしないと断言するな」
高橋に言われ、私は言葉を止めた。完璧にはできない。また判断を誤る可能性はある。
「同じ間違いをしそうになったら、止められる形にします」
言い直すと、高橋は頷いた。
「それでいい」
会議室の扉を開ける。外では、大類が電話口で「東名阪六公演」と興奮した声を上げていた。高橋が眉を寄せる。
「まだ確定していないのに、誰へ話している」
「会場の仮押さえでしょう」
「余計なことまで話していないだろうな」
「大類社長なので、可能性はあります」
二人で急いで大類のところへ向かった。
「これはもう、この先の大きいところも見えてきましたよ!」
大類の声が聞こえる。私は受話器を奪った。
「社長、その話はまだ一度もしていません」
『えっ、青木さん?』
電話の相手が困惑している。高橋が額を押さえた。
「先が思いやられるな」
「同感です」
東名阪ツアーの準備は、正式な発表より前から、すでに騒がしく始まっていた。その週の終わり、大類社長に呼ばれた。社長室と呼んでいるが、実際には会議室の隣の、窓のない四畳ほどの部屋だ。デスクの上には、東名阪ツアーの収支概算が広げられていた。
「青木。この物販の見込み、低すぎる」
「保守案です」
「テレビに出たんだぞ。フォロワーが何万増えたか見たか」
「見ています。ただ、認知と購入は違います」
「じゃあ標準案を出せ」
「標準案も作ってあります。ですが、私は保守案で発注をかけたい」
大類が顔を上げた。
「なんでだ」
なぜなら、在庫を積めば売上が伸び、売上が伸びれば営業利益が伸び、営業利益が伸びれば契約満了時の値札が上がるからだ。その一文は、喉の手前まで来て止まった。
「在庫リスクを抑えたいからです」
「返品できる契約にしてある」
「輸送費と保管費は返ってきません」
「そんなもん誤差だ」
大類はペンでテーブルを叩いた。
「お前、最近おかしいぞ」
「何がでしょうか」
「前は、一円でも取れるところから取れって顔をしてた。ハイエースの中で、俺に物販のバック率で食ってかかってきたのはお前だろう」
覚えている。深夜の首都高で、助手席の大類に向かって、私は二パーセントの交渉をしていた。
「今もその考えは変わりません」
「変わってる。三人を休ませろ、公演数を減らせ、在庫を積むな。全部、金を取りに行かない方向だ」
「三人の身体を守るためです」
「それは分かる。分かるが、身体を守るのに在庫は関係ないだろう」
正しかった。私の主張は、部分ごとには正しくて、全体としては筋が通っていない。理由の中心を隠したまま結論だけを並べれば、そうなる。
「社長」
「なんだ」
「事務所の利益が、大きくなりすぎることの危険を考えたことはありますか」
大類は、心の底から意味が分からない、という顔をした。
「ない」
「……そうですか」
「あるわけないだろう。四年間、俺は赤字の月報しか見てないんだぞ」
それも、正しかった。この人は悪人ではない。四年前、走行距離二十万キロのハイエースの助手席で「今月何回連続の赤字だ」と私を睨んだ男が、ようやく黒字の紙を見られるようになった。それを喜ぶなというのは、私には言えない。
私に言えるのは、理由を話すことだけだった。話せば、この人は理解する。理解して、そして必ず、三人へ話してしまう。大類社長は、隠し事ができる人ではない。
「保守案で発注します」
私は言った。
「理由は」
「私の判断です」
大類は長く私を見て、それから手を振った。
「好きにしろ。責任はお前が取れ」
「取ります」
部屋を出る時、背中に声がかかった。
「青木」
「はい」
「お前、何か抱えてないか」
振り返らなかった。振り返れば、たぶん顔に出た。
「抱えていません」
