第21章 赤いランプの向こう側
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本番まで、残り五時間。そう考えるたび、時間が進んでいるのか止まっているのか、分からなくなった。楽屋の壁に掛けられた時計の秒針は、一定の速さで動いている。
テレビ局の廊下では、大勢のスタッフが秒単位の予定に従って行き交っていた。それなのに、楽屋の中だけは、外の流れから切り離されたように静かだった。
カメラリハーサルを終えた三人は、それぞれ別の過ごし方をしていた。ハルカは、司会者から尋ねられる質問を声に出さず読み返している。ユイはソファに座り、LUMINA HOMEへ届いた手紙を一通ずつ読んでいた。
リナは床に座って目を閉じ、振付を頭の中で確認しているようだった。膝の上に置かれた両手が、時折、わずかに動く。
「リナ」
私が名前を呼ぶと、彼女は目を開けた。
「踊っていません」
「頭の中で確認していたでしょう」
「少しだけ」
「本番前には、振付を変えないと決めたわ」
「変えてないです。忘れてないか確かめてただけ」
「それを始めると、気になる部分が増えるでしょう」
リナは何かを言い返そうとしたが、やがて両手を膝から下ろした。
「分かりました」
私は楽屋に置かれた飲み物と軽食を確認した。予定では、午後五時に夕食を取ることになっている。三人とも昼食は食べていたが、緊張のため量は多くなかった。
本番直前に空腹になれば、集中力が落ちる。反対に、食べすぎても歌いにくくなる。以前の私なら、三人が食べる量まで細かく指定したかもしれない。
今は、選択肢だけを伝えた。
「夕食は、おにぎり、サンドイッチ、温かいうどんを用意してもらえるそうよ。三人で選んで」
「青木さんは?」
ユイが尋ねた。
「私は何でも」
「それは禁止です」
「何が?」
「青木さんも、自分が食べたいものを選んでください」
「仕事の話をする前に、全員でご飯を食べるんですよね」
ハルカも加わる。
「今日は、ずっと仕事の中にいるようなものだから、本番前に四人で食べましょう」
私は少し考えた。温かいうどんが食べたかった。それほど空腹ではないと思っていたが、口にすると急に身体が温かいものを求めていることに気づいた。
「では、うどんにするわ」
「私も」
ユイが言う。
「私はおにぎり」
リナが答える。
「私はサンドイッチにします」
ハルカも決めた。
午後五時。楽屋に食事が運ばれてきた。テーブルを囲み、四人で食べ始める。テレビでは、夕方の情報番組が放送されていた。
画面の中では出演者が笑い、天気予報や話題の店が紹介されている。その映像も、この建物のどこかから送り出されている。画面に映る数分間のために、今も大勢の人が動いているのだろう。
ユイは、うどんを数口食べたところで箸を止めた。
「食べられない?」
私が尋ねる。
「お腹は空いてたんですけど、喉を通らなくて」
「無理に全部食べなくていい」
「でも、本番の途中でお腹が鳴ったら」
「マイクが拾うほど大きくは鳴らないと思う」
リナが言う。
「もし拾ったら、それも生放送です」
ハルカが笑った。
「嫌だよ。全国にお腹の音を聞かれるの」
ユイも笑い、もう一口だけうどんを食べた。完食はしなかった。
それでも、自分で食べられる量を決めた。食事を終えた頃、楽屋の扉がノックされた。番組の進行担当者が、更新された台本を持って入ってくる。
「お食事中に失礼いたします。放送の進行について、変更が出ました」
空気が変わった。私は台本を受け取る。
「どの部分ですか」
「番組冒頭のトークが、予定より三十秒ほど延びる見込みです。後半に予定されている特別企画の時間は動かせないため、LUMINAさんのトークを二分から一分三十秒へ短縮させていただきたいと考えています」
三人の表情が固まった。
「質問を一つ減らすということですか」
「はい。『これからどんな場所で歌いたいか』という質問を外し、初出演の感想と、LUMINA HOMEについての二問にします」
リナが台本へ目を落とす。自分が答える予定だった質問がなくなっていた。
「私のトークは、なくなるんですね」
「申し訳ありません。歌唱時間は予定どおりです」
担当者は深く頭を下げた。テレビでは、こうした変更が直前に起こる。頭では理解していた。
しかし、三人は何日もかけて十五秒の言葉を考え、練習してきた。特にリナは、短い言葉の中に、自分たちがこれから大切にしたいものを入れようとしていた。
「別の質問に、三人で答える形にはできませんか」
私は尋ねた。
「時間がかなり厳しく、司会者から話を振るのはハルカさんとユイさんだけになる予定です。ただ、回答の中でリナさんが自然に言葉を添えることは可能です」
「自然に、というのは?」
「司会者から呼びかける時間はありません。ユイさんの回答を受けて、数秒であれば」
曖昧な条件だった。数秒。リナが無理に言葉を挟めば、進行を乱したように見える可能性もある。
「リナは、どうしたい?」
私は尋ねた。以前なら、私が番組側と交渉し、三人へ結論だけを伝えただろう。今は、本人の意思を確かめる。リナは台本を見つめたまま、少し考えた。
「言わなくていいです」
「本当に?」
「歌で伝えます」
声に悔しさが滲んでいた。
「テレビが秒数で動いていることは分かってます。私たちだけ、特別に時間を延ばせとは言えない」
進行担当者が、申し訳なさそうに頭を下げる。
「ありがとうございます」
リナは顔を上げた。
「でも、次に出る時は、三人とも一度は話せる時間をください」
「制作担当へ必ず伝えます」
進行担当者が楽屋を出た後、ハルカがリナを見る。
「私の答え、少し短くしようか」
「どうして?」
「その分、リナが話せるかもしれない」
「しなくていい」
「でも」
「ハルカが話すために用意された時間でしょ」
リナは、はっきりと言った。
「私が話せないからって、ハルカまで削る必要はない。今日は歌で見せる」
ハルカはしばらくリナを見つめ、最後には頷いた。
「分かった」
ユイは、新しい台本へ目を落とした。
「三十秒短くなったら、私も急いで話した方がいいですか」
「急がなくていい」
リナが答えた。
「ユイが急ぐと、余計に言葉が出なくなるから」
「でも、番組が」
「出なかったら、ハルカがつなぐ。私もいる」
ユイは、ゆっくり息を吐いた。
「分かった」
台本が変わっても、三人は三人の呼吸を失わなかった。それを確認し、私は新しい進行をノートへ書き込んだ。
午後六時半。番組の司会を務める女性アナウンサーが、楽屋を訪れた。テレビ画面で見る明るい表情のまま、三人へ丁寧に頭を下げる。
「本日はよろしくお願いします」
三人が立ち上がる。
「よろしくお願いいたします」
「初出演ですよね。緊張していますか」
「はい」
三人の声が重なった。アナウンサーが笑う。
「私も生放送の前は、毎回緊張します」
ユイが驚いたように尋ねる。
「今でもですか」
「今でもです。台本を読み間違える夢も見ますし、放送中に次の言葉が出なくなることもあります」
「そんなふうに見えません」
「見えないようにしているだけですよ」
アナウンサーはユイを見た。
「カメラリハーサルで、少し言葉を探していましたね」
ユイの表情が強張る。
「すみません」
「謝ることではありません。生放送では、私がそばにいます。言葉が出なかったら、無理に答えなくても大丈夫です」
「でも、時間が」
「時間を管理するのは、私たちの仕事です」
アナウンサーは穏やかに答えた。
「ユイさんは、ご自分の言葉を一つだけ届けてください。十五秒を全部埋めなくても構いません」
ユイは、しばらく彼女を見つめていた。
「一つだけで、いいんですか」
「はい。一番伝えたいことを、一つだけ」
「分かりました」
アナウンサーはリナへ向き直った。
「質問がなくなってしまって、ごめんなさい」
「大丈夫です」
「リナさんにも、短くですがお話しいただけるよう、曲紹介の前にお名前をお呼びします」
リナが顔を上げた。
「いいんですか」
「五秒ほどしかありません。伝えたいことを一言でお願いできますか」
リナは少し考えた。
「今日、初めて私たちを見る人にも届くよう、踊ります」
「それでいきましょう」
台本にない、小さな時間が生まれた。アナウンサーが楽屋を出た後、ユイが呟いた。
「テレビの人も、緊張するんですね」
「仕事だから、怖くなくなるわけじゃないのよ」
私が答える。
「怖くても、何度も同じ場所へ立っている。その方法を知っているだけ」
「私たちも、いつか慣れますか」
「慣れるかもしれないし、毎回怖いままかもしれない」
「毎回、怖いのは嫌だな」
「でも、怖いと言えるようになったでしょう」
ユイは少し考え、頷いた。
「前よりは」
「なら、大丈夫」
口にしてから、私は言い直した。
「大丈夫と決めつけるのは違うわね」
三人が私を見る。
「怖くなったら、怖いままでできることを一緒に考える。それでいい」
ユイが笑った。
「はい」
本番まで、残り二時間。赤いランプが点灯する時刻は、確実に近づいていた。
2
午後八時四十分。三人は、スタジオ裏の待機場所にいた。出演衣装は、LUMINA本来の都会的な夜を思わせるものだった。濃紺を基調に、光を受けると青く輝く細いラインが入っている。
ハルカは長めのジャケット。ユイは動きに合わせて裾が揺れるスカート。リナは片側だけ丈の異なるパンツスタイル。三人とも形は違うが、並ぶと一つの夜景のように見えた。
テレビ用の強い照明を受けても顔色が失われないよう、メイクも調整されている。イヤーモニターの装着を確認する。マイクの電池。衣装の留め具。
靴紐。髪がマイクへ触れないか。私は一つずつ見ていたが、最後には三人自身にも確認してもらった。