扉を閉めた。廊下の突き当たりの窓から、十一月の低い光が差していた。私は、この四年で二度目の嘘をついた。一度目は下北沢の路地裏で、クマたちに向かって、存在しない法務部の連名警告をちらつかせた夜だ。あれも、まだ誰にも話していない。
4
会場候補を確認するため、私たちは東京にある小さなライブハウスを訪れた。地下へ続く階段。黒く塗られた壁。過去の出演者のポスター。
階段の奥から漂う、機材と埃が混ざった独特の匂い。三人が無名だった頃、何度も立った場所とよく似ていた。客席は百二十人。椅子を入れれば八十人ほど。
ステージは、三人が横に並ぶだけで半分近く埋まる。天井は低く、照明設備もホールとは比べものにならない。
「近い」
ユイがステージから客席を見た。
「一番後ろの人の顔まで見える」
リナがステージの横幅を歩いて確かめる。
「広がる振付は無理。でも、テレビよりは動ける」
「段差が低いから、最前列との距離は取った方がいいですね」
ハルカが言う。ライブハウスの支配人が、三人へ近づいてきた。五十代ほどの男性だった。
「LUMINAさん、昔、一度うちの系列へ出てもらったことがあるんですよ」
「本当ですか」
ハルカが尋ねる。
「四年くらい前かな。出演者が六組くらいいた日。まだ三人とも、自分たちで衣装を運んでた」
私は記憶を探った。確かに、同じ運営会社の別会場へ出演したことがある。観客は少なかった。持ち時間は十五分。
楽屋が狭く、出演者全員が入れなかったため、三人は階段の途中で出番を待っていた。
「あの日、見てましたよ」
支配人が言う。
「客は少なかったけど、三人とも手を抜かなかった。いつか大きくなるかもなって、スタッフと話したのを覚えてます」
「本当に?」
ユイの目が輝く。
「テレビも見ました。まさか、また小さいところへ来てもらえるとは思わなかった」
「大きくなったから、小さい場所には出ない方がいいですか」
リナが尋ねる。支配人は首を振った。
「そんなことはない。ただ、今のLUMINAさんが来るなら、安全はきちんと考えないといけない。入り待ち、出待ち、会場周辺の混雑。昔とは違う」
「近隣への告知は、必要最低限にします」
私は答えた。
「開場時間より早く集まらないよう、入場番号と集合時間を分けます。終演後も、一斉に退場させず、区分ごとに案内します」
「警備は増やした方がいい」
「レーベル側とも協議します」
三人はステージへ上がった。マイクも、音源もない。客席には、私と高橋、支配人、数人のスタッフだけがいる。高橋は本当に、いつものスーツではなかった。
濃い色のニットと、黒いパンツ。眼鏡は同じだが、普段より少し若く見えた。
「高橋さん、本当に着替えたんですね」
ユイが言う。
「視察にスーツは目立つと言われたからだ」
「似合ってます」
「感想は不要だ」
「少し怖くないです」
「それは仕事上、問題だな」
三人が笑った。リナが、客席の中央に立つ高橋へ尋ねる。
「どのくらい近く見えますか」
「表情はすべて見える」
「指先も?」
「見える」
「失敗も?」
「当然見える」
リナは少し笑った。
「それがいいです」
ステージの中央へ三人が並ぶ。ユイが、客席の一番後ろを見た。
「テレビのカメラより、こっちの方が緊張するかもしれない」
「顔が見えるから?」
ハルカが尋ねる。
「うん。でも、逃げたくなる怖さとは違う」
「どんな怖さ?」
「ちゃんと届けたいって思う怖さ」
ユイの言葉に、支配人が静かに頷いた。
「その緊張は、なくさない方がいいですよ」
三人が彼を見る。
「慣れてくると、客席を一つの塊として見るようになる。でも、そこにいるのは一人ずつ違う人です。初めて来た人も、何年も待ってた人もいる。怖いくらい近い方が、それを忘れない」
高橋が、私の隣で小さく息を吐いた。
「君と同じことを言うな」
「私が言ったわけではありません」
「小さい会場にしか見えないものがある、だったか」