「マイク、大丈夫」
ハルカが言う。
「イヤーモニターも聞こえてます」
ユイが答える。
「靴も問題ない」
リナがその場で軽く足を動かした。
「三色のカードは?」
私が尋ねる。ハルカとリナは衣装の内側に、小さく折ったカードを入れていた。ユイは手のひらに収まる大きさの黄色いカードを握っている。
本番中に使うことはできない。だが、スタジオへ入る直前までは、自分の意思を伝えられる。赤いカードは、私が持っていた。ユイが出演できないと判断した時、私が番組スタッフへ示す。
「青木さん」
ユイが私を見る。
「今、黄色です」
「分かった」
私はフロアディレクターへ伝えた。
「少し時間をいただけますか」
「本番まで五分です。三分後にはスタジオ入口へ移動していただく必要があります」
「二分、ください」
「分かりました」
廊下の端にある椅子へ、ユイを座らせる。ハルカとリナも隣へ座った。
「怖い」
ユイが呟いた。
「うん」
ハルカが手を握る。
「逃げたい」
「逃げてもいいよ」
リナが答えた。ユイが顔を上げる。
「本当に?」
「赤を出すなら、今でもいい」
リナの言葉に、ユイは私を見た。私は赤いカードを手にしていた。
「今出せば、出演は取りやめる。番組側には体調不良とだけ伝える。誰もユイを責めない」
「ハルカとリナは?」
「三人でLUMINAだから、今日は出演しない」
「高橋さんは?」
「責任は私と高橋さんが引き受ける」
「ファンの人は?」
「残念に思う人はいる。でも、LUMINA HOMEには私から説明する」
ユイの目から涙が落ちた。
「私が止めたら、全部なくなる」
「今日の出演がなくなるだけ」
私は言った。
「LUMINAはなくならない。三人の歌も、LUMINA HOMEもなくならない」
「次、また呼んでもらえるか分かりません」
「分からないわ」
「青木さん、出てほしいんですよね」
「出てほしい」
正直に答えた。
「ユイの歌を、全国の人に聞いてほしい。三人がこの場所へ立つ姿を見たい」
ユイの涙が、頬を伝った。
「でも、それは私の願いよ。ユイが自分を壊してまで叶えるものではない」
遠くから、番組の音が聞こえていた。スタジオでは、別の出演者がトークをしている。笑い声。拍手。
明るい音楽。
本番は、私たちの迷いとは関係なく進んでいる。
「あと一分です」
フロアディレクターが告げた。ユイは赤いカードを見つめた。私の手から取ろうと思えば、取れる距離にある。ハルカもリナも、急かさなかった。
「私、行きたいです」
ユイが言った。声は震えていた。
「本当に?」
「怖いけど、行きたい」
ユイは自分の黄色いカードを、私の手の上に置いた。
「預かってください」
「分かった」
私は黄色と赤、二枚のカードを握った。
「では、行きましょう」
三人が立ち上がる。ユイの膝は、まだわずかに震えていた。
それでも、自分の足でスタジオ入口へ向かった。
「LUMINAさん、スタンバイお願いします」
扉の向こうから、観客の拍手が聞こえる。直前に歌っていた男性グループがステージを降りてきた。すれ違いざま、メンバーの一人が三人へ親指を立てる。
「楽しんで」
たった一言だった。三人が頭を下げる。私は、スタジオへ入る直前で立ち止まった。ここから先は、三人だけが進む場所だ。
「ハルカ」
「はい」
「全部を背負おうとしないで」
ハルカが頷く。
「リナ」
「はい」
「予定どおりにできなくても、曲は壊れない」
リナは一度、深く息を吸った。
「分かりました」
最後に、ユイを見る。涙は、メイク担当者がきれいに拭いてくれていた。
それでも、目元には恐怖が残っている。
「青木さん」
「何?」
「大丈夫って、言わないんですか」
「大丈夫ではないのでしょう」
ユイは少しだけ笑った。
「はい。怖いです」
私は、その目をまっすぐに見た。
「怖いままで行っておいで」
ユイの唇が震えた。
「はい」
三人がスタジオへ入る。扉が閉まった。私はすぐに、袖に設置されたモニターの前へ移動した。隣には高橋が立っていた。
「赤は出なかったか」
「出ませんでした」
「そうか」
高橋は、それ以上何も尋ねなかった。モニターには、司会者の姿が映っている。
「続いては、今、若い世代を中心に注目を集める三人組です」
画面の下に、次の出演者名が表示される。LUMINA。胸の奥が強く鳴った。
「本番十秒前です」
フロアディレクターが指を折る。五。四。三。
二。一。カメラの上にある赤いランプが点灯した。
3
「LUMINAの皆さんです!」
司会者の明るい声と同時に、三人が画面に映った。
客席から拍手が起こる。ハルカ、ユイ、リナ。三人は並んで頭を下げた。
「よろしくお願いします」
声が、わずかにずれた。リナの声が半拍早く、ユイの声が少し遅れた。
だが、放送事故ではない。三人は顔を見合わせ、小さく笑った。その自然な表情を、正面のカメラが捉えた。
「皆さん、全国放送の音楽番組は、今日が初めてなんですよね」
司会者が尋ねる。
「はい」
ハルカが答えた。
「今のお気持ちはいかがですか」
ハルカが正面のカメラを見る。赤いランプがついている。
「初めて私たちを見てくださる方にも、今日の歌が、明日を歩く小さな光になれば嬉しいです」
練習どおりの言葉だった。だが、声は練習の時よりも柔らかかった。司会者が頷く。
「そして、皆さんは最近、ファンの方が帰ってこられる場所として、LUMINA HOMEというファンクラブを作られたそうですね」
質問がユイへ向けられる。カメラが切り替わった。赤いランプ。ユイの表情が、一瞬だけ固まる。
「はい」
そこから言葉が続かない。一秒。二秒。モニターの中で見る沈黙は、リハーサルの時よりも長く感じられた。
スタジオの観客は静かに待っている。司会者も、次の言葉を急がせなかった。ハルカが、ユイの方へわずかに身体を向ける。リナも、ユイの手元へ視線を送る。
画面には三人の表情が収まっていた。ユイが息を吸う。
「離れている時にも、同じ場所を思い出せるように作りました」
声が震えていた。
「ライブに来られない日も、少し休みたい日もあります。それでも、また会いたくなった時に、ただいまって言ってもらえたら嬉しいです」
予定していた言葉より、少し長い。だが、司会者は途中で遮らなかった。
「とても素敵な場所ですね」
「はい」
ユイが笑った。作られた笑顔ではなかった。言葉を届けられた安堵が、そのまま表情になっていた。司会者がリナを見る。
「リナさん、今日初めてLUMINAを見る方へ、一言お願いします」
リナは、カメラではなく、最初にハルカとユイを見た。それから赤いランプへ視線を向ける。
「今日、初めて私たちを見つけてくれる一人にも届くよう、三人で踊ります」
五秒。短い言葉だった。
それでも、リナが自分で選んだ言葉が全国へ届いた。
「それでは、歌っていただきましょう。LUMINAで、『真夏のミッドナイト・ブルー』」
拍手が起こる。三人が歌唱位置へ移動する。照明が落ち、スタジオが夜の色に染まった。濃い青。
白い光。都会の高層ビルを思わせる縦の照明が、三人の背後に浮かび上がる。イントロが始まった。袖のモニターの前で、私は息を止めていた。
ハルカが顔を上げる。最初の歌詞。声は安定していた。カメラがゆっくり近づく。
ハルカは赤いランプを見つめ、言葉を一つずつ置くように歌った。その声が、テレビの向こうにいる人へ届いていく。次はユイ。右側のカメラへ赤い光が移る。
ユイは、一瞬、正面のカメラを見たままだった。予定していた目線とは違う。フロアディレクターが、わずかに手を動かす。
だが、ユイはすぐに赤い光を探さなかった。ハルカを見た。ハルカが歌いながら、ほんの少しユイの方へ顔を向ける。その視線を受け、ユイは呼吸を整えた。
右側のカメラへ、ゆっくり視線を移す。予定より二秒ほど遅れた。
それでも、その動きは迷ったようには見えなかった。ハルカから力を受け取り、視聴者へ渡したように見えた。ユイの声が伸びる。以前より、少し細い。
だが、その細さの中に、失わなかった強さがあった。リナが前へ出る。小さな動き。指先。
肩の角度。目線。ライブハウスで見せる大きな移動はない。
それでも、テレビ画面の中では、一つ一つの動きが鋭く、強く見えた。カメラが切り替わる。正面。左。
右。クレーン。三人は赤い光をすべて追わなかった。互いの姿を確かめながら、決めた場所だけでカメラを見る。
一番のサビ。三人の動きが止まる。一拍。画面の中の時間まで、止まったように見えた。
次の瞬間、三人の手が前へ伸びる。客席ではなく、カメラの向こうにいる、まだ顔も知らない誰かへ。その瞬間、ユイの手が少し遅れた。リナが視界の端で気づく。
自分の動きを、ほんのわずかに遅らせた。ハルカも二人へ呼吸を合わせる。三本の手が、最後には同じ場所へ並んだ。私は袖で、その変化を見ていた。
間違いを隠したのではない。誰かの遅れに、二人が合わせた。三人で一つの時間を作った。短く編集された間奏。
ハルカが一歩下がる。ユイが中央へ。リナが左から回り込む。その時、クレーンカメラの移動が、リハーサルよりわずかに早かった。
床へ落ちる大きな影に、ユイの身体が強張る。視線が一瞬、上へ向いた。赤いランプ。巨大なレンズが、自分を見下ろしている。
ユイの歌声が、わずかに途切れた。一音。空白が生まれる。モニターの前で、私の手が赤いカードを握った。
だが、ハルカがすぐにユイのパートの最後を重ねた。リナも、振付を一歩変え、ユイの隣へ近づく。二人に挟まれたユイが、次の呼吸を取り戻す。
最後のサビ。三人の声が重なった。完璧に揃った声ではない。ハルカの声が少し強く、リナの声は普段より低い。
ユイの声には、まだ震えが残っている。それでも、三人の声だった。誰か一人が、残りの二人を引っ張っているのではない。遅れれば待ち、途切れれば重ね、戻ってきた時には同じ場所を空けておく。