「はい」
「少しは理解した」
「少しだけですか」
「採算表が出るまでは、完全には理解しない」
高橋らしい答えだった。支配人の許可を得て、三人は音響なしで一曲だけ歌った。
『真夏のミッドナイト・ブルー』ではない。
地下時代から歌ってきた、静かな曲だった。ハルカの声。ユイの声。リナの声。
小さなステージから、空の客席へ広がる。音響を通していないため、後ろにいる私たちへ届く声は大きくない。
それでも、歌詞は一つずつ聞き取れた。高い天井も、豪華な反響設備もない。声は壁にぶつかり、すぐに消える。だからこそ、三人は目の前へいる人へ渡すように歌っていた。
歌い終わる。高橋が拍手をした。支配人とスタッフも続く。私も手を叩いた。
客のいないライブハウスに、小さな拍手が響いた。三人は顔を見合わせた。
「ここでやりたいです」
ハルカが言った。ユイとリナも頷く。私は、三人へ確認した。
「本当に?」
「はい」
「ホール公演の前に、ここで歌いたいです」
ユイが答える。
「成功した姿を見せに戻るんじゃなくて、今の私たちで会いに来たい」
リナが続けた。私は高橋を見る。彼は客席からステージを見上げたまま、少し考えていた。
「東京の小規模公演は、ここを第一候補にする」
三人の表情が明るくなる。
「ありがとうございます」
「まだ仮押さえだ。警備と日程、採算を確認する」
「はい」
「ただし」
高橋が三人へ指を向ける。
「小さい会場だからといって、準備を軽くするな。近いからこそ、ごまかしは利かない」
「分かっています」
リナが答えた。
「ホールとは違うセットリストを考えます」
「曲数を増やしすぎるな」
私が先に言う。
「まだ、何も言ってない」
「リナの顔を見れば分かるわ」
「青木さんも、私たちのことを見てるんですね」
ユイが笑う。
「見ています。ただし、私一人では決めません」
「なら、四人で考えましょう」
ハルカが言った。三人はステージへ座り込み、すぐに曲の候補を話し始めた。私は客席の最後列へ座った。高橋も、隣へ来る。
「この距離なら、三人が何を話しているか聞こえるな」
「聞かないでください」
「向こうから聞こえてくる」
「セットリストは、まだ提案段階です」
「口を挟むつもりはない」
高橋は、狭い客席を見回した。
「百二十人」
「はい」
「以前なら、この規模を埋めることが目標だったのだろう」
「埋まらない日も多くありました」
「今は、入れない者の方が多くなる」
「だからこそ、ここへ入れた百二十人だけを特別なファンと呼ばないようにします」
「落選者は、納得しないかもしれない」
「全員を納得させることはできません。ただ、抽選の基準と、この公演を行う理由は説明します」
「説明しても、批判は出る」
「出るでしょう」
「怖くないのか」
「怖いです」
私は答えた。
「でも、批判を恐れて三人が必要だと思うことをすべて避ければ、誰のための活動か分からなくなります」
高橋は、ステージに座る三人を見た。
「なら、説明する言葉も三人と作れ」
「そのつもりです」
小さなライブハウスの壁には、過去にここへ立ったアーティストの名前が並んでいた。その中には、今では大きな会場を埋める人もいる。活動を終えた人もいる。
名前を変えた人。別の道へ進んだ人。それぞれが、この狭い場所で歌っていた時間を持っている。LUMINAも、再びここへ立つ。
過去へ戻るためではない。今の三人が、今待っている人へ歌を届けるために。
5
東名阪ツアーの正式発表は、十二月の最初の日曜日に行われた。最初に、LUMINA HOMEで会員へ伝えた。三人が会議室のテーブルに並び、自分たちの言葉で説明する動画を撮影した。
「皆さんへ、お知らせがあります」
ハルカが言う。
「来年二月、東京、名古屋、大阪の三都市を回るツアーを行います」