三人がこの数ヶ月で作り直した関係が、そのまま歌になっていた。最後の一音。照明が、青から白へ変わる。
夜が明けるように、三人の姿が光の中に浮かんだ。音が止まる。一瞬の静寂。次の瞬間、スタジオに大きな拍手が起こった。
三人は息を切らしながら、深く頭を下げた。
「ありがとうございました!」
ハルカの声。ユイも、リナも、顔を上げる。赤いランプが消えた。放送は、次の場面へ切り替わった。
「LUMINAさん、終了です!」
フロアディレクターの声が響く。三人は、すぐには動かなかった。本当に終わったのか、確かめるように互いの顔を見ている。
やがてユイが、泣きながら笑った。
「終わった」
「終わったよ」
ハルカが抱きしめる。リナも二人の肩へ腕を回した。三人が一つの塊になる。スタジオのスタッフからも拍手が起こった。
私は袖から動けなかった。高橋が隣で、静かに息を吐いた。
「止めずに済んだな」
「はい」
「途中、ユイの声が一音抜けた」
「分かっています」
「ハルカが埋めた。リナも位置を変えた」
「はい」
「君の指示ではないな」
「もちろんです」
高橋はモニターに映る三人を見た。
「自分たちで立てるようになったということか」
胸の奥に、温かな痛みが広がった。
「そうかもしれません」
三人が、こちらへ歩いてくる。ユイは私の前まで来ると、何かを言おうとした。
だが、言葉より先に涙があふれた。
「青木さん」
「よく戻ってきたわね」
私は両腕を広げた。ユイが胸へ飛び込んでくる。ハルカとリナも、その上から抱きついた。四人で抱き合う。
周囲にはスタッフがいる。次の出演者も、すでに待機している。いつまでも立ち止まってはいられない。
それでも、ほんの数秒だけ、誰も私たちを急かさなかった。
「怖かった」
ユイが私の肩へ顔を埋めたまま言う。
「うん」
「途中で、声が出なかった」
「うん」
「でも、二人が歌ってくれた」
「見ていたわ」
「私、最後までいられました」
「ええ」
私はユイの背中を撫でた。
「怖いまま、最後まで歌えたわね」
ユイが何度も頷いた。赤いランプの向こう側にあったのは、裁くような無数の目ではなかった。テレビの前で、初めてLUMINAを見つけた人。
以前から三人を待っていた人。何気なくチャンネルを合わせた人。そして、遠く離れた場所から娘を見つめる家族。一人一人の生活が、その向こうにあった。
4
楽屋へ戻るまでの廊下で、何人ものスタッフが三人へ声をかけた。
「お疲れさまでした」
「歌、よかったです」
「初出演とは思えなかったですよ」
「最後のサビ、鳥肌が立ちました」
三人は、そのたびに立ち止まり、頭を下げた。
「ありがとうございました」
楽屋の前では、先ほどすれ違った男性グループのメンバーが待っていた。
「見ました」
彼はユイへ笑いかけた。
「妹に自慢できます。振付を作った人と一緒に出たって」
ユイは目を丸くし、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「途中で三人が合わせたところ、よかったです。ライブって感じがしました」
「ずれたの、分かりましたか」
リナが尋ねる。
「少し。でも、間違いには見えなかったです」
彼はスタッフに呼ばれ、手を振って去っていった。楽屋へ入る。扉が閉まった瞬間、三人は一斉に椅子に座り込んだ。
「疲れた」
リナが天井を見上げる。
「もう、何も考えられない」
ハルカもソファへ身体を預ける。ユイは、両手で顔を覆ったまま動かなかった。
「ユイ?」
声をかけると、指の隙間から返事が聞こえた。
「恥ずかしい」
「何が?」
「歌、止まりました」
「一音だけよ」
「カメラも間違えた」
「右を見るのが少し遅れただけ」
「トークも三秒止まった」
失敗した部分だけを数えている。私はモニターで録画した映像を見せようとしたが、手を止めた。今、無理に成功だったと証明しても、ユイの気持ちは追いつかないかもしれない。
「見たくなった時に、映像を見ましょう」
私は言った。
「今は見なくていい」
「でも、SNSではもう何か言われてますよね」
「確認しない」
「青木さんも?」
「私も、今夜は見ない」
「高橋さんは見ると思います」
「高橋さんの仕事だから」
楽屋の扉が開き、名前を呼ばれた高橋が入ってきた。
「私を呼んだか」
「呼んでいません」
「廊下まで聞こえていた」
高橋は手にしていたタブレットを、テーブルに置かなかった。普段なら、放送直後の反応や検索件数を見せただろう。
「数字は?」
私が尋ねると、高橋は少し驚いたように私を見る。
「君から聞くのか」
「三人には見せません。ただ、緊急の対応が必要な問題が起きていないかは確認したいです」
「炎上するような動きはない。歌唱直後から番組名とLUMINAの検索数は伸びている。概ね好意的だ」
「それだけ分かれば十分です」
高橋はタブレットを閉じた。
「詳細は明日でいいな」
「はい」
ユイが、指の隙間から高橋を見る。
「高橋さん」
「何だ」
「私、失敗しましたか」
高橋はすぐには答えなかった。椅子を引き、三人と同じ高さに座る。
「予定したとおりではなかった部分はある」
ユイの肩が小さくなる。
「カメラを見るのが遅れた。歌も一音抜けた。ハルカとリナも、それに合わせて予定とは違う動きをした」
「やっぱり」
「だが、放送は成立した」
高橋は続けた。
「視聴者が見るのは、予定表ではない。画面に映ったものだ。私が見た限り、三人が互いを支えた瞬間は、失敗よりもLUMINAらしさとして映っていた」
「本当に?」
「私には慰める趣味はない」
ユイが少し笑った。
「それなら、本当ですね」
「ただし、映像は明日、冷静になってから確認する。改善すべき点はある」
「はい」
「今日は、最後まで立ったことを受け取ればいい」
高橋の言葉は、温かいとは言いにくい。それでも、彼なりに三人を認めていることが伝わった。ハルカのスマートフォンが震えた。個人のSNSは、今も通知を切っている。
連絡が届くのは、家族や限られた関係者だけだった。画面を見たハルカの表情が止まる。
「どうしたの?」
ユイが尋ねる。ハルカは答えず、スマートフォンを両手で持った。短いメッセージが届いている。送り主は、父親だった。
『見た。歌、届いた。身体に気をつけろ』
それだけだった。謝罪も、長い感想もない。これまでの距離が、急に埋まるような言葉でもなかった。
それでも、ハルカの目から涙がこぼれた。
「父からです」
「何て?」
ハルカは画面を三人へ見せた。ユイが泣きながら笑う。
「見てくれたんだ」
「うん」
「返事する?」
リナが尋ねる。ハルカは、すぐには入力しなかった。何度か画面を閉じ、また開く。
やがて、短い文章を送った。
『見てくれてありがとう。私は元気です』
既読がつくまで待たなかった。スマートフォンを伏せ、涙を拭う。
「いつか、ちゃんと話したい」
「話せる時でいい」
私が言うと、ハルカは頷いた。ユイにも、母親から連絡が届いていた。
『声が聞けて安心したよ。途中で二人の顔を見た時、三人でよかったねって、お父さんと話しました』
ユイは、その文章を何度も読み返した。
「声が止まったの、気づかれてた」
「家族だから気づいたんじゃない?」
リナが言う。
「でも、責めてない」
「当たり前でしょ」
ユイは目を閉じ、スマートフォンを胸へ抱いた。リナの端末にも、ERI先生からメッセージが届いた。
『テレビ用の振付、悪くなかった。止まる一拍は正解。最後に二人へ合わせた判断もよかった。次は肩に力を入れすぎないこと』
リナは、何度も文章を読み直した。
「悪くなかった、だって」
「ERI先生の悪くなかったは、最高に褒めてる時の言葉ですよね」
ユイが言う。
「肩に力が入ってたのは、分かってたみたい」
「先生だから」
リナは嬉しさを隠すようにスマートフォンを伏せたが、口元には小さな笑みが残っていた。私は三人の姿を見ながら、胸の奥にあった緊張が少しずつほどけていくのを感じた。
成功したかどうかを、今すぐ決める必要はない。数字は、明日確認すればいい。映像も、三人が見たいと思った時に見ればいい。今夜は、全国へ歌を届けた。
家族が見た。待っていたファンが受け取った。三人が最後まで同じ場所に立った。それだけで十分だった。
「青木さんのところには、誰かから来てないんですか」
ユイが尋ねる。
「何が?」
「感想です」
私用のスマートフォンを確認する。大類から、何十件ものメッセージが届いていた。
『始まった!』
『ハルカ映った!』
『ユイ頑張れ!』
『リナすごい!』
『歌止まった?』
『いや大丈夫だ!』
『すごい!』
『終わった!』
『青木、電話出ろ!』
最後には、泣いている顔の絵文字が大量に並んでいた。
「大類社長から、実況が届いています」
三人に見せると、楽屋に笑い声が広がった。
「社長、テレビの前で一人だったんですか」
「事務所スタッフ全員で見ていたはずです」
「それなのに、青木さんへ一人で送り続けたんだ」
「止める人、いなかったのかな」
三人はしばらく、大類の実況を読んで笑っていた。張りつめていた空気が、ようやく日常へ戻っていく。テレビ画面では、次の出演者が歌っている。
番組はまだ続いていた。LUMINAの四分間は終わった。
けれど、私たちの夜は、まだ終わっていなかった。
5
番組の放送が終わったのは、午後十時少し前だった。出演者全員での最後の挨拶にも、三人は参加した。スタジオの端に並び、司会者の言葉に合わせてカメラへ手を振る。
今度の赤いランプを、ユイは自分から見つけた。ほんの一秒だけ、まっすぐに見つめる。それから、隣のハルカとリナを見て笑った。放送終了後、出演者とスタッフへ挨拶をし、楽屋へ戻る。