ユイが、少し緊張した様子で続ける。
「各都市で、大きな会場と小さな会場、二つの場所で歌います」
リナが説明する。
「小規模公演は、LUMINA HOME会員の方を対象にした抽選です。ただし、応援してきた期間による優先順位はつけません。単独公演へ来たことがない方のための枠も、一部用意します」
ハルカは、カメラをまっすぐに見た。
「すべての方に来ていただけないことを、私たちも残念に思っています。小さい会場へ入れた人だけが、特別なファンということでもありません」
「ホール公演は、有料配信も行う予定です」
ユイが言う。
「会場へ来られない方にも、今の私たちの歌を届けたいです」
最後に、三人が揃って頭を下げた。
「あなたの街へ、会いに行きます」
動画の公開後、一時間は反応を確認しなかった。四人で食事をし、今後の日程を確認する。
午後九時になり、運営スタッフがまとめたメッセージを開いた。名古屋で待っています。大阪へ来てくれてありがとう。東京以外では会えないと思っていたので、嬉しいです。
小さな会場は外れるかもしれないけれど、ホール公演を楽しみにしています。初参加枠を作ってくれてありがとう。親子で応募します。配信で見ます。
新しい反応が次々に届いた。その中には、予想どおり批判もあった。長く応援している人を優先するべきではないか。初参加者の枠を作るのは不公平だ。
小規模公演を配信しないのは、行けない人を無視している。同じ会費を払っているのに、抽選で体験へ差がつくのは納得できない。ユイの表情が曇った。
「やっぱり、怒ってる人もいますね」
「いるわ」
私は答えた。
「方針を変えた方がいいですか」
「三人は、どう思う?」
私は結論を出さず、尋ねた。ハルカがメッセージを読み返した。
「長く応援してくれた人の気持ちも分かります。最初から見つけてくれたのに、最近入った人と同じ抽選なのは寂しいと思う人もいる」
「でも、応援した長さで順位をつけたくないって決めた」
リナが言う。
「その考えは変えたくない」
ユイも頷いた。
「初めての人が、一度も入れない場所にはしたくないです」
「では、方針は変えない?」
「変えません」
ハルカが答えた。
「でも、寂しいと思っている人に、我慢してくださいだけで終わらせたくないです」
「何ができる?」
ユイが考える。
「小規模公演に外れた人へ、三人から音声を届けるのはどう?」
「公演の録音?」
「ううん。終わった後に、三人でその街の人へ話す。今日会えなかった人にも、同じ街に来たことを伝えたいです」
リナが頷いた。
「LUMINA HOMEで、都市ごとに音声を出す。会場に入れた人だけへの言葉にしない」
「それならできる」
ハルカが言う。私は運営担当者へ確認し、その案を企画へ加えた。批判をすべてなくすことはできない。誰かの希望を叶えれば、別の誰かが取り残されたと感じることもある。
それでも、批判が出たからといって、最初に決めた理念を簡単に捨てるのではない。何を守りたいのかを確かめ、その上で、届かなかった人へ別の道を作る。
三人は、自分たちでその方法を考えた。一般向けの発表は、翌日の正午に行われた。東名阪ツアーの名称も決まった。LUMINA 3-CITY TOUR 『LIGHTS ON THE ROAD』
道の上にある光。
三人が街から街へ移動し、その土地にいる人たちの光をつないでいく。ハルカが考えた言葉だった。発表画像には、東京、名古屋、大阪を一本の線で結んだ地図が使われた。
豪華な都市の夜景ではなく、夜の高速道路に並ぶ小さな灯りを思わせるデザインだった。告知が公開される。公式SNSには、すぐに多くの反応が届き始めた。
私は運営画面を閉じた。
「見なくていいんですか」
ユイが尋ねる。
「一時間後に確認するわ」