荷物をまとめ、衣装から私服へ着替える。メイクを落とした三人の顔には、疲労が濃く浮かんでいた。
「ハイエースで寝ていいですか」
ユイが尋ねる。
「もちろん」
「私も寝る」
ハルカが言う。リナも、返事をする前にあくびをした。テレビ局の通用口を出ると、冬の冷たい空気が頬へ触れた。夜の街には、いつもと変わらない光が並んでいる。
この中のどれほどの人が、先ほどの放送を見ていたのだろう。考えかけ、やめた。今夜、数字は見ない。三人をハイエースへ乗せる。
後部座席には毛布を用意していた。ユイは座るなり、窓へ頭を預けた。ハルカが隣に座り、リナは最後列へ移る。
「出発するわよ」
返事はなかった。振り返ると、三人とも目を閉じていた。エンジンをかける。テレビ局の明かりが、バックミラーの中で小さくなっていく。
助手席には、高橋が座っていた。彼の車はスタッフがレーベルへ戻しており、事務所まで送ることになっていた。
「珍しいですね」
私は前を見たまま言った。
「何がだ」
「高橋さんが、ハイエースに乗ることです」
「私も車には乗る」
「後部座席で、メンバーが眠っている車にです」
高橋がバックミラーを見る。三人の寝息が、静かな車内に聞こえている。
「君は、ずっとこの景色を見てきたのか」
「はい」
地下ライブを終えた深夜。遠征から戻る明け方。まだ客席が埋まらず、物販の売上で高速代を払えるか計算していた夜。三人はいつも、後部座席で眠っていた。
「今日、初めてテレビに出た人間とは思えない顔で寝ているな」
「起きている時に緊張しすぎたんです」
「君は眠くないのか」
「運転中です」
「そういう意味ではない」
私はハンドルを握り直した。疲れている。眠気はないが、肩や背中が重い。
「事務所まで送ったら、大類社長に運転を代わってもらいます」
「君が、自分から人に頼むとはな」
「約束しましたから」
高橋は少し笑った。
「今夜の反応を、本当に聞かなくていいのか」
「緊急の問題がないことは確認しました。詳細は明日で構いません」
「放送直後の検索数は、過去最高だ」
「高橋さん」
「数字を見せているわけではない。事実を一つ伝えただけだ」
「一つ聞けば、次も知りたくなります」
「依存症のようだな」
「自覚しています」
信号で車が止まる。フロントガラスの向こうに、赤い光が見える。テレビカメラのランプとは違う、いつもの信号だった。
「青木君」
高橋が、前を向いたまま言う。
「今日の出演は成功だ」
「数字が伸びたからですか」
「それもある」
「ほかには?」
「三人が、自分たちで放送を成立させた」
高橋は静かに続けた。
「歌が途切れた時、君も私も何もできなかった。スタジオの外から指示を出すことも、代わりに歌うこともできない。三人が互いに判断し、戻した」
「はい」
「これまでのLUMINAは、君が作った戦略の上を走っていた」
否定はしなかった。私は、自分が正しいと思う道を三人へ示し続けてきた。
「だが、今日の三人は、自分たちで立っていた」
高橋の言葉に、胸が熱くなった。嬉しさと、わずかな寂しさが同時にあった。三人が自分たちで立てるなら、いつか私がいなくても歩ける。それは、望んでいたことのはずだった。
「寂しいか」
高橋が尋ねる。
「顔に出ていますか」
「少しな」
「寂しくないと言えば、嘘になります」
「それでいい」
「いいんですか」
「必要とされなくなることを恐れて、いつまでも手を離さない方が問題だ」
信号が青へ変わる。私はアクセルを踏んだ。
「三人は、もう青木さんがいなくても大丈夫だと思いますか」
後部座席から声がした。驚いてバックミラーを見る。ユイが毛布から顔を出していた。
「起きていたの?」
「途中から」
ハルカも目を開ける。リナも、最後列で身体を起こした。
「盗み聞きはよくないわ」
「聞こえたんです」
ユイは少し不満そうに言った。
「私たち、青木さんがいなくても大丈夫になりたいわけじゃないです」
「でも、自分たちで立てるようになったでしょう」
「自分で立てることと、一人で歩くことは違います」
ハルカが言った。
「青木さんに全部決めてもらうのは、もう嫌です。でも、いなくなってほしいわけじゃない」
リナも続ける。
「今日、私たちだけで歌を戻した。でも、あそこまで行けたのは、青木さんが番組側と条件を話してくれたからです」
「それはマネージャーとして当然の仕事よ」
「当然でも、必要です」
リナの言葉は短かった。ユイが座席から身を乗り出す。
「だから、勝手に寂しくならないでください」
「勝手にとは何ですか」
「私たちが青木さんを必要としなくなったみたいに決めないでってことです」
四人で決める。自分の寂しさについても、一人で結論を出そうとしていた。私は苦笑した。
「分かりました」
「本当に?」
「三人が一人で立てるようになっても、私の仕事がすぐになくなるわけではないと理解しました」
「そうです」
ユイが満足そうに毛布へ戻る。高橋が助手席で、声を抑えて笑っていた。
「何ですか」
「いや。君も、随分と管理される側になったと思ってな」
「笑わないでください」
「よいチームだ」
その言葉に、後部座席が静かになった。私はバックミラーを見る。三人は、少し照れたような表情を浮かべていた。車は、夜の高速道路へ入った。
かつては、数人の観客が待つライブハウスから、同じ道を走って帰った。今夜、三人は全国放送のスタジオから戻っている。
それでも、車内の光景は大きく変わらなかった。後部座席で寄り添う三人。助手席に積まれた資料。冷めかけた飲み物。
窓の外を流れていく都会の光。
「青木君」
高橋が言う。
「次は、もっと多くの人に直接会わせたい」
「また仕事の話ですか」
「今夜は詳細を話さない」
「一つ増やすなら、一つ減らす必要があります」
「覚えている」
「三人の意思も確認します」
「もちろんだ」
高橋は前方の道路を見つめた。
「テレビの次は、テレビの向こうにいた人たちへ会いに行く番だ」
後部座席の三人も、その言葉を聞いていた。
「会いに行く?」
ハルカが尋ねる。
「東京、名古屋、大阪」
高橋が答えた。
「東名阪を、もう一度回る」
車内に、新しい緊張が生まれた。以前の遠征とは、もう立場が違う。知名度も、会場の規模も、待っている人の数も変わっている。
それでも、三人の顔には、恐怖だけではない光が浮かんでいた。
「今日は、決めません」
私は先に言った。高橋が頷く。
「分かっている」
「ご飯を食べてから、四人で話します」
「それも分かっている」
ユイが後部座席から笑う。
「高橋さんも一緒に食べますか」
「私も?」
「高橋さんが仕事の話をするなら、五人で食べないと」
高橋は、困ったように眼鏡を押し上げた。
「その規則は、私にも適用されるのか」
「仕事の話をする人には、全員です」
リナが答えた。
「何を食べればいい」
「そこから五人で決めましょう」
ハルカの言葉に、車内へ笑いが広がった。私はハンドルを握りながら、前方に伸びる道を見た。赤いランプの向こうへ歌を届けた三人は、今度は画面の外へ出て、待っている人たちのところへ向かおうとしている。
まだ、何も決まっていない。いつ行くのか。どの会場で歌うのか。三人の心と身体が、どこまで進めるのか。
一つずつ、話し合わなければならない。それでも、道は確かに次の場所へつながり始めていた。ハイエースは、冬の夜を走り続けた。その後部座席では、三人が再び目を閉じ、互いの肩へ寄りかかっていた。
赤いランプはもう見えない。それでも、放送を見た人たちからの反応が、この時間もスマートフォンの中で少しずつ増え続けていた。三人をホテルへ送り届け、事務所へ戻ったのは、午前一時を過ぎてからだった。
誰もいない。蛍光灯を半分だけ点け、自分の机の下の鍵付き引き出しを開ける。包括契約書の原本は、あの夏からそこにある。青いファイル。ネクストウェーブの重厚な社印。数百ページ。
第十五条まで、指で紙を送っていく。三の項。バイアウト条項。私が勝ち取った条文。
そこには、確かにこう書かれていた。「アーティスト側は、本契約の満了または解除の後、直近三事業年度の平均営業利益の三倍に相当する対価を支払うことにより」——アーティスト側。四文字。定義条項へ戻る。第二条。「アーティスト」とは、ハルカ、ユイ、リナの三名を指す。「アーティスト側」の定義は、ない。
私は、その空白を長いあいだ見ていた。あの日、私はこのページを何度も読んだ。読んで、勝ったと思った。エレベーターの扉が開いて、渋谷の喧騒が広がって、夕暮れの空気が火照った頬に心地よかったことまで覚えている。あの日の私は、古いハイエースへ歩きながら、鞄の中の書類の重みを誇っていた。
その重みの中に、これがあった。時計を見る。午前二時十四分。今夜、全国放送で歌われた『帰る場所の灯り』は、明日から見逃し配信で流れ、切り抜きが投稿され、再生数が伸びる。その一回ずつが、契約が切れる日の値札を押し上げていく。
三人へ、言うべきだった。言えば、三人は何を思うだろう。テレビに出るたび、歌うたびに、自分たちの曲が遠ざかっていく。そんな計算を抱えて、明日からステージに立たせるのか。
ハルカは、たぶん「話してくれてよかった」と言う。ユイは黙る。リナは、自分のせいだと思う。私は契約書を閉じ、引き出しへ戻し、鍵をかけた。
これは経営の問題だ。三人の仕事ではない。私が四年半かけて解けばいい。あの夏に私が学んだのは、三人の生活に勝手に予定を入れるなということであって、経営の心配まで三人に背負わせろということではない。
そう自分に説明した。説明できてしまったことが、何よりも悪かった。事務所を出ると、外はもう白み始めていた。今夜が、私が黙った最初の夜だった。