「青木さん、本当に変わりましたね」
「まだ途中よ」
「前なら、投稿した瞬間から見てましたよね」
「前なら、反応を見ながら次の告知まで作っていたと思う」
「今は?」
「今は、出発までに三人が何を準備したいか聞く」
三人が顔を見合わせた。リナは、すでにノートを開いている。
「小規模公演とホールで、同じ曲を歌っても、見せ方を変えたいです」
ハルカも、自分のノートを取り出した。
「街ごとに一曲、歌詞の届け方を変えたい。名古屋と大阪で、前に見た景色を思い出して書きたいです」
ユイは、LUMINA HOMEへ届いた各地の手紙を机へ並べた。
「この街で待ってくれてる人が、どんな人なのか知りたいです」
三人の中では、もうツアーが始まりかけていた。私はホワイトボードの横に、新しい予定表を貼った。移動日。小規模公演。
休養日。ホール公演。次の街への移動。予定と予定の間には、以前より多くの空白があった。
その空白は、何もしていない時間ではない。三人が呼吸を整え、その街の光を受け取るための時間だ。
「一つ確認します」
私は三人を見た。
「この予定は、現時点のものです。途中で状態が変われば、公演の形を変える可能性がある。中止する可能性もある」
「はい」
ハルカが答える。
「無理に全部やることを、成功とは呼ばない」
ユイが続ける。
「でも、全部行きたいです」
「その気持ちは大事にしましょう」
リナは、三都市を結ぶ線を指でなぞった。
「もう一度、同じ街へ行くんですね」
「ええ」
地下時代と同じハイエースで走った道。高速道路のサービスエリアで、安い食事を分け合った夜。ライブを終えても物販が売れず、帰りの車内で誰も言葉を発しなかった時間。
それでも、三人は次の街へ向かった。今度は、以前とは違う。待っている人がいる。名前を呼んでくれる人がいる。
大きなホールも、小さなライブハウスもある。テレビで三人を知った人。LUMINA HOMEで帰りを待っている人。地下時代から見てきた人。
初めてライブへ来る人。さまざまな時間を生きてきた人たちが、三人の歌を待っている。だからこそ、成功した姿を見せに行くのではない。過去の苦労を懐かしむためでもない。
今のLUMINAが、今そこにいる一人へ会いに行く。
「青木さん」
ユイが言った。
「今度は、車の中でキャベツだけ食べなくてもいいですよね」
「もちろんです」
「ホテルも、ちゃんとベッドがありますか」
「三人一部屋ではなく、一人ずつ用意します」
「一人ずつ?」
ハルカが驚く。
「休養のためです。眠れない時に三人で話したい気持ちは分かるけれど、一人になれる場所も必要でしょう」
「でも、少し寂しいです」
ユイが言う。
「話したい時は、誰かの部屋へ集まればいい」
リナが答える。
「ただし、夜更かしはしないで」
私が加えると、三人が揃って不満そうな顔をした。
「修学旅行みたい」
ユイが笑う。
「旅行ではなく、ツアーです」
「枕投げ、したいです」
「しません」
「高橋さんの部屋なら?」
「絶対にやめなさい」
三人の笑い声が、会議室に広がった。窓の外には、冬の淡い光が差し込んでいた。東京。名古屋。
大阪。地図の上では、三つの点にすぎない。
けれど、その一つ一つに街があり、人がいて、それぞれの生活がある。三人はこれから、その場所へ歌を届けに行く。そして私も、同じ道を走る。
今度は先頭で三人を引っ張るのではなく、同じ速さを確かめながら。誰かが立ち止まれば、予定を変える。誰かが怖いと言えば、その声を聞く。進める時には、四人で進む。
机の上では、LUMINA HOMEへ届いた三都市からの手紙が、冬の光を受けていた。まだ、最初の会場の扉は開いていない。
それでも私たちの心は、すでに待っている人たちのいる街へ向かい始めていた。




